Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2011-01-15

但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず


 唱法華題目抄は真蹟が存在しないものの、曽存と考えてよかろう。


 御真蹟は現存しませんが、『南条兵衛七郎殿御書』の御真蹟の三紙にわたって、その行間に、日興上人が本抄の一部を書き込まれるという珍しい形で、最古の写しが伝えられています。


「大白法」平成8年5月1日刊(第454号)】


 この御文をどう読むか?

 大半の創価学会員はこのように読んでいることと思われる。というわけで憶見、誤謬を指摘しておこう。我々は御書をありのままに読むこともできなくなっているのだ。


 尚、市丸さんは創価系ブロガーの中で最もきちんとした文章が書ける方で、広布史に関する証言は読み応えがある。少なからず私が敬意を払っている人物の一人であることを付言しておこう。


 この御文が凄いのは、日蓮が通力と利根を認めているところにあるのだ。ただし、正邪を糺(ただ)す場合は飽くまでも法門によるべきだとしている。ここでいう法門とは道理と考えていいと思う。すなわち、キャラクターよりも道理の方が重いという意味合いなのだ。


 明らかに超能力があると思われる人物を私は6人ほど知っている。「凄いなあ」と思う。でも、通力よりも目が見えることの方が不思議だ。生きていることは、もっと不思議だよ(笑)。

2011-01-13

果報にしたがつて見るところ各別なり


 今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見る也。たとえば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども果報にしたがて見るところ各々別也。此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず。肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。されば経文に云く_若有能持 則持仏身〔若し能く持つことあるは 則ち仏身を持つなり〕等云云。天台云く ̄一帙八軸四七品 六万九千三百八十四 一一文文是真仏 真仏説法衆生等と書かれて候。


【「法蓮鈔」真蹟


 今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見菩薩は種種の色と見仏種純熟せる人は仏と見奉る、されば経文に云く「若し能く持つこと有るは即ち仏身を持つなり」等云云、天台の云く「稽首妙法蓮華経一帙八軸四七品六万九千三八四一一文文是真仏真仏説法利衆生」等と書かれて候。


【「法蓮抄」創価学会版御書全集】


 空観の否定というよりは、諸法無我から諸法実相への志向を示しているように思う。そうでないと「果報主義」となってしまい、因縁が見失われる。直後の段には「上の如くすれども仏にならぬ時もあり。時に依て不定なるべし。されば天台大師は ̄適時而已と書かれ、章安大師は ̄取捨得宜不可一向〔取捨宜しきを得て一向にすべからず〕等云云」と認(したた)められている。

2010-12-22

「如説修行抄」は偽書なのか?

 私はミスター如説修行抄である。私以上に詳しい人を見たことがない。「御書に関するFAQ」で紹介した通りだ。ま、どこを質問されても大体答えることができる。


 今成氏の説を初めて知ったのは一年ほど前のこと。その瞬間「ああ、そうかもな」と思った。


 お断りしておくが、私は上記のリンク先も一瞥しただけで、きちんと読んでいない。もちろん今成氏が説く摂受本懐論には異議がある。っていうか、アプローチの仕方が拙いと思う。二者択一を強いる手法は、まるで誘拐犯の脅し文句みたいだ。「金を用意できなければ娘の命はないものと思え」。


 私が「偽書かもな」と思ったのは全く別の理由だ。実は数年前からモヤモヤと考えていた。仏が「拷問に耐えて殉教せよ」と門下に促すことがあるだろうか? 「縦(たと)ひ頚(くび)をば鋸(のこぎり)にて引き切り」という極端な例えが門下に通用したのだろうか?


