Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2008-02-07

現在の発展を安易に考えるな


 何事も決して簡単に出来上がるものではない。一つの大学、一つの組織が「信用」を得、栄えていくには、陰に並大抵でない労がある。この点、創大も学会もあまりに隆々と発展しているゆえに、いつしか安易に考える傾向が出てくることを私は配する。


東京、練馬・豊島区代表者会議 1989-12-28 聖教新聞社】


 千鈞の重みがある一言。学会の隆盛は、三代会長の死闘があったればこそ。創価大学の発展は、創立者が真剣勝負で世界にネットワークを築けばこそ。


 我々は、をつくる側にいるのか、それとも出来上がったを眺める側にいるのかが問われる。


 人路をつくる路に迷う者あり作る者の罪となるべしや良医薬を病人にあたう病人嫌いて服せずして死せば良医の失となるか(257頁)


 師が切り拓いた「創価の大道」は「人類の正道」である。建設の労に謝し、開拓のに報いるのが真の池田門下生だ。

2007-12-03

「私は永遠に諸君を見守ってゆく」


 私も諸君を見守る。創立者として、我が大学、我が学園に集い、馳せ参じた諸君の人生の“勝利の栄冠”を、ただひたすら祈っている。日々祈り抜いている。そのいの深さは誰人にもわからないであろう。

 仮に諸君が、一旦は社会で敗北し、また、人生の境に陥ることがあろうとも、すべての人が見放すような事態になろうとも、私だけは絶対に諸君の味方である。

 誰が知らなくとも、誰が見ていなくとも、私は生涯、否、永遠に諸君を見守ってゆく決でる。常に諸君を守り、諸君のために戦う一生でありたい。これが創立者としての私の情であり、一である。

 そして、やがて諸君一人ひとりの頭上に、勝利の証の桂冠をこの手で飾り、この手で祝福してあげたい。その時、私はどれほど嬉しいか。どれほど誇らしいか。そのことを人生最大の楽しみとし、私は生き抜いてゆきたい。


創価教育同窓の集い 1989-11-05 創価大学中央体育館】


 忘れようにも忘れられない指導の一つ。私はメイン会場にいた。創大OBだった先輩が、自分の入場券を私にくれたのだ。「俺は周辺会館で同時中継を聴くから、遠慮しなくていいよ」と。


 先生は、「たとえ犯罪者になろうとも」と仰せになられた。創大を出たとか、出てないとかはどうでもいいことだ。こういうを持つ人が、世の中に存在するという事実を私は知った。人間の極地がであることを悟った。


 私は男子部の地区リーダーだった。この日の夜、地区大会を開催した。私はこの指導だけ紹介して語った。「とにかく今後の私を見ていて欲しい。今は多くを語りたくない。多くを語ると嘘になるから」と。


 師のから受けた衝撃の数々は、轟くような余韻となって今も尚、胸の内に響き渡っている。死ぬまで消えることはない。

2006-05-22

会員のためなら死さえ厭わず


 ――私は、たとえ刺されようと、撃たれようと、広布のため、会員の方々のためなら「死」さえ厭(いと)わない決できた。少々の批判などに動ずるはずもない。皆さま方のためには、“屋根”にもなろうと、我がに誓ったままに進んでいくのみである。

 ともあれ私は、皆さま方のためなら、どんな労も厭わない。これまでも書きに書き、話しに話し、数え切れないほどの人と会ってきた。例えば現在、私のもとにいただく手紙だけでも、毎日、かなりの数に上る。しかし、その一通一通に可能な限り、真を込めて対応している。いかに激務が続こうとも、子の幸福じて戦う日々にこそ、信仰者としての最高のい出が刻まれてゆくことを確信しているからである。


【第22回本部幹部会 1989-10-24 創価文化会館


 指導の原文は「うたれようと」となっている。これでは、「打たれようと」とも受け取れる。だが、その後の「『死』さえ厭わない」との文脈で考えれば、「撃たれようと」と表すのが正しいと私は判断した。


