Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2009-04-24

創価学会の日


 那由他楽人君が興味深いことを書いていた。

 早速調べたところ、「創価学会の日」という言葉が公式に使われたのは、会長勇退の翌年に当たる昭和55年(1980年)であることが判明した。


 この“「創価学会の日」記勤行会”は関西文化会館で開催された(参加者2000人)。東京にとっては痛恨の歴史といってよい。


 ともあれ、戸田先生の広布への宣言の日である「5.3」を、私は「創価学会の日」と決めさせていただいた。

 毎年、この「5.3」を迎えるたびに、私どもは「偉大な自覚」と「偉大な確信」を一段と強めながら、晴れ晴れと集い、また、晴れ晴れと出発してまいりたい。

「自覚」ある人は強い。不屈である。無限の知恵が湧いてくる。そして、「確信」ある人は強い。何ものも恐れない。無量の力があふれてくる。無辺の福運に包まれてゆく。

 それが、偉大なる御本の「子」としての、素晴らしき功徳であり、栄誉なのである。


【「創価学会の日」記勤行会 1989-05-03 創価大学中央体育館】


 5.3の淵源は昭和26年53日にあり、この時、創価学会発迹顕本した。

2008-08-01

戦時中の逮捕者について


早くも歴史修正主義か?」を書いたところ、貴重な見が寄せられたので紹介しておく。


創価学会の歴史と確信」には、「21のうち19まで退転したのである」とあり、その直後に「会長牧口常三郎理事戸田城聖、理事矢島周平の3人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである」と続いてますから、座談会もこの表記方法を踏襲し、「幹部21」に牧口先生は入れてないのだといますが。


 これが事実なら、やはり座談会の記事は間違いではないことになります。


プリン


 戦時中の弾圧については、私もいろいろ調べたことがあります。というのも、平成15年度の任用試験テキスト「創価学会の歴史」に以下の記述があったからです。


「最終的に幹部の逮捕者は21人に上りました。不敬罪と治安維持法違反容疑を理由としたものでした。厳しい取り調べのなかで、最後まで信を貫き通したのは牧口先生戸田先生だけでした」(この記述は、それ以降の任用試験にも見られます)


 平成15年当時、私は西野辰吉著『戸田城聖伝』(レグルス文庫)を読んで矢島周平氏が退転しなかったことを知っていたため、疑問にって方々調べました。その結果判ったのですが、「戸田城聖伝」と「富士宗学要集」では内容が異なるのです。以下に逮捕者を記します(敬称略)。


富士宗学要集

 牧口常三郎、戸田外、寺坂陽三、神尾武雄、矢島周平、木下鹿次、有村勝次、陣野忠夫、中垣豊四郎、稲葉伊之助、片山尊、野島辰次、本間直四郎、岩崎洋三、美藤トサ、森田孝、堀宏、小林利重、金川末之、安川鉄次郎、田中国之


戸田城聖

 牧口常三郎、戸田外、寺坂陽三、神尾武雄、矢島周平、木下鹿次、有村勝次、陣野忠夫、中垣豊四郎、稲葉伊之助、片山尊、野島辰次、西川喜右衛門、岩崎洋三、美藤トサ、森田孝、堀宏、小林利重、金川末次、安川鉄次郎、田中国之


 まず宗学要集では、4に逮捕された本間直四郎、北村宇之のうち、本間直四郎は法者に入っていますが、北村宇之は入っていません。戸田城聖伝では、本間、北村を「21」に数えず、宗学要集にはない西川喜右衛門のがあります。


 ただ、どちらの場合も「牧口先生を含んだ21」となっており、「創価学会の歴史と確信」における「21のうち19」とは誰なのか、明確には判りません。


那由他 楽人

2008-03-22

月刊ペン事件〜会長勇退


 猪野健治の分析によれば――、〔創共協定つぶしの経過を整理して言うなら、第一段階では公明党及び学会内保守派を共産党と対決させて、協定を有無実化する。第二段階では学会と宗門の関係を悪化させ、池田を浮き上がらせる。第三段階では学会内反主流派をあおり造反を仕掛けて、池田復権を阻む。そして第四段階、学会と共産党の関係を修復可能なまでに決裂をさせる〕(巨大宗教“取り込み”の政治戦略、『新評』80年12号)

 明快ではないか。まさに事態はかくのごとく進行したのである。そして、高野孟(『マップ・インサイダー』編集長)は、いっそう端的にこう言い切る。〔反学会・池田の受け皿は、自民党なのである〕(なぜ創価学会が狙い撃たれたのか?、『第三文明』81年6号)。大平首相急死、葬式まんじゅう選挙は26議席増で自民党の圧勝、いっぽう公明党は解散前の58議席から一挙に25議席を減らして惨敗。この結果が何をもたらしたか? 「ヘソ下」スキャンダルで括られた反学会・池田大作攻撃キャンペーン、謀略工作である。

 猪野も高野も言わずもがな、創価学会支持者ではない。だが、まともなジャーナリストならからくりは見ぬける。君に見えぬのはなぜだ、内藤国夫?


 文目(あやめ)もわかたぬ白い闇、その闇の中にまた闇があり、核から血汐したたる。マスコミの仕掛人は山崎正友。まぎれもないおまえだ。内藤はその掌(たなごころ)におどり、野坂は付和雷同した。原島? この人は金魚のウンコにすぎない。末尾に付して総括しよう。とうぜん、山友の背後には黒衣(くろこ)がいて、誰の眼にも正体まるみえ、自民党「宗教政治研究会」である。彼らの目的は、民衆の信仰を国が総括すること。すなわち、“宗教団体法”を形をかえて復権するところにある。出版資本(文藝春秋・講談社・小学館)はその片棒をかつぎ、JCIA(米帝御用達謀略機関)が暗躍した。この機関は、“転び戦争犯罪人”“転び国家神道”である。


 そしていま、悪夢は再び襲う。山友をリモート・コントロールしているのは、天皇制の亡霊である。JCIAとは何か、創価学会はなぜ謀略の標的とされ狙い撃たれたのか?