 この御書は「人人御中へ」となっており、末尾にはわざわざ「此の書御身を離さず常に御覧有る可く候」と念を押している。


 迫害が必至であった一部の弟子に宛てたものであれば、それほど神経質になる必要はないかもしれない。


 だが私は、やはり日蓮が「死を促す」とは思えないのだ。真蹟に「死身弘法」という言葉は一箇所あるだけだ。


 どうせ中途半端な人生を送るなら、死と向き合えという姿勢はあってもおかしくない。人生の主導権を握ることは自由につながっているからだ。しかし「思想に殉じる」という概念は近代以降のものだろう。


 私が異臭を感じてならないのは、この御書が教団内の権力者にとって都合のいい内容になっているためだ。さしずめ「妙法の自爆テロ」「広布の過激派」といったところ。


 ファナティックな仏なんて、いるはずがないよ。

一生成仏


 真蹟に「一生成仏」という言葉は一つもない。これですっきりした。

2010-12-18

未来の苦を償う


 兄弟のように仲良くしている先輩の娘が病気になった。血球貪食症候群という病だ。知らせてくれた際に「八王子方面の学会員からレバレッジ10倍の祈りを送ってもらいたい」と真剣な口調で言われた。すかさず「よしきた、合点承知」と応じた。


 1週間ほど経過してやっと高熱が下がった。「一時は覚悟した」と先輩は語った。同居している義父が葬儀の準備をしていた、とも。いまだ予断を許さない状況ではあるが、取り敢えず脳へのダメージは防ぐことができた。


 過酷な現実に遭遇し無力感を思い知らされた時、人は祈る。その祈りは届かない。なぜなら単なる欲望に過ぎないからだ。もう一歩静かに祈り抜くと自分のエゴが浮き上がり、更に祈りが深まった瞬間、本有の病(※真蹟にこの言葉はない)と達観できる。本有は因果の解体である。


 然りと雖も宿縁の催す所、又今生に慈悲の薫ずる所、存の外に貧道に値遇して改悔を発起する故に、未来の苦を償ひ、現在に軽瘡出現せるか。


【太田入道殿御返事、1011頁、真蹟


 日蓮はこの御書の前半で「此れは是れ業が謝せんと欲する故に病むなり」という涅槃経を示した上で、このように結論している。「軽瘡」とは軽いできもののことか。


 つまり、借金を返済している(過去の業)ではなく、先行投資(未来の苦)をしているというのだ。何と見事な発想の転換であろう。時間軸を引っくり返し、病気と健康を反転させて一念の変革を促している。


 高度に発達した情報化社会は取捨選択した情報に振り回される。特に病の場合それが顕著で、ネットや書籍で調べれば調べるほど「治らない」根拠が積み上げられてゆく。こうして脳内には「治らない」という情報回路が形成される。


 ここで見逃すことができないのは「病即消滅 不老不死」という経文を紹介してはいるが、日蓮自身の言葉で「治る」とも「治らない」とも書かれていない事実である。ここにこそ仏法の真髄がある。

 所詮、将来とは過去の裏返しに過ぎない。もっと簡単に言おう。将来は「全員が死ぬ」のだ。ゆえに病気が治ったらどんな人生を送ろうかと空想に耽(ふけ)るよりも、今をどう生きるかが大事の中の大事となる。病とは「大いなる問い」そのものであろう。


 この手紙を「書は言を尽くさず。言は心を尽くさず。事々見参の時を期せん。恐恐」と締め括っている。仏法は経文や教義の中に存在するわけではない。人間と人間が向かい合い、生命と生命が交流する中で仏法は脈動するのだ。これが縁起であり、マンダラに認(したた)められた世界だ。

2009-11-19

イズムの罪〜「勝負主義」と「現証主義」について


 とは言葉である。いやちょっと違うな。訂正しよう。とは「言葉の構成」から成る。つまり、構成が変わるとは変質したことになる。「くれた」という言葉遣いを私が許さないのもこのためだ。以前から温めてきたテーマなんだが、中々発展しないので書いてしまうことにしよう。その前に以下のテキストに目を通してもらいたい――

「イズム」とは「主義」のことである。近年になって「原理主義」という言葉が出回るようになったが、原理の中に無理矢理人間を押し込む強制が嫌悪されていることが窺える。ま、「プロクルステスのベッド」みたいなものだろう。あるいは、大リーグボール養成ギブス。

 学会組織にはいつからか――実は昭和54年以降に顕著になったのだが――「勝負主義」と「現証主義」(または「実証主義」)とも言うべき価値観が横行している。私自身、多分誰よりもこれを広めた一人である(笑)。


