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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2007-12-17

激闘の人生に真の幸福が


 さて、「幸福観」について一言述べておきたい。

「人生の幸福」といっても、もちろん人によって様々なイメージがある。それぞれの価値観により、幸福像は大きく異なるものである。

 ただ平穏無事に過ぎる一生を「幸福」とする人も少なくない。ひたすら、「安定」と「快適」を求め、そこに人生の価値を見出す。描かれる幸福像は、例えば「何も困ったことが起きない生活」(笑い)であり、「夫婦で手をつなぎ“カフェ”に入る」(笑い)光景であろうか。

 一見、いかにも「幸福」にえるかもしれない。しかしそこには本当の「深み」も、人生の「味わい」もない。

 それに対し私どもの広布の旅路には、さながら劇の如く次から次へと試練の嵐が来る。悩の高波もある。悪の突風が吹く。しかし、それらに耐え、戦い、乗り越えてこそ、自身の深まりと充実があり、向上がある。人と人との信頼が生まれ、絆が強まる。つまり、人生の確かな「価値」が創造され、花開いてゆく。


【第9回全国婦人部幹部会 1989-11-29 創価文化会館


 この指導を婦人部のEさんに捧げよう。


 彼女から初めてメールをもらったのが4のこと。新入会とのことで、悩みを打ち明けるまでに随分とためらいもあった。のた打ち回るような悶の中で、ひと以上考える時間を要した。あらいざらいを打ち明けたのは、1ヶ半後のこと。


 私はやきもきしながら、手厳しいメールを手裏剣の如く放ち続けた。事態に一区切りついたのは8だった。ところが、任用試験に挑戦している最中に、全く別の問題に遭遇した。新入会のメンバーにとってはあまりにも過酷な状況だった。


 しかし彼女は、戦って、戦って、今も尚戦い続けている。その中で任用試験に勝利し、何と一昨日、妹さんの折伏を決めた。御守りじゃないよ。私はわず、パソコンの前で万歳を叫んだ。


 一時は自殺まで考え、自分の悩みを打ち明けることすら出来なかった彼女が、悩める人のために行動している現実は、見事な人間革命の姿である。モロボシ・ダンがウルトラセブンに変身したようなもんだよ。私はM72星雲から見守るウルトラの父だ(笑)。


 平穏無事な時に望む幸福は、所詮「淡い期待」に過ぎない。自分に都合のいいことばかりで、欲得づくの内容である場合が多い。一方、の中で鍛え抜かれた幸福観は、人生の真実の姿をくっきりと浮き彫りにする。


 真の幸福とは、「恵まれた環境」ではない。冬の酷寒に耐え、打ち破っていくことができる生命力そのものにある。


 法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる(1253頁)


【※追伸/私に相談メールが来た時、Eさんは既に御本尊を支部長に返却していた】

2007-09-22

幸福には「強さ」が必要


 幸福には「強さ」が必要である。勝利には「強さ」が不可欠である。個人も家庭も、団体や国家も、強くまた強くあってこそ、堂々と胸を張って幸福と繁栄の道を進める。弱ければ惨めである。

 強い人のみが、人々を守ることもできる。自分も楽しい。皆も安である。弱さは後退と敗北に通じる。頼りないリーダーには人もつかない。子を守りゆく使命も果たせない。

「道理」の上に立っての透徹した「強さ」。そこに信の表れもある。真実の信仰者の姿がある。学会も、経文と御書の仰せのままに、何ものも恐れず、「強く」「賢明に」戦ったからこそ“奇蹟”ともいわれる発展を実現できたのである。


【栃木県記勤行会 1989-09-18 栃木研修道場


「弱い」というだけで損をする。弱さそのものが不幸ともいえる。強くなるためには、鍛えることである。


 きたはぬかねはさかんなる火に入るればとくとけ候、冰をゆに入るがごとし、剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず是きたへる故なり、まへにかう申すはきたうなるべし(1169頁)


 10kgほどの鉄の塊が、熱せられ、叩かれ、冷やしてはまた焼きを入れる。これを何度も繰り返すことによって、1kgほどの刀となる。ということは、不純物が90%もあることになる。我々だって、そんなもんだろう(笑)。


「不利な立場になることを避ける」「出る杭は打たれるからなあ」――これ、まさしく不純物である。根っこにあるのは、「自分さえよければいい」とする保身根だ。「身を保つ」ために平然とを死なせる。羊千匹グループに共通する質である。


 上の幹部と喧嘩のできないリーダーは革命児たり得ない。師のを見失った組織人など必要ない。有能な事務方を求めているのは“職場としての学会本部”であって、先生も会員もそんな人物は求めていない。


