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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2009-04-23

社会的成功


 功徳が社会的成功を味するようになってから、組織の序列は信以外の何ものかに変わった。それ以降、成果主義とは組織内における社会的成功を味するようになった。私はこれを“法の資本主義化”とづける。矮小化された教義はわかりやすいが、法の豊かな精神を奪い去った。そして、数字だけが求められた。人材は皆、広布の営マンと化した。人間よりも力が幅を利かせた。組織は人柄のいいのび太よりも、結果を出せるジャイアンを求めた。また、わしい成果を出せない組織はドラえもんを求めた。ポケットから出てくるのは啓蒙用紙だ(ニヤリ)。


 真の功徳は言葉にならない。これを「妙」と称する。功徳とは競うべき質のものではないのだ。御書に云く、「一生はゆめの上明日をごせずいかなる乞食にはなるとも法華経にきずをつけ給うべからず」(1163頁)と。大聖人は「乞食(こつじき)」になることを容認されている。「乞食」になることが謗法とは一言もいっていないのだ。つまり、乞食=法華経に傷をつける、という構図になっていない。であるがゆえに、たとえホームレスになったとしても、功徳を引き出すことは可能である。ま、聖教新聞の記事にはならないだろうけどね(笑)。本当の功徳は、自分と御本尊だけが知ればいい世界だ。

2006-11-21

功徳論


 功徳に関する私見を述べ、問題提起としたい。


 蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財よりの財第一なり、此の御文を御覧あらんよりはの財をつませ給うべし(1173頁)


 学会員であれば、誰もが知る御聖訓の一つである。とは言うものの、活動報告でまかり通っているのは、「蔵の財」が大半だ(笑)。「の財」は評価の対象にすらなってない気がする(笑)。


 広布部員の季節になると決まったように、幹部という幹部が極めて特異な体験やエピソードを次々と紹介する。「不議な収入シリーズ」だ(笑)。特に婦人部の会合は、こんな話で持ち切りだ。


 いあまった老婦人が呟いた。「今、生活が本当に大変なの。だから、どうしても功徳が欲しいので、財務を頑張ろうとう」と。私も若い頃は似たような考えをもっていた。「万馬券より堅い」「生命保険より確実だ」などと後輩に指導しまくった(笑)。


 ちょっと冷静になって考えてみよう。ここで言う功徳って何だろう? それは「蔵の財」である。つまり、供養が“投資”になってしまっているのだ。私の場合は、「ギャンブル供養」(笑)。


 これは、おかしい。大聖人に対して、海苔(のり)や餅、はたまた米や金銭を供養した弟子が、果たして功徳目当てで行っていたであろうか? 断じてそんなことはない。供養とは「喜捨」の精神で行うべきものだ。


「蔵の財」に執着するのが人の常である。それを「喜んで捨てる」こと自体が、貪欲(とんよく)から離れた行動であり、これ六根清浄である。


 功徳とは六根清浄の果報なり(762頁)


 志が欲に負けてしまえば、「餓鬼財務」と堕すことを戒め合いたい。


 また、闘争の目的が、功徳=蔵の財を目指すものとなれば、精神や人間革命を伴わない「強欲な動機」が原動力となってしまう。これでは、煩悩煩悩だ(笑)。


 信即生活であれば、無理をする必要はない。また、つまらぬ見栄を張れば、真が失われてしまう。自らの決のままに、自由に行うべきであろう。


 その上で、以下の供養の品々にいを馳せて頂きたい――


「白米一だ」(1561頁)、「十字六十枚清酒一筒薯蕷五十本柑子二十串柿一連」(1562頁)、「僧ぜん料米一たはら」(1563頁)、「はくまいひとふくろいも一だ」(1566頁)、「鵞目両ゆひ白米一駄芋一駄すりだうふ(摺豆腐)こんにやく柿一篭ゆ五十等云云」(1568頁)、「しら牙二石並びにいものかしら一だ」(1573頁)、「鵞目一貫文」(1574頁)、「聖人(すみざけ)ひとつつひさげ十か十字百あめひとをけ二升か柑子ひとこ串柿十くし」(1575頁)


