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2003-12-25

君ありて 嵐の学会光さす


 君ありて 嵐の学会光さす 妙法の指揮 不議なりせば


【『和歌・句集 こころの華』(聖教新聞社)1982-08-24発行】


 この歌は、第3代女子学生部長就任を祝して『池田会長講演集』第2巻に揮毫されたもの。日付は昭和45年624日となっている。言論問題の渦中で任命された女子学生リーダーに、これほどまでの期待を寄せられていることに驚きを禁じ得ない。婦人部があって、女子部があって、女子学生部があるという関係ではない。師の生命世界にあっては、「君と私」という師弟直結の関係しか存在しないことを知る。


 最もしかった男子部部長時代に、私がしがみつくようないで、胸に抱きしめていた歌。

2003-06-28

名字の言


▼明治維新の功により「古今無類の忠臣」とたたえられた西郷隆盛が、征韓論に敗れて政府を去り、1877年西南戦争を起こした。戦端が開かれるや、マスコミはこぞって西郷を「逆臣」「賊臣」と批判。そのさまは「西郷に私怨(しえん)あるものか」とわれるほど▼定見のないマスコミに怒ったのは福沢諭吉。同年、彼は『丁丑(ていちゅう)公論』を著して、「官」が許せば何でも行う「官許の讒謗(ざんぼう)」の不当を説き、あえて西郷の「抵抗の精神」を評価した▼小説『新・人間革命』では現在、1970年の「言論・出版問題」の経緯が綴られている。民衆の幸福を願い、行動してきた学会を、マスコミや宗教界、国会がこぞって讒謗。「創価学会に私怨あるごとく」だった▼その様子に、評論家・加藤周一氏は「丁丑公論私記」を書いた。「言論の自由」を振りかざし、学会攻撃をするマスコミこそ「『言論表現の自由』の侵害の状況そのもの」と指摘。「官許の讒謗」とは「官利」のための攻撃にほかならず、マスコミの「抵抗の精神」を失った姿こそ、むしろ問題である、と▼かつて「讒謗律」「治安維持法」など、言論の自由に抑圧的だった日本。この国にとって「民」のを代表する学会の存在は、ますます大きい。(佳)


聖教新聞 2003-06-28付】

1970-08-01

丁丑公論私記


【『加藤周一著作集8 現代の政治的意味』(平凡社)】


 1877年(明治10年丁丑〔ひのとうし〕)、西郷隆盛が山に討死にし、西南の役(えき)が終って後、天下の世論は西郷を非し、死屍に鞭(むちう)ってやまなかった。そのとき福沢諭吉は、「丁丑公論」を書き、西郷を弁護した(しかし福沢はその稿を筐底〔きょうてい〕に蔵して人に示さなかった。世間がその内容を知ったのは、1901年2、福沢の死の前後、『時事新報』の連載による)。


 福沢は、なぜ西郷を弁護したのか。維新の功により、「古今無類の忠臣」とされていた西郷は、維新後10年、西南の役がおこるや、忽(たちま)ち「古今無類の賊臣」とされ、新聞紙上の論説は、ことごとく、彼を属官蔑誘して、その状あたかも「西郷に私怨あるもの歟(か)と疑はるゝ程」であった。福沢は、これが事実に反するとし、「後世子孫をして今日〔明治10年〕の実況を知らしめ」るために、「丁丑公論」を作ったのである。しかしそれだけではなかった。


