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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2007-12-21

「折伏」「指導」の本義


 一人の人間の生命を揺さぶり、動かしながら、正しい成への軌道へと導いてゆく――これが「折伏」の道であり、学会の「指導」の本義である。


【第9回全国婦人部幹部会 1989-11-29 創価文化会館


 たったこれだけのことが出来るか出来ないかで、地涌の菩薩かどうかが決まる。


 友の生命を揺さぶるためには、を開かせ、を通わせ、をつかむ必要がある。テクニックではダメだ。所詮、自分の生き方の問題である。


 まともな折伏、きちんとした指導ができる幹部は少ない。


 創価学会広宣流布の団体である。最も広宣流布に貢献した人が幹部になっていくべきだ。ところが現実は、そうなっていない。このまま行けば、本部職員は職坊主と成り果てることだろう。


 問題がありながら、不問に付されている職員が少なからずいる。学会本部は情報漏洩(ろうえい)を恐れているのだろう。これが第二、第三の山友や原島を育てる温床となるに違いない。


 生命の交流にこそ、本物の幸福がある。互いが互いを必要とする関係が真の団結だ。境涯の拡大とは、より多くの友とを通い合わせることに尽きる。組織のために会員を手段にし、選挙のために友人を利用するような姿勢は邪道だ。創価の王道は、この指導が全てである。

2006-11-08

指導を咀嚼せよ


 ここで、まず申し上げておきたいことは、これまで私は数々のスピーチをしてきた。また、多くの学会の指導がある。

 各地の広布の指導者である幹部は、まず、自らが率先して指導を読み、咀嚼(そしゃく)し、自分のものとしていただきたい。

そうでないと、どんなに多くの指導がなされても、結局は空転となってしまう。

 指導を聞いては、ただそれを伝える。自分自身で考え、咀嚼しようとはしない。それで事足りると考えているのは、大きな間違いである。

 そうした形式的な、“官僚的”ともいえる存在に、幹部は絶対になってはならない。そこには、みずみずしい信の流れも、温かな魂の脈動も伝わらないからである。


【「8.24」記 第1回東京総会 1989-08-24 創価文化会館


「咀嚼」とは、口の中で噛み砕き、味わうこと。昔は今のように、幼児用の食品がなかったから、噛む力が弱い内は、大人が噛み砕いて与えたものだ。


 子供達の好きな食べ物の上位に、ハンバーグやカレーライスが登場した頃から、「噛む力が弱くなった」と指摘されるようになった。私の世代ぐらいからだ(1963年/昭和38年生まれ)。所謂、「新人類」とネーミングされた世代であり、校内暴力が社会に表面化した世代でもある。東京オリンピックの前年ということからもわかるように、日本が経済的に豊かになりつつある時代だった。


 そして、私の世代が親になった頃、極端に顎(あご)の細い顔が登場し出した。「噛む力」は確実に退化しつつあった。


 人間の消化機能は咀嚼から始まる。唾液に混ざっているアミラーゼによって炭水化物は、より小さな糖に分解される。だから、歯が悪い人は、知らない内に胃腸に負担をかけている。


 更に、よく噛むことで得られる効果としては――リラックスする、免疫力を高める、虫歯を予防する、ボケを防止する、視力が向上する、ダイエットに役立つ、姿勢がよくなる、美容効果などなど。(※「健康生活のアイデア」を参照した)


 一番最初となる衛星中継で先生は、「池田門下生を乗るのであれば、我が指導を如是我聞せよ!」と仰せになったのだと私はじた。この時、26歳。それ以降、31歳になるまで、新聞に掲載された指導は、必ず3回読むよう掛けた。、通勤途中で。そして、会社の昼休みに赤線を引く。更に、一日の闘争を終えて、要所要所を四角で囲った。我が青春は、文字通り師の指導と共にあった。その中で毎年、100冊以上の本も読んできた。


