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2012-03-13

密教と本覚論




2012-03-01

仏教の時間観


 仏教の時間理解は基本的に現在指向である。それは前世も来世も説かなかったブッダの現世指向に起因するものらしい。転生説を容れるとしても、それは円環時間観の存在を示すことにならない。転生が、計測される同一の時間軸の上に起こるものとされていないからである。 物事はすべて移ろい行くものであり、不変な存在などない(諸行無常)というのが仏教の根本的な認識である。アビダルマではこれを「すべての存在は極分化された一瞬にのみ存在し、瞬間毎に消滅する」(刹那滅)という思想として展開した。従って、計測される時間の外にある。 龍樹に代表される空思想においても時間は、計測の外で現在意識を軸に考察されている。


Wikipedia

2011-12-14

時間と空間の明確な違い


 ところが、全てのものが内から見えるわけではない。同時に、内からでないと見ることができないものがある。それが意識である。では“意識”とは何か――。意識とは、量ではなく質である。瞬間瞬間に、それ自体に独自の性質をもっているものである。しかもそれは、瞬間瞬間に質的に変化し、流れるものである.その質的な変化は、そこに切れ目を入れること、ができない。これが、もう一つ大事な点ではないかと思う。


 そこに、時間と空間の明確な違いがある。空間は同質的な延長であり、数が成り立つためには必要である。しかし、時間には空間がない。それを、時間があると思わせるのは、私たちの意識が覚えていて、それを知ることができるからである。そうなると、本当の時間とは意識であると言わねばならない。


 過去の意識に新しい意識が加わっていく。過去を積んでいくからこそ、時間は刻々ふくらんでいく。一瞬前と現在の瞬間とでは、すでに内容が違っている。時間が流れるとは、刻々に新たなものを見いだし、自己を転換することである。新しいものを生むことによって結局、時間とは自由である。


 では“自由”とは何か――。人間が本当の自己になることである。しかしながら、人間が真の自己になることはまれである。したがって、自由はまれである、といえる。


「ベルクソンの生命論」南山大学教授 澤瀉久敬(おもだかひさゆき)氏

2011-12-02

宮田論文に関する覚え書き 7

 いくつか質問が寄せられたのでお答えしよう。昨日の記事の「仮に教義が絶対であったとしても、結局は一人ひとりの解釈によるのだ」が少しわかりにくかったようだ。


「とっくに書いてあるだろうが!」と思いきや、それは別ブログであった。


 日蓮が経・論・釈を厳密に分けたのは既に書いた通りで、議論の原則を打ち立てるためであって、決して言葉を絶対視・神聖視したものではないというのが私の考えだ(権実相対とは)。


 手っ取り早く書いてしまうぞ。世界とは存在するものではない。ここアンダーライン。世界とは認識されるものであって、我々が生きているのは「認識空間」であり「解釈世界」であるといってよい。


 現実は五感すら当てにならないのだ。

 例えば幻肢痛という症状がある。切断されて既になくなった手足の部分が痛むのだ。我々の実感としては五官が「感じている」と思いがちだが、実際に感じているのは脳である。


 だから見える人にとっては幽霊は実在するといってよい。統合失調症などの幻覚・幻聴も同様だ。つまり世界とは脳内に存在するのだ。

 反対に実際に存在する情報が捨象されるケースもある。フランス人に風鈴の音は聞こえない。要は意識に上らない情報は存在しないも同然なのだ。


 昨今、様々な分野でリテラシー能力ということが言われる。元来は「読み書きできる能力」の意であるが、「読み解く能力」という意味合いで使われることが多い。すなわち解釈である。


 三世間とは解釈世界の相違を示したものだ。国家、民族、宗教、政治、これらの全てが別々の解釈世界といえよう。


 そして脳科学では人間に自由意志はないとされている。

 にわかには信じ難いことだが、微速度撮影された映像を見れば何となく得心がゆく。

 時間軸を変えただけで、人間の動きがビリヤードの球のように見えるから不思議だ。反応と反射が行き交う光景。思考や自我など無意味に思えてくる。


 もう一つ大事なことを書いておくと、最終的に科学と宗教を結ぶものは「時間論」である。こちらに関しては勉強不足で結論を出すまでに至っていない。時間とは概念であって存在するものではない。