 では、御書をひもといてみよう――


 夫れ法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞を本とせり、故にをば世雄(せおう)と号し王をば自在となづけたり(「四条金吾殿御返事」1165頁)


 大半の人が無視しているが、「本」に対して「さき」と対比する関係になっている。つまり、「さき」とは根本に対して枝葉という味なのだよ。ってこたあ、「勝負が根本ではない」という味になる。で、同じ御書にこうも書かれている――


 法と申すは道理なり(「四条金吾殿御返事」1169頁)


 じゃあ、どうして組織は「道理主義」にならないんだ? おかしいよね。「道理主義」なら個人的に一票投ずるよ。


 実はこの「勝負主義」が、「数こそ勝利」「社会的成功こそ勝利」という信仰観を生んでしまったと私は考えている。折伏、新聞啓蒙、選挙という基本的な活動はいずれも数字に追いまくられている。内容は一切問われない。いかなる形であれ(笑)、数さえ出せばオッケーだ。ここにおいて人材とは、「数字を叩き出す営マン」を味するようになってしまった。そんなわけだから、時々恐るべきインチキに手を染める組織が出てくる。選挙の投票確認は、なぜか締め切り間際に100%となる(笑)。


 聖教新聞を見よ。学会における社会的成功とは、創価の学び舎で育ち――つまり学歴としての学園、創大――一流企の管理職となるか、学究の徒となるか、中規模以上の経営者になることである。本当はそうじゃないんだけど、聖教新聞を見る限りではそうなっている。


 体験談で致命的なのは、もはや完全に「病気が治る=功徳」という図式が成り立っている点だ。このため病気が治らなかった場合、大っぴらに「敗者」と認定される。これまた、「医学レベルでの勝負主義」となっている。大聖人は、「本有の病と捉えれば、いかなる病気であろうとも、それによって不幸となることはない」と教えていなかったか?


 更に学会組織においては、故人の死相までもが厳しく判定される――

 あのね、綺麗事を言ったところで何ひとつ変わらないんだよ。だから、どんどん書いちゃうよ(笑)。大聖人は病気で亡くなっているが、これをどう考えるんだ? 戸田先生も病気だよ。牧口先生は牢獄で殺されたも同然だ。ったく、誰も何も考えちゃいないよ。馬鹿ばっかりだ(幹部の話ね)。あいつら(これまた幹部ね)が持っているのは「短い物差し」だけだ。きっと15センチ以下だとうよ。


 続いて「現証主義」――


 日蓮法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず(「三三蔵祈雨事」1468頁)


 これについて那由他楽人君が最近書いていたものが以下――

 私がもっと簡単に言おう。現証主義がまかり通れば、「利根と通力」(16頁)が正当化できるのだ。もっと明快に言おう。開目抄で御指南されている――


 智者に我義やぶられずば用いじとなり(「開目抄」232頁)


 ここで、「我義(わがぎ)」と書かれている味はあまりにも重い。を吟味する場合に優先されるべきは、「義」であって「現証」ではないのだ。


 本当は「現証主義」でも構わない。しかしそれは「成功」といった経済レベルではなく、飽くまでも生命の次元や、生の質が問われるべきであり、「の財第一」(1173頁)主義でなければならない。


 草創期にあって「貧乏人と病人の集まり」と馬鹿にされながらも、無の勇者は堂々たる折伏を繰り広げた。「お前が満足な家に住めるようになってから出直して来い!」、「子供の病気を治してから偉そうなことを言え!」と罵(ののし)られ、蔑(さげす)まれ、塩をまかれ、唾を吐きかけられながらも、人々の幸福のために邁進(まいしん)した。このような偉大な庶民が、歯を食いしばって歩きに歩き、涙を流しながら走り抜き、傷だらけになりながらも飛翔したがゆえに現在の創価は築かれたのだ。


