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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2009-12-02

会合のあり方 7


 これが最終回。林竹二が追及している世界は、「虚空会の儀式」を志向している。


 授は本来、「その場で(教室で)」子どもたちの学習を組織する仕事であるのに、子どもの発言を吟味にかけるという作が欠けている結果、授は多くは、子どもたちがもち合わせの知識の多寡を競う場にすぎないものになっている。すなわち持ち合わせの情報量の多寡が物を言うから、成績の差が歴然とあらわれてくる。持ち合わせの知識量の豊富な子どもとか、頭の回転の早い子どもが幅をきかすことになる。本当にまともに物を考え、借りものの知識にたよって物を言うのを好まない子は、沈黙してしまうことになる。本当に沈潜してふかい学習をすればビックリするようなまともな追求や発見をする子がおいてきぼりになったりする。授のあと、素晴らしいが出るのは、ふつうの授の中で、陽のあたらないところに坐らされている子どもたち──成績不振児であったり、問題児であったりするという経験がくりかえされたところから、私は、深い授の中では、成績の差は消えるという結論にたどりついたのです。彼らの能力は、ふかいところにしまわれているので、浅いところで勝負を争うような授の中では、彼らが「お客様」にされるのは当たり前だといえるでしょう。深いところにしまいこまれている宝物をさぐりあて、掘り出す作になるとき、授の中で、成績の差など消えてしまう。そういう授をする力量を、教師が自分のものにすことができないかぎり、その志があろうとなかろうと教師は差別教育をやっているのです。


【『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』林竹二〈はやし・たけじ〉(筑摩書房、1977年)】

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと

2009-12-01

会合のあり方 6


 こんなを書いた子どももいます。


 私はこの「人間とは何か」を勉強してじたことは、ふつうの算数や国語などとちがうし、算数のように答えで終ってしまうんではなく考えれば考えるほど問題が深くなっていく。私は勉強していて、どこで終わるのか配になってきたほどだ。私は一つのことをもっともっとと深くなっていく考え方が、こんなにたのしいものかとびっくりした。


 主体的で持続的な、せまい枠をはめられていていない問題の追求が、どれほど楽しい営みかを、子どもは身をもってじているわけです。


【『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』林竹二〈はやし・たけじ〉(筑摩書房、1977年)】

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと

2009-11-30

会合のあり方 5


 持っている力をひき出されないでいる、埋れたままになっているということは、ただそれだけではすまされない。やがて非常に大きな不幸、──脱線や狂気を生み出すわけです。埋れたままになっている力は、平穏無事に埋れているという保証はまったくないのです。それはいろいろな形をとって発現する。「無法」や「乱暴」という形をとって爆発することがあるわけです。


【『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』林竹二〈はやし・たけじ〉(筑摩書房、1977年)】


「無法」や「乱暴」を、「怨嫉」や「批判」と読み換えればいい。

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと

2009-11-29

会合のあり方 4


 たとえば、ベートーヴェンの第9シンフォニーはすばらしい。だからだれが指揮棒をとってもそれはすばらしい音楽になるといったら大笑いでしょう。曲が素晴らしいものであればあるほど、その演奏の指揮をとるものがほんとうに曲をふかく捉える力をもち曲の内部にはいりこんで、それを己のものにして、実際の演奏の中に自分の解釈を実現できなければならない(それが解釈するということです)。彼は一人一人の演奏者から彼らのもつ最善の力を引き出して音楽をつくりあげる。教師が授組織するとき、これと同じ仕事にいどんでいるのです。教材は書かれた楽譜にすぎないのです。


【『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』林竹二〈はやし・たけじ〉(筑摩書房、1977年)】

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと

2009-11-28

会合のあり方 3


 しかし、授の中で子どもが集中するちからをもっているというのは、可能としてもっているので、教師がきびしく授組織するのに成功するときだけ、それは引き出されて現前する。(中略)子どもが集中する力をもっているということは、集中すべき対象があるときには集中するということで、それは同時に、その対象が欠けているときには、とめどもなく散乱する。どうしようもなく散乱するということなのです。それがすなわち子どもが集中する力をもつということなのです。集中すべき対象が欠けているときでも、「集中」しているというのはウソです。にせものです。行儀よくしていることと集中していることとは全く別の事です。


【『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』林竹二〈はやし・たけじ〉(筑摩書房、1977年)】

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと

2009-11-27

会合のあり方 2


 授というものは、本来、子どもがもっているそれぞれの個的な、固有のたから(可能)を、引き出す作である。そのための「道具」が教材である。その道具をつかうには方法があり、技術があるだろうが、何よりも大事な、教師の条件は子どものの見えること──子どものうちにかすかに動いているものや、ことばにならないおもいをじとる人間的な資質であるだろう。それがであるわけだが、それはやさしさとは別のものではない。教師がそれを欠けば、子どものうちにある、表面には姿を見せない大事なたから(可能)は切りすてられる外ない。子どものもっている豊かな可能の貴重な愛惜すべき部分は、遠慮会釈なく学校教育の中で無残に切りすてられてゆく。この「切りすて」に抵抗すると、今度は子ども自身が容赦なく切りすてられるのである。


【『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』林竹二〈はやし・たけじ〉(筑摩書房、1977年)】

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと

2009-11-26

会合のあり方 1


 20代で読んだ本書は、私の深い部分に決定的な影響を及ぼした。なかんずく林竹二が説く「授のあり方」は、そのまま「会合のあり方」を示唆するものだった。短期集中連載。カテゴリーの「会合」と「座談会」も併せて読んでもらいたい。人と人とが集い合う以上、そこは交の場であり、感応(かんのう)の舞台であらねばならない。


 私が教育現場に向かって、執拗に、授を根本から考えなおすことを求めつづけて来たのは、学校教育の中の、子どもの不幸を見るにしのびないからであった。教師は子どもたちの不幸にたいして、自分に加害責任のあることをほとんど気にしていない。そこに子どもの不幸の根ぶかさがある。子どもの切りすてには種々相がある。それは、まず子どもが学校の中で切りすてられるという形態をとる。それが昂ずれば、やがて、学校からの子どもたちの切り捨てにまで進行する。だがこの二つは、本質において一つのことにすぎない。事のはじまりは、学校教育の核である授の質の低さ、底の浅さであり、それをもたらしているものは、授が教師の「務」として形骸化して、その中に子どもがいないという事態である。いま学校で行われている授によっては、子どものもつ底の知れない力(可能)は、殆んど、あるいはほんの僅かしか、しかも、極くつまらない部分しか引き出されていない。学校教育の中では、子どものもつ大きい力の大部分が切りすてられている。子どものもつゆたかな力を引き出す授の能力を教師が欠くことが、やがて教育から子どもを切りすてる行為につながってくる。

 学校教育における子どもの不幸の根本は、子どもがのかたまりという存在であるのにたいして、これを教える教師が、考えようもないくらいにを欠いている事実の中にある。

 子どもがもつのゆたかさ、ふかさ、正確さを示す一例を紹介してみよう。


 ……林先生とはなすと、発ぴょうしたくなる。

 林先生とはなすと、ほかのことをわすれてしまう。

 よそみをしないで、先生のかおを、じっとみられる。

 ほかの先生が見ているけど、あがらなかった。

 よくべんきょうがわかった。

 ビーバーのことも人間のことも、すごくわかった。(小4女子)


【『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』林竹二〈はやし・たけじ〉(筑摩書房、1977年)】

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと