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2010-01-23

真蹟主義について考える


 ゆくゆくは大きな問題になるであろう「真蹟」(真跡とも)に関する覚え書き。書こう書こうと思いながらも、いたずらに日が過ぎているので、中途半端な状態ではあるが書いてしまおう。


 日蓮の遺文を我々は「御書」と呼んでいるが、直筆遺文を「真蹟」(しんせき)という。次に「曽存」(かつては真蹟が存在したもの)は、火災などで焼失しているが記録や写本によって判断される。確証が高いものを「真撰」と呼ぶ場合もある。そして明らかに日蓮が書いたものと認められないものを「偽書」と名づける。その他は「真偽未決」。


 古来、洋の東西を問わず宗教の歴史には偽書が跋扈(ばっこ)してきた。印刷技術がなかったため、書写する際の誤りも多かったことだろう。今となっては確認のしようがない。


捏造された聖書 偽書の精神史―神仏・異界と交感する中世 (講談社選書メチエ) 日本の偽書 (文春新書)


 聖教新聞社版『日蓮大聖人御書全集』だと、目次の「正筆所在」が明記されているものが真蹟である。一見すると驚くほど少ないことに気づく。真蹟については以下のページからダウンロードできる。

 偽書は日蓮の名を騙(かた)っている以上、各教団の正当性を示すための政治的意図が込められていた。有り体にいえば、共産主義者が得意とするプロパガンダ怪文書工作、歴史修正主義と同じ手法だ。邪悪な意図は隠すべくもない。


 ここからは「真蹟主義」について触れる。真蹟以外の一切を認めない立場の人々を真蹟主義と呼称する。これは何も私が勝手につけたわけではなく本人達がそう言っているのだ。


 日蓮系の相手と話したことがある人なら承知していると思うが、「御義口伝」や「百六箇抄」を持ち出すことはできない。なぜなら、これらを日蓮思想と認めない人々が存在するからだ。

 偽書に共通する点としては「本覚」、「無作」、「久遠元初」+「自受用報身如来」というキーワードが挙げられる。つまり、日蓮を「わかりやすい本仏」に祭り上げようとする魂胆が見て取れる。


 私は御書の真偽について研究することは大変結構だと思うが、真蹟主義を否定する立場だ。なぜなら、「主義」と名がつけば必ず原理となり、教条となって人々の思考を束縛するからだ。真蹟主義者はおしなべて神経質である。彼等はラインからはみ出たプレイに対して、けたたましくホイッスルを吹くような種類の人間である。


 近頃では、「如説修行抄」に偽書の可能性ありという論文もあるそうだ。仮に偽書であったとしても、そのまま摂受を採用することにはなるまい。ところが真蹟主義者は、精確な第一次情報の間口を狭めるだけ狭めてしまっているため、主張がどうしてもニッチ(隙間)な方向や新奇かつ珍妙な説に傾きがちだ。


 開目抄は曽存であるが真撰であることに異論を挟む者はいないだろう――


 夫れ摂受折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし、草木は日輪の眷属寒月に苦をう諸水は月輪の所従熱時に本性を失う、末法摂受折伏あるべし所謂悪国破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かとしるべし(235頁)


転重軽受法門」は真蹟である――


 これは世に悪国善国有り法に摂受折伏あるゆへかとみへはんべる、正像猶かくのごとし中国又しかなり、これは辺土なり末法の始なり、かかる事あるべしとは先にをもひさだめぬ期をこそまち候いつれ(1000頁


 その国が「無智悪人」であるのか「邪智謗法」であるのかが問われている。つまり衆生の機根だ。


摂受・折伏に関する考察」にも書いたが、私は末法という時代相を「国家という枠組みが支配する情報化社会」と考えている。劇的なパラダイムシフトが生んだのは、「一切を知識化」する脳内作用と社会構造であった。これを日蓮は本已有善と本未有善という過去世の物語に仮託したのだと思う。つまり、思考や価値観がネットワーク化された時代が末法なのだ。


 真蹟主義者は真偽の判断に全力を傾注しているため、それ以上の仕事はできない。彼等の精力は「それは偽書だ」と叫ぶことに注がれている。だから、何が書かれた文章であろうと偽書を見掛けただけで、思想的な吟味を放棄する。