 はっきりと書いておこう。公明党が政権与党入りしてから、学会は草創の精神を見失った。その最大の理由は、運動にかまけて勉強しなくなったからである。学会における教学とは、「教学試験に合格するため」のものであって法研鑚とは無縁だ。そして試験の合否が再び、勝負主義・現証主義となっているのだ。


 法とは人間主義のことである。法を狭い枠に押し込め、人間主義を低い次元へ誘導する一切の主義を私は否定する。


 の行き詰まりが、信仰の行き詰まりとなっていることを銘記されよ。あとは自分で考えてくれ。

2009-11-18

観心とは

 祝創立記日。私の入会記日でもある。そこで本日は出血大サービスだ。子供達に語ったクリシュナムルティの講話によって、私は初めて「観心本尊抄」の味がわかった――


 摩訶止観第五に云く〔世間と如是と一なり開合の異なり〕

「夫れ一に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千一念に在り若し無んば而已介爾有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可議境と為す此に在り」等云云〔或本に云く一界に三種の世間を具す〕(※小文字の箇所を〔 〕で括った)


【「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」238頁】


順応と反逆


 君たちは目を閉じて、とても静かに坐り、自分の思考の動きを眺めたことがありますか。自分の心が働いているのを眺めるというか、心が作動している自分を眺め、自分の思考は何か、感情は何か、どのように木や花や鳥や人々が見えるのか、どのように提案に応答し、新しい考えに反応するのかをただ見たことがありますか。やってみたことがありますか。やったことがなければ、君たちはとても多くのことを逃しています。自分の心の動きを知ることは、教育の基本的な目的です。自分の心の反応を知らないで、心が自分の活動に気づいていなければ、社会とは何かを決して見出せないでしょう。君たちは社会学の本を読み、社会科学を研究するかもしれません。しかし、自分の心の働きを知らなければ、社会とは何かを実際に理解できません。なぜなら、君の心は社会の一部だからです。【それ】こそが社会です。君の反応、信念、寺院に行くこと、着ている服、することとしないこと、考えること――社会はこのすべてからできていて、それは君自身の心で起きていることの複製です。それで、心は社会を離れてはないし、君たちの文化、宗教、さまざまな階級差別、大勢の人々の野心や葛藤の他にはありません。このすべてが社会です。そして、君はその一部です。社会の他に「君」はいないのです。

 そこで、社会はいつも若者の考えを制御しよう、形作ろう、型にはめようとしています。君たちが生まれて、物心ついた瞬間から、お父さんやお母さんは君たちに、何をすべきで、何をすべきでないのか、何を信じて、何を信じるべきでないのかを絶えず教えています。君たちは神がいるとか、神ではなくて国家があり、ある独裁者がその預言者である、と教わります。君たちは子供のときから、これらのものごとを注ぎこまれます。それは、君たちの心が幼なくて(ママ)影響を受けやすく、探求したがり、知りたがり、見出したがっているのに、その心がしだいに固まり、条件づけられ、形作られて、そのために君たちは特定の社会の型に合わせるようになり、革命家ではなくなるということなのです。君たちには型にはまった思考の習慣がすでに確立されているので、たとえ「反逆」するにしても、それはその型の中でのことなのです。それは囚人が良い食事や多くの設備を得るために反逆するようなものですが、いつも監獄の中なのです。君が神を求めたり、正しい政治とはどういうものかを見出そうとするときにも、それはいつも社会の型の中にあり、その型が「これが本当で、あれはまちがっている。これが良くて、あれは悪い。これが正しい指導者で、これらが聖人だ」と言うのです。君たちの反逆は、野心的でとても利口な人たちのもたらした革命なるもののように、いつも過去によって制限されています。それでは反逆ではないし、革命ではありません。それは単に、型の中での高揚した活動、より勇敢な闘いにすぎません。本当の反逆、真実の革命とは、型を破ってその外で探究することなのです。