2009-11-21

あれこれ


◎無識とは、自覚のないまま刷り込まれた文化・伝統・価値観などの条件づけである。


◎イメージは過去であるがゆえに、考もまた過去である。そして、生は現在を流れる。


◎過去のイメージをい描くのは記憶の回想であって、観心ではない。


◎如々として来り、如々として去る中間に自分が存在している。


◎不安・恐怖は記憶の中に存在する。楽は覚であるが自覚した途端に過去のものとなる。


如来とは、記憶の呪縛を解き放ち、現在に生きることを味している。


◎真の現在を覚知すれば、そこには圧倒的な変化や流れがあるはずだ。その時、諸行無常は諸法実相と化す。


◎自分は過去(=)によって形成されている。自分の実体は「自分としての反応」である。記憶から自由になった時、は音を立てて変化する。しかし、重度の認知症患者がそのように見えないのはなぜか?


◎人間革命とは、現在の因々、日々、瞬間瞬間に進化させてゆくことだ。

永遠は存在しない


「安易な言葉づかいを戒めるシリーズ」の続きである。エ? そんな連載がどこにあったって? ま、私の気分が何となくそういうノリだってことでご理解してもらおう。


 永遠は存在しない。観測する人、あるいは変化する物がなくなった時点で時間は消失する。永遠とは概の中にしか存在せず、実在するのは「過程」のみである。

 で、時間とは過去であり、歴史と記憶の中にしか存在しない(「時間に関する考察」)。同記事で引用した「中の理」とは「脳内」を味しているのかもしれない。


 久遠とは過去を示している。もう一つ「尽未来際」(じんみらいさい)という言葉もあるが、この言葉自体「未来の際(きわ)が尽きるまで」という有限を暗示している。


 無限は存在する。だがそれは、万・億・兆……の彼方にではない。これだと、やはり「数える人がいなくなった」時点で限界となる。無限は1と0の間に存在する。0.000……1ということだ。小数点以下の0をいくらでも増やせば無限となる。つまり、無限に細分化できるってわけだな。


 永遠に込められているのは、死に対する超越願望なのだろう。だから大半の人々は、前という記号に味を与えようとして、地位や財産を残そうとするのだ。子孫ですらそうした側面がある。文字を書くことにも、同様のいが隠されているのかもしれない。墓なんてえのあ、そのものだわな(笑)。


 自分が死んだ後に何かの痕跡を残したい。そんな切実な願望が確かにある。我々が戦争や虐殺や乗り物による事故を忌み嫌うのは、自分という固有が大量死の中に埋没してしまうためだろう。


 気持ちとしては十分理解できる。私だってそうっている。だが待てよ。ちょっとおかしくないか?


 我々は「生きる痕跡」を残すために生きているのか? その証として「資本の奪い合い障害物競走」(=資本主義の競争原理ってことね)に参加しているのか? で、春期の娘の顔色を窺いながら、加齢臭対策に余がないってことなのか?(←最後のは全く関係ない)


 物ついた頃から、「アリとキリギリス」などの童話によって、未来のために現在を犠牲にすることを奨励されながら我々は育った。で、二十歳(はたち)前後になって、バイクをブンブン乗り回したり、チャラチャラした服装で盛り場をうろついたりすると、「お前は今さえよければいいのか? 将来を棒に振るつもりか!」と刹那主義をたしなめられた。


 しかし、だ。よくよく考えてみるとこの論理はおかしい。最大の理由は、権力者にとって都合のいい考法となっている。何となく刑務所にいる囚人が出所の日を待ちわびているような情になってくる。


 では、御書をひもといてみよう――


 天台云く「今我が疾は皆過去に由る今生の修福は報将来に在り」等云云、地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」等云云(231頁)


 これは数少ない未来志向だとう。基本的なスタンスは以下の通り――


 在世は今にあり今は在世なり、法華経の肝は諸法実相ととかれて本末究竟等とのべられて候は是なり(916頁)


 過去と未来と現在とは三なりと雖も一念中の理なれば無分別なり(562頁)


 所謂南無妙法蓮華経は三世一念なり(788頁)