 では、もう一歩本質を探ってみよう。真蹟主義者が行っているのは「分析」である。そして彼等が真蹟を語る時、それは「解釈」となり「翻訳」とならざるを得ない。真蹟原理主義を踏まえると、この瞬間に真蹟日蓮から離れ、「自分の言葉」に変化している。結局、真蹟主義はタコツボ教学となる運命を辿っているのだ。


 ここからは完全な私論となるので要注意。


 そもそも言葉は絶対なものだろうか? 生涯の愛を誓ってから2〜3年後に離婚した夫婦の言葉が絶対でないのは確かだろう。言葉は名詞から始まったと考えられている。つまり名前だ。

 名前は付与された途端、世界から分け隔てられる。山、川、犬、猫といった名詞は、「それ」と「それ以外のもの」に世界を二分するのだ。つまり、言葉は分析のための道具なのである。これを科学の世界で徹底的に行う立場を「要素還元主義」という。このため西洋の知性は帰納法的アプローチとなって「分かる」ことを目指す。なぜなら、「神は細部に宿る」からだ(笑)。これに対して東洋の英知は演繹的(えんえきてき)な「悟り」を目指す。


 ブッダ日蓮も何かを悟った。では果たしてその悟りを言葉で表現することは可能であっただろうか? 無理だね。なぜなら、悟りが言葉で表現された瞬間にそれは知識になってしまうからだ。


 言語道断の経王心行所滅の妙法なり(「持妙法華問答抄」465頁)


「悟り」は経験されるものであって、人から教えてもらうものではない。言葉には限界があるからだ――

 もっと踏み込んだことを述べよう。日蓮は自分の文言を「教義」と考えていたのだろうか? 私は日蓮が文証を重んじたのは、仏教界が権実雑乱している様相を明らかにする目的があったのだろうと考えている。つまり、思想を吟味・検討する際には何らかの物差しが必要となる。日蓮は翻訳の危うさを承知していた――


 経教は西天より東土に■(およ)ぼす時訳者の意楽に随つて経論の文不定なり、さて後秦の羅什三蔵は我漢土の仏法を見るに多く梵本に違せり我が訳する所の経若し誤りなくば我死して後身は不浄なれば焼くると云えども舌計り焼けざらんと常に説法し給いしに焼き奉る時御身は皆骨となるといへども御舌計りは青蓮華の上に光明を放つて日輪を映奪し給いき有りき事なり、さてこそ殊更彼の三蔵所訳の法華経は唐土にやすやすと弘まらせ給いしか、然れば延暦寺の根本大師諸宗を責め給いしには法華を訳する三蔵は舌の焼けざる験あり汝等が依経は皆誤れりと破し給ふは是なり、涅槃経にも我が仏法は他国へ移らん時誤り多かるべしと説き給へば経文に設ひ法華経はいたずら事釈尊をば無明に迷へる仏なりとありとも権教実教大乗小乗説時の前後訳者能く能く尋ぬべし、所謂老子孔子は九思一言三思一言周公旦は食するに三度吐き沐するに三度にぎる外典のあさき猶是くの如し況や内典の深義を習はん人をや、其の上此の義経論に迹形もなし人を毀り法を謗じては悪道に堕つべしとは弘法大師の釈なり必ず地獄に堕んこと疑い無き者なり(「聖愚問答抄」484-485頁)


 で、何と日蓮サンスクリットが読めた――


 天竺の梵品には車の荘り物其の外聞信戒定進捨慚の七宝まで委しく説き給ひて候を日蓮あらあら披見に及び候(「大白牛車御消息」1584頁)


 ということは、大乗非仏説をも視野に入れていた可能性が高い。それゆえ尚のこと、日蓮が経典を「仏の金言」として仰いだのは、思想戦の土台作りであったように感じてならない。


 日蓮鎌倉時代に妙法が広まる様子を次のように書いている―― 


 当世此の十余年已前は一向念仏者にて候いしが十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑をなす故に心中に法華経を信じ又釈迦仏を書き造り奉る、是れ亦日蓮が強言より起る(「善無畏三蔵抄」890頁)


