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2009-01-27

『人生問答』池田大作、松下幸之助


新しい「」の考え方


池田●教のなかには「」という考え方があります。こうした考えは現在では古い封建道徳の遺物であるとして排斥されていますが、「一切衆生」を説いているように、たんなるタテの主従関係を強いるものではなく、もっと社会への広がりを含めて、他者の存在を受け入れ、それへの信頼を強調した内容をもっております。

 人間疎外、エゴの相克する社会の亀裂を埋める潤滑油として、こうした考えに新たなを吹き込んで見つめ直していくことが必要ではないかと考えますが、ということをどういう味にとらえるべきか、またその役割はどうあるべきだとお考えになりますか。


下●おっしゃるとおり、「」ということはきわめて大事なものだといます。実は私どもの会社では、私自身の処世の基本でもあり、また社員の指針ともなるものとして、七つの精神というものを以前から定めておりますが、その一つとして「謝報」ということをあげ、このいこそ、われわれに無限の喜びと活力を与えてくれるものであり、このいが深ければ、いかなる困も克服でき、真の幸福を招来する根源ともなるものだとしております。ですから、ご質問にもあるように、人間生活の潤滑油としての役割を果たすものだといますが、たんなる潤滑油ではなく、いわば高級潤滑油ともいえましょう。

 俗に、犬でも三日飼われればを忘れぬといいますが、まして人間には本来、好を受けたら、それをありがたいと謝し、それに報いたいという情がわいてくるような本がそなわっているのではないでしょうか。という言葉がいつからできたか知りませんが、そういう言葉のない昔から、その内容はあったろうといます。しかし、そういうものを強くじる人と、あまりじないという人とがありましょう。けれども、あるていど適当にというものをじ、それをかみしめ味わう、そして、だんだんそれに報いていくというところから、その人の人生も、また共同生活も非常に情操的に豊かになっていくとうのです。

 の豊かさというものはいろいろありましょうが、やはりを知るということが一番を豊かにするものではないでしょうか。人間といわず天地万物いっさいのものの恵みがみなわかってくるわけです。

 花一つ見ても、今まではただきれいだなというていどだったものが、もっと深い美しさがわかってくるといます。つまり、を知るということは無形の富であって、無限に広がって大きな価値を生むものだといえます。

 猫に小判ということがありますが、せっかくの小判も猫にとっては全く価値なきものにすぎません。けれども、を知ることはいわばその逆であって、鉄をもらってもそれを金ほどにじる。つまり鉄を金にかえるほどのものだとうのです。そして、だから金にふさわしいものを返そうと考える。みんながそのように考えれば、世の中は物ともに非常に豊かなものになっていくでしょう。

 もっとも、このとか返しということは、けっして要求されたり、強制されたりするものであってはならないといます。今日(こんにち)、ということがともすれば排斥されているのは、昔はそれが君臣(くんしん)のを中として強調され、しかも多少強制的に要求されるといった面があったからだといます。

 けれども、本来、というものは、ご質問にもあり、またすでにのべてきましたように幅広いものであり、しかも人間生活を物ともに豊かにしていくきわめて大切なものなのです。ですから、そういうことが、自由な姿においてお互いの間で理解され、浸透していくことが望ましいといます。

 そのためには、それを培養するようなあるていどの教育が必要でしょう。最近は、豊かな情操を育てるうえで、いわゆる音教育というものが重視されているようですが、それ以上に、いわば「教育」というものを、近代的な姿で行なっていくことが大事だとうのです。


【『人生問答』池田大作下幸之助(潮出版社、1975年)】


 法には「」という考え方がある。それはタテ社会の主従関係を強いるものではない。「一切衆生の」が説かれているように、を社会へと広げ、他者の存在を受け入れ、信頼の眼を開いていく哲学ともいえよう。

 山本伸一は、この「」について、下幸之助に見を求めた。

 下は「」を最重要視していた。「謝報」は、自身の「処世の基本」であり、自社の社員の指針の一つでもあるという。

 それは「このいこそ、われわれに無限の喜びと活力を与えてくれるものであり、このいが深ければ、いかなる困も克服でき、真の幸福を招来する根源ともなる」からであり、「を知るということが一番を豊かにする」ものだと記していた。

 伸一は服した。

 さらに、下は、こう解説する。

 ――を知るということは無形の富であって、無限に広がって大きな価値を生む。猫に小判というが、猫にとっては小判も全く価値はない。しかし、を知ることは、その逆で、鉄をもらっても、金をもらったほどの価値をじる。つまり、を知ることには、鉄を金に変えるほどのものがある。

 そして、じた人は「金にふさわしいものを返そうと考える。みんながそのように考えれば、世の中は物ともに非常に豊かなものになっていく」というのだ。

 もとより、返しは、決して要求されたり、強制されたりするものであってはならない。自由ななかでについて理解を深め、この考えを、浸透させていく必要がある――それが下の主張であった。

 彼は「豊かな情操を育てるうえで、いわゆる音教育というものが重視されているようですが、それ以上に、いわば『教育』というものを、近代的な姿で行なっていくことが大事だとうのです」と結んでいる。

 父母や一切衆生の、報謝の道を教える法を、民衆に弘め、実践する創価学会には、その「教育」の生きた姿がある。


【『新・人間革命』新世紀 51/聖教新聞 200-01-21】


 いずれも富岡氏から寄せられた指導。深謝。


人生問答(上) 人生問答(中) 人生問答(下)