 昭和33年(1958年)127日、両国の日大講堂で第7回男子部総会が行われた。戸田先生の逝去から8ヶ――。3万5000人の代表が集い、学会を取り巻く風評をはね返す、怒涛の勢いに満ちた総会だった。この席上で、突如、演壇裏から暴漢が先生を目がけて駆け上がった。瞬時に二人の青年が体当たりを食らわせ、事なきを得た。師を守ったのは、多田省吾さん(元公明党副委員長)と山口康宏さん(初代文京支部長)である。


 こうした現実があって、この指導があるのだ。果たして、弟子の側はどうだろうか? 寸分も違わぬであれば、初めて師弟は不二となる。「どんな労も厭わない」決と実践があるか否かを我が胸に問う。


 師のを、どこまで我がじているか。それが、我が生命の電圧となるのだ。


 師は一通の手紙から、弟子のをあますところなく汲(く)み取って下さる。弟子は、師の指導から何を汲み取るか? 不甲斐なき自己を呪うのは容易だ。決するには、かなりの勇気を必要とする。


 しかし、残された道は一つしかない――。

2005-03-27

絢爛たる歴史を綴れ


 秋谷会長を中に、このように若き青年が集い、諸君と共に「青年世紀の年」第2年を生き生きと迎えることができ、私は本当に嬉しい。

 私はすでに、諸君を信じ、諸君に頼み、諸君に広宣流布と学会の未来を託す以外にない年齢である。ゆえに私は、本年も全力を挙げて後進の育成のため、完璧なる万年への広宣流布の基盤建設のために走り、この1年は、10年分にも匹敵する歴史を刻んでいきたいとっている。

 これは決して言葉のみで言っているのではない。口先だけの言葉は、何もに響かないし、何も変革することはできない。その味で、どうか諸君も、大聖人の門下であるならば、また私と共に戦おうとに決めたお一人お一人であるならば、同じ1年であっても、最高に充実した青春を送り、最大に自己を発揮しゆく歴史をつくっていただきたい。そして、最高に生きがいのある、価値ある日々の、自分自身の軌跡を絢爛(けんらん)と綴っていただきたい。


【第11回全国青年部幹部会 1989-01-06 創価文化会館


 阿部日顕による第二次宗門問題が起こる丁度、2年前の指導。これが、昭和最後の指導となった。


 日本が揺れ、世界が揺れた激動の年。翌17日、昭和天皇が逝去。平成の幕が開いた。41日から消費税導入がスタート。バブル経済により不動産価格が高騰の極みに。その陰で、リクルート事件が発覚し、連続少女殺害事件の犯人が逮捕。723日に行われた参議院選挙では、旧社会党に風が吹き、与野党逆転。1969万票を獲得した勢いに乗って、土井たか子委員長が「山は動いた」と気を吐いた。


 中国では63日に天安門事件が。学生による民主化運動に対し、中国当局が武力制圧する模様が映像で世界に配信された。そして、119日、東西を分断してきたドイツ・ベルリンの壁が28年という歳を経て崩壊した。


 いずれも、ついこの間のようにじる出来事だ。21世紀に至るわずか10年の間に、時代を賑わす寵児(ちょうじ)が現れては消え去り、金融機関は不良債権にのた打ち回り、合併を繰り返した。大手企のいくつかは倒産し、下請け・孫受け企は塵芥(ちりあくた)のように吹き飛ばされて、中小企の経営者は自らの命を手に掛けた。サラリーマンの終身雇用も完膚なきまでに破壊され、日本の安全神話も完全に崩壊した。


 政治家や企家が次々と舵取りを誤った激動の時代にあって、創価学会は隆々たる発展を続けた。しかも、この間に、宗門問題が起こり、信教の自由を封じ込めようとする策謀の嵐が国会内で吹き荒れたのだ。全く、奇蹟としか言いようがない。師弟不二の魂は、20世紀の完全勝利を勝ち取った。


 この指導がなされた当時、私は25歳。前年の9に地区リーダーとなっていた。身震いするほどの激をもって走り抜き、2世帯の弘教となって結実した。4から、創価班の本山担当の一員となり、11には初めてメイン会場に参加できた。いずれも、忘れ得ぬ歴史である。