 尚、善無畏三蔵抄は「日蓮聖人御遺文 解題 その1」によれば、「近年、京都妙覚寺所蔵の真蹟断片が本書のものであると確認された」とのこと。


 教義は人間を束縛する。そして教義は異端を生み出す。教義は内と外との間に明確な線を引き、敵味方へと分断する。日蓮が示した教義があったとしても、それは現代の我々が考える教義の意味とは異なっていたのではないだろうか? やかましく教義を説いたのであれば、1〜2割もの人々が題目を唱えていたはずがない。


 ブッダや日蓮は人々を自由にしようとしたはずだ。そこには教義で人間を縛る発想は皆無であったことだろう。言葉が多くなり、氾濫(はんらん)するほど人々は「知識の奴隷」となってしまう。


 南無妙法蓮華経は法華経文底に秘されていた。秘されていた以上それは言葉ではないだろう。「言葉にできない何か」なのだ。


 日蓮の言葉を絶対視すると落とし穴にはまるような気がしてならない。個々人が絶対的に信ずることはあって当然だが、言葉を金科玉条として振りかざす行為に日蓮の心があるとは思えないからだ。


 何と書き上げるのに3時間もかかってしまった。それだけ、私自身の中でまとまっていないということだ。

2009-07-22

クラフト(技能)とミステリー(秘伝)


 まるで「血脈」を示唆する内容。日寛上人(1665-1726年)が六巻抄を著したのが1725年(享保10年)で見事に符合している。


 西暦1700年か、あるいはさらに遅くまで、イギリスにはクラフト(技能)という言葉がなく、ミステリー(秘伝)なる言葉を使っていた。技能をもつ者はその秘密の保持を義務づけられ、技能は徒弟にならなければ手に入らなかった。手本によって示されるだけだった。


【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー/上田惇生〈うえだ・あつお〉編訳(ダイヤモンド社、2000年)】

プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ、成長するか (はじめて読むドラッカー (自己実現編))

2009-07-18

システムの安定性


 空仮中の三諦の参考になる。


佐治●その万物流転の中で、昨日も僕は佐治晴夫だったし、今日も佐治晴夫なのですが……。


養老●それを僕はシステムの安定と呼んでいるんです。要するに北里大学だとか日本政府と同じでしょう、と。北里大学は、仔細に見ると、毎年毎年設備が変わっていますね。もしかして100年経ったらなくなっているかもしれない。


【『「わかる」ことは「かわる」こと』佐治晴夫、養老孟司(河出書房新社、2004年)】

「わかる」ことは「かわる」こと

2009-06-15

虚実混合している伝統的日蓮思想観


 私は教の専門家ではないので、本書(※ジャクリーン・ストーン著『Original Enlightenment and the Transformation of Medieval Japanese Buddhism(本覚と中世日本教の変容)』)の学問的義を論ずる資格はないが、私の問題関上には大きい義を持っている。私の個人的関創価学会義を現代の文化、社会の中で解明するということにあるが、創価学会がその母教団である日蓮正宗の伝統的教義に固執していることに関しては、以前から疑問を持っていた。特に明治以降の教学や日本教の学問的成果と、それらの学問が成立する以前の室町、江戸時代に形成された宗学の間には大きなギャップが存在することを、創価学会が無視しつづけることは困であろうとっている*1

 日蓮正宗の宗学への批判は、まず現代の日本教研究者の文献学的考察から生じている。浅井要麟、執行海秀などから始まる日蓮遺文の文献学的考察が明らかにしたことは、現在日蓮遺文として使用されている文献には、通常の歴史学における文献考証の基準から見ると、明らかに日蓮自身の著作とは認められない文献が数多く含まれているということであった。室町時代に日蓮に仮託されて偽作された日蓮遺文が、その後の宗学形成期に日蓮自身のを示す文献として使用され、日蓮宗各派の宗学の基礎となっていた。

 現代の日蓮研究は、このような歴史的経過によって虚実混合している伝統的日蓮観を、どのような方法論によって日蓮自身のを明らかにするかという反省から生じている。その一つの方法論は、歴史学的にも珍しい事例である豊富な日蓮の真筆文献を基礎にして、そこから日蓮を再構成しようという試みである。