 砂漠の民がオアシスの水を貪るように、私は指導を読み抜いた。そこには、類い稀なる指導者論と将軍学があった。人生と生命の勝利の方程式があった。ものの本質を見抜く智史観があった。人と人とのを結ぶ慈愛があった。そして何よりも、大聖人のが脈打っていた。


 同じ内容であっても、全く新しくじることが幾度となくある。それは、先生の境が進まれているからに他ならない。80歳になろうとしながらも、今尚、一人の戸田門下生として、前へ前へと進み続けておられる先生の姿を見失ってはならないとう。とは、完成品ではなく、無上道そのものなのだ。


 現在、スピーチの量は降りしきる雨の如く、膨大な量となっている。その様は、既に我々に対してではなく、滅後の弟子に残されているようにすらじられる。だが、そんな惰弱なことを言っているようでは、後世の門下生に笑われてしまうことだろう。まして、消化不良を起こしているような幹部は問題外だ。


 我々が、現代の舎利弗となり阿難となり、四条金吾となり南条時光となることを望むのであれば、広布史に残る金字を打ち立てるしかない。

2006-09-18

我が地域への指導を記せ


 先日、たまたま「沖縄創価学会」の公式サイトを見ていたところ、「永遠たれ“平和の要塞”」の素晴らしい一節が掲載されていた。全く記憶になかったので、全文はないものかと検索してみた。ところが、ただの1ページもヒットしなかった。


 気になった指導を見つけて、私がそのまま放っておくわけがない。家中の書籍を引っくり返し、何とか見つけたよ(『わが愛する友に贈る詩 天舞抄』1988-05-03発行)。早速入力し、一部だけアップしておいた。


 キーボードを叩きながら、怒りがムラムラと湧いてきた。「どうして、道産子の俺が、沖縄の長編詩を入力しなければならんのだ?」と(笑)。もしも可能であれば、沖縄青年部幹部会で私が気合いを入れてやりたいものだ。


 我が地域に対する指導には、深いい入れがあるものだ。何気ない言葉であっても、その地域に住む人にしか理解できない歴史・地域・実情を踏まえると、わぬ義が込められているものだ。先生は常に、一を通して万を教えて下さる。地域の国土世間・衆生世間に光を当てながらも、全体に通じる指導を展開されている。


 そうであれば、我が地域に対する指導を記すべきだ。まして、広布第一章で戦ってこられた先輩方が亡くなっている現実を踏まえれば、我が地域の広布史を一つでも書き残しておくことだ。世代間の断絶があれば、令法久住の命脈は絶たれてしまう。


 一番簡単な方法は、ブログをつくって、各都道府県ごとにリンクを貼り合い、トラックバックし合うことだ。インターネットは、ロムのみという傍観者が多い世界だが、自ら発信しなければ何の味もない。


 聖教新聞社から何か発行されるのを待つような姿勢じゃダメだ。民衆自らが、自分の志で、師弟の歴史を綴るべきだ。これが大乗の精神だ。

2006-03-16

指導主義


 創価学会指導主義である。つまり、“御本尊を拝もうではないか”と御本尊を指し示していくことが指導である。御本尊とは何かと説明することは第二義でよい。それよりも、具体的な実践活動を教え、題目をしっかりあげさせることが指導なのである。



 質問を受けた場合も、わからないから指導できないということはない。“わかる人のところへ一緒に行こう”、これが立派な指導である。指導は一から十まで自分が教えるという教授主義ではいけない。指導主義の方がずっと価値があり、どこまでいっても行き詰まりはない。



 教授主義は、必ず行き詰まりがあり、知ったかぶりの偽善になることが多い。したがって、指導を根本に、もちろん教授もしなければならない場合もあり、訓練が必要とされる場合もあり、擁護する場合もある。指導主義には、これらの全部の要素が包含されているのである。