 西郷に対する世論は、明治10年に豹変した。しかし世論が豹変したのは、それがはじめてではなかった。幕末に、江戸の幕臣や諸藩の佐幕派は、薩長土をはじめ倒幕派をよんで、反逆の「奸賊(かんぞく)」と称していた。そのときには、徳川政府への忠誠が、大義分とされたのである。維新成り、薩長政府ができあがると、「佐幕第一流の忠臣」も、忽(たちま)ち新政府の官員となった。一時は箱館に走り、野に下り、伯夷叔斉(はくいしゅくせい)の例に習うかにみえた人々さえも、しばらくすると、王制の大義分にめざめ、「今日一伯夷の官に就くあれば、明日は又二叔斉の拝命するありて、首陽山頭復(ま)た人影を見ず」という有様であった。このときには、旧「肝賊」の主宰する政府に、奉仕するのが、大義分とされたのである。「之を天下の大勢と云ふ。俗言これを志士の一転身と云ふも亦(また)可なり。然(しか)り而(しこう)して明治初年の有志者も、等しく是れ日本人にして、今日に於ても世上に風波あれば其(その)大勢に従ふの趣は毫(ごう)も異同あるべからず*1。」


 福沢にはあらかじめ、そういういがあったから、西郷の事にもこだわったのである。


 福沢は77年に、1868年を回顧した。今その文章を読むと、私の頭には、1945年前後の光景が、去来してやまない。たしかに、「世上に風波」があり、大義各は、45年にも変ったのである。「神聖にして冒すべからざる天皇」は、一夜にして、「人間天皇」となり、昨日の「聖戦」は、今日の「侵略戦争」となった。その1945年にも、伯夷叔斉は少く、「志士の一転身」は多かった。そればかりではない。そのとき武装放棄を憲法に話した「平和国家」は、その後再転して、韓国・台湾の生命線をまもるのに充分な武装の「責任」を説くに到った。1877年の福沢の懐の背景は、また大いに1970年のわれわれをとりまく状況に似ている。


 そういう状況があって、70年のはじめからは、東京の新開雑誌が、「言論表現の自由」の大義分を掲げ、公明党のいわゆる「言論抑圧」事件を一斉に攻撃するということがあった。挙世滔滔として、日頃役者や人気歌手の私事の報道に専してきた週刊雑誌さえも、決然起って、「自由の敵」を糺弾(きゅうだん)するかの如く、その状あたかも、福沢流にいえば、公明党に「私怨あるか」の如くであった。今批判者のいうところを要約すれば、およそ次のようである。


 第一、言論出版の自由は冒すべからず。第二、公明党は圧力を加えて自己に不利な出版を抑えようとした。第三、故に公明党を弾劾(だんがい)すべし。


 第一の前提は、価値判断である。私は大方の論者とその価値判断を等しくする。第二の前提は、事実判断である。私は事実の詳細を知らない。しかし何らかの「圧力」が加えられたという事実はあったろうとう。またその「圧力」が、刺客(しかく)を送って著者または出版責任者の身辺を脅すという種類のものではなかったろうとう(そういうことをしたのは、公明党ではない)。第二の前提についても、私は、大方の論者に反対しない。しかし第三の結論については、私は、それが見当ちがいの甚(はなは)だしいものだと考えるのである。その理由は、いうまでもなく、私が公明党を支持するからではない。況(いわん)や同党との間に個人的なつながりをもつからではない(私は公明党の誰にも会ったことさえない)。この結論に反対する理由は、今日の日本国における「言論表現の自由」の侵害の状況そのものであり、それだけである。


 不幸にして、「言論表現の自由」の侵害、または少くともその圧迫は、わが国において新しいことでもなく、また公明党に限ったことでもない。しかもそれは、一つ二つの小冊子の出版に係(かかわ)ることではなく、まさに大衆報道機関の中枢に係るものであったし、また今もそうであるだろう。たとえば、日本放送協会は、時事に係る番組に参加する人物を、あらかじめその政治的立場から選別し、政府与党に対する鋭利な批判を避けようとすることがないか(それはおそらくあるだろう。もしなければ、イギリス・カナダ・西ドイツの公共放送にくらべても、日本の公共放送の著しい「当らず触らず」の調子は、説明しにくいだろう)。民間放送の場合には、広告主(企)が番組の「政治的偏向」を指摘し、その番組を「おりる」ことがないか(それもおそらくあるだろう。もしなければ、たとえばアメリカで、最近二代の大統領が歎(なげ)いたほどの、民間放送の痛烈な政府政策批判が、日本の民間放送にも連日連夜あらわれたはずである)。また大新聞の場合にも、その論調の「偏向」を政府が指摘し、記者の報道の「偏向」を外国の大使館が注し、論調が一夜にして急変し、記者が社外に去るということがなかったか(聞くところによれば、おそらくそういうこともあったろう)。また殊(こと)に教科書の内容について、政府(文部省)が圧力を加え、著者の歴史観の自由な表現を妨げようとすることはなかったか(家永三郎氏のいわゆる「教科書裁判」の記録によれば、おそらくそういうこともあった)。