【『東洋哲学研究所紀要第 18号』宮田幸一】

*1:歴史的に見るならば、創価教育学会は牧口の『尋問調書』に示されるように、日蓮正宗の信仰に価値創造論を加えた在家教団体であった。しかし戦後戸田城聖創価学会の独自の宗教法人資格を取得するために日蓮正宗と合した3項目により、創価学会日蓮正宗の教義を信奉することを義務づけられた。戸田や池田大作日蓮法を現代の文化状況に適合させるためにさまざまな現代的解釈をしてきたが、日蓮法の教義解釈権については、第一次宗門問題後に確認されたように、日蓮正宗の教導権を認めざるを得ず、日蓮正宗の教義を検討することは不可能であった。第二次宗門問題以後、法主の権限をめぐる教義的解釈問題などから、日蓮正宗教学への学問的検討が可能となり、2002年には創価学会の規則から正式に日蓮正宗への言及部分が削除され、教義的にも独立した。今後創価学会が独自の教義を再構築するにあたって、私は、教、日蓮、歴代会長による現代的解釈の三つを統合する必要があると考えている。その場合に、現代の教学、歴史学の成果をある程度踏まえて現代の学説に大きく離反しないようにすべきだと考えている。

2009-06-04

「対談 激動の時代と日蓮」高橋克彦(作家)×中島誠(評論家)


 国家が直面しつつある危機に『立正安国論』をもって警告を発した日蓮と行動をめぐり、高橋克彦氏と中島誠氏に語り合っていただいた。


立正安国論』の精神を現代に持ち込んで読む。


中島●NHK放送文化賞の受賞おめでとうございます。


高橋●ありがとうございます。


中島●昨年1日新聞のインタビュー記事で、高橋さんは「北条時頼・時宗父子というのは、日本の歴史の中で、最初に具体的に国家識を持ちえた人ではないか」と指摘され、「新しい価値観を持つ若者に、私は未来を賭けたんですよ」とおっしゃっていましたね。私も、歴史小説とは、過去を現在に持ち込み役立てるためのものだといます。


高橋●時宗という人は長い間、日本では過小評価されてきたようにうんです。ひとつには『吾妻鏡』に時宗の私生活が書かれているのは数行しかないからでしょうね。父親の時頼のことは政治的な事跡や死去の模様も克明に書いてあるわけですが、時宗に関してはほとんど書かれていません。


中島●御家人に守り立てられたり、非常に貶(おとし)められたり、もうめちゃくちゃにもまれもまれて、34歳で夭逝(ようせい)するまで悩の連続で生きてきたから、時宗の独創的な働きというのは、あまり目立たなかったというのもあるんですかね。


高橋●いや、そういうふうに結局、後世の歴史家たちがイメージしているだけなんだといますね。実際には相当な策を時宗自身が自分の前で出していかないと、元寇というあれだけの大戦というのを指揮できないですからね。


中島●ああいう武者の全国動員体制というものをつくれたのはやっぱり、時宗の功績なんでしょうね。


高橋●そうです。にもかかわらず、時宗の描写が少ないのは、むしろ何か政治的配慮があって当時は書くわけにいかないことが多かったのではないかとうのです。まだフビライの来襲の危機が続いていたときで、そういうときに時宗の立てた策などを詳しく書くわけに行かなかったと言う事情があったともわれます。


中島●高橋さんの小説『時宗』の主人公は、時宗はもちろんですが、異母兄の時輔であり、もう一人は日蓮であったとっています。


高橋●あの時代を描くときに、今だから言えるんですけども、日蓮という存在が非常に怖かったわけですよ。要するに、宗教者を書くということが、たとえば宗教者に同調した立場で書いていくと、すごく宗教臭い小説になっていきますよね。かといって、元寇のときに、どうしても日蓮をはずせない。となると、今度は人間として、人間臭さみたいなものを出していこうとすると、また日蓮からはずれるんじゃないか。それでものすごくしんだんですよ。日蓮がいるために、あの鎌倉時代というのがやっぱり書きにくくなってはいますね。空海とかだったら全然平気なんですよ。


中島●司馬遼太郎の『空海の風景』は気楽だなあとう(笑)。


高橋●小説を書くにあたって、それまで歴史上の知識としてしかしっていなかった『立正安国論』を本当に一行ずつ、何度も読み返したんですよ。読み返しているうちに、なんだか寒気がするくらい、これは凄いなとおもったわけですね。こんな人がいるんだろうかと。当時の日蓮の立場にライブ覚で立って考えてみれば、明らかに一身を投げ出すというか死を覚悟してなければ書けない言葉なわけですからね。これをどう伝えればいいのか。