 改革者は――それが【誰】であろうと問題ではありません――みんな単に監獄内の条件改善に関心を持っているだけでしょう。彼らは君たちに、順応しないようにとは決して言わないし、「伝統と権威の壁を破りなさい。心を捕えている条件づけを振り捨てなさい」とは決して言いません。しかし、それが本当の教育です。君たちがそのために詰めこみ勉強をした試験に受かったり、暗記したものを書き出すことを要求するだけではなく、心が捉われている監獄の壁が見えるように助けるのです。社会は私たちすべてに影響を与えるし、絶えず私たちの思考を形作ります。そして、この外からの社会の圧力が、しだいに内部として解釈されるのです。しかし、それはどんなに深く浸透しても、やはり外からです。そして、この条件づけを破らぬかぎり、内面というようなものはありません。君たちは、自分が何を考えているのか、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒として、つまりたまたま属している宗教に立って考えているのかどうかを知らなくてはなりません。自分が何を信じていて、何を信じていないのかを、意識しなくてはなりません。このすべてが社会の型なのです。その型に気づいて、それを離れなければ、自分では自由だと考えようとも、やはり囚人であるのです。

 しかし、私たちのほとんどは、監獄内の反逆に関心を持っているでしょう。私たちは、より良い食事やいま少しの明かり、もう少し空が見えるような大きめの窓をほしがります。カースト外の人たちが寺院に入ってもいいとか、いけないとかに関心を持っています。特にこのカースト制度を倒したいと思っても、一つのカーストを倒す最中に、もう一つの「優れた」カーストを生み出してしまうのです。それで、囚人のままなのです。監獄の中に自由はありません。自由は壁の外、社会の型の外にあるのです。しかし、その型から自由であるには、その内容全体を理解しなくてはなりません。それは、自分の心を理解することなのです。現在の文明や、この伝統に縛られた文化、社会を生んだのは心です。それで、自分の心を理解せず、共産主義者、社会主義者、あれやこれやとして単に反逆するだけでは、ほとんど意味がありません。それで、自覚を持ち、自分の活動と思考と感情のすべてに気づいていることが、とても重要であるわけです。そして、これが教育でしょう。なぜなら、充分に自分に気づいているとき、心はとても敏感で、とても機敏になるからです。

 やってごらんなさい――遠い未来のいつの日かにではなく、明日か、この午後に。部屋にあまりに多くの人がいたり、家がいっぱいならば、そのときは自分一人で出てゆき、樹の下や河岸に坐って、自分の心の働くようすを静かに観察するのです。働くようすを訂正せずに、「これは正しい。あれはまちがっている」と言わずに、映画でも見るようにただ眺めなさい。映画館に行くとき、君は映画に出演はしていません。男優と女優が出演していて、君はただ眺めているだけです。同じように、心の働くようすを眺めなさい。それは本当に興味深くて、どんな映画よりもはるかに興味深いのです。なぜなら、心は世界全体の残滓であり、人間の経験してきたすべてを保持しているからです。理解できますか。君の心は人類です。そして、このことを知覚するとき、君は無量の慈悲を持つでしょう。この理解から大いなる愛が出てきます。そのとき、美しいものを見るとき、君は美しさとは何かを知るでしょう。(※強調点の箇所を【 】で括った)


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 又云く「故に止観の正しく観法を明かすに至つて並びに三千を以て指南と為す乃ち是れ終窮究竟(しゅうぐうくきょう)の極説なり故に序の中に「説己中所行法門」と云う良に以所有るなり請う尋ね読まん者に異縁無れ」等云云。(238-239頁)


 問うて曰く出処既に之を聞く観心如何、答えて曰く観心とは我が己を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界百界千如一念三千を知らざるなり。(240頁)


 数(しばし)ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋(いか)り或時は平に或時は貪(むさぼ)り現じ或時は癡(おろか)現じ或時は諂曲(てんごく)なり、瞋るは地獄貪るは餓鬼癡は畜生諂曲なるは修羅喜ぶは天平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し。(241頁)


→「自分のの反応」


 所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず末法の初は謗法の国にして悪機なる故に之を止めて地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う、又迹化の大衆は釈尊初発の弟子等に非ざる故なり、天台大師云く「是れ我が弟子なり応に我が法を弘むべし」妙楽云く「子父の法を弘む世界の益有り」、輔正記に云く「法是れ久成の法なるを以ての故に久成の人に付す」等云云。(250頁)


