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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2009-02-04

内在的な宗教的指向と外在的な宗教的指向


 彼(※ゴードン・オルポート)は、内在的な宗教的指向と外在的な宗教的指向を測定可能な方法で区別できるようにしたのである。内在的な宗教的指向の人とは信仰の中核にある価値に深く関わる人のことで、外在的な宗教的指向の人とは、自己の地位を得たり他者に受け入れてもらったりという目標のために宗教を利用する人のことである。


【『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス/野島久男、藍澤美紀訳(誠信書房、2008年)】

服従実験とは何だったのか―スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産

2008-09-11

宗教の功罪


 人類、生命といった普遍的価値――高等宗教も、まさにそこを志向している。

 ゆえに、そうした「宗教」は「国家」の権力も、他のいかなる権威をも超越する。それらに屈しない人間をつくっていく。

 東欧の変革の底流にも、ポーランドを始め、「宗教」の土壌を背景にした“人間”の決起が、「イデオロギー」で鎧(よろい)した“権力”を打倒した――この革命劇は一面、このように見ることもできるかもしれない。

 歴史を見ても、「宗教」の力は、まことに巨大である。あらゆる「権力」「権威」が、宗教の力を恐れ、封じ込めようとしたり、利用しようとした事実も、十分に理由のあることなのである。


 問題は、その「宗教」もやがて権威をカサに、しばしば人間を抑圧する存在となることである。人間を解放するはずだった宗教が、制度化するにしたがって、反対に人間を抑えつけ、縛りつける悪の顔を示し始める。

 僧侶の立場を利用して、子を迫害した悪侶らも、その典型であった。

 ここに、制度化された「宗教」の悪に打ち勝つ、生きた「信」「信仰」の力が絶対に必要になってくる。

 人間を外から縛ろうとする「宗教」の悪の面に対して、人間の内面から、限りなく挑戦し、打ち破っていく。この真実の「信」を民衆に教え、根づかせているのが、日蓮正宗創価学会なのである。


 要するに、「宗教」は「権力の悪」にも打ち勝つ力を持つ。その「宗教の悪」に打ち勝つ力、人間解放の究極の力が「信」なのである。

 私たちは、この「信」の力を奮い起こして、幾たびとなく「策謀」や悪知識の「権威」に勝ってきた。


 人間は、いかなる権力、権威の奴隷になってもならない。それでは民衆は利用され、永遠に流転の悲劇となる。この悲劇を転換するために、日蓮聖人は戦われた。国家権力と既成宗教の権威との連合に対して、ただお一人、常に命に及ぶ迫害の中、真実の自由への闘争を続けられたのである。

 どんな権力、権威にも侵されない一個の人間の力、その絶対の証明を大聖人はしてくださった。「人間の旗」「勝利の旗」を打ち立ててくださった。

 この大聖人の御精神、代々の御法主のおを破壊しようとしたのが、かの悪侶らであった。これからも、日蓮正宗創価学会の中に同様の動きが現れてくることがあるかもしれない。それらに負けては、広宣流布はない。人類の真の「幸福」と「安穏」と「満足」への道も消え去ってしまう。

 ゆえに、妙法への正しき「信」を教え、信仰という「魂」を脈々と伝え、永遠に広げていかねばならない。そこに「創価学会」を創立された牧口先生、そして戸田先生の誓いもあった。私は真っ直ぐにその軌道を歩んでいる。


「信」による一個の人間の確立。何ものにも屈せず、「魂の自由」を貫く人間群の育成。私の現在の行動の焦点もここにある。

 それは、状況の変化次第で右に左に揺れる日本人の“自我なき精神風土”を根底から変革する戦いでもある。今のままでは日本人は不幸である。確たる基準がないゆえに、何を見ても正しく判断することもできない。情や利害、先入観等の奴隷となって、自分を見失い、歴史の動向をも見失ってしまう。

