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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2006-12-25

牧口先生「現在が栄えていればこそ、先人が偉大になる」


 牧口先生は、言われていた。

「現在が栄えていればこそ、先人が偉大になるのである。

 今が栄えていなければ、先人の偉大さも光彩がなくなるのである」

 すべてが弟子で決まる。

 弟子の勝利が、師匠の勝利である。


盂蘭盆義を語る 2006-08-06 長野研修道場


 人類の歴史において、偉大な人物は多数存在した。だが、その形骸化し、志は失われていった。淘汰(とうた)――これが歴史の厳しき実相である。(「偉人の後に後継者なし」)


 戒律とはシステムのことである。釈尊亡き後、弟子達は教団のシステムを強化することによって令法久住を試みた。しかし“組織の論理”が、法本来の自由と寛容を奪い去った。それに、抵抗する形で誕生したのが大乗教だった。また、五五百歳堅固そのものが、法が形式化してゆく様相を示している。


 創価学会が隆々たる発展を続けているのは、池田先生が健在だからだ。それ以外の理由は一つもない。


 ボーーーッとしていたらダメだ。像してごらんよ、先生の登場しない聖教新聞を。先生のいらっしゃらない本幹を。「先生に呼吸を合わせる」という言葉が死語になる時代を。


「大聖人亡き後、日興上人が」「牧口先生亡き後、戸田先生が」「戸田先生亡き後、池田先生が」立ち上がったと我々は口にする。だが、そんな簡単なものじゃないよ。自らの絶望を乗り越え、悲嘆に暮れる同志を励ます作が、生易しい決で出来るわけがないのだ。


 大いなる不安に駆られながらも私は、を決して「自立の道」を歩む。

2006-10-11

第二章の学会のすべてを諸君に託す


 最後に、今日の師の誕生日の佳(よ)き日に、戸田先生の歌を二首紹介し、諸君の1990年への凛々しい旅立ちを祝福いたします。


 三類の 強敵あれど 師子の子は

   広布の旅に 雄々しくぞ起て


 師子王の 雄叫び聞いて 奮い立つ

   広布の旅の 子等ぞ勇まし


 第二章の学会のすべてを、諸君に託します。万事、よろしく頼みます。


【第26回男子部総会メッセージ 1977-02-11 大阪・関西戸田記講堂】


 会長勇退の2年前の男子部総会。このメッセージは、竜の口の法難における大聖人と四条金吾のやり取りを彷彿(ほうふつ)とさせる。


 前年の昭和51年(1976年)、『月刊ペン』が3号、4号と立て続けに、根も葉もないスキャンダルを報じた。学会を取り巻く状況は緊迫の度を増していた。


 メッセージには二つの重要な義があった。一つは、115日に行われた第9回教学部大会(関西戸田記講堂)で、「仏教史観を語る」と題した講演をされた直後に発表されたこと。そしてもう一つは、関西で行われたことだ。


 残なことに、私は高校生だったため、当時の様子が全くわからない。ただ、支部長・婦人部長をしていた両親が殆ど家にいなかったのは、それ以前と変わりがなかった。


 学会の歴史を編んだものに、『日蓮正宗創価学会東京大学法華経研究会編(山喜房書林/昭和37年53日)、『革命の大河 創価学会四十五年史』上藤和之、大野靖之編(昭和50年1118日)の2冊があるが、いずれも現在となっては古過ぎる内容だ。


 日顕による第二次宗門問題以降、我々は宗史を初めとする過去の歴史を捉え直す作に挑んだ。「大聖人直結」と「御書根本」を標榜し、日蓮法とは異質な“衣(聖職者)の権威”を斥(しりぞ)けた。ここに、「創価ルネサンス」があったのだ。