地涌の菩薩は、「伝統と権威の壁」「を捕えている条件づけ」という大地を割って出現した。


 経に云く「余のを失える者は其の父の来れるを見て亦歓喜し問訊して病を治せんことを求むと雖も然も其の薬を与うるに而も肯えて服せず、所以は何ん毒気深く入つて本を失えるが故に此の好き色香ある薬に於て美からずと謂えり乃至我今当に方便を設け此の薬を服せしむべし(251頁)


→「毒気深く入つて」監獄を六道輪廻


 伝教大師云く「此の法華経は最も為れ解なり随自意の故に」等云云、夫れ在世の正機は過去の宿習厚き上教主釈尊多宝十方分身の諸地涌千界文殊弥勒等之を扶けて諌暁せしむるに猶信ぜざる者之れ有り五千席を去り人天移さる況や正像をや何に況や末法の初をや汝之を信ぜば正法に非じ。(241頁)


→「本当の反逆、真実の革命」であるがゆえに、爾前教という既成概に囚われた五千人の増上慢には理解できなかった。


 当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。(254頁)


→これが「真実の革命家」の姿。折伏とは「反逆」のことである。


 一念三千は情非情に亘る(239頁)


 金■(金+卑/ぺい)論に云く「乃ち是れ一草一木一礫一塵各一各一因果あり縁了を具足す」等云云。(239頁)


 天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか。(254頁)


→「天晴れぬれば」森羅万象の諸法にありのままの実相を見出すことができる。万物のが光り輝く荘厳な世界が出現する。


 追伸――友岡さんと行き来のある方がいらっしゃったら、以上の内容をコピーしてお送り願いたい。

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2009-11-10

観心の長者から業を考える


 少し長いがしっかり読んでくれ給え――


一有大長者の事 仰に云く此の長者に於いて天台大師三の長者を釈し給えり、一には世間の長者二には出世の長者三には観心の長者是なり、此の中に出世観心の長者を以て、此の品の長者とせり、長者とは釈迦如来の事なり、観心の長者の時は一切衆生なり、所詮法華経の行者は男女共に長者なり、文句の五に委しく釈せり、末法当今の長者と申すは日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり、されば三の長者を釈する時、文句五に云く、二に位号を標するに三と為す、一は世間の長者二は出世の長者三は観心の長者なり、世に十徳を備う、一には姓貴二には位高三には大富四には威猛五には智深六には年耆七には行浄八には礼備九には上歎十には下帰なり云云、又云く、出世の長者は、は三世の真如実際の中より生ず、功成り、道著われて、十号極り無し、法財万徳、悉く皆具に満せり、十力雄猛にして、を降し外を制す、一の三智通達せずと云うこと無し、早く正覚を成じて、久遠なること斯くの如し、三智に随つて、運動して失無し、威儀を具して、大なること海の如し、十方の種覚共に称誉する所なり、七種の方便而も来つて依止す、是を出世の大長者とく、三に観心とは、観心の智実相より出で生じて家にあり、種真正なり、三惑起らず、未だ真を発さずと雖も是れ如来の衣を着れば、寂滅忍と称す、三諦に一切の功徳を含蔵す、正観の愛見を降伏す、中道双べ照して権実並に明なり、久く善根を積みて能く此の観を修す、此の観七方便の上に出でたり、此の観心を観ずるを上定とくれば、即ち三過無し、歴縁対境するに威儀失無し、能く此くの如く観ず、是れ深信解の相諸皆歓喜して持法の者を歎美したもう、天竜四部恭敬供養す、下の文に云く、子是の地に住すれば、即ち是れ受用し給い、経行し及び坐臥し給わんと、既に此の人を称してと為す、豈観心の長者とけざらんやと此の釈分明に観心の長者に十徳を具足すと釈せり、所謂引証の文に、分別功徳品の則是受用の文を引けり、経文には子住此地とあり、此の字を是の字にうつせり、経行若坐臥の若を及の字にかえたり、又法師品の文を引けり、所詮子とは法華経の行者なり、此地とは実相の大地なり、経行若坐臥とは法華経の行者の四威儀の所作の振舞、悉くの振舞なり、我等衆生の振舞の当体、の振舞なり、此の当体のふるまいこそ長者なれ、仍つて観心の長者は我等凡夫なり、然るに末法当今の法華経の行者より外に、観心の長者無きなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者、無上宝聚不求自得の長者に非ずや、既称此人為の六字にを留めて案ずべきなり云云。(「御講聞書」818-819頁)