2008-04-02

一日の生活は朝が勝負


 社会へ雄飛する諸君の将来にとって、「現実」の課題となる点を語っておきたい。

 それは第一に、会社勤め等にあって「遅刻をしてはならない」という点である。何回も話したことだが、簡単なようでしいことなので、改めて申し上げておきたい。

 私は10年間、戸田先生のもとで働かせていただいたが、先生も出勤に関しては厳しかった。私自身も激務の日々にあって、2〜3回体調を崩して遅刻した以外は、休んだことはなかった。

 一日の生活はが勝負である。遅刻をすれば負けである。毎、元気に出勤して「おはようございます!」という姿が大切である。まず人生、「に勝つ」ことが勝利の基(もとい)である。

 その点、結婚している人にとっては、夫を送り出す夫人の姿勢が大事となる。御書では、「夫」を「矢」に、「妻」を「弓」に譬えられている。弓が弱ければ、矢が遠くへ飛ぶことはできないのが道理である。

 戸田先生は、「寝坊は人生の敗北である。そうさせるのは、夫人が悪い」と厳しく指導されていた。

 また、「廷」(天子が政治をとるところ)という言葉があるが、この語の元々の味も、“に仕事(政務)をする”ということから来たとされている。

 同志を裏切り、退転したり、我々に迷惑をかけた連中のほとんどが、の乱れ、生活の狂いから堕落していっている。勤行をしない、何かと理由をつけて、出勤しない等々――不議と共通した姿である。

 ともあれ、毎日を清々(すがすが)しくスタートし、日々に勝利し、楽しくも晴れ晴れと人生に勝利しゆく一人ひとりであっていただきたい。


【神奈川県、青年・学生部代表者会議 1990-01-15 神奈川文化会館


 札幌でのこと。冬ではあったが地区で早勤行を行うことを決め、地区拠点をお借りした。当時、私は班長(現在のニューリーダー)。主要メンバーは3人で、活動家は10人ほどいた。ところが、実際にやってみると3人揃えばまだいい方で、一人ということも珍しくなかった。しかも、この一人が同じメンバーじゃないときたもんだ(笑)。わざわざ、よそのお宅での勤行をするってえのも、中々辛かったよ(笑)。そして、遂に悪夢の日が訪れた。誰も来なかったのだ。拠点の主から厳しく注された。「ストーブだって、タダじゃないんだよ!」と。い出だ。


 大きな闘争になると男子部はやたらと早勤行を行う。その図は「どうせ、普段やってないんだろう? だったら、皆で一緒にやろうじゃねーか!」という浅はかなものだ(笑)。典型的な暴走族型活動。一人になると全滅(笑)。


 上京してからは、寺でやっていたもんだから、もっと大変だったよ。


 男子部はとにかくが弱い。最大の原因は夜が遅いことにある。当たり前だよね。何となく帰りずらくて遅くなるメンバーや、ダラダラと話して皆を帰さない幹部は、流されやすい傾向がある。夜になればなるほど元気がいいのは、起きてない証拠だ。


 活動で遅くなるから、自宅で題目もあがらないし、勉強もできない。その悪しきリズムが、デタラメな幹部をつくる。


 毎、30分の余裕をつくりたい。例えば、30分散歩したとしよう。それだけで健康という財産を手にすることができよう。読書にいそしめば、ものを深く考える癖がついてくる。たった30分間が人生を大きく左右する。唱題や御書拝読と狭く考えると長続きしない。好きなことに挑戦すれば、持続しやすい。


 今日は戸田先生の命日。二代会長亡き後、池田先生は50年間にわたって、一人学会を支えてこられた。先生は戸田先生から10年間訓練された。先生から50年間も訓練を受けてきた我々の中に、本物の弟子はいるのかいないのか。「に報いる」と口で言うのは簡単だ。

2007-09-07

“発想の転換”は“一念の転換”


 よく発の転換ということが言われる。人類の進歩は、絶えず発の転換、もしくは新しい着眼点を発見しつつ、それを起点としてなされてきたといってよいとう。

 科学の世界においても、近世においても天動説から地動説へと変転したのも、また20世紀においてアインシュタインの相対理論が生まれたのも、そこには大きな発の転換がありました。

 人間というものは、とかく既存の枠の中に生きようとする習のようなものがあります。そして、その習は頑としての奥に根をおろしていて、いったんそこから脱皮しようとすると、ものすごい勢いで引き止めようとする。これは個人においても、また社会のメカニズムにおいても、同じようなことが言えそうであります。

 日本という社会は、とかくこれまで、日本から世界を見てまいりました。個人においても、自分を中に据(す)えて他人を見ようとするものですが、他人の目をもって自分を見るということも、大切なことであります。これは、地球を中として考えた天動説から、太陽という他の天体を中として地球を見直した発の転換に通ずるものがあります。日本を中にして世界を見るのではなく、世界の客観的な目で日本を見つめ直すという発の転換が、いまほど必要な時はないと、私は考える。

 発の転換とは、的確にいうならば「人間の一の転換」であります。この生命の一の狂いが、実は日本をこれほどまでに駄目にしてしまった。いったい誰の一であったのか――ある人は派閥と私利私欲の葛藤に明け暮れ、ある人は学問の権威の座に坐して民衆を嘲笑し、ある人は経済的利益のみを追い求めて諸外国の顰蹙(ひんしゅく)を買い、ある人は評論家と称してもっともらしい言葉で自分を粉飾し、ある人はエリートという気位に立って弱き人々をいじめ抜いてきたのであります。この一切のエゴの激突のルツボと化した日本の姿を、再び鏡に照らして見直すべきではないかとうのであります。