 軍&政府機関に属していた諜報・撹乱工作員、掠奪屋そのほかの“人材”を、「内閣調査室」に組織したのは、第五次吉田内閣の官房長官、戦時下は情報局の総裁であった故・緒方竹虎。「内調」は、GHQ情報部の指示でCIAに倣(なら)った。すなわちJCIA、政府が正式に設けた情報・謀略機関である。初代室長は村井順(国警本部警備課長)、そして民間機関の責任者は誰あろう、「月刊ペン」社々長原田倉治(故人)であった。いま裁判の被告となっているもと同誌編集長・隈部大蔵は旧陸軍中野学校出身、撹乱工作のプロフェッショナルだ。


 周知の事実とうがのため、盗聴が発覚したのは昭和55年、山崎正友が自分が首謀者であると乗り出たからである。


【『仮面を剥ぐ 文闘への招待竹中労(幸洋出版)】

3.16から4.2へ


 来る年も来る年もこの時期になると、昭和33年の激闘をわずにはいられない。3.16の盛儀にあって、戸田先生は立つことが覚束ないほど体調を悪くされていた。

 戸田先生は若き池田先生に対し、「あと7年で、200万世帯まで闘いたい」と言われた(昭和32年1227日)。ところが、一ヶ半後の210日には「あと7年間で、300万世帯の学会にしたいな」と仰せになっている。昭和32年の暮れには、お手伝いさんに「僕は桜の咲く頃に死ぬんだ」と漏らされていた。迫り来る寿命との熾烈な格闘の中で、広宣流布への構はとどまることを知らなかった。そして戸田先生の遺志は、30歳の一人の青年に託された。


 昭和33年(1958年)43日、後継の青年は師子吼した。その叫びのままに「世界の創価学会」を築き上げた。遺言であった300万世帯は何と4年後に達成された(昭和37年1127日)。

2008-03-16

「魂の炎のバトン」を君たちに


永遠の3.16を記――愛する青年部諸君に贈るメッセージ


3.16の精神 広宣の大空へ「永遠の青春」の翼


 青春には翼がある。嵐の海をも過(よぎ)り、天空の奥まで翔(か)ける。

 青空には果てがない。青春の力にも限りがない。

 青空は世界を包む。青年の気概には全世界さえも狭い。

 たとえ雲厚くとも、天の高みには「永遠の青空」が輝いている。

 広布の遠征に風強くとも、「永遠の青春」の翼ある限り、目的地へと烈風をも自在に操れる。

 学会の「永遠の青春」の原点、師から弟子へ、生命から生命へ、御本の御遺命たる「世界広宣流布」への魂を伝えゆく日、それが3.16である。

 33年前(1958年/昭和33年)のこの日、師のもと、広布の模擬的儀式が行われた。六千の地涌の若人の集ったこの日、私どもは「広宣流布記の日」とづけた。

 この年の初め、師はつぶやいた。「もう何もいらない。ただ、人材が欲しい」。

 今、私もまったく同じ気持ちである。いな戦野が世界に広がった現在、それ以上に、何百倍、何千倍の重厚な人材群が必要となっている。

「次の時代」を開くカギはまさに「人材の力」、そして「文化の力」にある――これは、過日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)のマヨール事務局長と語り合ったことでもあった。


精神の不服従


 ここにユネスコが編纂(へんさん)した一冊の書――『語録 人間の権利』(日本語版は桑原武夫訳、平凡社刊)がある。

世界人権宣言」(1948年)の20周年を記し、古今東西の“人権への戦い”の言を集大成している。

 その中に日蓮大聖人のお言葉も収録されている。「撰時抄」の一節である。

「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりともをば随えられたてまつるべからず」(287頁)

 ――王の権力が支配する地に生まれたのであるから、身は従えられているようであっても、は従えられません――と。

 大聖人が佐渡御流罪から鎌倉に戻られた時のお言葉である。当時の権力者・平左衛門尉に対して、厳然と仰せになった。

 ――汝らは権力者である。私を処刑し流罪することも、また許して自由にすることもできよう。しかし、を縛ることまでは絶対にできない。断じて私は、彼ら権力者の奴隷にはならぬ、と。

 まさに大聖人の御生涯のひとつの核を凝縮したお言葉と拝される。

 問答無用の権力者と戦い抜かれた御一生であられた。ただ精神の力、ただ道理の力で――。

“汝は権力者という政治上の王者かもしれない。しかし、私は精神界の王者である”との御本の御確信が鋭く伝わってくる。

 そして、このお言葉は、私の胸の中で、師の師子吼と響き合う。かの3.16式典での“学会は宗教界の王者である”との大音(だいおんじょう)と。

 師の宣言は、弟子を立たせた。弟子は昼夜を分かたず、戦った。そして700年の時を越えて、御金言を世界に燦然と輝かしめたのである。

 いかなる巧言、いかなる奸計(かんけい)も、この事実の太陽の前には夜露のごとくはかない。

 大聖人のこのお言葉は、『語録 人間の権利』の中で「権力の限界」の章に収められている。

 どんな絶大な権力も精神までは縛れない。自由の叫びを抑えられない。正義そのものを殺すことはできない。何よりも真実を隠し通すことは不可能である――。

 この書のみならず、今、世界の多くの人々は、大聖人の御生涯に「人類のための人権闘争」を見ている。そして、まさに「人権宣言」の偉大なる先駆者と賛嘆し、崇敬(すうけい)しているのである。この御本の戦いを後継し、現代の大民衆運動として世界へと展開しているのが、我がSGI創価学会インタナショナル)である。

 日本では、これまで本格的な、また根本的な「人権闘争」がなかった。そのためか、人権に対する覚も鈍い。私どもの運動の崇高な義も、なかなか理解されない面がある。

「人間の権利」に鈍な者は、他人の人権を踏みにじりがちである。それでは、やがて自分の人権も奪われてしまうことになろう。

 断じて、そうした不幸な時代をもたらしてはならない。「人権の夜明け」を開かねばならない。そのために青年がいる。諸君がいる。


“未来を見る男”プロメテウスの受と栄光


「身は縛られてもは縛られぬ。権力者よ、汝らに何ができよう」――この御精神を拝する時、浮かんでくる古代ギリシャの物語がある。世界の多くの青年に贈る味でも触れておきたい。

 それは青春時代に知った“先を見る男”のの劇。民衆を愛するがゆえに、権力者ゼウス(英語ジュピター)と戦った男のドラマである。人間の理を描いた一つの文学として私は読んだ。

 男の前はプロメテウス。「先に知恵の出る者」という味である。ギリシャの伝承では、彼が人類をつくったとされる。ちなみに彼には弟がいる。そのエピメテウスは「後から知恵の出る者」という味である。

 洞察力のある兄に比べて愚かな弟は、ゼウスの策謀にかかってしまう。有な「パンドラの箱」の事件である。ゼウスの遣(つか)わした美女パンドラにそそのかされて、エピメテウスが箱を開けると、中からあらゆる悪としみが飛び出し、地上の世界に広まってしまった。ただ、最後に箱の底に「希望」が残っていたという。

 世に満ちた一切の悪と戦う力は「希望」にある。希望から勇気が、勇気から知恵が生まれる。そして信仰は無限の希望の源泉である。


“文化”を与えたゆえの迫害


 さて、兄のプロメテウス“先を見る男”は、“大地の子”である。大地ガイアの子にあたる。

“天の独裁者”であるゼウスの怒りをかって、コーカサス山の岩に「金剛の鎖」で硬く縛りつけられていた。

 そして毎日、昼間は大ワシがやってきて、彼の肝臓をつついて食べてしまう。激痛を耐えていると、夜の間に体は元通りになり、昼にはまたつつかれる。不死身を得ていた彼は、死ぬこともできない。3万年(3000年とも)もの間、こうした残酷な刑を受け続けていた。


