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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2005-12-09

慈悲の一念は敵をも見方に


 戸田先生はよく言われていた。「の世界は、慈悲深いで接すれば、いくらでも変化するということを忘れてはならない。

 ともかく、から礼儀正しく、から粘り強さをもって接していくことが大切である。ここに指導者の本当の姿がある」と。まことにその通りだとう。

「確信」と「誠」と「真実」を込めた対話は、必ずや相手のを揺さぶり動かさずにはおかない。

 人間のは複雑である。初めは反発があるかもしれない。表面的には色々な姿を示す場合もある。しかし、「真」の対話は、相手のに「何か」を与え、「何か」を植えつけているものだ。それはいわば、病んだ人に良薬を注射したようなものであり、やがて時とともに「悪」のを癒し、「理解」と「共鳴」の花を咲かせてゆく。“敵”さえも“味方”にしていくことができる。これが信の力であり、妙法の力なのである。

 ご存じのように、学会のこれまでの活動も、波が絶え間なく巌に打ち寄せては砕いていくような、「忍耐」と「確信」と「誠実」の「対話」の連続であった。この粘り強い努力によって、勝利の水かさは増し、今日の大発展の広宣の世界を築くことができた。その皆さま方の功績は、永遠に胸中より消え去ることはない。


【第19回本部幹部会 1989-07-14 世田谷区・東京池田記講堂】


 やられたら、やり返せ――このが憎悪の連鎖を育み、戦争に至る。他人と争い、相手よりも勝(まさ)ろうとする境涯は修羅界である。自分の弱さを真摯に見つめ、我が境涯の殻(から)を打ち破ってゆけば、「自分自身に生きる」人といえよう。


 人間関係は、情に支配される世界である。ちょっとした勘違いや誤解が、とんでもない亀裂となることも決して珍しくない。誰しも、そんな経験があることだろう。


 15年ほど前に、ある先輩がこんな話をしていた。


「俺はさ、会社じゃ平和主義じゃないんだよね(笑)。嫌いなヤツとは口も利(き)かないんだ。でも、この間、面白いことがあったんだよ。あることで喧嘩になって、もう、かれこれ2年以上も口を利かなくなった後輩がいたんだよ。それ以前は仲よしだったんだけどね。もうね、会社じゃ、目も合わせなかったなあ。で、昨日のことなんだけど、その後輩と廊下で擦れ違うなり、会議室に引っ張り込まれたんだ。で、ある企画の件で、俺に見を求めてきたんだよ。ハッキリ言ってさ、『そんなの、どうでもいいや』ってったんだけど、『オオ、いいねえ、凄いよ!』と言ってしまったんだよ。すると、その一言で後輩はがらっと変わったんだよ。それ以降は、昔みたいに、また仲よくなったんだよね。いやあ、適当に言った一言だったんだけど、やっぱり、言葉って大事だよなあ」


 あまりいい例じゃなかったね(笑)。ま、こういうことも、あるってことで。


 いは、必ず言葉や振る舞いとなって表れる。以ってえのあ、禅宗は一切衆生を救うために出現した。その軍勢に加わっているのであれば、秀(ひい)でたコミュニケーション能力が求められよう。


 鳴門教育大学三宮真知子教授によれば、「自分が相手に誤解された」ということは比較的「気がつきやすい」のだが、「自分が相手を誤解した」ということには「気がつきにくい」という(聖教新聞 2005-12-04付)。


 誤解の内容には、1.聞き違い、2.指示語や省略語の取り違い、3.味の取り違い、4.発話図の取り違い、などに分けることができる。


「あの仕事は、もうやらなくていい」という場合の、「あの仕事」の中身を取り違えるのが、2に該当。4は、「どういうつもりで言ったのか」についての誤解。「ちょっと寒くないですか?」という言い方は、状況によっては、「暖房をつけて欲しい」、「窓を閉めて欲しい」といった“要求”と受け止められてしまう。


 三宮氏は、「誤解を避けるには、曖昧(あいまい)な言い方をせず、相手の立場から捉え直す」ことが大切であるとし、「わかりやすく、じよく伝える」のが大きなポイントであると指摘している。