昭和元禄”と呑気(のんき)に構えていた脆弱(ぜいじゃく)な一が昨今にいたって、脆弱な精神構造として白日の下(もと)にさらけ出されてしまったといってよい。

 ともあれ、あらゆる指導者たちが、正しい一に転換することが、今ほど緊急な時代はありません。しかし、それは単なる反省とか識変革などで変わり得るものではない。を支配するものが生命の働きである以上、もっと根源的ななにものかを必要とするのであります。それを私どもは知っている。現代の最も正鵠(せいこく)な一は、法の真髄による生命哲学に帰着しなければならないとうのであります。


【第36回本部幹部会 1973-12-16 大阪市・中央公会堂】


 いやあ、痺(しび)れますなあ。このような指導を読むたびに、身体がブルブルと震えてくる。先生、45歳の時の指導。当時のの勢いは凄まじかった。それこそ、威風堂々としてナポレオンを彷彿(ほうふつ)とさせる姿だった。現在、連載中の『新・人間革命』で描かれている前の年である。1972年には日中国交正常化を果たし、創価学会の存在はいや増して重くなった。また、1973年は「教学の年」と銘打たれており、750万世帯の学会員に哲学の楔(くさび)が打ち込まれた。


 本来であれば正本堂の完成を期して、法を世界へと展開してゆくことが、先生の構であったとう。だが、強欲な坊主どもと悪徳顧問弁護士によって、先生の足は引っ張られた。


 30年以上も前の指導でありながら、昨今の政治家に対する警鐘の響きがある。

2006-12-30

日月調和の時代


 さて、今日は満でもあり、暑い日が続いているので、ここで涼しい「」の話をさせていただきたい。

 といえば、よく戸田先生は“光を浴びながら、人生や哲学、未来を、夜中まで語り合い、論じ合ってこそ青春である”と言われていた。

 ともあれ、地球の衛星である。それは古来から“かぐや姫の宮殿”と親しまれてきたように、私達にはいつも何かを語りかけてくれる“おとぎの世界”でもある。


 また、義は、ロマンの世界にとどまらない。大聖人は御自身のお前について、こう仰せである。

「明かなる事・日月にすぎんや浄(きよ)き事・蓮華にまさるべきや、法華経日月蓮華となり故に妙法蓮華経とく、日蓮日月蓮華との如くなり」(1109頁)

 ――明るいことは太陽と以上のものはない。清浄なことは蓮華以上のものはない。法華経は「日月」と「蓮華」が象徴である。ゆえに妙法蓮華経とづける。日蓮もまた日月蓮華のようである――と。

 この御文には甚深の義があると拝するが、大聖人も御自身を「日月」のごとしと仰せのように、太陽とは切り離せない。

 私どもも常々、「太陽の法」とたたえるが、太陽だけではない。をも包摂する義を持つ法なのである。


 また一般的には、太陽とは互いに相対するものとして考えられている。だが、実は、相対するものの「調和」が価値を生み出す。それは、陽と陰、男と女、火と水、外向と内省等の関係にも見られる非常に大事な原理である。

 人間もまた同じである。いつも「太陽」のようにギラギラ燃えてばかり(笑い)、大で激励ばかり(笑い)では、自分も疲れる。第一、周りが迷惑である(大笑い)。

 皆が疲れている時には、「今日はベートーベンの曲でも」(爆笑)と穏やかに、疲れを癒すことも必要であろう。ともあれ、「」の光が包み込むように、静かに語りかけてゆくことも大切である。

 ある時は「太陽」のような満々たる生命力が必要である。とともに、ある時は「光」のように、清浄で穏やかな「精神の光」と円満な「知恵の光」を持たなくてはならない。

 特にこれからの高齢化社会、成熟社会には、この両面が必要になってくるようにう。

 また、学会にあっても、これまではいささか偏りのある“ミニ太陽”のような人が多かったかもしれない(大笑い)。今後は、「太陽」の力と「満」の光とが、見事に調和されたような人材の成長を目指してゆくべき時代といえよう。


 その味でこれからは、いわば「日月調和の時代」である。

 それは一つには、「自分を見つめる力」が要求される時代である。これまで我が国は「日本株式会社」(笑い)と言われるように、豊かな生活を求めて誰もが皆、せわしなかった。しかし、人間を犠牲にした経済的発展、氾濫する情報を前に、もはや外にばかり目を向ける時代ではなくなっている。今や、内なる自己を見つめる力が強く求められているといってよい。

 もう一つには、従来の男社会に対し、「女」の特質がより重要になる時代である。政治の分野でも、女の発言が重みを増しつつある。ここ東北にあっても、これまで以上に女見を尊重しながら進んでいただきたいとう。


 もちろん、太陽が男が女とは限らない。当然、その反対であってもよい(笑い)。事実、太陽が女詞、が男詞とする言語もある。女を太陽、男とする文化もある。

 かつて、社会運動家の平塚らいてう女史が、「元始(げんし)、女は太陽であった」と語ったことは有である。また私も、婦人は「家庭の太陽」と申し上げてきた。

 要は、「太陽」と「」、両者の絶妙な調和が必要となる時代を迎えていることを知らねばならない。


 かつて私はこう記した。

「昼は太陽と共に謳いながら 生命を燃やそう 夜は静かな光の道で 友の休むのを待って 自分という人間を考えよう」と。

 多くの詩人や歌人がを通して人生を詠み、それはまた日本人、東洋人の一つの精神史を綴ってきた。

 いわばは、を映す鏡である。古来、人々はいを託し、と語り、に我が人生を映して、の内を見つめてきたのである。

 人は、「自分を見つめる」ことを忘れた時、必ず進歩がなくなる。また、自分を見つめない人は、人間的な魅力も出てこないし、最後は枯渇せざるを得ない。

 だからといって、ただ自分を見つめてばかりいて(笑い)、行動のない人には前進も成長もない。大切なことは、実践の中で自分を凝視しつつ、そこで深められた精神を、更なる価値創造へのバネとしてゆくことである。