2004-10-09

仏子を犠牲にする存在を許すな


 妙法流布に進む学会員の皆さま方は、お一人お一人が皆、尊き「の使い」である。御本のかけがえなき子であられる。

 何にも増して、その方々を尊敬し、守り、大切にしていくことは法者として当然である。

 仮にも、最も大事な子を利用し、見下し、犠牲にしていく存在があれば、経文と御書に照らし、誰人であろうと私は許さない。また、戦ってきた。ゆえに迫害も大きかった。

 来る日も、来る日も、早から夜半に至るまで、ただただ子の安穏を祈り、を砕き、尽くしきったつもりである。これは御本尊の前で、私は断言できる。

 細かな上にも細かなをつかい、また、大きく安全の屋根をつくり、広布のために労されている皆さま方を守ってきたつもりである。壊れかかった生命の器を直し、元気に蘇生させていく信の指導も、こちらの生命を削るいでの労作であった。

 疲れ果てることもしばしばであった。また、極めて多忙な身でもある。しかし、私にとって「会員を守る」という一点ほど重要なことはない。その一点に血を注いできた。学会員をい、気づかうにおいて、私以上に実践してきた人は絶対にいないと確信している。

 ともあれ、門下の一人ひとりを、どこまでも気づかい守られた御本の御振る舞いを拝しつつ、日々労を尽くしきってきたがゆえに、今日(こんにち)の学会がある。

 決して組織の上の命令や権威によるものではない。そのような形式で人のをつかめるはずがない。学会はどこまでも信の上に、「真」と「人間」で結ばれた“の世界”である。

 戸田先生は、逝去を前にした最後の指揮の中でこう言われていた。

「学会は“雰囲気”を大切にしていきなさい。皆の楽しい、仲の良い“雰囲気”を壊す者は敵である」と。

 人間のを熟知された戸田先生の一つの結論的指導であった。

 この和(なご)やかな麗しいの絆を、絶対に壊されるようなことがあってはならない。どこまでも朗らかに、潤いに満ちた、仲のよい台東、中央両区であっていただきたいと重ねて申し上げておきたい。


【台東・中央区記合同総会 1988-05-11 東京上野池田講堂】


 今日、台風22号が関東に上陸する予定。東日本では過去10年間において最も強い勢力らしい。今年、日本に上陸した台風は、これで九つとなり過去最高。東京は、一切の会合が中止。もう2日早かったら、本部幹部会とぶつかっていた。


 先生ご自身の境を吐露されながら、「会員を守る」姿勢を教えて下さっている。


「会員を守る」とは、会合の運営をすることではない。広布の最前線で、四者の先頭に立って走り、全責任を担って奮闘することである。口先だけなら、どんなことでも言える。だが、現実は壮婦に配されている青年部が殆どであろう。「君がいないと困る」と言われる青年部が果たしてどれぐらい存在するだろうか? 頭数の話じゃないよ(笑)。


 ある時、先輩がこう語ったことがある。


「全国制覇9連覇の時、俺達男子部が、現実の結果をもって四者の牽引力となった。婦人部に文句を言わせたことなど、ただの一度もなかった。今はどうだ? 婦人部の後から男子部がついていくような戦いじゃ情けないとわないか?」


 折伏戦の中で学んできたことは、後輩を守り、友を救うということだった。腫(は)れ物に触るような存在が一人でもいれば、そこから組織が破られていく。


 先入観とあきらめが瞳を曇らせ、行動を阻む。


 青年部時代のこと。ある部を担当することになり、簿を見ながら、部長に現状を訊ねた。あるメンバーのことを訊くと、誰も会ったことがないと言う。部長は延々と言いわけを並べ、高に自分達の努力を主張し正当化しようとした。簿には電話番号が書いてあった。「電話をしたことはあるのか?」「いえ……」。その場で私は受話器を取った。直ぐに相手が出て、私は電話での非礼を詫びてから、自己紹介をし、少しばかり話をした。間もなく引っ越すとのことだった。電話を切った後の様子はご像にお任せしよう(笑)。