 私の先輩は一人の後輩を守るために、分区男子部長を率いて、時の男子部長に土下座したことがある。その事実を私は後で知った。後輩というのは、同じ部で戦ったメンバーだった。私はで泣いた。何とありがたい先輩だろう、と。


 その先輩は、学会本部で男子部長の机を蹴飛ばしたこともある人だった(笑)。


 これが私を育ててくれた先輩だ。私も同じ道を歩む。

2006-12-18

知恩・報恩の道こそ、幸福の道


 法は、が根本である。を忘れた人間が、真に人間らしく生きることはできない。

 また、や信義を忘れ果てた社会は、絶対に幸福な社会にならない。

 法者の眼から見れば、というものを知らないがゆえに、どれほど多くの戦争が起こっていることか。

 知らずの振る舞いが、結果的に悲惨な争いを引き起こす。

 を知る。そしてを奉ずる──この知・報の道こそ、幸福の道である。平和の道である。

 ゆえに、を忘れ、人間社会を乱す「不知の輩」とは、人間として、法者として、決然と戦わなければならないのである。


【盂蘭盆の義を語る 2006-08-06 長野研修道場


 二乗菩薩の決定的な違いは、“利他”の行動にある。釈尊が再三にわたって「二乗は成できない!」と弾呵(だんか)したのも、“利己”の壁を打ち破れなかったためだ。


 菩薩は、自分の幸福を追い求めない。四弘誓願にあるのは一切衆生を救わんとする大情熱(衆生無辺誓願度)だ。そこには、「たとえ、我が身はどうなろうとも、衆生救済にこの身を捧げます!」という師への誓いが込められている。


 菩薩が勇猛果敢に行動するのは、“”に報いるためである。人間はデタラメな動物だ。ともすると、自分にとって都合のいいことをしてもらわないと、中々じないものだ。を知るには、「を開く」必要がある。不満の虜(とりこ)となって、別の環境を望むような人は、その時点でエゴに負けているのだ。


 今一度、祈りを切り替えてみよう。「こうして御本尊に唱題できることに、から謝申し上げます」と。「池田大作先生の弟子となれたことに、から謝申し上げます」と。


 凡夫は「当たり前」とった瞬間から謝のを失う。典で説かれた「一眼の亀」などの喩えは、当たり前とじていたことを、かけがえのない真実に引き上げる目的があったのではないだろうか。


 ここで初めて気づくのだ。報謝の人生とは、生きていることそれ自体に謝し、生を謳歌する一生だと。


 聖教新聞をポストから取る時、配達員さんへの謝を忘れていないだろうか? 会合へ参加した時、拠点を提供して下さっているご家族に謝しているだろうか? 会館へ行った際、創価班、牙会、白蓮、守る会の方々のご労に謝しているだろうか?


 我々は、ものを食べる時ですら、謝を失している。動植物の死によって、命を永らえているにも関わらず。子供が親に謝できない状況それ自体が、社会から“”が喪失した証拠ではあるまいか。


 縁起といっても、所詮、に尽きる。知らずは畜生以下である。鶴だって返しをするのだ。犬だって「三日餌(えさ)を与えればを忘れない」って言うよ。


 まずは、「ありがとう」の言葉を伝える努力をしてゆきたい。「」という字は、「の因」と書く。実に不議な符号の一致だ。


 私が師から受けたは広大なものである。報いようがないほどである。その事実をえば謙虚にならざるを得ないし、戦わざるを得ない。

2006-11-05

功徳と罰を超克しながら前進せよ


 現実の人生は、幸せに見える時もあるし、不幸に見える時もある。すなわち、法で説くところの「功徳」と「」の姿である。「功徳」の人生を生きていきたいのが当然であるが、その裏には不幸という「」の現実もまた避けることができないのが人生である。

 ゆえに、両者の現実を超克しながら、潔く、どこまでも前進してゆくところに、信仰者のあり方があることを忘れてはならない。


【豊島区第2回信懇親会 1985-01-12 東京戸田記講堂】


 現実に振り回されることなく、願望のみに傾くことなく、中道を歩めとの指導。足元に目を落とせば、遅々とした歩みになってしまう。反対に、望遠鏡を覗きながら歩けば、石につまずくことは明らかだ。人生を幸福にするキーワードは「正視眼」。御書に云く「をばとさとり楽をば楽とひらき」(1143頁)と。同じ現実であっても、自分が下敷きになっているのか、踏みつけているのかで道は大きく分かれる。