 いずれも南条時光供養した品で、弘安2年の末から弘安4年の正にかけてのものである。弘安2年といえば時光は数えで21歳。熱原の法難に際し、日興上人の陣頭指揮のもと、師子奮迅の大闘争を展開した。これによって弾圧が始まり、重税を課せられることとなった。権力者による兵糧攻めといってよい。時光一家の生活はといえば、「身はのるべき馬なし妻子はひきかくべき衣なし」(1575頁)という有り様だった。その中でこれだけの供養をしているのだ。信の志なくしてできるものではない。


「師を守らずにおくものか!」――時光の轟くような叫びが、700年を経ても尚、私のを鞭打つ。

2005-09-29

小さな行為に大いなる功徳が


 一日の仕事を終え、遠路、駆けつけてくださった諸君である。中には、疲れている方もあろう。本来なら、もっとゆっくりと、食事をしたり、少々休憩をとってからともうが、会場や時間の都合でそうもいかず、気の毒ないでもある。

しかし、そのような中、広布の集いに参加することが、いかに素晴らしいことであるか。

法華経随喜功徳品第十八」には、次のような一節がある。

「若し復人有つて講法(こうぼう)の処に於いて坐せん。更に人の来ること有らんに、勧めて坐して聴かしめ、若しは座を分かつて坐せしめん。是の人の功徳は、身を転じて帝釈の坐処、若しは梵天王の坐処、若しは転輪聖王の所坐の処を得ん」(『妙法蓮華経並開結』535頁)

 ――もし、ある人が妙法の説かれる場に座し、更に後から来る人があれば、席を勧めて法を聞かせてあげ、また、自分の席を譲り分かって一緒に座らせてあげれるならば、その功徳によって、この人(席を勧めるなどした人)は、未来世におい帝釈天の座る場所、あるいは梵天王の座る場所、転輪聖王の座る場所を得ることができる――と。

 妙法を信じ、広宣流布のために行動しゆくならば、福徳を重ね、まさに王者の境涯と使命を得ることができるとの経文である。折伏に励み、大御本尊まします総本山に、ともに参詣することはもちろん、友と広布の集いに一緒に出席する。また、そうした人々を、創価班、牙会、白蓮グループ等の方々が、「ようこそ」と真の笑顔で迎えることなども、この経文に説かれた義に通じていこう。

 このように、日々の地道な活動の中で、実は計り知れない功徳が我が身に積まれているのである。そして、生々世々、今世の姿からは像もつかないほどの大福徳の境涯で生まれ、数多くの同志を悠々と守れるような立場となって、正法のために働いていくことができる。その限りない連動の中で、広宣流布は全地球上に壮大に展開していく。


【第14回全国青年部幹部会 1989-04-25 創価文化会館


 人間関係を疎(うと)ましくじる人々が多くなった頃に、ジュリーこと沢田研二が吐いた言葉が、「小さな親切、大きなお世話」。


 縁起を説く法で、この考え方は通用しない。「小さな親切、大きな功徳」だよ(笑)。


 幸福とは“価値の追求”であり、価値とは関係の中に生じるものである。これが牧口価値論の骨子。


 依正不二とは、自分と環境が密接不可分な関係であり、環境に振り回されることもあれば、環境を動かしてゆくこともできるという生命論。法では、環境や相手は、自分を映し出す“鏡”と捉えている。それも、“個人”という概ではなく、“生命の我(が)”という観点からである。


 一代の肝法華経法華経の修行の肝は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ(1174頁)