「知恵の火」「人権の光」「文化の灯(ひ)」で世界を照らせ


 一体、彼がどんな悪いことをしたのか? 何がゼウスを怒(おこ)らせたのか?――それは彼が人類に「文化」を与えたからであった。

 彼は、幼稚で何も知らなかった人類に同情した。寒さに震え、闇を怖がっている。獰猛な野獣たちの前にひとたまりもないだろう。

 そこで彼は人間に火を与えた。太陽の持つ火を植物の茎(くき)に移し、地上に持ち帰ったという。

 芳香あるウイキョウ(茴香、フェンネル)の髄(ずい)に、火を閉じ込めて彼は走った。愛する人類のために、これを届けてやるのだ。

 ウイキョウは古代ギリシャ語でマラトンと呼ばれる。マラソン競技の由来となったマラトンの地には、この草が群生していたという。

「火」のおかげで、闇と寒さを人間は恐れなくなった。暖かい火を囲んで、小屋を建てることも覚えた。

「火」からあらゆる技術が生まれた。土器をつくり、煮(に)、炊き、焼く料理を始めた。そして金や銀など鉱石を溶かす術を身につけ、そこから生活の道具や装身具が生まれ、武器や貨幣が生まれた。

 更に彼は人類に「言葉」を与えた。そこから「」と「学問」が生まれた。また「音楽」を与え、人々のを高めた。「医術」や、「建築」「天文」「数学」「牧畜」「航海」を教えた。やがて「都市(ポリス)」も出来た。彼はまさに“文化の父”であった。

 実は、これが独裁者ゼウスには気に入らなかった。ゼウスは“神々の父”と呼ばれ、恐れられていた。

 ゼウスは以前からこう言っていた。「火を渡すと、人間どもは『力』も『知恵』も、われわれ神にせまり、われわれは支配しにくくなるではないか!」。

 そして、こう決していた。「人類は無知のままにしておいたほうがよいのだ!」と。

 この“天の独裁者”の向に逆らい、“大地の子”プロメテウスは、民衆を賢くしてしまった。それゆえに、あの残酷な刑にあったのである。

 彼はゼウスの考えを知っていた。火を与えれば、彼をするであろうことも“先を見る男”はすべて知っていた。にもかかわらず、人間を愛するゆえに、あえて彼は「天の火」を手に走ったのだ。


善と力、知と慈愛兼備した勇士


「神のために人間が戦う」のではなく、「人間のために神が戦う」――ギリシャのヒューマニズムを最もよく象徴している物語である。

 多くの詩人がこのヒューマニズムの勇者をうたった。ギリシャの劇作家アイスキュロスが、またミルトンが、そしてユゴーが。

 バイロンは叫んだ。「プロメテウスよ! 誇り高き者たちが味わうしみのすべてを味わう者よ! 汝の崇高な罪とは、“人類への愛情を持つ”ことであった。自らの精神で、人間を強くしたことであった」(「プロメテウス」から)

 イギリスの詩人シェリー(1792〜1822)も、この“先を見る男”に共した一人である。彼が理とする「人権の闘士」のモデルと仰いだ。

 シェリーは28歳の時、詩劇『縛(いまし)めを解かれたプロメテウス』を書いた。その中で、プロメテウスは叫ぶ。

「ゼウスよ! あなたは憎しみに盲目となって、私を縛った。しかし、あなたの復讐もむなしい。私は打ち勝つ!

 ああ、私さえ妥協していれば、あなたも全能となっただろうに!」

 ――彼さえ屈すれば、権力者は全能となり、皆が黙って従ったことだろう。しかし、もう遅い。彼は「知恵の火」を人間に渡してしまった。やがて彼らは独裁者を倒すであろう。

「善も悪も無限だ。この宇宙のように。汝の孤独のように」――悪は無限に悪となれる。甘く見てはならないと“先を見る男”は言う。

 また独裁者は限りなく孤独である。悪の坂道を下りながら、孤独の深淵へと、どこまでも転落していくく。

 そして「汝は今静かに坐っているが、時いたれば、汝は、『の内の姿(地獄)』そのものとなって現れよう」と。

“先を見る男”には、ゼウスの転落の未来がありありと見えていた。だれがどうやってゼウスを倒すかまで知っていた。すべてを知っているゆえに、ゼウスは彼を恐れた。亡き者にしようと焦った。何とか屈服させたかった。

 そして彼がひと言、ゼウスの未来を教えれば、許してやると誘(いざな)った。しかしプロメテウスは黙して語らない。彼の受はこのように、どこまでも彼自らが選んだものであった。あまりにも彼は不屈だった。あまりにも彼は人間を愛していた。

「善」と「悪」と、巨大な悪に、優しき「善」が打ち勝つのは、容易ではない。シェリーは、「人間」を厳しく見つめていたがゆえに、「善」のもろさもよく知っていた。

 彼は嘆く。「善には力がない。力ある者には善がない」「賢い者には愛がない。愛ある者には賢さがない。そこに乱れが生じ、悪を生む」と。

「善」と「力」、「知」と「慈愛」を兼ね備えねばならない。それで初めて人類の「人権の闘士」となる。掲げた理を現実のものとする「勇者」が生まれる。

 縛られたプロメテウスの真実を、ほかの誰もが理解しなかった。嘲(あざけ)る者すらいた。

 彼は言った。「ゼウスのあの恐ろしい権力のもとにあって、私だからこそ、どんなことにも耐えられた。私は独裁者からあなた方を守る『防壁』となったのだ。かくもしみ、傷つきながら、その私がわからないのか?」と。


“自己を支配する”王者たれ “人を支配する者”は権力欲の奴隷


我が胸には平和が君臨する


 それでも彼は「我、王者なり」と平然としていた。

「天の奴隷ども、ゼウスの子分こそかわいそうなのだ。すぐにでも、自分自身を蔑むことになるのだからな!」

「一方、太陽の中には『光』が君臨するように、我がには、静かな『平和』が王座にいる」

「私は私自身の王だ。内なる悩や戦いの群れをすべて統治している」――。

「人を支配する者」でなく「自己を支配する者」こそ「王者」なのである。

 彼は剛毅であった。獄にあっても、自由な口をきいた。

 そもそも彼は、ゼウスよりも早くから活躍していた巨人族の一人であった。そしてゼウスが王座に就く際、「人間に自由を与える」という条件をもとに、ゼウスを助けてやったのである。

 ――悪のは、善いものをも悪に変えて受け取る!

 ゼウスよ、汝の権力は私なくしてありえなかった。その見返りに汝が寄こしたのは、この鎖だ!

 幾年、昼も夜も、私は太陽にあぶられ、雪に凍え、縛られている。汝の無慈悲な考えを実行する下僕たちから、私の愛する人類が踏みにじられている間にも!

 私への迫害も当然だろう!