 また、人間として信用されず、国際社会にあっても孤児のようになっていこう。


東京・小金井圏青年会議 1990-01-28 小金井池田文化会館


 21世紀の基調とすべき指導である。宗教は人間を自由にする跳躍台でもあり、束縛する大リーグボール養成ギブスでもある。


 宗門問題の前夜ともいうべきタイミングでの絶妙なる指導。我々が気づいたのは、ずっと後になってからのこと。知らないうちに予防接種をされていたようなじだな。いつだって、そうだ。後になってから先生の指導の味を知り、自分の人生の義を勝手に深めている。先生は、偉大なナレーターなのか? 「この時まだ彼等は気づいていなかった。人類史の新たな扉を開いていることを――」。


 坊主の権威には勝ったものの、まだまだ奴隷が多い。いわば「創価のクンタ・キンテ」。役職の奴隷、活動の奴隷、打ち出しの奴隷、成果の奴隷、書類の奴隷などなど。尚、奴隷の定義については「やりたくないことをやらされている状態」としておく。自分の頭でものを考える機会がなかった2世、3世のメンバー。そう、君のことだ。教学的な裏づけが乏(とぼ)しく、まだまだキャリア不足の若い婦人部。そう、あなたのことだ。


 ここで問題にしている「自由」とは、勝手気ままという味ではない。「自分の力を最大限に解き放つ」という次元である。100メートルを走ることに関しては、ジャマイカのウサイン・ボルト選手が一番自由である(北京五輪で9秒72の世界新)。イチローや北島康介も自由だ。トインビー博士は、最も自由に歴史を読み解いたといえる。


 このように考えると、宗教とは「信じる自由」を追求する世界であることが理解できる。その割には、学会員ってえのあ頑(かたく)なだよな(笑)。どうも不自由とみえる。


 日蓮大聖人は封建的な束縛された時代の中で、最大に自由であった。牢獄に縛られた戸田先生も自由な境涯だった。どうして我々は、自由な環境にいるにもかかわらず、これほど束縛されているのか? ひょっとしてSM趣味があるのかも知れない。もっと鍛えて、鞭打って、ローソクたらして……。


 がんじがらめのロープは、社会の至るところに張り巡らされている。これほどの情報化社会になると、「自分の考え」など存在しない。昨夜、君が友人に語った政治的な見は、先週の「サンデープロジェクト」で田原総一郎が話していた内容だ。


 宗教革命が単なる階級闘争となれば、新たな階級が跋扈(ばっこ)する結果となるのは必然であろう。そこに現れるのは、「新たな束縛」に過ぎない。紙上座談会が「赤旗的」な異臭を放っているのは、組織防衛という目的のために、会員の自由を蔑(ないがし)ろにしているからだ。


「確かに自由が大切であることは認めるが、方向を誤ると大変なことになる」という本部長クラスのが聞こえてきそうだ。だが、配には及ばない。自由には自覚が伴うからだ。自由であるからこそ失敗に気づく。「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの――みつを」。だから、つまずくのは早い方がいいんだよ。元暴走族少年なら勘弁しようもあるが、現役中年暴走族はダメだろ? 「ちょいワルおやじ」はファッションのことだが、極悪おやじでは堪(たま)ったもんじゃない。


 当然、自由にだってルールがある。それは、人を傷つけないことだ。そして真の自由を獲得した者のみが、多くの人々を幸せへと導いてゆける。

2008-01-17

バートン・D・ワトソン「法華経で説かれる世界は“明るく”“壮大”」


教授●「法華経」の内容について、私がまずじたことは「明るい」ということです。一般的なイメージがそうであるように、当初はもっと「暗い」内容のものかとっていました(笑い)。

 しかし、全編に明るい躍動がみなぎっている。恐らくこれは、釈尊自身の人間からくるものではないかと、私にはわれます。


誉会長●含蓄の深いご指摘です。法は本来、最も「明るい」世界である。中でも法華経では、生命の太陽が赫々と十方の大衆を照らしている。それが、いつしか何かしら暗いものに誤解されてしまった。

 日常用語の中にも元々、典に使われていながら、味合いが大きく異なってしまった言葉が多くあります。


教授●第二にストーリーの「壮大さ」に圧倒されるいです。時間、空間の表現にしても、「永遠」と「無限大」をはらんだ大いなるスケールをもって展開されている。これはインドの特徴でもありますが、人間の像を絶するような数の単位や数量がひんぱんに使われてます。