 その味で私どもは日々、御本尊に向かい、唱題することによって自らを照らし、境涯を深めながら、限りなく前進してゆくことができる。これほど偉大な世界はないし、価値ある人生もない。


 大聖人は妙一女(みょういちにょ)に「御身は忽(たちまち)に五障の雲が晴れて覚を詠(なが)め給うべし」(1262頁)――あなたは、たちまちに五障の雲が晴れて寂光の覚をながめられることでしょう――とのお手紙を認められている。

 五障とは、爾前経において、女人が1.梵天、2.帝釈、3.王、4.転輪聖王、5.になれない、とされた五つの障りのことである。しかし、たとえそのような身であっても、三大秘法御本尊に真剣に題目を唱えるならば、「寂光の覚」をながめられる自分になってゆく。すなわち、界の悟りの智が輝いてゆく。

 己の「界」の満に照らされた、その「智」の光は自身を見つめさせ、同時に他の人をも導く根源の力となる。そして、自身を照らす光が強ければ強いほど、他人への洞察や尊敬が深くなり、慈愛も深まってゆく。指導の力も深まる。

「守護国家論」の中で大聖人は、「内界を知らざれば外の諸も顕われず」(67頁)――自身の界を知らない内は、外の諸も姿を顕さない――と仰せになっている。

 この御文は「十界互具」の義を説かれたものである。また、私どもの信の一についても重要な示唆を与えてくださっていると拝する。すなわち己の「界」の光が強まれば強まるほど、他の人の「界」も確信できる。本来、であるという本源的な尊敬のが起こってくるのである。

 反対に、権威をカサに子を見下し、“我尊し”と威張っている人間は、それ自体、己界を現じていない証拠である。

 当然、「自分を見つめる」力もない。成長も止まる。堕落が始まる。人からも信用されない。

 そして、表では立派そうに振る舞いながら、中には裏で学会を利用しようと策動する者さえ出てくる。まことに「偽りの精神生活」である。それが、責任ある立場にありながら退転し、反逆した人間の正体でもあった。

 信の世界は全部、「自分」の内実がどうかが根本である。表面的な“組織の論理”で決まるのではない。大切なのは、いわゆる「話のうまさ」でも、多くの人を動かしてゆく「立場」でもない。どこまでも信である。一個の人間として、信仰者として偉大なる境涯を開いてゆくことである。それが自身の成を決定してゆく。また、実質的に広宣流布を進めてゆくのである。この原理・原則を私は厳然と言い残しておきたい。


 さて、再びの話に戻ることにしたい。

 アポロ計画以来、の研究は飛躍的に進んできている。その中で最も身近な天体であるに、太陽系全体の歴史が刻み込まれていることもわかってきた。ちょうど「一人」の人間に、「人類」の進化の歴史が集約されているのと似ている。また、「一人」をから味方にすることが「万人」に通じていくのである。

 最近の研究によると、の誕生は約46億年前。太陽系や地球とほぼ同じである。では、はどのようにしてできたのか。これには、地球と一緒にできたとする「兄弟説」、地球から分かれてできたとする「親子説」、地球が漂うをとらえたとする「捕獲説(他人説)」、その他がある。

 原始のは、燃えたぎるマグマの海であった。その後、次第に冷えて、軽い物質が表面の方へ、重い物質は中へと分かれて、地殻とマントルが形成された。

 約44億年前から40億年前までの間、激しい隕石の嵐や雨がを襲った。この時期、地球も含めた太陽系全体が、無数の隕石が飛び交う激動期にあった。

 宇宙においても、また、人間の世界においても、形成期には必ず激しい嵐があるものだ。戸田先生はよく語っておられた。“ある味で、学会も第三代が最も大変だよ。一番、嵐にあうだろう。だが、それを乗り越えれば、あとは永遠に安定していくであろう”と。

 初代、二代も熾烈な建設の闘の連続であった。それにも増して重要な時期が第三代であるならば、未聞の嵐はむしろ当然である。広布の磐石な未来を決する学会の“形成期”を第三代で総仕上げせよとの、先生のおに応える以外に、私の人生はないとっている。


 太陽系の激動期の中で、地球にも多くのクレーター(くぼみ)ができた。が、後の火山活動によってその痕跡はほとんど消されてしまった。

 一方、にはクレーターがそのまま残っている。いわゆる、“のあばた”である。なぜなのか。

 それは、が39〜32億年前まで火成活動をし、「の海」(他より低く、黒く見える部分)などをつくった後、深部まで冷えきり、活動を停止してしまったからである。このことはに、31.5億年より若い岩石がないことからも推定されている。

 つまり、は32億年前に、ほぼ死んでしまった天体である。その寿命は14億年。天体として出発した時のエネルギーが小さく、尽きてしまった。そのため、激動期の状況、いわば傷跡をそのまま表面に残しているのである。

 人生も、活動を止めてしまえば、理を実現し、完成させることはできない。ともかく生きて生きて生き抜いてゆく――その中でこそ様々な傷や痛みも時とともに癒され、人間としての円満な境地も築かれてゆくものだ。美しい緑に包まれた地球のように――。

 また、妙法を信じ、広布へと進んでいる今こそ、三世永遠の幸の旅路への出発の時である。ゆえに大きなエネルギーが必要である。題目を唱えに唱え、“満タン”のエネルギーを蓄えながら、私どもは悠々と幸福の軌道を進んでゆきたい。