 そういうことがあったときに、日頃役者や人気歌手の私事の報道に専してきた週刊雑誌まで、起って、政府・与党・大企の非を鳴らし、言論の自由の冒すべからざる所以(ゆえん)を説いたであろうか。挙世滔滔として、政府・与党・大企の「圧力」を糺弾してやまず、数ヵの間、巷(ちまた)に批判のが満ちたであろうか。決してそうではなかった。放送と大新聞は、今日の世論を作るのに、最も有効な機関であり、教科書は、明日の世論を育てるのに、最も有効な手段であろう。一方に、放送・大新聞・教科書への干渉・圧力があり、他方に、2〜3の小冊子の内容への干渉・圧力があるとしよう。今日わが国の言論の自由を脅すこと、前者は後者に100倍するにちがいない。前者は、政府・与党・大企の非、後者は一野党の非。前者の100倍の非に沈黙して、後者の100分の1の非を弾劾してやまないのは、何故であるか。「大勢に従」ったジャーナリズムにとって、言論の自由は、つまるところ、口実以上のものではなかったのか。


 福沢は西南の役の後、西郷弾劾を称(よ)んで、官許の讒謗(ざんぼう)であるとした。「其(その)有様は恰(あたか)も官許を得て人を讒謗する者の如し」。官許の批判は、言論の自由をまもるためには、役にたたない。けだし官に有利な言論の自由のない社会は、どこにもないからである。官に不利な言論の自由のどこまで可能であるかによって、その社会における言論の自由は、定(さだま)る。みずから言論の自由を行使せず、官許の西郷批判に附和雷同することによって、1877年の論客は、明治社会の言論の自由を一歩も進めていたのではなかった。政府の100の「圧力」に沈黙し、野党の1の「圧力」を批判してやまない1970年の論客の多くも、また、当事者を除いて、何ら今日の言論の自由を擁護したのではなかったろう。


 嘗(かつ)てソ連政府がパステルナーク Pasternak にノーベル賞の受賞を禁じたとき、日本ペンクラブのなかには、ソ連政府に強く抗議をしようという議論があった。その議論の内容は、次の如くであった。


 第一、言論表現の自由は冒すべからず。第二、ソ連政府のパステルナークに対する圧力は、言論の自由を奪うものである。第三、故にソ連政府に抗議すべし。


 この場合にも、私は第一及び第二の前提に賛成し、第三の結論に賛成することができなかった。言論の自由を害(そこな)った外国政府は、ソ連政府ばかりではない。その多くの場合に抗議を送らず、パステルナーク事件のソ連政府にだけは抗議を送らなければならぬという理由は、言論表現の自由の尊重ということのなかにはない。


 一般化していえば、まず第一に、大義分があり、第二に、大義分を破ったいくつかの事例が知られているとき、いくつかの事例のなかの特定の一つをとりあげて、批判すべし、というためには、それなりの理由づけを必要とする、ということである。大義分を重じるから、その事例の【すべて(原文は傍点)】を批判すべし、というのは、当然である。しかし実際には、事例があまりに多い場合に、その【すべて(同様)】につき合うことは、むずかしいだろう。どれかを択(えら)ばなければならない。その択び方は、大義分を真面目に考える限り、知られている事例を、大義分の侵害の度合とその影響の拡(ひろが)りという点で、大きさの順序にならべ、大きい方からとりあげて、批判するという以外にはない。そうでない場合には、選択の標準が大義分にはなかったと像せざるをえないのである。