 その味からも、二度の宗門問題を中とした学会の歴史即池田先生の歴史を、きちんと編纂(へんさん)しておく必要があろう。なかんずく、昭和54年(1979年)前後の歴史は不明な点が多過ぎる。新たな会則で「三代会長を永遠の指導者」と位置づけておきながら、当時の指導も公表しないようでは、今尚、“宗門に屈した姿”のままと言われてもやむを得ない。(※当時の書籍には、指導の要旨しか記録されていない)


 御書であっても、「又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただの爾前の経とをぼしめせ」(1489頁)と、佐前と佐後に大きく分かれる。創価ルネサンス前と後の指導が、大きく異なるのは全ての学会員が既に承知している。


 先生は114〜23日まで関西に滞在されていた。男子部総会は既に、予定されていたことだろう。16日には、事実上の結成式となる第1回創価班総会に出席された。そして、関西男子部に楔(くさび)を打ち込まれたのだ。男子部総会っていったって、開催地のメンバーが一番多く集まるのは当然だ。


 東京は権威に弱い(笑)。権威に強い私が言うのだから間違いない。学会本部の指示となれば、坊主の向であっても言いなりになる生命がある。その点、関西は東京から離れていることが強味となる。


 先生が絶体絶命の危地にあって、最も深い信頼を寄せた関西男子部である。勇退直後、真っ先に師の下(もと)に馳せ参じたのも、若き藤原関西長を筆頭とする関西七勇士であった。この血脈を関西は永遠に忘れてはならないとう。


 折しも、大阪9区(茨木市・池田市・箕面市・豊能町・能勢町)の補選が告示となった。明年の参院選の動向を左右すると多くの指摘あり。安倍政権の命運を関西が担っている。

2006-05-21

「弟子としての道」


 私どもは戸田会長先生の弟子でございます。弟子なれば、弟子としての道がございます。弟子なれば、弟子としてお仕えする道がございます。弟子なれば、弟子として大法戦に向う大闘争を展開する決に燃えていく自覚がなくてはなりません。

 今や、戒壇建立の道への第一歩の年に入り、私ども青年部の闘争の前途は厳しく、また洋々たるものがあります。

 私どもは戸田先生の弟子として、いかなる戦野にあっても、いかなる時代にあっても、その自覚と誇りをもって大法戦に向かい、真の学会青年部員として、永遠の勝利を勝ち取っていただきたいといます。


【※当時、参謀室長/男子部1万登山 1955-05-29 総本山富士大石寺三門前(参加人員1万360)】


 前年の昭和29年(1954年)59日、雨の中をついて青年部の総登山が行われた。この時、男子部3200、女子部2300戸田先生のもとに集った。式典を終えて、戸田先生池田先生に1万総登山を提案。わずか5ヶ後の1030日に、これが実現した(男子部6308、女子部4082=1万390)。それから更に、7ヶ後に行われたのが、男子部のみによる1万登山だった。折伏は怒涛の勢いで進み、多くの青年を糾合していった黄金の歴史である。その中にいたのは、まだ20代の池田先生だった。厳然と広布拡大の結果を示した若き先生の烈々たる叫びが、富士山麓(さんろく)の木々を震わせたことだろう。この模様は、小説『人間革命』第9巻「上げ潮」の章に描かれている。小樽問答から2ヶ後のことであった。


 この頃から、折伏を問題視する向きが現れた。マスメディアからの取材も増えてきた。一切の渉外にあたっていた先生は、1955年(昭和29年)1213日、初代の渉外部長に任命された。


 先生は、男子部長・青年部長の役職はされてない。しかし、光の当たらぬ舞台裏で、常に縁の下の力持ちとなって、また、戸田先生の懐刀(ふところがたな)として、学会の全責任を担われていた。


 情報化社会においては、尚のこと参謀の存在が重要だ。歴史を振り返っても、将の影に必ず軍師がいるものだ。忌憚(きたん)のない見を交換するところから、作戦は立案される。更に、作戦の段階で皆のを一つにしてゆくことが、勝利の本因となる。