 さて、静寂な「死の世界」であるには、ほとんど大気も水もない。大気は地球の10兆分の1。ほぼ真空の世界である。

 大気がないということが、どれほど悲惨なことであるか――。大気に守られないの表面は、「直(じか)に」宇宙空間からの脅威にさらされている。無防備の裸の状態である。

 太陽からのX線や紫外線、帯電粒子すなわち、いわゆる太陽風。また、その他のあらゆる宇宙線や隕石等々、そうした宇宙の“暴力”に何十億年も、は痛められ続けてきた。

 大気がないため、昼夜の温度差も激しい。昼は130度、夜はマイナス170度にもなる。その差、何と300度である。

 これに対し地球は、オゾン層など厚い大気の層や地磁気で保護されている。ゆえに、人類をはじめとする生物が生きてゆける。


 しかし、こうした無数の“宇宙のギャング”達の害に、人間が気づいたのは、つい最近のことである。「大気に守られている」という事実に、長い長い間、誰も気づかなかった。

 あまりにも大きな恵は、人は忘れがちである。あまりにも、すっぽりと身近に包まれているので、空気の偉大さに「謝」することがなかった。

 その大気がない世界の無残さを見て、初めて「地球の素晴らしさ」がわかったのである。地球に住むことが、どれほどありがたいことか。緑したたる宇宙のオアシス地球を、皆で大切にし、皆で真剣に守らなければならない。


 学会も、宇宙の中で最高に幸福な「信の世界」である。

 絶え間なく降り注ぐ物の攻撃から信仰を守り、諸天の力を増幅させながら、福徳の華を繚乱と咲かせている。

 確たる軌道もなく漂うのみの人生が多い中で、自他ともに人生を最も充実させて歩むことができる。

その味で、正法を守りゆく組織が絶対に必要である。人々を守りゆく指導者が必要である。また、ありとあらゆる社会の分野で活躍しゆく同志がいなければならない。

 一人になってしまったなら、無防備ののようなものである。無数のから信仰を守ることは困である。広宣流布も進めることができない。


 学会の存在が、どれほどありがたいか。大切であるか。あまりにも大きく守られているゆえに、その恵を当たり前のようにい、忘れてしまう場合がある。それでは浅はかである。また、守られ過ぎて、ひ弱になってもならない。


 謝のがなければ、もはや信もない。その人の周りの空気は濁り、福徳と歓喜に満ちた新鮮な空気を味わえない。それのみならず、不満と嫉妬で環境をも汚染してゆく。絶対にそうさせてはならない。

 また、そうした人間から、信の世界の清浄な空気を断固、守り抜いていかねばならない。


 にも始めは少しの大気があった。しかし、の重力が小さいため、結局、どんどん宇宙に逃げていってしまった。福運も、それを引きつける信の引力が弱まれば逃げていってしまう(笑い)。

“幸いを万里の外より集める”強盛な信一念で、汲(く)めども尽きぬ満々たる福運と生命力を私どもはたたえてゆきたいものである。


 ところで、は「死の世界」であるにも関わらず、地球に巨大な影響を与えている。

 それはあたかも、宇宙には「生」の力のみならず、「死」の力も存在していることを象徴しているようでもある。

 宇宙に溶け込んだ「死」の状態の生命も、実は様々な面で人間に影響を与えている場合がある。そこに法の追善供養の背景の一つがある。

 御書には「妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり」(1336頁)――(妙法の)妙は死、法は生である。この「生死の二法」が(地獄から界までの)十界の全ての当体である――と。

 生死、生死と永遠に繰り返していく生命。その「生死の二法」からは誰人も免れない。この生と死を貫く大法が妙法である。ゆえに妙法を持(たも)ち続ける人は、自身も三世にわたって幸福である。また、先祖をも救ってゆくことができる。

 反対に、妙法の世界を破壊しようとすることは、そのまま自身の生命を破壊することに通ずる。ゆえに、生死、生死と永遠に悩の極限の境涯となる。


 の引力が、太陽の引力とともに、海の潮汐(ちょうせき)――満ち潮、引き潮を起こしていることは常識である。

 それに加えて、最近ではが人間の行動や理・生理にも大きな影響を与えているという研究も注目されている。

 それによると、満や新の時に、人間の情緒が不安定になり、犯罪件数も増加するという。もちろん、これは主にアメリカでの統計であり、異文化の各国にそのまま当てはめることはできないかもしれない。

 ただ、人間の身体にも「海」がある。すなわち、体液は海水と似た成分である。その「内なる海」が、の変化に応じて何らかの影響を受ける――そうした見方に関が高まっていることは事実である。

 昔からよく知られているように、女の妊娠期間の平均も、満から満までの期間(29.5日)の、ちょうど9倍である。

 このように人は、太陽とともに時を刻む以上に、実はとともに生命の時間を生きている。

 ちなみに日本語の「つき」の語源は、「尽きる」であるともいう。形が段々欠けて尽きてしまうからである。

 しかも、「とき(時)」も、古くは「つき」と同じ味で使われた。例えば、「あかつき(暁)」を「あかとき」と表現した。

 英語の「ムーン(moon)」も「測る」という味が語源にある。「メーター(meter)」「メジャー(measyure)」などの語も親戚である。

「時を測る」ものがであった。「タイム(time)=時」と「タイド(tide)=潮」も同語源である。


 人間はをはじめとする宇宙とともに生きている。その事実は時代とともに、いよいよ明らかになってきている。

 大聖人は常に、日天よ、月天子よ、あらゆる諸天よと呼びかけておられた。

 元東京天文台長・広瀬秀雄氏は、大聖人が「天体の活動と不離不可分の生活をしていた」(『年・・日の天文学』中央公論社)ことに注目され、「依智(えち)の星下り」が“最大光輝の金星”に、「竜の口の光り物」が“エンケ彗星による流星”によると推定しておられる。