 悪人は善を受け入れられないのだから。人に、憎しみや、恐れや、恥をじこそすれ、謝などはじられないのだ。

 悪をなしたのは自分なのに、私に仕返しをすると言うのだ。

 汝らのほうこそ、悪の奴隷だ!――。

 彼が言う通り、「謝しなければならない相手」がいること自体、悪人には痛である。謝することが、自分の威信を傷つけると信じているからだ。

 彼らは常に要求する。“我は偉大なり。我が階(きざはし)の下にひざまずけ。我をたたえよ”。

 確かに群を抜いてはいる。しかしそれは、の貧しさ、卑しさにおいてに過ぎない。そして「裁きの日」を迎えるまで、その顔は傲然と虚勢を貫こうとする。


「勝利の歌」こだまする(あした)を


人間に反する暴力は自滅する


 時が来た。「呪いの王者」ゼウスが倒れる時が――。

 自分が父を追い出して王座を奪ったように、ゼウスは自ら産んだ子供によって地獄の「底無しの淵」に堕(お)とされてしまうのである。

「助けてくれ! 助けてくれ!」

「ああ、まっ暗だ! 助けてくれ!」

 ゼウスは、自分が縛ったプロメテウスにさえ、最後は寄りかかる。

プロメテウスならばこんな無慈悲なまねはしないぞ。

 優しく、正しく、しかも恐れを知らない彼――世界の王者ならば」

 権力者は気どる余裕すらなく、「奴隷のようにふるえながら」堕ちていった。

 自分を堕とす相手に彼は叫ぶ。「お前はだれだ?」――「汝自身の罪だ」と“敵”は答えたに違いない。

「闘士」は解放された。世界が喜びに沸く。彼は「世界の太陽」となって立ち昇る。自然の精が合唱する。

「われらは大計を描こう。人類の新しい世界へ。それをプロメテウス(人権の闘士)の世界と呼ぶのだ」

 新世界の(あした)。勝利の歌がこだまする。闇が晴れる。旧(ふる)き戒めの鎖は断ち切られた――。

 こうしてシェリーは、自分の理をうたう。

 ――人類はもはや王笏(おうしゃく/独裁の象徴)もなく、自由で、平等な人間となる。階級もなく、種族や国家の別もなく、恐怖や屈従の宗教もなく、身分のわけへだても知らず、自己を支配する王者となり、正しく、優しく、賢い者となる、と。

 シェリーは、フランス革命など“大義の革命”が多くの犠牲者を出し、「いたるところ、死体が厚く積み重なっている」のを嘆いた。

 そして「暴力否定」の平和の人権闘争を信とし、情熱の詩を綴った。彼は「人間に反する暴力は自滅する」ことを見抜いていたのである。


「愚民政策」とアヘン戦争の教訓


「人民を賢くする奴は、邪だ!」――これが「支配者の論理」である。人民はおとなしく服従する「小羊の群れ」であるほど都合がよい。知恵ある人民は危険なのである。

 ゆえに彼らは、民衆の魂に“人間の火”を燃やす「文化」を嫌い、“英知の光”を点(とも)す「教育」を嫌う。

 彼らにとって「平和」とは、「人民の服従」と「自己の安泰」のみを味する。

 ――香港がイギリスに割譲される原因となったのが、19世紀半ばのアヘン戦争である。

 イギリスはアヘンの密貿易で莫大な利益をあげた。しかも、アヘンで中国を骨抜きにし、そのうえ、門戸開放だ、傲慢をこらしめるのだ、といいがかりをつけて攻め込み、領土を取り上げた。

 この戦争は、史上まれなる「不義の戦争」と言われた。

 こうした帝国主義の非は非として、一方、中国(清の政府)も、早い時期にアヘン禁止の勅令を出しながら、密貿易にはまったく無防備だった。北京の皇族にまでアヘン吸飲の習慣は広がった。事態の深刻さに気づいたときは、もはや手遅れだった。

 この大失政を招くにいたった要因は、当時の「愚民政策」にある。

 ある歴史家は指摘している。

 清(しんちょう)は、むしろ人民が賢明になることを恐れた。税金さえ納めてくれるなら、適当にアヘンをのんで「半睡(はんすい)状態」になってもらったほうが面倒がなく、ありがたかったのだ、と。

 為政者が、自らの人民を見下し、愚弄した結果、国そのものが滅亡してしまったのである。歴史の厳粛な教訓である。


「信は大聖人の時代に還れ」


 マルクスは「宗教はアヘン」と。レーニンもまた、宗教は人間の魂を酔わせ、理を奪う「酒」だと言った。

 人間を「賢者」「勇者」「勝者」とする宗教――大聖人の法を彼らは知らなかった。だからこその言(げん)である。

 その上で大聖人は、「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(919頁)――日蓮を信仰したとしても悪しく尊敬すれば国は必ず滅ぶであろう――と仰せである。

 中国はかつてアヘンで滅んだ。

 次元は異なるが、大聖人の法も人類の大良薬(だいろうやく)であるゆえに、その正しき実践をあやまれば、反対に大いなる毒として作用してしまう場合がある。「にせ札は本物に似ていれば似ているほど、罪が重い」と牧口先生は述べておられる。

 そうなれば国は滅ぶ。大法も失われる。人類は永遠の「闇」と「寒さ」に震えながら生きることになろう。

 大良薬たる大聖人の法の精神を、どこまでも正しく、どこまでもその仰せのままに実践していかねばならない。絶対に歪(ゆが)めてはならない。

「信は大聖人の時代に還れ」――ここに師の根本精神があり、永遠の学会精神がある。


「人間の世紀(ヒューマン・センチュリー)」へ渾身の走破


広布は慈悲と権力との戦い


 人類に「太陽の炎」を分け与え、賢く、豊かにさせたギリシャの英雄――。文化と人権の勇士。

「広宣流布」とは、「大法」の太陽の炎を人類に贈り、最高に賢く豊かな、最高に自由で平等な「人間の世紀」「ヒューマン・センチュリー」を開く運動である。

 世界に「文化の火」「平和の光」「教育の灯」を点じ、「人権闘争の炎」を広げゆく行進である。

「慈悲」と「権力」との戦いが広宣流布なのである。

 一本の茎に日輪の炎をつけて、彼は走った。

 私も、戸田先生から正法流布の「炎のバトン」を受け継いで走った。

 彼はこの「知恵の炎」ゆえに身を縛られ、身をついばまれ、残虐な迫害に身を痛めた――。

 私も民衆を愛し、人類を愛し、「知恵の炎」を点じてきたゆえに、それを喜ばぬ者から迫害された。しかし、“先を見る者”であるゆえに動じなかった。

 そのバトンは人類の希望である。同時に我が身を焼き焦がす覚悟なくして握れない“峻厳なバトン”である。

 正義のためならば何ものをも恐れぬ獅子だけが、「自己を支配する」王者だけが、この栄光のバトンを受け継げる。

 願わくは愛する青年部諸君は、我が「魂の炎」のバトンを受け取り、高らかに掲げて、全世界へと、新世紀へと走り抜いていただきたい。


炎の走者と立ち、動き、祈り、語れ


 ギリシャの伝承は伝える。プロメテウスが人間をつくった時、直立させてこう言ったという。

「他の動物たちは、皆、下を向いている。人間よ、お前は空を見上げて生きよ。青空と語り、星々と語りながら生きるのだ!」

 我らの舞台は世界である。我らが見つめるのは永遠の宇宙である。

 青年よ、ちっぽけな世の波騒(なみざい)を見おろしながら、大胆に生きよう。何ものも恐れず、壮快に動こう。堂々と真実を叫ぼう。

 君が燃えなければ、時代を覆う生命の闇は燃やし尽くせない。君が走らなければ、正義の炎は、人々のいのちに届かない。君自身が、一個の「炎の走者」と立ち、動き、祈り、語り始めること、そこに3.16の本義があるのだ。