 指導主義の精神を忘れると、情になったり、権威主義になったりする。指導主義の根底には、あくまで慈愛がなければならない。指導主義だからといって、要領よく自分が責任を回避し、一緒に問題解決に努力するということをせず、人まかせにするのは、指導主義ではなく、要領主義といわねばならぬ。



 指導には変な遠慮はいらない。率直に広宣流布へ向かっての、熱烈な確信を訴えるべきである。また、自らの体験を通して、人間にあふれた信の激励をすることである。更に、若々しい、新しい覚をもった指導、斬新味を加えた指導が大切である。

形式にとらわれず、時代に相応しながら、妙法を根幹とした指導でいくべきである。



 指導に行った先では、最高度に将来を考えて手を打たなければならない。その場限りの話や指導だけで終わっては、自己満足に過ぎず、聡明な指導者ではない。また、現地でつくったスケジュールに引きずり回されるような指導であってはならない。現地の人の考えつかない、もう一歩、大局的見地から、行く先々で将来のための楔(くさび)を打たなければならない。



 指導には、優しくいたわってゆくが大切である。けれども、言うべきことを言わないのはいけない。厳しく言ってあげることが、相手の大いなる飛躍の源泉になる場合がある。また、幹部が元気で指導に臨めば、相手も元気になる。境地の二法であり、依正不二である。

この指導によって、信の自覚を生じさせよう、生涯の道修行の活力にしよう、という確信が一切の指導の根本になる。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 これを知らずして学会幹部を乗ることは許されない。激励の奥底に指導主義を欠いてしまえば、口先だけの愛となろう。


 進むべき方向を指し示すためには、自分がリードしている必要がある。同じ位置では駄目だ。境涯において、何歩も何十歩も何百歩も先んじていればこそ、的確な指導が可能となる。


 10代、20代で既に何かから逃げたことのある人は、それが生涯の壁となる。「ちょっと、よくなっては逆戻り」という繰り返しになりがちだ。全部、自分がわかっているはずだ。


 ありとあらゆる課題に挑戦し、乗り越え、境涯を革命した人のみが、信の醍醐味を知る人だ。そして、その楽が人間を深めるのである。


 善知識とは、指導する関係のことだと私はう。指導する場合もあれば、指導される場合もある。一方通行では駄目だ。「指導しているだけ」、「指導を受けてるだけ」の人は偏っている。自ら指導を求め、それを後輩に伝えてゆく。ここに和合僧の生命線がある。善知識が多い人は幸せだ。善知識が多い人ほど動がある。


 法華経において地涌の菩薩が陸続と出現する様は、正しい信指導によって、次々と民衆が立ち上がる姿を表現したものと信ずる。


 今日、3.16の儀式から48周年を迎える。

2005-10-27

指導とは「生命の調整」


 テレビでも映像が揺れる時があるでしょう。その時には、やはり調整が必要です。何でも同じ方程式です。信においても、間違いを指摘し、大聖人の仰せ通りの実践、功徳の出るような信をさせてゆく。これが学会の指導です。テレビの映像が揺れたり、ラジオで雑音が入るのは、信の立場でいえば怨嫉であり、疑いといえましょう。大聖人の信は「無疑曰信」――疑わざるを信というとある通り、大聖人の哲理を、御本尊をいかなることがあろうと、絶対に疑わないというのがその究極です。何も大を出して勤行したり、折伏、指導をすることが信ではない。水の流れるごとく疑わずに信の実践に励めば、幸せになり、大聖人の仰せ通りの証拠が出ることは決まっているのです。


【福井本部幹部会 1967-08-14 福井県民会館


 それにしても、先生は例えが上手い。釈尊や大聖人も譬喩を多く用いて法門を説いたのはご存じの通り。“譬喩”という“智”は、慈悲から生まれる。民衆の決を促す言葉が、真っ直ぐに幸福へと誘(いざな)う。