 結局、紀野一義さんの現代語訳を読んだのですが、これで『立正安国論』の全文を入れるしかないといました。読者が同じものを読んで、同じようにじてもらうしかないと。


中島●『立正安国論』は、単なる予言でも予測でもない。だけど現実の事実の順序というか、次々に起こる、天災、人災、内乱、他国侵逼と、順序がピタッと合って予測されています。私の考えを言うと、今日の時代でも米騒動や関東大震災があって、昭和の初めに金融恐慌があって、満州事変があって、それで15年戦争に飛び込んで、敗戦になって行きますね。

 内乱こそなかったように見えるけれども、軍部が跋扈(ばっこ)して、治安維持法で数万人が逮捕されて殺されて、創価学会の初代の牧口常三郎会長なんかも獄死しています。歴史の方程式というか、あの『立正安国論』の凄さ、緊迫をいまさらのように私なんかはじるわけです。


高橋●一般的に、日蓮の『立正安国論』というのを大まかな知識で考えている人たちは、『蒙古襲来』を一般の国民が知っていて、その不安を煽るような形で出された「建白書」みたいに誤解している人が多いのではないでしょうか。


中島●日蓮は挑発的な扇動の人ではないですよね。


高橋●膨大な経典を引用しながら、そこから国家が直面しつつある危機を読み出して、警告を発したわけです。『立正安国論』なら、まだ読んでいてある程度の骨組みというのはわかるのですが、『開目抄』になると、もうこれは理解するというのは大変です。あれだけの経典を縦横無尽にわがものとしている人がいるというのは信じられないですね。

 小説を読む人というのは公平なわけです。だから読む人以上に、書き手が公平でなければいけないといういがあるんです。その上で日蓮の『立正安国論』が凄いと僕がったのは、その普遍があるからなんですよ。日蓮のなかに、い込みじゃなくて、非常に論理的・合理的な展開をする姿勢があったからです。そうやって、あれだけ強いことを書けるというのは凄いですよね。

 民衆にも最高権力者にも同時に命懸けの問答を


中島●佐渡流罪から生きて戻ったあと、幕府から寺も金もやると懐柔されます。換算すると60万両(約300〜450億円)ぐらいのおカネになるんですね。それを蹴って、鎌倉を出て身延に籠(こ)もる。


高橋●60万両ですか。


中島●山籠もりして一人でいるわけではなくて、『御書』という形ですが、書簡とか論文を通してオルガナイザーとしての全国的な活動というのを始めるわけですね。弟子も身延において落ち着いて育てられたのはこの時ぐらいでしょう。


高橋●宗教者のことを小説のなかで絶賛していくと、読者がもう単純に、この人は信者なんだなとしか、まずわないですよね。そのために非常に小説が書きづらくなります。日蓮にしろ、親鸞にしろ、法然にしろ、だれかのことを素材にしようとして、ただ単純な人間的興味で書いていこうとっても、それは初めからフィルターをかけられて読まれちゃいますのでね。だから書き手のほうも踏み込めない部分があるんですよ。


中島●なるほどね。たんなるオマージュ(尊敬や称賛)じゃだめなわけ。小説にならないわけですよね。


高橋●そう、ならないんですよ。だから身延時代のあたりとか、日蓮悩だとかしさとかについて、いろんな手紙にも本当は踏み込んでいって、なぜ日蓮があえて、こういう道を選んだのかというところまで書きたかったんですよ。僕は基本的に、日蓮という人は、あの時代の最大の知識人と認識していますからね。


中島●私は丸山眞男をちょっとかじって、非常に動したのは、鎌倉教というのはヨーロッパ流に言うと宗教革命であり、そのあとの戦国時代の後、安土・桃山のルネッサンスを準備したんだというわけです。「世界的普遍宗教」すなわち〔普遍的世界〕を日本が独自に初めて誕生させたのだと。