誉会長●(中略)教授が指摘された“法華経の壮大さ”は、実は我々の“生命の壮大さ”自体に基づいている。そして、その素晴らしい世界を何とか人類に伝えんとした釈尊の“慈悲の広大さ”をも表しているのではないでしょうか。


教授●その他に、法華経の中で印象的な箇所として「観世音菩薩普門品第二十五に、観世音菩薩が法を説く対象として、それこそあらゆる階層の人々が登場します。そこに釈尊在世当時の社会が映し出されているようで、興味深く味わいました。


誉会長●ここに登場する観世音菩薩(観音)は、悩渦巻く人間の世界(娑婆世界)で、すべての人々を救済せんと行動していく存在ですが、この「観世音」は、「世音(せおん)を観ずる――すなわち人々の生命の叫び、音(おんじょう)を観じ、それに応じてさまざまな姿で現れるのです。

 これは指導者論とも取れます。リーダーは、世間の動向をよく観じ、民衆のを慈愛ので汲み取っていかねばならない。


【バートン・D・ワトソン、米・コロンビア大学教授と会談 1989-12-22 聖教新聞社】


 ワトソン教授は、老子・荘子の世界的権威で、司馬遷の『史記』の研究者としても有。湯川秀樹博士の紹介で京都大学に留学し、中国文学の泰斗・吉川幸次郎氏に師事。傑出した語学の才能の持ち主で、中国はもとより日本文学にも造詣が深い。


 1973年に池田先生と初めての会見。その際、先生より「法華経の英訳」を提案。創価学会創立60周年を記して、1991年(平成3年)53日に発刊される運びとなった。日本語も堪能なようで、会見の写真には通訳がいない。


 私は法華経を半分ほどしか読んでないが、全くチンプンカンプンだった。面白かったのは従地涌出品第十五だけだ。ワトソン教授の足元にも及ばない。


 先生の周囲には、本当に運命的な出会いが多い。不議としか言いようがなく、まさに諸天善神の登場をわせる。ワトソン教授もそうだ。現代の鳩摩羅什(くまらじゅう)といってよい。


法華経で説かれる世界は“明るく”“壮大”」なんだってさ。それにしちゃあ、文句ばっかり言ってる学会員が多いね(笑)。「暗い座談会」とか(笑)。「内の地区部長は死神」なあんてところはないかい?


「明るい」からこそ、人を照らすことができる。暗い人は、相手から生命力まで奪い取る。草創の学会家族は、貧しくても底抜けに明るかった。今は生活に余裕がある分、暗くなったような気もするね。


 弾けるような笑いに包まれるのが学会の会合だ。暗い会合は、なるべく避けよう(笑)。


バートン・D・ワトソン教授の略歴


 1925年、アメリカ・ニューヨーク州生まれ。アメリカの門コロンビア大学、また京都大学で中国文学を修めた。京都大学講師、スタンフォード大学助教授などを経て、67年にコロンビア大学教授。中国・日本語からの訳書多数。「全米翻訳賞」「世界ペンクラブ翻訳賞」を受賞。これまで、『英文御書解説』1〜5巻を手掛けている他、池田会長の著作の訳書に『私の釈尊観』『私の教観』『続・私の教観』『詩集 わがの詩(うた)』『古典を語る』、随筆選集『ガラスの子供たち』がある。

2007-10-15

小諸の女性死亡は宗教法人施設での集団暴行


 小諸市荒町2のすし店で9下旬、経営者奥野元子さん(63)が家族に暴行され死亡し、家族4人が逮捕された事件は、小諸署などのその後の調べで、同市内の宗教法人「紀元会」の施設内での信者らによる集団暴行だったことが15日、分かった。

 県警は同日、同署に捜査員400人態勢の捜査本部(本部長・吉沢敏彦刑事部長)を設置し、傷害致死容疑で同会施設の強制捜査を開始した。同会幹部や信者ら十数人を任同行し、事情を聴く方針。

 事件は925日未明、市内の病院からの通報で発覚。同署などは、奥野さんの夫(35)と長女(37)、二女(26)、二女の夫(30)の同居家族4人から事情を聴いた上で、4人が奥野さんに暴行して死亡させたとして、傷害容疑で逮捕し、傷害致死容疑に切り替えて送検していた。