 昨今は、指導を受けない傾向が顕著だ。その背景には、幹部の力不足と、「先生の指導を直接聞いてるのだから……」という勘違いがある。


 何の脈絡もなく、「題目だ!」と言われたり、「とにかく戦うしかない!」、「いいから、頑張ろう!」という突飛な指導も目立つ(笑)。相手が納得できるはずもない。無責任な幹部によって、迷いが更に深まり、いつしか幹部不信に陥ってゆく。相手に“ハッとさせる”何かを与えなければ、指導をする味はない。


 スピーチを聞いたり、読んだりして、わかった気になるのも危険。我々は所詮、自分の境涯の範疇(はんちゅう)で理解しているに過ぎない。そうであればこそ、師のを、先輩から教わってゆく必要があるのだ。これができない先輩幹部なら、無視してよろしい。相手にするだけ時間の無駄だ。


 全幹部は徹底してスピーチを学ぶべきだ。指導の流れをつかみ、どこに眼目があるのかを見極め、先生の呼吸を知ることが最優先課題である。具体的な方向は、会長指導で明らかになっている。


 また、幹部は後輩から学ぶ度量を持たなくてはならない。“指導する側”と“指導される側”といった差別識があると、平等な対話にならないからだ。何でも話せる雰囲気がなければ、往々にして後輩は口をつぐみがちになる。何気ない発言にこそ真実が隠されていることを弁(わきま)えるべきだ。


 信指導こそ、“学会の血脈”であると自覚せよ。

2005-09-24

言うべきことを言い切れ


 指導者が非を恐れて、正しい、言うべきことを言わなければ、もはや指導者とはいえない。ただ、うまく立ち回り、「悪」を放置したままにするならば、それは「偽善者」であり、「悪」をなすことと同じになってしまうからである。


【第3回中部総会 1989-01-29 中部池田記講堂】


 善悪とは社会的な価値である。周囲の人にを与えるのが悪で、楽を与えるのが善。慈悲とは抜与楽の謂(い)い。“楽”とは、気楽だとか、らくちんのことじゃないよ(笑)。成の方向へ進むのが、本当の楽。典においては、「楽(ねが)う」、「楽(ねがっ)て」と書かれているから、主体や自立をも含んでいるようにう。


 昭和54年424日に学会は一つのピリオドを打った。時流に屈し、宗門にひざまずき、あろうことか、師匠を表舞台から追いやった。


 組織が大きくなると、個の力が弱まる。個の力が弱まると、官僚がはびこる。官僚がはびこると、“”が失われる。こうして、組織には権威主義が横行し、義務や雇われ根がはびこるのだ。


 慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり彼が為に悪を除くは即ち彼が親なり(139/236/237/1003/1130/1159/1307頁)


 其れに付いても法華経の行者は信に退転無く身に詐親無く一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば慥に後生は申すに及ばず今生も災延命にして勝妙の大果報を得広宣流布大願をも成就す可きなり(1357頁)


 国家神道という強風に、日の丸がはためいていた時、宗門は狡猾(こうかつ)にも、その場しのぎで神札を受け取った。だが、牧口先生はこれを拒否。「私が嘆くのは、一宗が滅びることではなく、一国が滅びることなのだ。今こそ国家諌暁の秋(とき)ではないのか!」と戸田先生に語られる。


 この瞬間、日蓮大聖人の血脈は、創価学会に流れ通ったのだ。


 法正当の衣鉢(いはつ)を継ぐ我々は、指導・激励にあっても、対話にあっても、正しいことを言い切る折伏精神を堅持しなくてはならない。


 遠慮もダメだし、言い過ぎもよくない。きちっと中道にかなった振る舞いをするには、祈りが必要だ。


 邪悪を許さぬ信によって、学会は日顕宗と決別した。偉大なる謗法払いだ。

2005-03-30

師子王の如く正義を叫べ


 妙法こそ、諸経のなかの比類なき「師子王」である。「師子王」である妙法を持(たも)つ私どもは、次から次へと襲いかかってくる、現実の荒れ狂った「百獣」の姿にも、一つも恐れる必要はないし、いささかも動ずることもないのである。