 福沢が1877年の西郷批判について見破っていたのは、そういうことであろう。それはその時代に限らず、その人に限らない。その一言一句の今なお肺腑(はいふ)を衝(つ)いて人に迫る所以である。


「丁丑公論」の「緒言」は、次のようにはじまる。


「凡(およ)そ人として我がふ所を施行せんと欲せざる者なし。即ち専制の精神なり。故に専制は今の人類のと云ふも可なり。人にして然り。政府にして然らざるを得ず。政府の専制は咎(とが)む可らざるなり。


 政府の専制咎む可らずと雖(いえど)も、之(これ)を放頓(はうとん)すれば際限あることなし。又これを防がざる可らず。今これを防ぐの術は、唯これに抵抗するの一法あるのみ。……


 近来日本の景況を察するに、文明の虚説に欺(あざむ)かれて抵抗の精神は次第に衰頽(すいたい)するが如し。苟(いやしく)も憂国の士は之を救ふの術を求めざる可らず。抵抗の法一様ならず。或は文を以(もっ)てし、或は武を以てし、又或は金を以てする者あり。今、西郷氏は政府に抗するに武力を用ひたる者にて、余輩の考(かんがえ)とは少しく趣を殊(こと)にする所あれども、結局其(その)精神に至(いたり)ては間然すべきものなし。」


 すなわち福沢の目的は、事の真相を「後世子孫に知らしめ」ることだけにあったのではなく、実はそのことを通じ、「日本国民抵抗の精神を保存して、其気脈を絶つことなからしめんと欲するの微(びい)」にあった。


「緒言(しょげん)」によれば、福沢は西郷がその抵抗に暴力を用いたことに、賛成していなかったようである。しかし、西郷の場合に限らず、一般にも、暴力による抵抗に、賛成しない立場をとっていたのか。それとも、時と場合によっては、暴力もやむをえない、という立場をとつていたのか。後者の立場は、周知のように、アメリカの憲法に明記するところであり、福沢自身が『文明論之概略』にも引いたところである。厳密にいえば、福沢のこの点についての考えをはっきりさせることは、簡単ではない。しかし「丁丑公論」の文面に関する限り、その立場は明白である。


「一国に政府を立て、法を定(さだめ)」るのは、政府の「」であり、「事物の秩序を保護して人民の安全幸福を進(すすめ)る」のは、政府の「実」である。そこで政府ののみに拘泥(こうでい)し、「苟(いやしく)も政府のあるものは顛覆(てんぷく)す可らず、之を顛覆するものは永遠無窮の国賊なりとせば」、「今の政府の顕官も十年以前西郷と共に日本国の政府たる旧幕府を顛覆したる者なれば、其国賊たるの汚は千歳に雪(そそ)ぐ可ら」ず。しかるに彼らを「賊と云はずして義と称する」のは、徳川幕府が有無実であり、「事物の秩序を保護して人民の幸福を進むる」実績がなかったからである。すなわち「有無実と認む可き政府は之を顛覆するも義に於て妨(さまた)げなき」ものである。


 人民の抵抗権を、「丁丑公論」以前に、これほど明白に説いた例は、おそらく、日本の歴史には見出しにくいだろう。歴史家が「丁丑公論」を劃期的(かっきてき)な文章とするのは、そのためである。しかし私がここで注したいとうのは、暴力による抵抗の是非の一般理論でも、その1877年当時における歴史的な味でもない。むしろ福沢をして「抵抗の精神」の必要を痛せしむるに到った当時の状況そのものである。