 諸君の力走の果てに、民衆の「栄光」と「勝利」の山脈が、都市が姿を現す時――その時こそ、我が「永遠の3.16」の儀式は、諸君の胸中に鮮やかに蘇り、新しき不滅の光を放ち始めるだろう。

 その時、私と諸君との真の絆が固まる。

 その日を私は祈りて待つ。信じて待つ。ひとり戦いながら待つ。


 一九九一年十五日


 諸君の人生の勝利を願いつつ――

2008-03-15

青は藍よりも青し


「広宣流布記の日」に若き友に贈る


 新しき(あした)は 青年のものである

 霜(あさしも) 鮮やかに 青き麦畑にも似て


 弥生・三とはいえ

 暁の富士の寒気は厳しい

 稲妻の閃光の如き

 突然の知らせに

 勇み馳せ参じたる

 若き地涌の同志(とも)六千


 吐くは白く

 いまだ 目醒めぬ

 大地を踏みしめる足音が

 未明の森に谺(こだま)す


 頬(ほお)を紅潮させた乙女がいた

 学生服のいとけなき少年もいた

 防寒具もなく

 しかし凛然と胸張る青年がいた


 その瞳は

 暗き冷気の中で

 夜明けとともに

 大いなる“時”を迎えんとする

 確かな鼓動に

 煌(きらめ)きを増していた

 ああ

 青年の純一なる生命の発露が

 清らかに力強く

 新しき燦たる太陽の上昇を告げる


 おお 不滅となれり

 3.16


 それは

 師のもとに

 広宣流布の大図式(モデル)を描いた日――

 そして

 未来永劫に変わらざる

 師弟共戦の誓いの日なり


 故に この日に甚深の義を留(とど)めて

「広宣流布記の日」と付く


 人類の嵐のような

 今世紀の大闘諍去りて

 広布脈動の源流は

 闇と雨に身を包み

 一人決然と立ちたる勇者の

 不惜の乱舞に発(はっ)した


 昭和二十六年 五三日

「七十五万世帯の達成なくば

 遺骨は品川沖に投げ棄てよ」

 との大地に響く宣言に

 同志の胸は炎と広がる


 以来七星霜

 寿命(いのち)を削る激闘また激闘

 今戦わずして 戦う時はない

 今一日 全力を挙げて戦うことが

 幾百千年の価値あることを

 示さんとするかのように


 ああ 過ぎし日々

 蘇生の友の歓喜の波動は

 遂に 七十五万の地涌の勇者の

 陣列となる


 大聖哲立ちて七百年

 時の熟せるか

 否 時を創り招きたるか

 不議なる哉(かな)

 末法広宣の礎は築かれた


 昭和三十三年三一日

 外護の赤誠は

 待望久しき法華本門大講堂落慶となる

 先生の宿願一つここに達成するなり


 その時

 諸天の計らいか

 梵天・帝釈の来下(らいげ)か

 一国の宰相来るとの

 知らせあり

 その日は三十六日

 師いわく

 この日を一つの広宣流布の模擬的儀式にと――


 若き地涌の青年こそ

 盛儀の主人公なりと

 急の連絡(しらせ)に集まりし友六千

 広布の楽雄(がくゆう)の姿も見えた

 平和の天使鼓笛の乙女も

 勇壮に また華麗に

 その行進をば彩った


 厳寒の早 皆で食した

 あたたかき豚汁(とんじる)の美味

 師のは 身にもにも沁(し)みわたった

 身なりは貧しくとも

 使命に生きる幸せと誇りに満ちて

 師と共に生き

 師と共に進む歓びは

 会の笑みとなる


 家もいらず 誉もいらず

 財宝(たから)もいらず 功徳さえ

 ただひたすらに

 師と共に生き 尊き大法に

 すべてを捧げ殉じゆくことを願い求める

 清冽(せいれつ)にして雄渾なる魂

 その生死を超えた誓願の弘法(ぐほう)によってこそ

 御金言に説かれしままの

 の波浪も

 決して止めることのできない

 絶対なる勝利の歴史が刻印されたのだ


 えば昭和三十三年の元

 病との熾烈な格闘の渦中に

「あと七年 二百万世帯まで闘いたい」

 と漏らされし不撓の師の叫び

 その胸中を察し

 ただ一人 断腸のい深く

 たとえ大地にこの身を叩きつけても

 生涯を賭けて広布達成の明(たいまつ)を

 見事継承しゆくことを誓ったあの日


 多くの同志

 師の重体を知らず

 回復を楽観すれど

 我は一人来るべき広布の将来を展望し

 夢寐(むび)にも師の指導(おしえ)を忘るまいと

 胸奥(きょうおう)の一念を定めしなり

 師もまた常に側を離るるなと

 渾身の訓練(きたえ)あり


 私は忘れない

「もう何もいらない

 ただ

 信頼できる人材がほしい」

 との師のの叫びを


 ああ 三十六日

 宰相見えざるも

 その婦人と愛婿(あいせい)来たりて

 儀式始まりぬ

 師は病躯(びょうく)をおして

 自ら若き地涌の陣頭に立ち

 ここに広布達成への一念(こころ)を定めたり


 奇しくも 晴れの式典は

 後継の印綬の旗をば

 師から弟子へと

 託し渡しゆく

 厳粛なる儀式となれり


 衰弱した身体を押しつつ

 敢然と指揮を執らんとされる師父(しふ)