 丸山眞男さんがいっているのは、日本史における問答体の系譜ということです。民衆を相手にした問答と最高権力者に対して命懸けでやる問答と、両方を同時にやった人というのはあまりいないですよね。一身にして宇宙全体のものを相手にするというかね、命を賭して。これは希有なことだったなとうんです。


高橋●『立正安国論』は問答体ですね。日蓮の教養を考えると、どんなディベート(討論)をやっても負けるわけがないといます。凄いですね。どうして一人の人間があそこまで多くのものを自分の中に取り込めるのだろうかといます。


現実と向き合う宗教は何かを見抜く


中島●本当に国を憂え、そして世界の平和を願うということを、貫徹して、人々にわかるように語る人間というのは、今の日本にはちょっと欠落しているのではないかなとうのです。

 極端なロマンチシズムと極端なリアリズムのあいだの媒介者になるというか、仲立ちするというね。それは国家識と民百姓識と、いろいろなものを繋げる役目というのがありますでしょう、本来の宗教はね。そういうことをこの『時宗』から教わりましたね。


高橋●いやいや、そういっていただけると、なんだかもううれしくって、なんかちょっと胸が詰まりますけれども……。

 僕らの世代は宗教に対してあまりにもガードを作りすぎていますね。それでいて、たとえば宗がなにであるかも禅宗が何であるかもわからないし、お寺も全部同じように見えてしまう。

 自分の先祖代々の宗派すらよくわからない。僕は初めて日蓮の『立正安国論』を読んで理解できたんだけれども、つまりは宗というのは、極楽浄土の問題ですよね。

 要するに、いまはしいけれど、来世にはいいことがあるんだという。そういう宗教はいかんと日蓮は言っているわけですね。現実に向き合えということをいっていますね。

 ああいう国が続いていて、自分たちの民の生活が逼迫しているときに、先の極楽浄土に救いを持たせる宗教というのは、やっぱり理論に過ぎないんですよね。それを日蓮はちゃんといっている。

 こうした点をわかりにくくさせているのは、単純に僕らの側が宗教を知らなすぎるだけだということです。


中島●なるほど、よくわかります。


高橋●だからいまの新興宗教をいろんな味で嫌いなのはね、すぐに現実逃避する。たとえば3000人の天国の席が用されているとか、地球が終わりになって、その後に自分たちの本当の姿があるんだみたいなことをいって、若者たちがはまってしまったりする。

 テレビまで占いをやっているのもおかしい。日蓮が置かれていたときとすごく似ているとうんですよ、今の新興宗教のあり方というのは。

 小説を書くということは、どれだけ書こうとしている対象の人物に自分が近づけるかという問題です。何も勉強をしないで他力本願的に救いを求めて、今の社会の破滅を願うような一部の若者の風潮は非常に問題です。

 自分が何も努力していないから、世の中面白くないわけですよ。それをすべて社会のせいにして、こういう社会はなくなってしまったほうがいいみたいにおもっている。

 そんな時代を作っていく大人たちへの怒りを僕はやっぱりじたし、それは日蓮が、はいかん、といった根底に一番大きくあった問題だといますよ。


中島●日本人は他力本願が好きですね。他力本願を裏返すと、自分以外の他者のオール否定なんですよ。人のせいにするんですね、政治が悪いとか、何が悪いとか。

 ところで、長編の歴史小説はこの次は何をかかれる予定ですか。


高橋●当分、やはり、蝦夷というか、東北あるいは地方で抗(あらが)った人間たちといいますか、これらを自分の中のテーマとして考えています。今度は蝦夷から国の問題になっているので、そこまでいってしまったら、さらに前に進まなきゃいかんのかなという気はあるんですけどね。


【『第三文明』2002年7号】

時宗〈巻の1〉乱星 (講談社文庫) 時宗〈巻の2〉連星 (講談社文庫) 時宗〈巻の3〉震星 (講談社文庫) 時宗〈巻の4〉戦星 (講談社文庫)

2009-06-02

三度の高名と身延入り


 個人的に「三度の高(こうみょう)」を胡散臭くじて仕方がなかった。若い頃からだ。何とはなしに、三回注しても幕府がを傾けなかったから、大聖人がケツをまくって身延に引っ込んだ――という具合に考えていた。大体さ、「三度諌めて……」ってえのあ、臣下のあり方を説いたものだ。私の不勉強もあって、「職を辞す」という話は聞いたことがあるが、「山に引っ込む」というのは御書以外に知らない。