 だが、その後の調べで、すし店で奥野さんに暴行した――との4人の話が作り話だったことが判明。奥野さんを含む家族5人は同会信者で、実際には奥野さんが同会施設内で、信者ら約20人に集団暴行されたことが分かった。

 同会施設はすし店から約1.5キロ離れた場所にある。県警は捜査車両約50台、捜査員100人以上を動員。午前7時ごろ施設内に入った。


【信濃毎日新聞 2007-10-15】


 宗教には、人間を盲目にする側面がある。常識と知を重んじているかどうかが問われる。会員が口を閉ざし、を閉ざしているとすれば、学会の組織であっても邪宗教だ。誰人が参加しても、楽しく自由に語り合うことが出来て、普通の組織といえよう。常識を無視した途端、狂気が芽生える。

2006-04-23

教義上の妥協は寛容に非ず


 宗教の教義、信仰の上での誤りを追及し、それを正してゆくということが最高の慈悲であります。すなわち、教義上の寛容・不寛容と、その人を救ってゆうという上での寛容・不寛容とは、全く別の問題であります。そればかりではなく、教義の上では妥協せず、純粋であることが、結果的には真の寛容になっていることは明瞭なのであります。例えるならば、子供が知らずに毒を飲もうとしている、あるいは悪い道に走ろうとしている時に、もし、親が真に子供を愛していれば、我が子を厳しく叱るのは当然であります。これを黙って見ているような親は、むしろ無慈悲の謗りを免れないでありましょう。あらゆる道理から考え、法華経・涅槃経等の経文の明鏡に照らし、我が日蓮正宗創価学会折伏こそ、最高の慈悲の実践行為であり、学会に対して不寛容・排他的という非を浴びせることは、全くの誤謬(ごびゅう)であり、偏見であると言いたいのであります。

 更に事実の上で、創価学会座談会はあらゆる人に大きく開かれた門戸であります。そこでは、誰人に対しても差別せず、慈悲を根底に、道理を尽くした民衆救済の偉大なる戦いが展開されております。もし、排他的であるならば、座談会に外部の人を呼ぶわけもないし、入信を許すこともあり得ないでしょう。しかし、教義の上で他宗に寛容であることは、理非を無視した妥協であり、宗教としての堕落ではないでしょうか。正法正義を顕示した清廉潔白な宗教であるならば、どこまでも教義に関しては純粋を保ち、妥協や寛容でないのが当然であります。

 これに対し、人間の上からいえば、寛容・不寛容は慈悲の問題であります。もし、この面に関して不寛容であるならば、それは無慈悲であり、冷酷無残な宗教という以外にはありません。妙法は教義の上ではあくまでも正義を顕示してまいりますが、その根底の精神・究極の理は全民衆の救済・幸福にあります。しかして、この全民衆救済の大理達成のためには、毅然としてどこまでも正法正義を掲げ、破邪顕正の険を振るっていく以外にはないということを、ここに宣言しておきたいのであります。そして更に、妙法を根底にするならば、また、信が確立された時には、あらゆる流通分として生かされてゆくのであります。これこそ偉大なる寛容の哲理であり、究極であります。その時には、一切を正しい生命観の上から如実知見していけるし、それによる人間の主体の確立によって、一切を自在に使いこなしてゆける大法なのであります。


【第16回青年部総会 1967-11-19 両国・日本大学講堂】


 有な指導。先生この時、39歳。


 我々が普段、ってはいるものの言葉にできない急所をズバリと衝いて、余すところがない。


 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏がこう書いている。


 国家主義的な傾向のある日本人は、日本人の考え方の“柔軟”を美点だと考えているようだ。中曽根首相は1984年8に全国向けに放映されたテレビのインタビューで、日本人はその柔軟のために、西洋人に比べ有利な立場に立てると示唆した。彼はこの点を誇りにしているようだった。彼は、その時、日本人は個人として神道やキリスト教と共に教を受け入れる多神教であると説明した。彼によると、日本人の考え方は「一神教の西洋人」な考え方より寛容であることになる。究極的に相容れない信を同時に受け入れるのは、実際には、どれも信じないのと同じだと、彼がってもみなかったのは明らかだ。