「振舞」とは、社会や人に関わる行動のこと。他者へのが深ければ深いほど、自分の振る舞いが価値を生み、幸福な関係となる。愛し合う二人の如し(笑)。


 牙会メンバーは、聞くところによると来世は門のついた家に生まれるそうだ。我々創価班は、「ケッ、俺達は守衛つきの家に生まれようぜ」と軽口を叩いたものだ。


 小さな善行が生命を清らかで逞しくしてゆく。会館で小さなゴミを見つければ直ぐに拾い、トイレを出る時は全てのスリッパを揃えることを、私は常としている。

2004-12-13

求道心に功徳が薫る


 信の世界は、積極的に求道精神をもって実践した時には、功徳を受け向上してゆく。反対に受け身の場合には、なんとなく圧迫や抵抗をじて、激がなくなり、功徳も受けられず惰に流されてしまう。

 全て自分のためであると確信して、活動してゆく積極が真実の道修行である。

 根本的には、御本尊を持(たも)ったということが、最高の積極である。釈尊時代の迦葉(かしょう)、阿難でさえ、を恐れて末法に出現できなかった。信した以上、消極的だからと悩む必要はない。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 世間とは世界と同法上では差別の義と説かれる。ここでいう差別とは“人種差別”などの味ではなく、本質的な差異・相違のこと。


 信している人としてない人の違いは何か? 人によって様々な見があろう。私の場合、信してない期間が生後4ヶと極めて短かったため、記憶が定かではないが、まあ大体の像はつく(ニヤリ)。


 信してない人の幸福とは、世間に認められることであろう。顔やスタイルの美醜に始まり、仕事の成功、地位、誉、財産、仲睦まじそうな家族、互いの見栄を認め合う友人達、とでもいったところか。こういう人は、自分の外側にあるもので我が身を飾ることが幸福だと勘違いしていて、ともすると、数多くの宝石を身にまとっている薄気味悪い婆さんのようになりがちだ。その眼差しは常に外へ外へと向かい、自分自身を深いところから見つめ直す作が全くない。


 翻って我々学会員はどうか? まあ、学会員ったって色々いるからねえ(笑)。決定的な違いは、我々は功徳の世界に生きてることである。人生や生活の中で、生命に功徳じては謝を捧げ、を自覚しては生き方を見つめ直し、再び決を深くする。日常の些事(さじ)からも人生を省察し、一事ある時は、今こそ使命を果たさんと自分の限界を打ち破り、新たな生命の大地を開拓する。日常の小さな営みは社会の改革に直結し、人間と人間の絆を深めゆく語らいは、互いの人生をよりよい方向へと誘(いざな)う。ま、いいことずくめってこった(笑)。


 そうであれば、いたずらに自分を卑下する学会員は信が弱いと言わざるを得ない。他人と比較して落ち込んだり、浮かれたりするような視線は、真っ直ぐに御本尊を見つめることができないだろう。が衆生を見る時、役職やキャリアは考慮されないことを知るべきだ。釈尊の十大弟子も、決して序列を示したものではなく、それぞれの弟子が自分の個を開花しきった姿を現したものであろう。


 然る間(みな)を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一に納めたる功徳善根なりと信を取るべきなり(383頁)


 前にシキミを捧げ、線香を焚(た)いても功徳がある。学会活動は妙法を讃嘆し、宣揚する儀式であるから、会合で拍手をしただけでも功徳があるのは当然だ。会館のトイレでスリッパを並べても功徳があるし、後から来た人のために前へ詰めただけでも功徳がある。会合に遅れそうになって、駆け足なんぞで行った暁にはどれほどの功徳があるか計り知れない。これは冗談でも何でもないよ(笑)。


 ところが現実には、選(え)り好みをしたり、消極が顕著になる場面があったりする(笑)。最近、目につくのは、会場の正面真ん中に座ることを避け、やたらと壁際に座ろうとする人が多いことだ。まるで何か隠し事でもあるのか、とにかく中者や幹部の視線を避けようと頑張ってらっしゃる(笑)。こうした行為に悪はなかったとしても、消極が消極を呼び、全軍の呼吸を乱す結果となりかねない。大聖人は、功徳善根は「我が一に納めたる」と仰せだ。他人の顔色を窺っている内は、功徳の実は乏しくなるのが当然だ。