 このことは対談『「法と宇宙」を語る』の中でも触れておいた。

 広瀬氏は結論して、日蓮大聖人のいうように「その身と天体との一致まで堅く信じた人は他にほとんどいないとう」(前掲書)と述べておられる。大聖人の広大な御境界の一端に、一流の科学者も関を寄せているのである。

 ともあれ、全宇宙を我が「人生空間」とし、宇宙の運行のリズムに合致して生きる、その妙法受持者の生き方の正しさを、「と人間の関係」をはじめ、科学もまた証明しつつあるといえよう。


 法では「月天」を様々なたとえに用いている。「三昧(がつあいざんまい)」もその一つである。

 父を殺した悪逆の阿闍世王が、提婆達多にだまされ、乗せられて、悪を犯したことを悔い、に「悔熱(げねつ)」を生じた。

 地獄しみ、身体にも悪のできもの(瘡/そう)が出る。誰も治せない。自自得とはいえ、あまりにも悲痛な姿である。

 病気にも「身の病」と「の病」がある。の病の方が治すのはしい。

 この時、釈尊が王の後悔の姿を見て、彼を懺悔させ、そのを癒した。その様子が「太田入道殿御返事」には、次のように描かれている。

「世尊・大悲導師・阿闍世王のために三昧に入りたもう三昧に入り已つて大光明を放つ其の光り清凉にして往いて王の身を照すに身の瘡即ち愈えぬ」(1010頁)

 ――大悲の導師である釈尊は、阿闍世王のために三昧に入られた。そのあと大光明を放たれた。その光は清涼であり、阿闍世王のもとに行って王の身を照らすと、悪瘡(あくそう)はたちまち治った――。

 これは、「の病」を治したの慈悲の光を、優しい光にたとえた話である。


 軽度の「の病」の人は、いよいよ増加している。そういう人には強烈な激励は逆効果になる場合が多い。

 むしろ、粘り強く、静かに話をよく聞いてあげ、同してあげる包容力がポイントとなる。

 一般的にいっても、何か相談すると、話も聞かない内に、いつも「とにかく、題目をあげればいいんだ!」(爆笑)では、やり切れない。たとえ、真実ではあっても、相手が納得できなければ仕方がない。

「真理である」ことと、「説得力がある」ことは違う。どう、その人に「信の力」「唱題の力」を確信させ、発させてゆくか。そこまでに至る力が「指導力」なのである。


 釈尊が「三昧」に入ったということは、深い義があるとう。すなわち、これは妙法の「生命を癒す」力の一分を表している。

 宇宙は妙法の当体であり、日天、月天の働きもまた妙法の力による。大聖人は、この妙法即御自身の御境界を御本尊として御図顕された。御本尊には大日天王を、大月天王をも厳然とお認(したた)めである。

 ゆえに、「三昧」といっても、全て御本尊のお力に含まれる。

 また、妙法を信受し、修行する私どもの生命にも、日天・月天の働きが分々に顕れてくる。


 涅槃経には「」の働きを通して、三昧の六つの義が説かれている(梵行品/ぼんぎょうほん)。

 第一に、光が3000年に一度咲く優曇華(うどんげ)を開花させるように、人の善を開かせる。

 第二に、光が道ゆく人を照らして喜ばせるように、道をゆく人を照らして喜ばせる。

 第三に、新から満へと次第に成長するように、煩悩によるしみが次第に減ってゆく――宿命転換してゆく。

 第四に、十六夜(いざよい)から次第に形が小さくなっていくように煩悩によるしみが、次第に減ってゆく。――宿命転換してゆく。

 第五に、暑い盛りの時、光に涼(りょう)をとるように、人間の「貪り」の悩みの「熱」を冷やし、取り去る。

 第六に、星々の王が満であるように、あらゆる善の「王」である。すなわち大善中の極善が妙法である。


 日月といっても、実は「我が胸中」にある。その明るい光を大きく周囲に放ちながら、日のごとく、のごとく慕われゆく人でありたい。

そして、素晴らしき「我が家」を、「我が地域」を、「我らが社会」を、その「生命の光」「人間の光」で照らし、輝かせてゆくことが私どもの使命なのである。


は犬が吠えるのを気にしない」(The moon does not heed the bark of dogs)というイギリスの諺(ことわざ)がある。

 いかなる卑しい吠えにも、は悠然と高みに澄んで、皓々(こうこう)と地上を照らす。

 これこそ、「信仰者」の姿である。人間の「王者」の姿である。私どもも、この気で進んでまいりたい。


 さて、宇宙から地上に下りて(笑い)、この東北の大地の話をしたい。

 日本列島をはじめとする“弧状(こじょう)”、すなわち“弓なり”の列島を、「花綵(かさい)列島」と表現した人がいる。「花綵」とは「花づな」の味で、列島が花を編んでつくった「花づな」のような形だからである。づけたのは19世紀、ドイツの有な地理学者・ペシェル(1826-1875年)である。牧口先生もこれを受けて「花綵内海」(日本海等のこと)の語を発案されている。

 花綵列島――何と優雅で美しい前であろうか。このにふさわしい日本でありたい。色とりどりの花が、一連(ひとつら)なりに咲き誇り、一本の華麗な花づなをつくる。そのように、日本の各地方、各方面が、それぞれの歴史と特に応じた大輪の花と開いてゆく――。