【『日本/権力構造の謎』篠原勝訳(早川書房、1990年/ハヤカワ文庫、1994年)】


 更に、多神教の影響による国民を次のように鋭く指摘している。


“自己にとっての真理”に行動を制約されるという伝統がなかったから、日本人はあることを“信じ”ながら完全に別のことができる。


【同書】


 生まれた時はお宮参りをし、結婚式は教会で行い、葬式は教で出す――なあんてえのあ、その典型だ。妥協に甘い民族であればこそ、長期間にわたって天皇制と幕府というダブルスタンダードが通用したのだ。


 教義上の妥協は、信仰の破綻である。そもそも、妥協した時点で信ずるに値(あたい)しなくなっている。


 種種の大出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり(232頁)


 妥協に馴染んだ日本に哲学が生まれる土壌はなかった。哲学とは、自分の頭で善悪を判断する作だ。村の掟に背いてまで善を主張すれば、村八分は避けられない。国家全体が大きな村みたいな社会において、日蓮法は異質な存在だ。なぜなら、村の掟に従わないからだ。


 民主主義は、個人という概によって支えられている。我が国にとっては、いずれも輸入品だ。多分、英語を翻訳する際につくられた言葉だろう。


 しかるに大聖人は、鎌倉時代にありながら、「日蓮一人」と、何度も何度も書かれている。また、大聖人にとっての門下は、単なる村の構成員ではなく、一人ひとりが、かけがえのない存在として大切にされていたことは、御消文からも明らかである。更に、以下の御文もある。


 王は民を親とし(1554頁)


 大国の王は民ををやとし(1598頁)


 日蓮法の普遍が一目瞭然である。人間と生命を完璧に説き明かしていればこそ、時代や民族を越えて、あらゆる人々が共できるのだ。


 人法ともに尊し(856頁)


 なれば、日蓮法の教義にふさわしい人格を培うことが、我々の最優先課題となろう。


日本 権力構造の謎〈上〉 (ハヤカワ文庫NF) 日本 権力構造の謎〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

2005-08-15

宗教否定論者の“無邪気な間違い”


 作家・石田衣良(いしだいら)氏の「世界に100人の神様がいるなら」というテキストを目にした。もちろん、「もし世界が100人の村だったら」にあやかっている。


 論旨は、


 テロはうんざり。原因はイスラム・キリストなど一神教。そんな宗教はいらない。日本の八百万の神の国。皆も、日本を見習って異教徒を尊重し、戦争やテロはやめろ、といったもの。


 世間知らずこの上ないが、これを無批判で掲載する雑誌側の見識のなさも指摘できよう。多くの日本人が犯しがちな間違いを代表しているとうので、ここであえて指摘しておきたい。


筆者の勘違い その一


 まず、テロの原因を宗教に求めること自体が“無邪気な間違い”である。多くのテロリストが「宗教ののもとに」テロを行っていることは事実である。しかし、彼らは宗教を、政治目的のために利用しているのであって、それをもってキリスト教やイスラム教の教義が、テロを生み出す諸悪の根源だという証明にはならない。若干、脱線するが、私は、テロ組織の上層部は、恐らく自分では宗教など信じていないのではないか、とえてならない(聖書やコーランを学んだ人であれば、無差別殺人などに手を染めるわけがない、と私は信じる)。むしろ、金と権力が絡み合う世界で、ギャングと変わりない考回路を持っている人々だとう。詳しくは述べないが、テロはそれが起こることによって得をする人々によって、巧妙にコントロールされているのだと、私は確信している。その味では、多くの石油会社およびその関係者(政府も含む)は、テロがなければ困るはずだ。


 脱線ついでに、もし、死後に神の審判というものがあって、人殺しの罪を問われる場面があるとすれば、イスラム教の宗教家ではなく、政治家や企関連者の方が罪が重いのだとう(現在のような貧富の差が大きい世界において、富裕者に属する日本人は、この世界の仕組みの中で無批判に無邪気に人生を送っているというだけでも有罪であろう)。彼等は発展途上国で、間接的な殺人を繰り返し行なっている。