 いずれにせよ、“策”であっては相手のに届かない。まず、相手に好を寄せることが大事だとう。つまり、「相手を好きになる努力」が求められるのだ。どうしても好きになれない人も、中にはいるだろう。だが、そこを避けて通れば、自分の成長はない。後々、必ず同じタイプの人と巡り合うことになる(笑)。慈悲が湧き立つほどの唱題に徹しよう。

2005-02-07

慈悲は智慧につながる


 それにしても、大聖人が細やかに人情の機微をとらえられ、最大の真で門下を激励されている御姿に、私は打たれる。愛する同志、後輩のために、一人ひとりのの綾(あや)を丹にたどり、踏まえながら、どこまでも尽くし、守り抜いてゆく――この強靭にして慈愛豊かな人間にこそ、法の精髄があることを知らねばならない。

 戸田先生は、よく言われていた。――一次元からいえば、「慈悲」があるということは、即「智」につながっていく。真の「慈悲」の人は、あの人のためにどうすべきか、どうしてあげたらいいかと、常にを砕きに砕いている。ゆえに、誰も気に留めないようなところにも気がつき、うっかり見過ごしてしまうようなところまで、自然に見えてくるものだ――と。

 所詮、「智」といっても、決して特別な「力」や「才」がなければ得られないというものではない。

 広布への汲(く)めども尽きぬ信の深さがあれば、次第にからの「いやり」とか「配り」が備わっていくものである。

 しかも「智」は、単なる「知識」ではない。「知識」を生かし、活用していく源泉が「智」である。いかに「知識」があっても、“慈悲なきインテリ”“冷酷な知識人”であっては、本物の「智」はわいてこないし、「知識」のみでは、生きゆく力も、幸せの価値も見出させないであろう。

「慈悲」こそ、真の「智」の源泉であり、「信仰」の根幹である。


【港・目黒渋谷合同支部長会 1988-09-12 東京・麻布文化会館


 慈悲即智であり、智即慈悲であるとの指摘は重要。は内より薫(くん)じて、ある時は慈悲と現れ、ある時は智と発揮される。


 引用された御書は、「富木殿御返事」(968頁)。富木常忍が大聖人に帷(かたびら)を供養したことに対するお礼の手紙。90歳になる母親が、子のために縫った。母が亡くなる1年前のことだった。富木常忍は60歳ぐらいであったと推測される。素晴らしい出来栄えに驚いた常忍は、自分が着るよりも、慕ってやまない大聖人に着て頂きたいとい、母と相談した上で大聖人に御供養したとわれる。


 一枚の衣に仕立てられた「」と「」のドラマ――大聖人は全てをご存じであられた。


 殺伐とした社会では、「無慈悲」が実されるばかりで、「慈悲」という言葉はふわふわと浮いた印象を受ける。日常生活の中で慈悲を実践に移しているのは、もはや学会員だけであろう。


 慈悲は抜与楽と訳す。友のを抜くためには同しなければならない。そして、悩んでいる人に楽を与えるには、迅速な行動が求められる。


 我が国では、阪神・淡路大震災からボランティア熱が高まった。ボランティアは慈悲の一分といえよう。尊い無私の行動を知り、「まだまだ人間も捨てたもんじゃないな」と銘した人々も多かった。


 ボランティアの語源は、ラテン語の「Volutas(ボランタス・自由志)」、フランス語の「Volunte(ボランティ・喜びの精神)」、英語では「Volunteer(ボランティア・志願兵)」とされる。まさに随自意の精神そのものであり、誰かに言われたから行うなどといった雇われ根はない。


 相手の尊厳を守るための、やむにやまれぬいが慈悲である。人を追い込んだり、問い詰めたりするのは無慈悲というのだ。慈悲は、表面的な優しさでもなく、厳しく叱ることでもない。分析することでも、評価することでもない。共に涙し、共に汗を流すという人間の絆であり、契(ちぎ)りである。


 されば、人のの深さを示したものが慈悲だ。友のしみを引き受ける精神が慈悲だ。


 日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもなが(流)るべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ(329頁)


 大聖人の慈悲を体現する学会幹部と育とう。