 そういや、こんなこともあった。新体制となったある本部でのこと。一人の副本部長が全く出てこない。本部長に訊いてみると、「いやあ、誰が行っても会えないんですよ。居留守みたいです。メモも毎回入れてます」。ゴチャゴチャと色んなことを言ってたが、結局、既成事実を挙げて誤化してるだけだった。悩んでいる風もなかった。そのことで指導を受けようとすらしてなかった。「じゃあ、こっちでやるよ」と言っておいた。この副本部長は、本部長よりもキャリアがあり、年下ではあったが先輩格だった。昔、うての悪として地元で悪をはびこらせていたこともあって、誰もが一目置く存在だった。私は、本部長とやり取りした翌日の昼、会社に電話をした。その日の夜に会う約束をし、足を運んだ。「オウ、しばらくだな!」とを掛けると、でかい図体を小さくして「はい」と笑いしてた。一緒に勤行をした。私は静かに語りかけた。


「やる気があるのか、ないのか聞かせてもらおうか?」

「いえ、やる気がないわけじゃ……」

「ハッキリしろ! ないんだったら、壮年部にしてやるよ」

「やる気はあります。ただ、ちょっと出なくなったら、タイミングを失ってしまって……」

「そうか。じゃあ、俺がタイミングを作ってやるよ。明日、部長会があるから、それに出ろ」

「エッ、明日ですか……」

「来なかったら、お前は壮年部送りだ。多くの後輩の邪になるからな」

「わ、わかりました。必ず行きます」


 何とのないやり取りであろうか!(笑) ただ、一緒に勤行をした時、私は彼のの響きからそれなりの信があることをじ、そこに賭けた。翌日の部長会では、後輩からを掛けられ、恥ずかしそうに笑いながら、後輩の肩に手を回す彼の姿があった。


 組織に出てこない幹部がいるとすれば、出てこないことを容認している周囲の責任だ。自分が全力を尽くしても駄目だったら、どんどん先輩に入ってもらえばいいのだ。先輩も全滅したら、秋谷会長にまで当たるぐらいの責任があって当然だとう。そのための幹部だろう。


 どんな人であろうとも、守ってあげる人が一人いれば救われる。何とかする人間がいるから、何とかなるのだ。


 第42回本部幹部会。先生より、創価グロリア吹奏楽団に「今後は、流行歌も演奏してはどうか」との提案が。先生はその場で、最前列にいた女子部に「何が聴きたい?」とリクエストを促された。女子部はためらいながら「『世界に一つだけの花』です」と答えた。先生が「できる?」と指揮者に問うと、「できます!」と元気一杯の返事。絶妙の呼吸で、幹部会は期せずして一気に盛り上がった。女子部が違う曲をリクエストしても実現してなかっただろうし、先生が「できる?」と尋ねてなかったらでき得なかった。何気ないやり取りのようでありながら、実は先生の一から生まれたドラマである。

2004-09-22

病魔


 3年前の秋、私は10日間、入院した。はじめてのことである。しかし客観的には、いつ倒れても決して不議ではなかった。入信以来、40年間、また戸田先生の遺志を継いで、30年近く、走りに走ってきたからだ。

“30までしか生きられない”といわれた弱い体で、働きぬいてきた。走りに走ってきた。常に嵐と戦ってきた――。

 入院の件はマスコミ等でも大きく報じられた。あらぬ憶測や、利害や惑がらみの姑な動きも数多くあった。しかし私は、それらのさざ波を達観していた。

 私は、この病は、の大慈悲であると深く実していた。もう一度、一人立って、真の総仕上げを開始すべき“時”を教えてくださったと確信した。

 今こそ、本当のものを語っておこう。後世のためにも、本格的に、あらゆる角度からの指導を、教え、残しきっておこう。そして創価学会の真実を、その偉大なる義と精神を伝えきっておかねばならない――と。

 それまで、学会も磐石にしたし、教えるべきことは教えたとも考えていた。

しかし、この病気を契機として、私はこれまでの10倍、20倍の指導を残そう。10倍、20倍の仕事をしよう、と決した(大拍手)。そして、以前以上に、いやまして真剣に走り始めた。これからも走っていく(大拍手)。