「近来日本の景況を察するに、文明の虚説に欺(あざむ)かれて抵抗の精神は次第に衰頽(すいたい)するが如し。」


 この一句、今もし「文明」の語に換えるに「GNP」の一語を以てすれば、そのまま100年後の今日にも通用するだろう、と私にはわれる。


 68年から69年の前半にかけて、全国を風靡(ふうび)した学生運動は、69年の弾圧・学園「正常化」以来、今や、政府の「専制」に対する議会外抵抗運動としての力を失ったようにみえる。また69年12の総選挙での敗北以来、社会党の議会内反対勢力としての力も大いに弱ったと考えざるをえない。70年はじめ、言論抑圧問題で、公明党が四面楚歌のなかに立ったのは、そういう状況のなかにおいてであった。公明党が反対政党としての機能を失えば、政府の専制に抵抗できるのは、おそらく共産党のみといっても過言ではないであろう。この時期、この場所、この理由による公明党攻撃が「官許」の攻撃であったばかりでなく、好むと好まざるとに拘(かかわ)らず、あきらかに「官利」の攻撃たらざるをえなかった所以である。選挙に敗北した社会党には、――日本の社会党の場合に限らず、「共産党と一線を劃(かく)する」政策を強調する傾向がある。窮地に立った公明党には――殊に攻撃批判が左翼政党から激しく加えられた場合には、与党との提携をもとめる傾向がある。別の言葉でいえば、議会外での「抵抗」の衰弱、議会内での社会党・公明党の衰弱を招来する過程は、また同時に、共産党の勢力伸長の過程であるばかりでなく、その孤立化の過程となる蓋然(がいぜんせい)が大きい。これを政府・与党の側からみれば、たとえ勢力を伸長しても孤立化した共産党の「抵抗」は怖るべきものではあるまい。専制に対する抵抗の衰弱は、避けることができない。しかしのためにつけ加えるが、もとより私は、反対党の非を批判することが常に不都合だろうというのでは決してない。福沢諭吉も「丁丑公論」のなかで、西郷の非を非とした。ただ世間に行われている「官許の讒謗」の不当を説き、殊に、西郷における「抵抗の精神」を高く評価したのである。


「抵抗の精神」の必要は、今日、二重であると私はう。その第一は、議会民主主義の形式に係り、一般的な必要である。その第二は政策の内容に係り、今日の日本に特殊な必要である。


 抵抗の形式的な必要は、政府の専制の内容に拘らず、従ってまた抵抗の内容にも拘らない。1877年に妥当した議論は、当然1970年にも通用するだろうし、福沢の言葉は、そのままわれわれを代弁しているといってもよいだろう。すなわち、「政府の専制咎む可らず」。しかし「之を放頓すれば際限あることなし」。故に「抵抗」が必要だということである。その抵抗は、議会民主制のもとでは、選挙における反対党の勝利と政権交代の可能としてあらわれるのが、当然であろう。保守政党による政権の独占が、20年以上も続いてきた国では、その政府の【政策の如何に拘らず(原文傍点)】、反対党が、強くなれば強くなるほどよろしい。反対党を弱めるような攻撃は、その味で、無責任であるといわざるをえない。しかも、それだけではない。保守党政府の【政策の内容(同様)】は、重要な問題について、国民の大多数の【見】を反映していない。ということは、議席の配分と、世論調査(特定の問題について)の結果との、著しいくいちがいにも、はっきりとあらわれている。くいちがいは、主として、対外政策、殊に対アメリカ、対中国の政策に係っている。それは今後の日本の進路を定めるであろう大きな問題である。