 小さな勇気が積極を築く。一度、勇気を出してしまえば、同じことがわけもなくできるようになるものだ。何はともあれ、信の世界における遠慮は不要だ。

2004-09-25

信心の功徳


 信功徳とは、生命の境涯を限りなく深め、高めていくことともいえる。


【第3回全国青年部幹部会 1988-04-29 東京池田記講堂】


 功徳とは六根清浄の果報なり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり、されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳有るなり、功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり、法華経の説文の如く修行するを六根清浄と得可きなり云云(762頁)


 一番多いのは、役職が変わらなくなってから数年経つと、全く成長しなくなるタイプ(笑)。そこここにいますな。


 日日につより給へすこしもたゆむあらばたよりをうべし(1190頁)


 御書に背くを謗法とは申すなり。つまりだ、日々、々、年々に信が強くなっていかなければ謗法となるのだ。進まざるは退転である。戦わざるは敗北である。過去にどれほどの栄光があろうとも、信の深化が止まった瞬間から、生命は澱(よど)み始め、退転の坂道を転げ落ちてゆくのだ。


 先生自らが示して下さっている偉大なる人間革命の姿は、人間の境涯がどこまでも拡大してゆけることを教えて下さっている。さればとは、無限の向上であり、挑戦であり、前進し続ける生命の異であろう。


 そのためには、いまだかつてない壁を打ち破り、いまだかつてない山を登攀(とうはん)するしかない。過去に登った山には、充実と満足がない。より高い山頂を目指せば、そこには、経験したことのない悩があり、疲労があり、労がつきまとう。経験したことがない故に臆病の命も出てこよう。だからこそ登り切った時には、納得があり、満足があり、躍動があり、歓喜があるのだ。


「今まで戦ってきた中で、今ほど戦ったことはない」と常に断言できる人生でありたい。

2003-09-13

便利さが功徳を奪う


 ここにアップしている文章をどのように利用して頂いても一向に構わないのだが、できれるだけ慎重な姿勢でお願いしたいとう。これは他サイトについても同様だが、特に古い指導に関しては取り扱いに注が必要。会合などでネット情報を紹介する場合は、事前に先輩の見を聞いておくべきだ。


 というわけで本題に入るが、安易なコピーは戒め合いたい。


7.5Hz怪文書騒動に思う」にあるように間違った情報が安易なコピーによって組織に氾濫(はんらん)すれば、与同罪を受けてしまうからだ。


 考えるとつくづく便利な時代になったものだ。書類はコピーやファクシミリで簡単且つ正確に渡すことができるし、携帯電話やパソコンなどによって、離れた位置からでも報告を入れることが出来るようになった。


 しかし、便利さが功徳を奪っているのも、また確かだろう。昔は、報告となると拠点まで走る姿があった。今はどうだろうか――。


 草創の大先輩を見よ。東京にあっては隣接する県まで自転車をこぎ、たった一人のために激励の手を差し延べていた。自分自身が貧乏と病気に喘(あえ)いでいるにも関わらずだ。


「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」(329頁)である。楽な修行などあり得ないし、成への近道など存在しない。記録に挑むスポーツ選手や、自立した生活を目指すリハビリ患者が、楽をしようするだろうか? ましてや、一生成という無上道を歩む我々である。


 世界の同志は、あらゆる困を乗り越えて道を切り開いている。会館まで数日間を要する地域にいる方々も多いことだろう。そうした環境下で、御書を研鑚し、スピーチを学び、弘教に汗する同志の存在を忘れてはならない。SGI総会に集ったメンバーの眩しい笑顔の裏には、数えきれない悩と呻吟(しんぎん)があることを知らねばならない。