 ともあれ、これから諸君の人生にあっても、大なり小なり、労とは避けられない。 しかし、すべては諸君を大樹へと育てゆくの慈悲と確信してもらいたい。

 そのことを確信し、堂々と一切を乗り越え、あるごとに、いよいよ強く、いよいよたくましく、いよいよ朗らかに人生と広布を開いていく、「信仰王者」として生き抜いてもらいたい。


【第3回全国青年部幹部会 1988-04-29 東京池田記講堂】


 入院されたことは、創価班大学校生となった先輩から、ファミリーレストランで聞いた。今でも鮮明に覚えている。「お前、ここだけの話だぞ。今、創価班で先生のご健康を祈っているんだ。実は、入院されてるそうだ」と。私は唸(うな)った。先生は57歳だった。2年後の59歳となられた時、先生は「完全に学会の宿命を転換したと確信している」(「第2東京新春代表者会議」1987-01-04 創価学会新館)と宣言された。というのは、戸田先生も北条会長も58歳で亡くなられていたからだ。


 普通、高齢になって病気をすると別人のように元気がなくなるものだ。どことなく、個が薄らぎ、静かな佇(たたず)まいとなる人が圧倒的に多い。だが、先生は違う。病気を契機とされて、それまで以上の大闘争を展開されるのだ。年を経るごとに、右肩上がりの急カーブを描いてゆく。常人の千倍、否、万倍の仕事をされ、それでも満足することなく、次なる闘争に立ち向かうその姿は阿修羅の如き様相を呈している。


日日につより給へすこしもたゆむあらばたよりをうべし(1190頁)」との御聖訓そのものであられる。


 人は40代に差し掛かると、何となく倦怠期となり、新しい挑戦をしようとしなくなる。過去の績でよしとした途端、人間の成長は止まる。語る内容は常に過ぎ去った過去の体験を元とし、新たな発見や動が全くなくなってゆく。惰の波に飲まれた人物は、学会のスピードから遅れ、飾りみたいな存在となるのは必然。


 とは、死ぬ瞬間まで前へ前へと進みゆく人の異だ。戦って戦って戦い抜いた生命力こそ、の実体であろう。

2004-06-23

揮毫


「いくらでも書いてあげる。それでその人が喜び、奮い立つのであれば、私は骨身は惜しまないよ」


【『前進』1965-06号】


 書籍の扉などに記された先生の贈言は、後年、『若き友へ贈る』(文藝春秋/1971年)、『わが友へ』(聖教新聞社/1973年)として編まれた。


 会長勇退後、本格的な指導が聖教新聞に掲載されるようになったのは1982年(昭和57)頃からだと記憶する。


 それ以降、特に日顕による宗門問題以降、先生の執筆量は加速度を増し、現在に至っている。師のは全く変わらない。それどころか、いや増して学会員一人ひとりをは深まるばかりだ。


 文章は残るものだから、“書く”という作は慎重を要する。受け手に誤解を与えるような表現は避けねばならない。こうして私なんぞがネットで文章を公開するだけでも、それなりの労がある。ましてや、新聞などに掲載される文章ともなれば、どれほどの労がつきまとうことか。


 書くことが大変であることを知る簡単な方法を教えて進ぜよう。試しに、毎日の聖教新聞1面に掲載されている「わが友に贈る」を書き写してみるといい。たったあれだけの文章を写すだけでも大変である。


 ましてや、先生は、『新・人間革命』を連載され、ほぼ毎日のように随筆を書かれ、各地域の会合にまでメッセージを寄せて下さっているのだ。私は、「八万法蔵」とはこのことか! と驚嘆せずにはいられない。


「読むのが手」とか、「中々時間がなくって」なあんて言っているのは謗法であると言っておきたい。76歳になる師匠が骨身を惜しまず、激励し抜いて下さっている。「何としても幸福になって欲しい」「何が何でも勝たせてあげたい」とのご境であろう。そうした師のを知らずして、広宣流布に直結した人生を送ることは不可能だ。


 切り抜いて、朱線を引き、持ち歩いて活動することだ。動きながら何度も読むことだ。先生のを求め抜き、先生のに触れ、先生のを我がとしながら、阿修羅となって戦い抜きたい。