 弟子が用した

 一台の車駕あれど

 厳として

「大きすぎて戦の役に立たない」

 との叱咤あり

 されど

「弟子が真で作りしもの」

 とその車駕に乗られたり

 深き

 無限の言葉を交わしつつ


 ――成否を誰かあげつらふ

 一死 尽くしし身の誠――


 五丈原孔明の雄姿にも似て

 車駕上の師の姿は

 今も不滅の光芒を放つ


 ――我らは宗教界の王者なり と

 七百年の杉の巨木に

 広布不世出の大英雄の

 厳たる叫びは谺(こだま)した


 それは

 かのアレキサンダー大王の

 大遠征でさえ色褪せる

 末法万年

 全世界に轟きわたりゆく

 民衆王者の誉れの凱歌なりと

 私は 訴え残したい


 先生の病は

 あまりにも重かった

 その腕(かいな)を支える私に

 生命(いのち)をふり搾(しぼ)って

 毅然と言い遺された一語は

 今なお 朶(じだ)に鮮やかに蘇る

「これで私の仕事は全部終わった

 いつ死んでもよいとっている

 大作 あとは頼むぞ」と


 この時 師五十八歳

 弟子三十歳

 師より寿命を受け継ぎし故か

 今 師の代わりに還暦を迎えた

 青年の君たちよ

 今 師のい そのままに

 後継を頼まむ


 ああ 今も深き深き

 謝をもってい起こすは

 終始見守り下さった

 第六十五世日淳上人の

 大慈悲なり


 幾度も激しき戦の指揮を

 敢然と執り終えし先生は

 今やその身を病床に横たえ

 ある時は

「今 何の本を読んでいるか」と

 学べ また学べとの

 厳愛の叱咤なり

 また ある時は

「メキシコへ行った夢を見た」

 と温かき慈眼(じがん)

「君よ 世界を頼むよ」と。


 我はその師のとして

 世界広布への飛翔を誓った

 大鵬(おおとり)の空をぞ かける姿して との

 言葉のままに


 そして逝去四日前

 厳格に かつ 凛冽(りんれつ)に放たれた

「追撃の手をゆるめるな!」

 との師子吼は

 門下の怒涛の前進の支柱となった


 ああ 忘れ得ぬ 四二日

 万朶(ばんだ)の桜に見送られて

 霊山に向かわれた

 そして遺された分身の生命は

 広布達成へ

 毅然たる追撃の生涯を開始せり


 時の日記に私は記した

「一人の 戸田門下の青年は進む

 一人 凛然と 北風に向って」


 あれから三十星霜

 一人烈風に身をさらしつつ

 一人烈日に身を焦がしつつ

 愛する我が同志を守り抜かんと

 一切の障との対決に

 一歩も退(ひ)かぬ一日 また一日


 所詮 法は勝負なるを

 知悉(ちしつ)したが故に

 怒り狂う波間にあって

 一瞬の停滞も逡巡もなかった

 真の丈夫の姿をば

 阿修羅の如く示し残さんと


 栄光の「3.16」に集った

 あの懐かしの兄弟も

 また

 敢然と また健気(けなげ)にも

 三十星霜

 不退の長征に

 見事なる栄冠の戦譜(せんぷ)を

 私と共に歩んだ


 三類の嵐は

 幾度となく

 我らの前途に立ちはだかった


 卑劣な怒涛の日もあった

 邪知の小才子(こさいし)の裏切りもあった


 しかし 私たちは

 晴れ晴れとして 完勝した

 希望の翼をもって

 幾多の風雪を乗り越え

 若き乙女たちは今

 幸の金風(きんぷう)に包まれた女王として

 青年は偉大なる人間の

 尊き平和の砦(とりで)の柱として

 堂々と 揺ぎなき基盤を築いた

 久遠に結んだ不議なる同志の

 異体を同とする団結の力

 御聖訓の理に殉ぜんとする

 峻厳なる絆をば

 金剛不壊の中軸として

 万年への広布の基盤は できあがった


 限りなく続く青年の気が

 碧(あお)き水平線の彼方

 今日も明日も 白雲の如く湧き起こり

 再び新世紀の天空を駆ける時

 障の黒き雲はない

 凛々しき子の青年の顔(かんばせ)輝き

 一陣の薫風に花びらが舞う


 青年は無限の財宝

 いかなる労

 はたまた 勝利も敗北もすべて

 すばらしき躍動の飛躍台となる

 君よ 君たちよ

 新たなる第二の「七つの鐘」を頼む


 法理のままの東漸(とうぜん)

 日本に教伝来し 七百年にして

 太陽の如く 大聖哲出ず

 それより七百年して不議なる会生まれる

 正法の広宣の波は今ここに西漸(せいぜん)

 アジアの そして世界の海辺を洗い始む

 今まさに 妙法という

 生命史上の大いなる光明は

 青き地球を包みゆかんとするか


 その広布の大河の流れが

 歴史の必然であるか否かを

 君よ問うなかれ


 汝自身の胸中に

 自らの汗と労により

 広布を必然たらしめんとする

 熱情のありや無しやを 常に問え


 広布とは――

 大聖人の御遺命のままに

 尊極(そんごく)なるの生命の座を

 人類の魂に打ち据えて

 爛漫たる生命ルネサンスの華を

 この地球の大地に永遠に

 開花させゆくことだ


 天台云く「従藍而青(じゅうらんにしょう)」

 青は藍より出でて藍より青し


 君もまた 宇宙の森羅万象を貫く

 根本の法をもち

 生命の内奥より

 無限の光彩を放ちつつ

 民衆凱歌の歴史の軌跡を

 う存分描いてくれることを

 私はひたすら祈る


 いかなる約束なるか

 青年世紀の開幕に

 陸続と躍り出でたる

 使命の勇者あり

 ああ

 新たなる三十年の

 大遠征が 今始まる


 君たちが

 また あなたたちが

 未聞(みもん)の険の尾根を堂々と踏破し

 新たなる世紀の暁鐘を

 晴れがましく乱打することを

 私は信じている。


 時は巡り来り

 ここに迎えた広宣流布記の日

 この日こそ我が愛する門下の

 新たなる希望の(あした)だ


 青年よ

 あくまでも 日々の研鑽の労

 敢然と挑みながら

 朗らかにして 逞しき

 青春の詩(うた)を

 高らかに 高らかに謳(うた)いたまえ


 そして生涯崩れぬ黄金のスクラムで

 ただひたすらに

 人類史の新しき扉を開きゆく

 この聖を完遂してくれたまえ


 昭和三十三年三十六日早より儀式のため寒風のなか登山して下さった全出席者の友により謝し ご多幸とご長寿を祈りつつ

 合掌

 桂冠詩人

 一九八八年三九日

2008-02-20

昭和18年の学会弾圧


 創価教育学会に対する治安維持法違反、不敬罪を理由としての弾圧の規模と経過を見ておこう。

 まず宗門が創価教育学会に「神札」を受けるよう命じた昭和18年6、そのに最初の逮捕者を出した。

 逮捕されたのは、創価教育学会理事の有村勝次と中野支部長の陣野忠夫であった。二人が逮捕されたのは629日、淀橋警察に留置された。

 つづいて76日には牧口常三郎会長が、折伏で訪れた伊豆の下田で逮捕され、下田警察に留置された。牧口会長は、翌7日警視庁に押送された。牧口会長の逮捕された6日には戸田外理事長(当時)も逮捕され、高輪警察に留置された。戸田理事長も、のち警視庁に留置される。