 三世常恒なるを経と云うなり(708頁)


 そして肝なのは次の御文である――


 命已に一念にすぎざれば一念随喜の功徳と説き給へり(466頁)


 三世から見れば久遠即末法であり、一生を通せば時々刻々の一念となる。つまり、「今この瞬間」の生命の実相を重んじるのだ。私が記憶するところでは、大聖人が未来のために現在を犠牲にせよと教えた箇所はないようにう。


 死んだ後に何かを残すことよりも、今この瞬間に生を燃焼させることが大切なのだ。明日ではない。今日である。もちろん、未来に向かう姿勢は堅持されるべきだ。しかし、そのために今日を犠牲にする生き方は愚かであると言わざるを得ない。今、自分自身を十全に発揮できない者が、未来になって発揮できるとは到底えない。


 結局、永遠といっても一念に収まり、我が一念から永遠を開いてゆくしかない。現在に永遠なる何かを打ち立ててゆくことが、「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(790頁)であり、「日日につより給へすこしもたゆむあらばたよりをうべし」(1190頁)と加速度をつけて生を充実させてゆかなければ、生命は濁り腐敗してゆくとの御指南である。


 知らず知らずのうちに、「働き蟻」のような存在となってはいけない。キリギリスの如く「自らの歌」を歌え。

2009-10-27

人間が知覚しているのは0.5秒前の世界


 もっと言っちゃうとね、文字を読んだり、人の話した言葉を理解したり、そういうより高度な機能が関わってくると、もっともっと処理に時間がかかる。文字や言葉が目やに入ってきてから、ちゃんと情報処理ができるまでに、すくなくとも0.1秒、通常0.5秒くらいかかると言われている。

 だから、いまこうやって世の中がきみらの前に存在しているでしょ。僕がしゃべったことを聞いて理解しているでしょ。自分がまさに〈いま〉に生きているような気がするじゃない? だけど、それはウソで、〈いま〉とじている時間は0.5秒前の世界なんだ。つまり、人間は過去に生きていることになるんだ。人生、後ろ向きなんだね(笑)。


【『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二日出版社、2004年/講談社ブルーバックス、2007年)】

進化しすぎた脳  中高生と語る「大脳生理学」の最前線 進化しすぎた脳 (ブルーバックス)

(※左が単行本、右が新書)

2009-10-22

時間に関する考察


 全然まとまってないのだが、忘れないうちにメモしておく。


 過去と未来と現在とは三なりと雖も一念中の理なれば無分別なり(562頁)


 時間について調べている中で見つけた御文。これは凄い。


「夫れ法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(256頁)と撰時抄にあるが、を学ぶ際にまず時間を勉強しなさいよ、って話は聞いた例(ためし)がない。流転する時代、刻々と変化しゆく人生にあって、万物は成住壊空のリズムを奏でながら諸行無常へと向かう。そして日蓮大聖人は三世常住の生命観を顕された。


 種脱相対の一面は、どっちが永遠を説いているかってな話だ。要約すると「五百塵点劫vs久遠元初」で大聖人の勝ちってわけだよ。ここで重要なことは、いずれの時間も「過去」を示している点である。現代的な覚でいうと、永遠ってのは未来を象徴しているように考えがちだ。ここで一つの結論を出しておこう。すなわち、時間とは過去であり、歴史と記憶の中にしか存在しない。これが「中の理」ということだ。


 を称する十号の中に「善逝(ぜんぜい)」とある。とは、「善く逝った」存在であるというのだ。これには、社会的差別(=カースト制度)を正当化するための輪廻転生論を破折する味が込められていた。つまり、「輪廻からの脱却」である。また、如来は元々「如去(にょこ)」と称した。ね、後ろ向きでしょ(笑)。だから、過去なんだよ。橋から川下を眺めているような位置関係だ。如々として去る――。


 ちなみに御書の検索結果は以下の通り――

  • 過去 186(過去世 2)
  • 現在 97(現世 50/今生 108/今世 20/一生 56)
  • 未来 135(来世 35/後世 54/後生 138/未萠 8/将来 6)
  • 久遠 153
  • 三世 216

 法の示す永遠が「過去への原点回帰」であることは、まだまだ索を要する。