2005-03-27

絢爛たる歴史を綴れ


 秋谷会長を中に、このように若き青年が集い、諸君と共に「青年世紀の年」第2年を生き生きと迎えることができ、私は本当に嬉しい。

 私はすでに、諸君を信じ、諸君に頼み、諸君に広宣流布と学会の未来を託す以外にない年齢である。ゆえに私は、本年も全力を挙げて後進の育成のため、完璧なる万年への広宣流布の基盤建設のために走り、この1年は、10年分にも匹敵する歴史を刻んでいきたいとっている。

 これは決して言葉のみで言っているのではない。口先だけの言葉は、何もに響かないし、何も変革することはできない。その味で、どうか諸君も、大聖人の門下であるならば、また私と共に戦おうとに決めたお一人お一人であるならば、同じ1年であっても、最高に充実した青春を送り、最大に自己を発揮しゆく歴史をつくっていただきたい。そして、最高に生きがいのある、価値ある日々の、自分自身の軌跡を絢爛(けんらん)と綴っていただきたい。


【第11回全国青年部幹部会 1989-01-06 創価文化会館


 阿部日顕による第二次宗門問題が起こる丁度、2年前の指導。これが、昭和最後の指導となった。


 日本が揺れ、世界が揺れた激動の年。翌17日、昭和天皇が逝去。平成の幕が開いた。41日から消費税導入がスタート。バブル経済により不動産価格が高騰の極みに。その陰で、リクルート事件が発覚し、連続少女殺害事件の犯人が逮捕。723日に行われた参議院選挙では、旧社会党に風が吹き、与野党逆転。1969万票を獲得した勢いに乗って、土井たか子委員長が「山は動いた」と気を吐いた。


 中国では63日に天安門事件が。学生による民主化運動に対し、中国当局が武力制圧する模様が映像で世界に配信された。そして、119日、東西を分断してきたドイツ・ベルリンの壁が28年という歳を経て崩壊した。


 いずれも、ついこの間のようにじる出来事だ。21世紀に至るわずか10年の間に、時代を賑わす寵児(ちょうじ)が現れては消え去り、金融機関は不良債権にのた打ち回り、合併を繰り返した。大手企のいくつかは倒産し、下請け・孫受け企は塵芥(ちりあくた)のように吹き飛ばされて、中小企の経営者は自らの命を手に掛けた。サラリーマンの終身雇用も完膚なきまでに破壊され、日本の安全神話も完全に崩壊した。


 政治家や企家が次々と舵取りを誤った激動の時代にあって、創価学会は隆々たる発展を続けた。しかも、この間に、宗門問題が起こり、信教の自由を封じ込めようとする策謀の嵐が国会内で吹き荒れたのだ。全く、奇蹟としか言いようがない。師弟不二の魂は、20世紀の完全勝利を勝ち取った。


 この指導がなされた当時、私は25歳。前年の9に地区リーダーとなっていた。身震いするほどの激をもって走り抜き、2世帯の弘教となって結実した。4から、創価班の本山担当の一員となり、11には初めてメイン会場に参加できた。いずれも、忘れ得ぬ歴史である。

2005-03-07

生命の力用は時空を超える


「生命」の力用(りきゆう)とは、まことに不議である。強靭な「精神」は、時を超え、空間を超えて、響き、伝わっていく。目に見えるようなの“流れ”があるわけではない。だが、「」から「」へ、透徹した一は確かに流れ、継承されていく。


【11.18創立記勤行会 1988-11-18 創価文化会館


 これ血脈なり。血脈とは、時代や環境を超えて、人間の魂と魂とが深く共鳴することの謂(い)いであると信ずる。そして、ここに眷属の妙もある。


 獄死された牧口先生の一は、戸田先生池田先生の大闘争によって、190ヶ国にまで広がった。学会員乗るのであれば、どこにあろうとも、初代・二代・三代会長の眷属である誇りに燃えていなくてはならない。