 辛酸を嘗(な)め尽くさなければ、人生の味わいは出てこない。また、の力も証明することができない。菩薩とは、他人の悩を引き受ける生命のこと。労を避ける腰抜けは学会に不要だ。


に徹すれば珠と成る」――あらゆる人々を救う力が欲しいのであれば、忍耐という資質が不可欠だ。の別を能忍とは申すなり。

2005-09-17

崩れざる幸福は“積極的な生命の姿勢”に


 では、崩れることのない、ほんとうの幸福の条件とは何か。

 その第一にあげられることは、あくまでも主体的に、積極的に、人生の問題にとりくんでいく、生命自体の姿勢である。客観的状況のみに支配され、受動的に運命を考えるのではなく、どこまでも、主体的に、自分の力を、そうした状況や、運命にぶつけて、少しでも切りひらいていこうとする欲である。

 そうした積極的な生命の姿勢は、およそ生命体なら、すべてのものがもっている質といってよい。とくに植物より動物、動物のなかでも、進化の度の高い動物ほど、この傾向は強い。人間が、万物の霊長であるといううのも、この特質をもっとも強くそなえているからではあるまいか。

 とすれば、人間は、いかに不利な条件に直面しても、つねに主体的に、積極的に、これととりくみ、挑戦していくべきだとう。これが人間生命の、本然的な特質であり、特権だからである。そして、人生において味わうことのできる最高の幸福が、そこにあるからである。

 幸福は、けっして山のかなたにはない。自己自身の内にある。しかし、坐して安閑としている自分ではなく、あくまで、かなたにあるものをめざして、けわしい尾根に挑戦し、障害を一歩一歩、克服してすすんでいる“戦う自分”の生命の躍動の内にあるのだ。


【『女性抄 箴言と随想』(グラフ社):1971-04-29発行】


 有情と非情、また、動物と人間の違いを、「積極的な生命の姿勢」と鋭く指摘されている。この一点だけでも、大いなる論点たり得るが、先生はわずかなワンセンテンス(一節)でさらりと書かれている。しかも、そこから、女に特有の五障三従を破折する展開は圧巻といってよい。更に結論として、本果妙ではなくして、本因妙の生き方を示されている。


 わかりやすい言葉は、万人に納得を与える。小しい理屈は、独りよがりになりがちだ。


 幸福は完成された姿や境涯にあるのではない。不幸に束縛されることのない自由な境涯にある。


 以下に澤瀉久敬(おもだか ひさゆき)氏のテキストも紹介する。索の一助とされたい。


 生物を無生物から区別するものは、生物は自分で動くということ、つまりactivityすなわち発動力をもっているということですが、機械文明はそのactivityを失わせるという格を本質的にもっているのです。しかも、このことは単に身体について言われるだけではなく、特に精神について語られねばなりません。いったい、精神こそ自由なものであり、新たなものを創造するものです。私はこの点を、すなわち精神の自由と創造を、を大にして強調したいのです。人間が動物に優るのは、自由をもっているということと、他から強制されずに動くということ、いや、単に自発的に動くだけではなく、未だかつてなかったものを、自ら創造するということですが、それを人間にゆるすものは精神なのです。ところが、いっさいを機械化することは、人間の精神をも眠らせ、その創造を人間から奪う結果となるのです。


【『「自分で考える」ということ澤瀉久敬(第三文明レグルス文庫)】

2005-03-24

人生の喜び


 人生や生活には様々な喜びがあろう。ラーメンを食べて「ああ、おいしい」(笑い)とうのも喜びだし、また、恋人とのデートがこのうえない喜びの瞬間だと(大笑い)じる人もいよう。更に、職場の役職が上がった、立派な家を建てた等々、それなりの喜びがある。

 しかし、こうした喜びがいかにはかなく、長続きしないものであるかは皆さまもよくご存じの通りである。また、財産や地位、誉などは、突き詰めれば、自分の外面を飾る“衣服”や“装飾品”にすぎない。

 結論として、信に励み、の境界を得ることこそ、崩れざる真実の喜びである。そして、そのの境界に立脚してこそ、甚深の「智」がわき、限りない「慈悲」のを持っていくことができる。そこに人生の「歓喜」がある。


【第10回全国青年部幹部会 1988-12-10 創価文化会館


 境界と境涯は同じ味。生命論の場合は境界と書き、人生論・人間論に即して境涯と表す、と私は理解している。


 幸福である状態を「喜び」とすれば、十界論では天界から上の四聖となる。天界の喜びは長続きしない。聞界・縁覚界の喜びは、天界よりは長続きするが、エゴイズムに傾きがち。菩薩界の喜びは、人を救う喜び。界の喜びは、永遠そのもの。