 もう一つ前々から気になってしようがないのは、日蓮大聖人の国家観である。教科書では、1590年に豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたと習った。大聖人の時代は秀吉よりも300年以上前である。鎌倉時代における国家識とはどのようなものであったのか。はたまた、国家の行く末を案じたのは大聖人特有の視点だったのか。


 大体、三度目の国主諌暁は佐渡流罪赦免直後の文永11年(1274年)4平左衛門尉に対して行われている。で、身延山入りは5のこと。私が一番不審なのは、流罪を許されてから、どうして山奥に引っ込む必要があるのか、ということに尽きる。


 だから、何となく我々が抱いている印象というのは、多分間違っている。鎌倉を離れて、晩年に至るまで身延で人材育成をされたことは事実だ。だが、それだけではあるまい。


 ここからは私見である。組織でペラペラと話すんじゃないよ。大聖人はきっと、三度の高で政治革命を断されたのだとう。時の権力者がダメだったのか、政治状況がダメだったのかはわからない。いずれにせよ、政治主導による立正安国の道は閉ざされた。そこで大聖人は、身延で戦略を練られたのだと私は考える。


 振り返れば、佐渡流罪以前までは社会悪と真っ向から対決することでセンセーショナルな言論闘争を展開したと見ることも可能だ。「間違った社会」を徹底的に否定することで動執生疑を起こそうとされたのかもしれない。これは、人権や表現の自由といった概すらない封建時代の権力者からすれば、テロ行為も同然だ。


 つまり大聖人は、身延山に入られてからは「民衆による革命」を目指したのだとう。政治闘争から闘争へとパラダイムシフトをされたのだろう。


 戦略とは作戦であり政治である。これに対して信は人間である。この兼ね合いがしい。中道とはセンターラインではあるまい。大乗的見地に立った正道のことだ。戦略は組織を志向し、組織は兵士と官僚を求める。「人間らしい組織」を維持できるかどうかで、学会の発展は決まる。


 外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり一には去し文応元年[太歳庚申]七十六日に立正安国論最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷の入道に向つて云く禅宗と宗とを失い給うべしと申させ給へ此の事を御用いなきならば此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給うべし、二には去し文永八年九十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆とてどしうちして他国侵逼とて此の国の人人他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺寿福寺極楽寺大長楽寺等の一切の者禅僧等が寺をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ、第三には去年[文永十一年]四八日左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりともをば随えられたてまつるべからずの無間獄禅の天の所為なる事は疑いなし、殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば頼綱問うて云くいつごろよせ候べき、予言く経文にはいつとはみへ候はねども天の御気色いかりすくなからずきうに見へて候よも今生はすごし候はじと語りたりき(287頁)


 夏の桀王を諌めし竜蓬は頭をきられぬされども桀王は悪王竜蓬は忠臣とぞ云う主君を三度諌むるに用ゐずば山林に交れとこそ教へたれ何ぞ其の非を見ながら黙せんと云うや、古の賢人世を遁れて山林に交りし先蹤を集めて聊か汝が愚に聞かしめん、殷の代の太公望は・渓と云う谷に隠る、周の代の伯夷叔斉は首陽山と云う山に篭る、秦の綺里季は商洛山に入り漢の厳光は孤亭に居し、晋の介子綏は緜上山に隠れぬ、此等をば不忠と云うべきか愚かなり汝忠を存ぜば諌むべし孝をはば言うべきなり(493頁)


 本よりごせし事なれば三度国をいさめんにもちゐずば国をさるべしと、されば同五十二日にかまくらをいでて此の山に入る、同十に大蒙古国よせて壱岐対馬の二箇国を打ち取らるるのみならず、太宰府もやぶられて少弐入道大友等ききにげににげ其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ、又今度よせくるならばいかにも此の国よはよはと見ゆるなり、仁王経には「聖人去る時は七必ず起る」等云云、最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治するに由るが故に乃至他方の怨賊来りて国人喪乱に遇わん」等云云(923頁)


 本よりごせし事なれば日本国のほろびんを助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに同五十二日に鎌倉をいでぬ(928頁)