 76日は、ほかに理事・稲葉伊之助、理事・矢島周平などが東京で逮捕された。

 牧口会長が布教先の伊豆・下田で逮捕されていること、中枢幹部を一斉検挙していることからして、警察による長期間にわたる内偵がおこなわれ、逮捕にあたっては綿密な準備がなされていたと結論される。

 それは629日の理事・有村や中野支部長・陣野らの逮捕により弾圧が始まったのでなく、それは水面下で長期間つづけられてきた捜査が、顕在化するきっかけとなったと見るべきである。有村、陣野らを1週間、調べただけで、創価教育学会中枢に対する組織的な一斉検挙がなされることなどあり得ない。

 創価教育学会幹部の逮捕はその後も相次ぎ、720日には、副理事長・野島辰次、理事・寺坂陽三、理事・神尾武雄、理事・木下鹿次、幹事・片山尊が警察に逮捕された。この昭和18年7以降も逮捕が相次ぎ、昭和19年3までに総計21が逮捕された。

 国家権力による弾圧は、日蓮正宗の信徒団体である創価教育学会に対するものだけではなかった。日蓮正宗僧侶である藤本蓮(本=秀之助)も、創価教育学会の有村・陣野らが逮捕される少し前の616日に、不敬罪等の容疑により逮捕されている。

 藤本は昭和2年ごろ、日蓮正宗に入信し、昭和16年に出家し僧侶となった経歴の持ち主。この藤本と同時に、藤本にしたがう高塩行雄も逮捕されたが、高塩は逮捕直後より「改悛の情顕著」ということで起訴猶予となり、藤本のみが、922日に起訴となった。

 さて、この昭和18年6、7日蓮正宗僧俗に対する国家権力による嵐のような連続検挙に対し、宗門はどのような対処をしたのであろうか。

 戸田会長の書いた「御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるも恥ずかしき次第」(「創価学会の歴史と確信」より)とは、いかなる「次第」か。

 まず宗門は、あわただしく7に何回も長老会議、参議会を開き、局面の打開を協議した。それを受け日蓮正宗宗務院は730日付をもって日蓮正宗宗務院より「院達」を、全国の「教師住職教会主管者」宛に出す。

「院達」は、来る821日と22日に第1回目の、825日と26日に第2回目の「教師錬成講習会」を、総本山の富士学林で開催することを伝えるものであった。

「院達」には、「尚本講習會に於て特に重要事項の指示可有之に付理由無くして受講に應ぜざる者は宗制に照し處斷することあるべく爲申添へ候」と、厳しく参加を義務づけていた。そして、第1回目と第2回目の「教師錬成講習会」の参加者を、それぞれ次のように指した。


第1回目/中島廣政、井口琳道、青山諦量、中原顯照、渡邊慈海、渡邊孝英、小野眞道、細井精道、白石慈宣、野木慈隆、佐藤慈豊、鈴木義忍、椎法英、舟橋泰道、猪又法護、辰野開道、小川慈大、永澤慈典、崎尾正道、秋山教悟、岡慈契、太田慈晁、澁田慈旭、柿沼廣澄、高野法玄、佐野慈廣、前川慈寛、瀬戸恭道、佐野舜道、秋田慈舟、早瀬道應、木村要學、堀米泰榮、眞弓智廣、佐藤慈英、佐藤覺仁、佐藤治道、八木直道、磯野寛清、本江廣泰、本多妙鶴、長岡法頂、福重照平、高瀬養道、藤川徹玄、重住慈嚴、反橋智道、佐々木隆道


第2回目/渡邊慈海、大村壽道、青山諦量、東完道、伊藤達道、太田泰福、本多慈運、千草法輝、三野徹妙、上原一如、平山廣生、小野宏憲、佐野廉道、佐野周道、影山惠信、岡田諦齢、堀米泰榮、高橋信道、西方慈正、關戸慈晃、林信隆、淺井廣龍、渡邊智道、秋山圓海、豊田貫道、奥法道、能勢安道、川田利道、落合慈仁、鳥山馨道、野村學道、本締雄、市川眞道、大石菊壽、手塚寛道、小照道、早瀬義顯、渡邊廣順、宮澤慈悳、飯塚慈悌、佐藤舜道、石井觀境、辰野慈忠、菅野慈俊、崎尾正道、中島妙宣、岩瀬正山、花枝宏旭、長谷部道海


 この「教師錬成講習会」においては、第1日午前5時に起床し、国旗掲揚、勤行、食事などを済ませたのち、午前8時より同11時まで堀日亨上人が講義をなし、午前11時より正午まで教学部長・佐藤舜道より指示がなされた。

 食事をはさんで午後1時より午後2時まで、堀米泰榮教授(のちの堀米日淳上人)の講義、午後2時より午後3時まで教学部長・佐藤舜道が再び指示をした。夜は午後6時50分より2時間にわたり「協議会」をおこなった。

 第2回目も午前5時起床。国旗掲揚、勤行、食事などの後、午前7時より「英霊墓参」。午前8時より同11時まで堀日亨上人による講義、その後、正午までの1時間、報国課長・青山諦量より指示がなされた。

 昼食後、午後1時より午後2時まで堀米教授の講義があり、その後、食料増産をめざして農作をおこない、夕食の後、第1日目と同様、午後6時50分から2時間にわたり「協議会」をおこなった。

 では、宗門は該当者の厳正なる出席を求めた「教師錬成講習会」で、なにを徹底したのであろうか。哀れなことであるが、国家権力の弾圧に恐怖し、“神宮大麻(神札)を寺院の庫裡、あるいは僧や信徒の住宅に祀ることはやむを得ない”との宗門中枢の決定を徹底したのであった。

 昭和18年8日蓮正宗は一山あげて大謗法に染まったのである。江戸時代、徳川幕府の弾圧を恐れ、謗施を供養として受け取る大変節を宗門はなしたが、それに匹敵する一大教義違背を、時を隔て昭和の時代に再び犯したのである。

 日蓮大聖人曰く。

謗法と申す罪をば我もしらず人も失ともわず・但法をならへば貴しとのみいて候程に・此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」(妙法比丘尼御返事)

【通解】謗法という罪を、自分も気づかず、また人も悪いともわず、ただ法を習っているのだから貴いとばかりっているので、この人も、またこの人に従う弟子、檀那なども無間地獄に堕ちるのです。


【「地涌」669/1993-06-15】

2007-12-04

九州広布の原点


 牧口初代会長が出席して、初の九州総会が開催されたのは、昭和16年(1941年)の秋11。ちょうど今頃の季節であった。場所は福岡県二日市の武蔵旅館。もちろん、学会の会館などなかった時代である。

 その時の参加者は約40人。太平洋戦争勃発(昭和16年128日)の直前であり、社会に暗雲がたれ込めていた中での開催であった。時に牧口先生、70歳。総会には、奥さまとお嬢さまとともに出席されている。