 東京や大阪だけでもない。いわゆる都市部だけでもない。一つの方面、地域も欠けては「花づな」にならない。いずこも豊かに花開かねばならない。

 大聖人は高橋入道に宛てたお手紙の中で一言「うるわしき日本国」(1461頁)と仰せである。謗法によって国土を汚(けが)されてしまったが、本来、それが大聖人の日本に対するおであられた。そのおを実現することこそ、門下としての使命である。

 私どもが妙法を根底として、豊かな「の花」「文化の花」「平和の花」「教育の花」、また花で、この国を埋(うず)めてゆく時、“人間の花綵列島”ができ上がってゆく。

 この一点のみでも、私どもの使命がどれほど大きいか。皆さま方が将来、どれほど人々から謝される、価値ある行動の人生を歩んでおられるかわからない。

 現在の日本は、列島を花で結ぶどころか、煙突と煤煙(ばいえん)、“マネー”と虚像の世界で埋(う)めかねない傾向がある。経済至上主義のもたらす荒廃は深刻である。

 また、“文化の花綵列島”にこそ、「地方の時代」の内実も備わってくる。現今の都市圏への一極集中は、あまりにもひずみが大きい。


 学会においても、各方面で「最高会議」を真剣に行っている。それも、妙法による理の世界を何としても実現したいからである。我らが広宣の天地を庶民の「幸の花づな」で結ばねばならない。

 そして、花づなを貫き、花々を一つに結ぶものは「学会精神」「正法の魂」という永遠の大綱(おおづな)である。その中軸を貫いてこそ、各地域の花は生き生きと彩りを競うことができる。

 この原理は世界においても、また、身近な地域においても全く同様である。


【第21回本部幹部会 1989-09-15 東北文化会館


創価スピリット」で配信する予定の指導だったが、「いじめ」の連載となってしまい、時期を逸していた。「健康勝利の掲示板」のやり取りで、私が紹介したこともあって、未配信ではあるがアップしておく。


 衛星中継が開始されてから、20日後の会合である。第二次宗門問題前夜ともいうべき時に当たり、歴史に残る指導が次々となされた。


【※衣女史に校正してもらった】

2006-11-14

犯罪は地獄


 世界的に犯罪が多くなり、アメリカや日本、そして世界の“理郷”といわれたマイアミにも犯罪が増加していることを私は憂う。犯罪は地獄である。不幸である。アメリカのある高校では約7割の生徒が麻薬(マリファナ)を吸っているとの話を聞いた。麻薬によって自らの人生、人間を破壊し、希望のない人生へと堕ちてゆくことは不幸であり、悲惨である。

 麻薬による快楽は、その時は楽しいかもしれない。だが、いつしか人生を破壊してしまうことになる。それに対し、信は修行であり、勤行することも、折伏をすることも、決して安易なものではない。しかし信は、希望と蘇生と充実の生き方をもたらしてくれるのである。


 社会にあっては、善良な人も犯罪に及ぶような人とともに生活していかねばならないことは、避けられない現実である。その中でどのように自分を、そして家族を守っていくかは、次第に切実な問題となっている。

「真実一切衆生・色の留を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり」(1170頁)と大聖人は仰せである。勇気をもって題目を唱え続けてゆく人には、三世の菩薩、諸天の加護が働き、しぜんに悪の手を防ぎ、守られてゆくのである。ここにいわば、人生の“安全地帯”としての信の重要がある。南無妙法蓮華経を唱え、弘めゆくことによって、人々の悪しきを、善良のに変え、導いてゆくことができるのである。ここに折伏・弘教の深き義があるといってよい。


【マイアミ会館開館記勤行会 1975-02-18 アメリカ・マイアミ会館


 30年前の指導が現在(いま)、切実さを伴って迫ってくる。


 1951年(昭和26年)、覚せい剤取締法が制定された。それまでは、戦後の食糧不足や混乱も相俟(ま)って、乱用者がたくさんいた。ヒロポンの広告をご存じの方も多いだろう。


 人間は五官への刺激を快じる。そして、刺激を求めるのが人間の(さが)といってよい。ご馳走に舌鼓を打ち、植物のエッセンスが放つ香りに陶酔し、貴金属の光りに目を奪われ、落差と回転が生み出す風を求めて遊園地に足を運ぶ。


 芸術が及ぼす刺激が内省的であるのに対して、五官に及ぼす快は一過のものであり、刹那的・享楽的だ。やや、自分を見失う傾向が強い。ダイヤモンドの輝きにウットリしている瞬間、地道な将来設計を考える人は、まずいないよ(笑)。快楽は所詮、天界に過ぎない。


 薬物による快は一切を見失わせる。自分が死ぬことも無視できる。挙げ句の果てに、薬を手に入れるためなら、どんなこともしでかすようになる。


 夜回り先生こと水谷修氏によれば、薬物乱用者の1:3:3:3の法則があるという。1割は死ぬ。3割はやめることができる。3割が病院か刑務所送り。3割は行方不明というもの。そして、薬物は人を三度にわたって殺す。まず、が殺される。誰が配しようが、どうでもよくなる。次に、脳が殺される。考えることは三つしかなくなる。「いつやろう。どこでやろう。どうやって手に入れよう」。このため、恋人に売春を強要することも珍しくない。そして、身体を殺す。中毒者になると、荼毘(だび)に付しても骨すら残らなくなる。


 私の友人でシャブを使っている者がいた。を尽くして話すと、「やめたいんだよね」と言った。しかし、「やめる」とは絶対に言わなかった。「大体だな、何がそんなにいいんだよ」と訊くと、「注射の針が刺さる瞬間が凄い気持ちよくて、どうしても忘れられない」と答えた。


