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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2004-09-22

病魔


 3年前の秋、私は10日間、入院した。はじめてのことである。しかし客観的には、いつ倒れても決して不議ではなかった。入信以来、40年間、また戸田先生の遺志を継いで、30年近く、走りに走ってきたからだ。

“30までしか生きられない”といわれた弱い体で、働きぬいてきた。走りに走ってきた。常に嵐と戦ってきた――。

 入院の件はマスコミ等でも大きく報じられた。あらぬ憶測や、利害や惑がらみの姑な動きも数多くあった。しかし私は、それらのさざ波を達観していた。

 私は、この病は、の大慈悲であると深く実していた。もう一度、一人立って、真の総仕上げを開始すべき“時”を教えてくださったと確信した。

 今こそ、本当のものを語っておこう。後世のためにも、本格的に、あらゆる角度からの指導を、教え、残しきっておこう。そして創価学会の真実を、その偉大なる義と精神を伝えきっておかねばならない――と。

 それまで、学会も磐石にしたし、教えるべきことは教えたとも考えていた。

しかし、この病気を契機として、私はこれまでの10倍、20倍の指導を残そう。10倍、20倍の仕事をしよう、と決した(大拍手)。そして、以前以上に、いやまして真剣に走り始めた。これからも走っていく(大拍手)。

 ともあれ、これから諸君の人生にあっても、大なり小なり、労とは避けられない。 しかし、すべては諸君を大樹へと育てゆくの慈悲と確信してもらいたい。

 そのことを確信し、堂々と一切を乗り越え、あるごとに、いよいよ強く、いよいよたくましく、いよいよ朗らかに人生と広布を開いていく、「信仰王者」として生き抜いてもらいたい。


【第3回全国青年部幹部会 1988-04-29 東京池田記講堂】


 入院されたことは、創価班大学校生となった先輩から、ファミリーレストランで聞いた。今でも鮮明に覚えている。「お前、ここだけの話だぞ。今、創価班で先生のご健康を祈っているんだ。実は、入院されてるそうだ」と。私は唸(うな)った。先生は57歳だった。2年後の59歳となられた時、先生は「完全に学会の宿命を転換したと確信している」(「第2東京新春代表者会議」1987-01-04 創価学会新館)と宣言された。というのは、戸田先生も北条会長も58歳で亡くなられていたからだ。


 普通、高齢になって病気をすると別人のように元気がなくなるものだ。どことなく、個が薄らぎ、静かな佇(たたず)まいとなる人が圧倒的に多い。だが、先生は違う。病気を契機とされて、それまで以上の大闘争を展開されるのだ。年を経るごとに、右肩上がりの急カーブを描いてゆく。常人の千倍、否、万倍の仕事をされ、それでも満足することなく、次なる闘争に立ち向かうその姿は阿修羅の如き様相を呈している。


日日につより給へすこしもたゆむあらばたよりをうべし(1190頁)」との御聖訓そのものであられる。


 人は40代に差し掛かると、何となく倦怠期となり、新しい挑戦をしようとしなくなる。過去の績でよしとした途端、人間の成長は止まる。語る内容は常に過ぎ去った過去の体験を元とし、新たな発見や動が全くなくなってゆく。惰の波に飲まれた人物は、学会のスピードから遅れ、飾りみたいな存在となるのは必然。


 とは、死ぬ瞬間まで前へ前へと進みゆく人の異だ。戦って戦って戦い抜いた生命力こそ、の実体であろう。

2003-03-15

宿命と運命


 法の特徴は“宿命”を説くところにある。キリスト教を初めとする天地創造神の場合は“運命”を説く。運命というのは神様が勝手に与えてくれる試練で、迷惑この上ない。宿命とは三世にわたる生命自体が積み重ねてきた果によるもの。つまり、全部自分持ち。こうなると神様に文句をつけるわけにもいかない。


 宿命は様々な形をもって襲いかかる。病気・経済人間関係と、人生のどこで現れるか知れない。「宿はかりがたし」(958頁)と大聖人も仰せだ。であればこそ、日常の道修行が大切となってくる。


「残ですが、あと3ヶの命です」――医師からそう告げられたら、あなたは残された3ヶ間をどのように過ごすだろうか? その答えこそが、あなたの人生観とはいえないだろうか。そこに、宿命と向かい合った時の姿勢が如実に現れる。


 何か(大いなる悩みが)あったら頑張るという人を時折、見受ける。これを「待ち型信」という。まず、無理ですな。宿命をなめているとしか言いようがない。「''未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ''」(231頁)である。過去といい、未来といっても、所詮、今しかない。今この瞬間、我が生命が戦う方向に向かっているか否かである。その連続闘争の中にしか宿命転換はない。


 現実に宿命と必死のいで戦っている方もいるだろう。周囲の人々から中々理解してもらえない場合だってあるに違いない。だが、それでも戦い抜いてゆくしかない。宿命転換とは自分一人の闘争だからだ。学会における訓練の目的もここに帰着する。


 宿命を打開しゆく強靭なる生命力を発揮する方途はどこにあるか? それは、妙法を高らかに唱え抜き、悩める人々のために汗まみれとなって働く以外にない。学会活動の全てが宿命転換に直結していることを強く自覚し合いたいものである。


 先生は、「生命鍛錬の場が、大です。最もしんでいる時が、最も深まる時です」(『大白蓮華』3号「御書の世界」)と指導されている。


 今が「深まる時」と自覚できれば、宿命は使命へと昇華される。


 更に、「大願に立脚した透徹した境涯から見れば、宿の有無は本質的な問題ではない。仮にいかなるや宿があっても、大願の生命はすべてを大きく飲み込んでいくからです」(同) とも。広布に生き抜くと誓いを新たにした瞬間、生命は三悪道から菩薩界へと劇的な変化を遂げる。


「『常の因果』をも包み込む、いわば『大いなる因果』が存在する。その『大いなる因果』こそ成の因果です。それが法華経の因果であり、妙法の因果です」(同)


 宿命を呪うのか、願兼於業(がんけんおごう)と捉えるのか。道がそこで分かれる。


 譬(たと)えば頭(こうべ)をふればかみゆるぐはたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉ればゆるがぬ草木やあるべきさわがぬ水やあるべき(1187頁)


 御本尊を揺り動かすほどの生命力を湧き立たせながら、春三、師弟共戦の大波を起こして参りたい。