 最晩年に当たるこの時期に、牧口先生は毎年、九州に足を運ばれている――昭和13年夏、鹿児島へ。14年春、福岡の八女へ。15年11には福岡、久留米、八女、長崎の雲仙(うんぜん)、更に島原から荒尾、熊本を経て大分の別府へ――。そして、翌16年11に、この九州総会への出席となるのである。

 東京から九州へ、今なら飛行機で1時間半ぐらいだが、当時は列車を乗り継いでの長旅であった。旅費も大変な中で工面されていた。

 行く先々で、3里(約12km)、4里という交通の不便な田舎道を、折伏の先頭に立って歩かれた牧口先生。ご高齢にもかかわらず、その足取りの勢いたるや、同行の人達も中々ついていけないほどであったという。

 このように牧口先生の行動は、「大聖人の仰せ通りに、必ず広宣流布をしてみせる」との“大情”に貫かれていた。要領や策など微塵もなかった。愚直なまでに、どこまでも「一人」のために尽くされた。これが、私ども学会の創立者である。そして、この初代会長が、まさに五体をぶつけるようにして切り開かれたのが、九州広布の誉れある天地なのである。

 本日、九州総会にお集まりの方々をはじめ、九州各県の同志の福運に満ちあふれた姿を、牧口先生もどれほどお喜びくださっていることであろうか。どうか、このことを強く確信し、最大の誇りとしていっていただきたい。


 人生に偉大な目的をもつ人は強い。偉大な仕事、偉大な道に生き抜いた人は、自らをも偉大にしてゆける。いかなる困も悠々と乗り越え、常に大きく境涯を広げてゆくことができる。

 牧口先生の時代も、戸田先生の時代もの連続であった。その中から何としても活路を開かんとの、初代・二代会長の死闘によって、今日の学会の基礎が築かれたのである。

 その「大」が胸中深く刻まれているがゆえに、私はどのような困にも、またどのような試練にも負けなかった。師匠が偉大だったからこそ、私はひたすら学会に仕えてきた。この信は、これからも絶対に変わることはない。更に更に勢いを増しながら、報の誠を尽くしてゆくのみである。


 さて、牧口先生を迎えての九州総会――この総会それ自体が、いわば波乱の劇でもあった。

 会場に着かれた牧口先生。総会の準備にあたっていた役員が顔色を変えて報告する。「大変なことになりました。特高刑事が3人もきています。総会ができるかどうか……」と。特高とは特別高等警察のこと。戦前の警察制度で、政治関係を担当し、人々に恐れられていた。この頃、既に牧口先生、学会への弾圧の手が伸びていたわけである。

 この報告に牧口先生は、「なに、大丈夫だよ」と悠然と応えられる。

 役員や周囲の人は、“いや、危ないです。行かれない方がいいです”と、牧口先生を止めたいであったかもしれない。だが牧口先生は、何の恐れる風もなく、平然と会場へ入ってゆかれた。

 その時である。会場にいた一人の男が牧口先生に向かって、大で怒鳴るように言った。「国がすすめている天照太神を悪く言うのは、けしからんではないか」。

 いつの時代にも、時流に流される人がいる。何が真実かもわからず、権威に媚び、形勢のいい方につこうとする。こうした信のない臆病な人ほど、哀れな人はいない。

 居丈高(いたけだか)にまくしたてた男は、「どうだ、答えられないだろう」と得気であった。しかし牧口先生は、気迫のこもった目でその男を見つめ返された。男は気圧(けお)されたように沈黙してしまった。

 牧口先生は会員の方に笑顔を向けながら、開口一番「天照太神とは、法華経の行者を昼夜にわたって守護する諸天善神なのです」と。まことに鮮やかな反撃であった。御書に照らして本質を鋭く突いて、パッと切り返す。これが信の戦いである。

 こうして総会は始まり、牧口先生は諄々(じゅんじゅん)と宗教の真実の道について語られた。あの権威を借りた居丈高の男は、いたたまれなくなったのか、いつしか姿を消していた。

 70歳の牧口先生自らが、国家権力を後ろ盾にした妨害の徒との戦いの矢面に立たれ、厳然と会員を守り抜かれたのである。私にはその光景が絵のように浮かんでくる。

 これが広布の「将」の姿であり、代々の会長の精神であった。

 私は、青年部の諸君にこそ、この精神をしっかりと受け継いでもらいたい。いかなる権力、悪の勢力に対しても、厳然と我が身を挺(てい)して立ち向かう学会精神、青年部の魂を忘れないでいただきたい。


 九州総会は、体験発表、質問会と進んだ。「時間だ」とストップをかける特高刑事。牧口先生は2時間、淡々と指導を続けられたのである。

 私も現在、機会あるごとにスピーチをしている。これは後世のために、悪を打ち破り、広布の大道を幾重にも開き、残しておきたいからである。私の命のある限り続けてゆく決でいる。


 ともかく、初の九州総会は終始、牧口先生の勇気ある学会精神に貫かれたものであった。ここに、「創立者」の手づくりによる、信の「原点」が刻み残されている。

 いかなる波乱があっても、毅然と、また悠々と乗り越えていかれた牧口先生。この創価精神さえ忘れなければ、九州は絶対に負けることはない。永遠なる発展を遂げてゆくことができる。否、牧口先生の戦いをえば、九州は負けられない、負けてはいけない法戦の地であると、強く申し上げておきたい。


 交通の便もよくない当時、牧口先生高齢をおして、遠く九州まで何度も足を運ばれた。東京から博多まで、途中の地を訪れながら4日目に到着されるということもあった。今のように飛行機もないし、新幹線もない。汽車の硬い座席に長時間、揺られながらの旅である。高齢の先生にとって決して楽なものではなかったはずである。

 しかし、なぜ九州に行くか――牧口先生はその情を一人の婦人に、こう言われている。

「私は、あなたが本物になれば、こうしてはるばる来た甲斐がある」と。

 本物の信の人を育てたい。そのためには、いかなる労もいとわない。これが初代牧口先生の切なるいであった。

 いずこの地にあっても、「本物の信」の人が一人いればよい。広宣流布の命脈は、その「一人」によって厳然と守られ、幾重にも広がっていくからである。

 私も戸田先生のもとで、その「一人」になることを決して、立った。そして今は、皆さま方一人ひとりが、その「一人」となっていただきたいことを願し、日々広布の戦いに挺身している。


【11.18記合同幹部会 1989-11-12 創価文化会館


 今、草創期と同じ労をしているのは海外である。その味で、世界広布はまだ草創期といっていいだろう。その中から必ずや本物の弟子が陸続と現れることを確信する。日本の学会員が、海外の同志に教えを請うようになるのは時間の問題だ。広布を語る資格もなければ、師弟を語る資格もない幹部を一掃しよう。人知れず地道に戦い続ける庶民を、と崇(あが)め称(たた)えよう。