 保守党政府の対アメリカ政策は、69年の秋の「日米共同明」によくあらわれている。このときから、安保体制の質は変った。今かりに、52年以後を「吉田安保の時代」と冬つけるとすれば、60年から最近までの「岸安保」を移行期として、69年以来の「佐藤安保」体制は全く新しい機能を果すことになるだろう。「吉田安保」は、占領下の日本に強制された基地条約であったが、また同時に、日本自身の再軍備を抑制する作用ももっていた。「岸安保」は、独立した日本政府がみずからもとめて調印した条約であり、もはや再軍備抑制の口実ではなくなった。「佐藤安保」に到っては、今なお基地条約(殊に沖縄)の質も備えているけれども、それ以上に日本の再軍備を促進する作用をもつにちがいない。「吉田安保」時代とくらべれば、「安保」と軍備拡大との関係が逆転したのである。政府・与党・大企の側には、軍需産を興(おこ)し、大軍を備えて、アメリカの戦略体制の傘下(さんか)にありながら、アジアの軍事的均衡に重きをなそうというすじ書きが、いよいよはっきりとあらわれてきた(これは憲法第9条と矛盾する。憲法を徹底的に空文化するか、改訂するか、その他には道があるまい)。そういうことが、一方にあって、他方に、今なお国民の大多数が核兵器、海外派兵、大がかりな軍備に反対であり、憲法改正に反対である、という事実がある。このような状況のもとで、政府の専制を防ぐには、国民の大多数の見が、議会の内外に、力強く表現されなければならない*2。


 政府の対中国政策は、70年春、貿易交渉の代表が、中国で行った「日中共同明」にもあきらかなように中国政府からみれば、中国敵視政策である。日本政府の言い分によれば、敵視政策ではない。しかし、どれほど好的にみても、友好的な政策とはいえないだろう。たとえば日本政府の代表は、国連から中国を締め出す提案に、積極的に参加してきた。そういう提案に、賛成したのでさえない。況や棄権、まして反対したのではなおさらない。世界広しといえども、中国締出しに、これほど積極的な大国政府は、アメリカ政府と日本政府の他にはない*3。


 そういうことが一方にあり、他方には、あらゆる世論調査も示しているように、国民の圧倒的多数が、中国とのよりよき関係のために積極的な政策をもとめている。このような状況のもとでは、対中国政策について、政府・与党に無視されてきた国民の見を代弁することこそ、野党の任務であろう。


 しかし、外政上の問題は、選挙の争点には、成りにくい。日常生活の利害得失と直接に結びついているようにはみえないからである。その味で物価・貸銀、あるいは農家にとっての米価などとちがう。しかし大企の側からみれば、――従ってまた政府の側からみれば、外政上の問題は、物価・貸銀と同様に、直接に大企の利害と結びついたものである。軍需産然り*4。貿易と国外投資また然り。


 しかしどこの国の政府でも、軍需産のために軍備を拡大するとはいわず、国民の安全のために軍備をを拡大するという*5。国民の日常生活に直接の不都合を生じれば天下の言論機関を動員して、昔は「勝ち抜くまでの辛抱だ」といい、今は「GNP世界第2位になるまでの辛抱だ」という。嘗(かつ)ては「忠勇無双の兵士」を讃え、今や新興宗教ジーエヌピズムを鼓吹(こすい)し、「もうれつ社員」の信仰をほめる*6。


 物価は高く、住宅は得く、一歩外に出れば、煤煙(ばいえん)空を蔽(おお)って、天日為めに暗く、自動車は疾走して毎年何千人をひき殺し、通勤電車は相変らず混んで肉弾相摶つ光景こそは、国力の伸長であり、繁栄の象徴である。世論は操作される。しばしば国民の【利益と見(原文傍点)】(世論)との間にずれを生じ得るのは、そのためである。


 国民の【利益】とは何であるか。第一に、平和。再びアジアの大陸に凍死し、南の海のもくずと消え、食うや食わずで瓦礫(がれき)の町に彷徨(ほうこう)するのは、あきらかに国民の利益に反するであろう。第二に、この国の住みよさ。吸うに新鮮な空気あり、飲むに夏なお水道の水あり、住むに家あり、仕事場に通うのに肋骨を折られず、道を横切るのに生命を失わず。第三に、生きがい、働きがい、自分自身に対する誇り。これは社会への所属ばかりでなく、社会の決定への積極的参加、またその社会の目的とするところに自己の価値の反映を見出すことのできる可能識を、味するだろう。――およそこのようなことが、国民の利益とはいえないだろうか。