 私は医師に相談した。

「あなたは煙草を吸いますか?」

「はい」

「私が今、『煙草をやめなさい』と言って、やめることができますか?」

「ちょっとしいですね」

「煙草ですら、そうなんです。薬物は絶対にやめることはできません。今直ぐ、家族が警察に通報すべきです。それが、本人にとって一番いいことなんです。やめる方法は、鉄格子のある部屋に隔離するしかありません」


 結局、友人が落とした財布から覚醒剤が発見され、彼は逮捕された。出所後、再び逮捕。現在、やっとシャブを絶つことができた。


 私の先輩が語った。「30代半ばの年になっても、シンナーの臭いをかぐと、口の中によだれがたまってくる」と。一度、薬物に犯されると、こうした覚は一生にわたって付きまとう。覚醒剤と手を切った人が、20年、30年経ってから、再び使用するケースも珍しくない。


 1995年以降、検挙者が増え続け、第三次乱用期を迎えたといわれる。10代、20代の青少年が目立ち始めた。


 悪縁に取り囲まれた社会で生きる我々に、より一層の祈りが求められている。戒壇とは「防非止悪」の義。悪縁を遠ざける祈りとともに、悪を責め抜く言論戦が、社会の闇を打ち砕く。

2006-10-25

臓器提供について


小野不一


 法上、臓器提供については、どのように考えればよいのでしょうか?


 昔、「遺体を損してはならない」というような文章を読んだような記憶があるんですが……。


 以前、先生が書かれた「脳死論文」(『東洋哲学研究』)では、特に「やれ」とも、「やるな」とも書かれておりませんでした。


 ただ個人的には、臓器提供が「相手の宿命転換になる」とはえません。



 法上、臓器提供については、どのように考えればよいのでしょうか?


 私も小野さんと同様の疑問を持っています。死刑廃止に抱くような、私個人の明確な答えがありません。


 脳死移植についてのさまざまな論考や書物を読みました。もちろん先生のテキストも拝読しました。現行の脳死移植の法律にも、議論されている改正案についても、釈然としないいがあります。


 脳死移植については、臓が動いていても人間の死なのだと、そこまで画然と割り切れるのかという疑問があります。欧米キリスト教の唯論的な人体観にはなじめません。いわゆる和田移植についても、功を焦った医者のフライング殺人との疑いをぬぐいきれません。


 またこれは、先に事件が報道された生体間の移植についても言えることですが、金持ちや強い立場にある者が、貧乏人や弱い立場の人を犠牲にする可能を捨て切れません。法律上の規制はあっても、抜け道はどこにでもあるものですから。


 アメリカで多発している子供の失踪の一部はそうした需要のためではないかとのおぞましい考察を読んだことがあります。途上国のアングラ市場では公然と売買されているという噂も聞きます。


 一方で、臓器移植は、優秀な人工臓器が開発されるまでの過渡期の需要だとする見もあります。


 ただ個人的には、臓器提供が「相手の宿命転換になる」とはえません。


 これは私も同です。


命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり」(「可延定書」986頁)


一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」(同頁)


 との御金言はズシンときますが……。祈り、索し続けるしかないのだといます。


小野不一


 鋏さん、いつも理知的な応答をありがとうございます。


 大事なことだとうので、ちょっとメモしておきますね。

  • そもそも、自分の死を他人に勝手に決めて欲しくない。
  • 臓器提供は、人体を部品化するようで嫌だ。
  • 何となく、「他人の不幸(死)の上に自分の幸福を置いている」ような気がする。
  • 提供してもらう側が、「他人の死」を願うようになることを避けられない。
  • 臓器提供によって、「自分の宿命を見つめる機会」が奪われる。
  • 本当に純粋な人であれば、「生きながらにして」臓器提供を申し出る可能がある。
  • 既に、臓器を目的とした人身売買がアジアを中に横行している。
  • 臓器提供を善とするならば、提供しない人が悪になりそうな気がする(笑)。

 こんなところでしょうか。


小野不一


 脳死が話題となった頃、こんな川柳がありました。


 命日が 脳と臓 二回あり


 わずを上げて笑ったものです。あっけらかんとしていながらも、痛烈な揶揄と皮肉が込められています。



 そういえば夏休みに、女房の実家近くの温泉入浴施設の仮眠コーナーのようなところで、見るともなしに見ていた映画、確か『アイランド』とかいう題だったといますが、臓器提供や代理母等に関するおぞましい近未来の仮世界を描いていて、途中で見るに堪えず、仮眠室を出てきてしまった覚えがあります。


 人間の身命というのは、軽々に扱われてはいけないと改めて強くいます。小野さんの論点メモ、その通りだといます。


 臓器移植がなければ死への恐怖と隣りあわせで生きていかなければならない様々な病気や障害のある方がいる事は承知していますが……。


小野不一


 そして臓器移植は、新しい形の幸不幸を生み出し、悲劇と不運を構成する。


【「富士宮掲示板」より転載】

2006-10-06

「化儀」とは社会への応用


 化儀の“化”は応用です。“化学”の“化”は化ける方ですが。今、法の立場からは“形式”をいうわけです。制度とか政治になります。結局は、社会を味することになるのです。


四国第一本部地区部長会 1964-01-16 四国本部広間】


化儀」が形式を味するのは知っていたが、「社会」と捉えることは知らなかった。既に読んでいたはずの指導だが、目からウロコが落ちるいがした。若い頃に読んだ指導は、見落としているものが多過ぎる。やはり経験不足のゆえか。


 大聖人は化法(=法体)の広宣流布、そして創価学会化儀の広宣流布。我々は、御本尊を安置し、南無するという儀式を弘めている。これによって人々は功徳に浴し、社会に活力を与えてゆけるのだ。


 人生とは、地涌の菩薩が織り成す偉大なる儀式なのかも知れない。