 創価学会では「御講聞書」が軽んじられている。「御義口伝」と比較しての話だ。内容もさることながら、日向が書いたものだからというのが大きい理由だとわれる。少々踏み込んだことを書いておくと、日蓮大聖人が日興上人に対して血脈相承をしたという歴史的事実はない。富士門流には二箇相承が伝えられているが、これを鵜呑みにしているのは富士門流だけである。大聖人が逝去する直前に行ったのは六老僧を定めた(弘安5年108日)ことのみで、その後で日興上人だけエコヒイキするとは考えにくい。


 ここのところ観心について考えている。あるインド家の著作に触れたのがきっかけとなった。「観心って、勤行唱題のことだろ? 観心の本尊は信の本尊ってことだよな?」――その通り。そして、そこで学会員の考は停止している。永遠に停止したままだ(笑)。


 字義の通りに考えると、観心は「を観る」ことになろう。実に不議な符合であるが、「開目抄」というタイトルも「見る」ことがテーマになっている。ってことはだよ、凡夫には見えてない世界があるってことになるわな。で、信してから果たして「見える」ようになったのか? ウーーーム、なったような、なっていないような……(笑)。


 実際は見てないね(←断言)。我々が見ているのは短くなりつつある線香や時計、あるいは前が記入されていない啓蒙用紙や成果のグラフだ。


 御本尊は明鏡に喩(たと)えられるが、我々の目の焦点はいつも定まっていない。鏡に付着したゴミを眺めているようなじだろう。


 本題に入ろう。人間を形成しているのは癖や習慣であり、その集積が(ごう)である――私は今までこう考えてきた。つまり、身口のバランスシートといっていいだろう。ただ、この考え方でいくと、一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がることの多い人生だと、いつまで経っても負債が減らないことになりはしないか? っていうか、利子が嵩(かさ)みそうな気になる。


 大聖人は長者に三種類あると説かれている。世間の長者、出世間の長者、そして観心の長者である。とすると、同じ善でも三つの段階があると考えられる。これを私は、足し算の長者、掛け算の長者、そして2乗の長者と受け止める。


 出世の長者は「三智に随つて、運動して失無し」だから、何をやってもリズムに乗ったように上手くゆく。そして観心の長者は「三過無し、歴縁対境するに威儀失無し」となっている。しくてよくわからん。でも、出世の長者よりは凄そうだ。


 結論を述べよう。私が考えるに、努力から習慣へと移行することは望ましいと多くの人が信じているが、実は結果的に「習慣の奴隷」となり、単なる惰に陥る危険がある。そこに沸き立つような歓びはない。信が歯磨きレベルになってしまうのだ。やらなくていいと言っているわけではないからね(笑)。


 観心という次元で振り返ってみよう。私は己を観じていない。今静かに見つめてみると、そこには希望や願望や欲望しかないようにじる――そうか、餓鬼界だってわけだな。


 折伏にしても同様だ。相手の幸せと自分の成果とは紙一重の違いである。観心とは、こうしたの微妙な動きを自覚することなのだろう。生命は一念三千という帯域で動き回る。そこをただひたすら見つめる。理由や味すら考えないで見つめ続ける。虫眼鏡で拡大し、スローモーションで映し出すように見つめる。すると、因果を超える瞬間が訪れる。これが直達正観(じきたつしょうかん)であり速疾頓成(そくしつとんじょう)だとう。「言語道断の経王心行所滅の妙法なり」(465頁)。


 その昔、わら一本で長者になったジイサンがいた。我々は信心一筋で長者となるのだ。


 私見に過ぎないから、あちこちで紹介するんじゃないよ。