 王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりともをば随えられたてまつるべからず(287頁)


 これは、三度目の国主諌暁の際に、大聖人平左衛門尉に向かって放った言葉。戦時中、時の法主が立ち会う中で坊主どもは、神札を受けることを学会に勧めた。牧口先生は、「承服いたしかねます」と言下に拒否。この瞬間、大聖人の生命の力用は、坊主どもではなく、牧口先生に流れ通った。創価学会仏勅和合僧となった歴史的瞬間である。


 また、人類や人権のために戦った人々の言葉が、我々の胸を打ってやまないのも、同じく“生命の力用”といえよう。


 強靭なる一は、広範な人々を動かす。


 青年部時代、結果がふるわない幹部とやり取りしていると、「一が足りませんでした」という幹部が時々いた。「足りないんだったら、足せ! 大体な、コショーや調味料じゃあるまいし、足りたとか足りないという問題ではないだろう。おかしな日本語を使うな! 一は、強いか弱いかだ。弱い一を正当化するな! その言葉で、既に次の敗因をつくっているのだ」と私は言った。かような弱い幹部を、“羊千匹グループ”と命しておこう。


 最後の池田門下生である我々の課題は、師弟直結の信を築くことにある。先生のを知り、先生の祈りをじ、先生の一に連なることが我々の責務である。


 先日、行われた本部幹部会を先生は風邪のため欠席された。私は考えざるを得なかった。「いつの日か、これが当たり前になる時が訪れるのだ」と。その時にいち早く立ち上がって、多くの会員を励まし抜く人が本物の弟子である。そして、妙法を信じ、広布をじるの強い人のみが、本物の学会幹部だ。

2005-01-03

創立100周年を黄金の歴史で飾れ


 戸田先生はご逝去の前、しみじみと語っておられてことがある。

「大作、お前が、今の私の年齢になった時は、どのようになっているかな」と。

 簡単ではあるが、にしみいる言葉であった。

 今日、私の元に集い来った後継の若き門下は、現在、11〜12歳から18歳。私は60歳――。戸田先生と同じで、私は諸君の未来を胸にい描いている。

 今、18歳の諸君が60歳になるのは西暦2030年。すなわち学会創立100周年の年である。

 その時には、広布の舞台は、はるかに壮大に広がっているにちがいない。世界の、ありとあらゆる地域で、ありとあらゆる分野で、絢爛たる活躍のステージが諸君を待っている。

 いよいよ広宣流布の本格的な展開の時代である。

 この100周年を諸君は見事に“黄金の歴史”で飾っていただきたい。これが本日の私のお願いである。“遺言”というとセンチメンタルになる。むしろ私は一言、諸君に「しっかり頼む」と託したい(大拍手)。

 その味で、本日は100周年という素晴らしき学会の黄金時代への幕が開かれた――と明確に申し上げておきたい(大拍手)。

 ともあれ諸君は若い。長い将来がある。

 天草四郎は、あまりにも若くして散った。しかし諸君は、健康であり、長寿であっていただきたい。無事故で生き抜き、どこまでもたくましく長生きをしていってほしい。

 そして、一人も残らず、立派に人格を完成しきって、実ともに偉大な学会のリーダーに、社会と世界の指導者に育っていただきたい。

 必ず、そうなってもらいたい。また、必ずそうなっていくであろう。それが私の悲願である。私は、諸君の成長を祈りに祈っている。


【第1回未来部総会 1988-08-07 長野研修道場】


 この時、未来部のメンバーだったのは、19701981年生まれ。小説『人間革命』が連載され、「大いなる希望」が発表されたのが1970年であった。1972年から広布第二章が開幕し、1979年に七つの鐘が鳴り終えた(会長勇退)。つまり、この世代のメンバーは、1960年に池田先生が第三代会長となった時代の青年部の子供達といえよう。そして今、24〜35歳となり、最後の池田門下生ともいうべき世代に成長している。