 もしそうであるとすれば、軍備を拡大し、軍需産を興し、傲然として韓国・台湾がわが国の生命線であると言い放つことは、おそらく極東の緊張をたかめ、おそらく平和を脅し、従っておそらく国民の利益に反することであろう。また産の発展の今日のようなあり方は、あきらかに、この国の都会を住みにくくさせる。都会の住みにくさは、どこの工国にも共通の現象であるが、殊にわが国において著しい。それがわが国において殊に著しいのは、政府の政策の責任である。急激な産の発展は、たしかに、ある種の「生活の向上」をもたらした。しかし、その内容は、主として、いわゆる耐久消費財(洗濯機、自動車、冷房機、色彩「テレビ」など)の国内消費の増大ということに尽きる。耐久消費財の市場は、もっとも典型的に大企の独占するものである。国民の「生活の向上」は、大企の利益に合致する限りで、鼓舞(こぶ)されてきたということにすぎない。操作された慾望の満足、あるいは、もっと正確にいえば、操作された慾望の満足されるだろうという期待が、政府・大企の作り出した住みにくさの極地から、われわれの注をそらしてきたということにすぎない。


 他方、国の進路を定める政治上の決定は、いよいよ与党・大企・官僚機構の上層部に集中する。一般大衆の「参加」の識は、薄れざるをえない。しかも企のなかでは、目的のわからぬ機械の、歯車の一つとしてしか自分をじることができない。人はパンのみにて生くるものに非ず。これでは自分自身に対して誇りをもつことができないだろう。


 国民の利益は必ずしも国民がはっきりと識するものではない。多数の【利益】と多数の【見】との間には、くいちがいがある。そのくいちがいを狭めることが、世論の操作に抵抗することであろう。おそらくその抵抗の潜在的な担い手は、大企の内ではなく、外で働く人々のすべてだろうとわれる。大企の内側では、従員が理的には企に組みこまれ易く、物質的には企の繁栄から直接の利益を受ける。世論操作の物両面の手段は、大企の内部で、もっとも有効に作用するのである。


 抵抗は、小企の従員や小売商の広い層から、もしおこるとすれば、おこるであろう。そのような抵抗の組織ほど、今日、日本の民主主義を救うために、大切なものは少い。しかしどのような組織の指導者であっても、指導者たちは、下からのつき上げが激しくない限り、より強力な組織との妥協に傾くにちがいない。妥協が限度を越えれば、世論操作に抵抗し、覆いかくされた大衆の利益を擁護するための組織は、かえって、世論操作を、今日ませそれが浸透しにくかった層にまで、浸透させるための組織と化するかもしれない。故に抵抗の組織の内部では、下部において、大衆の見に従うばかりでなく、大衆の利益の全体を見きわめ、指導層に絶えざる圧力を加えることが、急務のなかの急務となる。


 1877年に「丁丑公論」を作った福沢諭吉は、薩長土政府の専制に対する抵抗の精神を説いた。当時の日本には、議会もなく、強大な産もなかった。100年後の今日、もし福沢をして世にあらしめたならば、何というであろうか。おそらく「官」に対する抵抗ばかりでなく、今や「官」と一体化した与党と大企との専制に対する抵抗を説いたことであろう。また抵抗の必要を、憲政の常道、武士の地として強調するばかりでなく、内政外政の両面にわたって今日の権力がゆるがせにしてきた日本国民の重大な利益の擁護を、当面の急務としたことであろう。「丁丑公論」の福沢は、西郷が権力を握っても、軍国主義の危険はなかったろう、と論じた。そのとき日本の武装は、到底「征韓」の用に堪えるものではなかった。しかし1970年庚戊(かのえいぬ)、もし福沢が、「庚戊公論」を書けば、専制に対する充分な抵抗の組織されぬ限り、反政府側からではなく、政府側から、軍国主義の復活の怖れも大きいと論じたかもしれない。


【『潮』1970-08号初出】 ※送り仮を振った。