 ところがどっこい、「♪わかっちゃいるけど、やめられない」というのが人間の(さが)。人の欲望の対象となる嗜好は、年齢と共に移り変わる。よく言われるのは、「異→飲食→鉱物」という変遷。鉱物とは宝石。宝石は、自分が死んだ後も残るから、永遠への憧れとも考えられる。


 人間は欲望に生きる動物ともいえる。だが、欲望の充足だけが幸福とはいえない。結局、「何のために生きるのか?」という命題は、「何をもって人生の喜びとするか?」という問題になろう。


 世間の法にも重をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎(なげ)きて池の底に穴をほりてすむしかれどもゑ(餌)にばかされて釣(つり)をのむ鳥は木にすむ木のひき(低)き事をおじて木の上枝(ほつえ)にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる、人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の法なんどには捨る事し故にになる人もなかるべし。(956頁)


 仕事をし過ぎて過労死する人がいる。会社が社会的な問題を起こすと、自ら命を絶つ人もいる。悪い男に騙(だま)されて人生を棒に振る女もいる。幸福というの「餌(えさ)」に引っ掛かる姿は、鳥や魚と異ならない。まして、飽食の現代社会にあっては、至るところに「餌」が転がっている。


 我が生命のを薫発し、強靭な生命力を発揮しながら、人々の生命を揺り動かすところに真実の喜びがある。これを折伏づける。

2005-03-16

相対的幸福


 確かに、何十年か前に比べれば、日本ははるかに裕福となった。しかし、それで国民は本当に幸せとなっただろうか。

 おいしい物を食べる。それは幸せかもしれない。だが、それで糖尿病になってしまえば(笑い)、かえって不幸である。たとえ、健康であったとしても、事故にあってしまえば、何にもならない。また、一見、何不自由なく暮らし、幸せそうに見える人でも、子供のことなどで人知れぬ悩みを抱えている場合もある。

 今、流行の未公開株でも手に入れて(爆笑)、たとえ、一時的に大金を得たとしても、やがて深い悲哀を味わうこともあろう。

 幸福は、いくら追いかけても、限りなく彼方へ逃げていく。かりに、この手につかんだように見えても、あたかも霧のように消え去ってしまう。それが、この無常の世の真実ではなかろうか。

 御書には「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(788頁)と仰せである。

歓喜の中の大歓喜とは、我が生命のうちに築き上げた金剛の境涯である。大宇宙を貫く常住不滅の法に則った妙法の世界にのみ、永遠の幸福はある。


【第4回全国婦人部幹部会 1988-11-24 創価文化会館


 実にわかりやすい例えをもって、相対的幸福と絶対的幸福を教えられている。


 凡夫は往々にして天界の幸福を望みがち(笑)。


 或時は天上に生れて五衰をうく(474頁)


「天人は五衰をうく」とも言う。五衰とは、死ぬ時に迫り来る五つの衰え。つまり、天界の喜びとは、その場限りのもので、三世にわたる幸福境涯を獲得できないことを示している。その瞬間は喜びに浸(ひた)っているが、実は、生命を損耗しているような状態なのだ。


 遊園地に行けば誰もが楽しいいをする。しかし、帰る時は、ぐったりと疲れている。相対的な幸福ってえのあ、まあ、こんなものだ(笑)。永続がないところに特徴がある。


 随喜品二箇の大事

  第一妙法蓮華経随喜功徳の事

 御義口伝に云く随とは事理に随順するを云うなり喜とは自他共に喜ぶ事なり、事とは五百麈点の事顕本に随順するなり理とは理顕本に随うなり所詮寿量品の内証に随順するを随とは云うなり、然るに自他共に智と慈悲と有るを喜とは云うなり所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身に成るを喜とは云うなり、然る間随とは法に約し喜とは人に約するなり、人とは五百塵点の古たる釈尊法とは寿量品の南無妙法蓮華経なり、是に随い喜ぶを随喜とは云うなり惣じて随とは信の異なり云云、唯信の事を随と云うなりされば二巻には随順此経非己智分と説かれたり云云(761頁)


 これが絶対的幸福。一人だけの大歓喜は存在しない。共に戦い、共に勝つ中にのみ、確かな幸福が存在する。そう考えると、妙法を根本とした師匠と同志の存在が、どれほどありがたいかが理解できる。


 人生の幸福は与えられるものではなくして、自ら進み出て勝ち取るものである。「生命の内実こそ信心の果報」で紹介した三木清の言葉を現実に味わえるのは我々学会員だけであろう。


 今日は、3.16。この日の司会を行ったのは、若き池田先生であった。