筆者の勘違い その二


 また、宗教自体をなくしてしまえば良くなるという論調だが、そんな“無邪気な間違い”は、最近の子供でも犯さないだろう。


 歴史をひもとけば、戦争といい、国家によるテロといい、常になんらかの大義分を必要としてきた。その多くは宗教でもあったが、では宗教否定の国、旧ソ連では戦争もテロもなかったか? スターリンは、共産主義というイデオロギーを利用して粛清を行ったのではなかったか。


 日本人も例外ではない。筆者は誇らしげにこんなことを言っている。「なぜ、絶対的な一神教を信じる者同士はここまで絶望的な対立を引き起こすのか。しかもユダヤ教・キリスト教・イスラム教は(中略)いわば兄弟関係……」と。我々は、その神のの下に、兄弟関係にある中国人・鮮人に対して何を行ってきたか。いまさら繰り返す必要もあるまい。


「ぼくは多くの日本人といっしょで無信仰・無宗教・無神論」と自慢しているのも矛盾。詳細な指摘は別の機会に譲るが、日本人のほとんどは無神論者たり得ないというのが私の持論である。いずれにせよ、八百万の神にあやかりながら、無神論を決め込むあたりは何とも都合がよすぎるのではないか?


まとめ


 筆者は自嘲的に、最後に「ぼくはこうして夢のようなことを書いている。まるで役に立たない」と言いわけをしているのが、この文章の無邪気さをいっそう際立たせ、やるせない読後をかもし出している。ニヒリズムを気取るのも結構だが、本当に無知丸出しの役に立たない文章である。


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2005-03-02

社会から必要とされる宗教のあり方


 博士は更に、「宗教が社会にとって価値ある存在であり続けるためには、その宗教が持っている本質的な部分(教義・精神)の掘り下げとともに、時代の動向(時代)を鋭く見抜き、その時代に最も適した形で教えを説き、展開していく努力が要求される。

 時代はどんどん変化していくがゆえに、それができない宗教は形式化し、社会にとって無味で、かえって邪な存在になってしまう」と述べられている。

 宗教運動についての鋭い分析であり、私たちの広布への活動にあっても、しなければならない識見であるといえよう。


【第9回全国青年部幹部会 1988-10-29 創価文化会館


 こう語ったのは、デイル・M・ベセル博士(米国インターナショナル大学アジア・太平洋センター教授)。牧口先生についての研究もされている。ここで紹介した発言の前に、次のように語られている。


 宗教は本来、社会を活化し、新しい価値創造の活動を支える役割を持つべきであると私はっている。

 しかし、現実は、宗教は社会の新しい発展を促進するどころか、それを妨げる反動的な勢力となってきた。

 現代において、宗教本来の使命を果たしている宗教団体は極めてまれであり、そのまれな宗教運動が創価学会の運動です。私が創価学会を評価する最も大きな理由はそこにある。


 学会を称賛しながらも、更なる期待を寄せられている。


 つまり、“出来上がって”しまえば終わりということだ。完成してしまえば、後は滅びる運命にある。ここに“無上道”という卓抜したが求められよう。現実に即していえば、“進まざるは退転”ということである。


 ベセル博士の見は警鐘の余韻をはらんで厳しい。の深化と、時代や社会への対応力を欠いた途端、宗教は形骸化するとの指摘。


 今は、偉大な師匠がいるからいい。だが、その後を一体、誰が引き継いでいくのか――。挙手を求めたい(笑)。


 いつも、ありきたりな話をしている幹部は、ベセル博士から、「邪な存在」との烙印を押されてしまうだろう。創価とは価値創造の異である。そうであれば、常に清新な吹きをもって、全く新しい視点から御書を講じ、スピーチを咀嚼してゆく義務と責任が、幹部に求められる。


 これは頭のよしあしによって左右されるものではない。信が浅いか深いかという問題だ。


“変化への対応”とは、時を知り、民衆の機根を知ることである。そうはいっても、所詮、一人のの変化を知ることに尽きる。つまり内外にわたって、万人を受け入れることのできる組織になっているかどうか。そして、あらゆる悩みに対応できるリーダーがいるかどうか。


 ベセル博士が投げかけているのは、「あなたの地区はどうですか?」という問いかけに他ならない。


 日日につより給へすこしもたゆむあらばたよりをうべし(1190頁)