 学会創立100周年を託す先生のはあまりにも深い。令法久住(りょうぼうくじゅう)のために、真剣勝負で未来部に語りかけている。


 この世代を立派に育て上げるることが、「青年・拡大の年」の眼目だ。現実問題として、青年部が青年部を育成することがしい時代になっていることも見逃せない。壮年・婦人は、離れた位置から、「甘い」、「駄目だ」、「なってない」などと見下すことなく、四者一体となって育成するしかない。


 信の基本はブロックや地区で教える。そして、地区部長会や支部長会、また、本部長会や執行会議などで、将軍学をしっかりと打ち込んでゆく必要がある。今までは、青年部に対して危機を募らせながらも、遠慮をして、手をこまねいていた壮年幹部が大半だった。本年は、これを打破する一年として参りたい。


 そうかといって、何でもかんでも壮婦が首を突っ込んでしまうと、青年部が萎縮してしまう。上手くメリハリをつけ、バランスを見極めないと失敗しかねない。青年部が伸び伸びと戦うことが最も大切だ。


 10年後の地区部長や支部長を育てていると自覚したい。また、学会の将来を決する覚悟で、自己の成長をもって青年部をリードしてゆきたい。

2004-09-27

世代から世代へと受け継がれる不屈の実践が令法久住


 彼らは、自分達が生きて目的地に到達できるとは期待していなかった。おそらく途中で力尽き、死んでしまうかもしれない。しかし、“中国の民を救おう”“平和な祖国を築こう”。もし自分達が倒れても、命を賭けて悔いないこの革命の理は、必ず未来の青年が受け継いで実現してくれるにちがいないと固く信じていた。

 この信が彼らの強さであった。このいで深く結ばれていたがゆえに、あの言語に絶するの長征をやり遂げ、新中国の建設を成し遂げることができた。

 いわんや世界を舞台にした“広布の長征”は、一つの世代によって実現できるものではない。世代から世代へと、広布の理と確信が受け継がれ、たゆみない不屈の実践が継承されてこそ可能となる。


【第3回全国青年部幹部会 1988-04-29 東京池田記講堂】


 ハリソン・E・ソールズベリーの『長征――語られざる真実』(時事通信社:絶版)を引用された指導。


 や運動というのは、後継者がいなくなった瞬間から死滅する運命を辿る。歴史による淘汰(とうた)は残酷なほどである。100年後に残っている運動は皆無であるに違いない。


 運動には力が要る。広宣流布の運動が開花していった暁には、文化へと飛翔する場面が必ず出てこよう。人類の黄金期がここから始まる。


 草創のを見失った時、革命のスピードは鈍る。「広布の理と確信」とは学会精神そのものである。これを継承し、鍛え上げるにはどうすればいいか?


 答えはただ一つである。誰よりも労するしかない。「なんだ、そんなことか」と言いなさんな(笑)。


 社会で、また組織で、波乱に揉(も)まれ、矛盾と格闘し、壁にぶち当たり、悶にのた打ち回る。しかも、その衷(くちゅう)をも誰一人理解してくれない。そういう状況下にあって、「広布の理と確信」を引っさげて一人立つことのできる人が、本物の後継なのだ。


 これが若き参謀室長の戦いだったのだ。無責任な理事室が表に立ってはいたが、学会の全責任を担って熾烈(しれつ)な闘争をしたのは若き先生だった。同志とて理解する人はおらず、ただ、師匠一人だけが、その闘争を見つめていた。


「広宣流布のために!」口では皆、そう語る。だが、少しばかりの組織の矛盾を知った途端、「納得できない!」「おかしいじゃないか!」「先生の指導と違う!」などと慌てふためく人々のなんと多きことよ(笑)。


 ある幹部と話し、これを痛した次第だ。本物のリーダーとは、真の孤独を知る人の異である。