 更にいえば、真摯(しんし)な広布の実践に励む私どもの真剣な叫びこそ、まさに百獣を従える王者の師子吼に通ずるものであろう。その威風は、いかなる邪悪の風をも吹き払い、世界に、社会に、正義と真実の清風を吹き込まずにはおかない。師子王の如く法の正義を堂々と叫び、訴えきっていくところに、広布の大道はいやまして開けゆくことを知らねばならない。


【第11回全国青年部幹部会 1989-01-06 創価文化会館


 大聖人は御書の中で「師子王」という言葉を、21ページにわたって記されている。いくつか挙げてみよう。


 悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人(かたうど)をなして智者を失はん時は師子王の如くなるをもてる者必ずになるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜むの強盛なるべしおごれる者は強敵に値(おう)ておそるる出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池(むねっち)の蓮の中に小身と成て隠れしが如し(957頁)


 譬へば定木(じょうぎ)の曲りを削り師子王の剛弱を嫌わずして大力を出すがごとし(992頁)


 師子王は前三後一と申してありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時もいきをひを出す事はただをなじき事なり、日蓮守護たる処の御本尊をしたため参らせ候事も師子王にをとるべからず、経に云く「師子奮迅之力」とは是なり(1124頁)


 各各師子王のを取り出していかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず師子の子又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼(はう)るなり(1190頁)


 此の経文は一切経に勝れたり地走る者の王たり師子王のごとし空飛ぶ者の王たり鷲のごとし(1310頁)


 譬えば一の師子に百子あり彼の百子諸の禽獣に犯さるるに一の師子王吼(ほゆ)れば百子力を得て諸の禽獣皆頭七分にわる、法華経師子王の如し一切の獣の頂きとす(1316頁)


 願くは我が弟子等は師子王の子となりて群に笑わるる事なかれ、過去遠遠劫より已来(このかた)日蓮がごとく身命をすてて強敵の科(とが)を顕せ師子は値いがたかるべし、国主の責めなををそろしいわうや閻のせめをや、日本国のせめは水のごとしぬるるををそるる事なかれ、閻のせめは火のごとし裸にして入るとをもへ、大涅槃経の文の法を信じて今度生死をはなるる人のすこしのゆるなるをすすめむがために疫病をのあたへ給うはげますなりすすむるなり(1589頁)


 ライオンが初めて日本に来たのは、慶応2年(1866年)の正という。大聖人がこれほど書かれているところをみれば、鎌倉時代では既に、ライオンという動物は人口に膾炙(かいしゃ)していたのだろう。


 ライオンの詳しい生態は今でもわからないようだ。少し前に見たテレビ番組によれば、獲物を狩るのはメスの仕事で、オスはグループを守ることに専する。まるで、学会の婦人部と壮年部のようだ(笑)。また、ライオンは足が遅いため、必ず団体戦で狩りを行う。オスはある程度大きくなると、グループから追い出される。狩りに馴染んでいない子供達は、飢え死にするケースも多いようだ。


 師子に師弟の義あり――


 御義口伝に云く師子吼とはの説なり説法とは法華別しては南無妙法蓮華経なり、師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法吼とは師弟共に唱うる所の音(おんじょう)なり作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経を作すなり(748頁)


 これは勧持品にある「作師子吼」の御義を口伝されたもの。「師弟共に唱うる所の音」とは、勤行唱題であり、法正義即学会正義を叫ぶである。叫びとは、抑えても抑えても、抑え切れずに魂からほとばしる何かである。叫びにも当然、十界がある。我々の師子吼は菩薩界・界の叫びだ。


 蚊の鳴くような師子吼は存在しない。様々な住宅事情はあるだろうが、を何度も潰すほどの題目を唱えなければ、の壁は破れない。皆の前で立派な決を述べるのは後回しにして、南無妙法蓮華経を叫びに叫んで参りたい。