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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2008-09-06

友と会えば生命はダイナミックに回転を始める


 小さな自分のカラに閉じこもった生活――そこには躍動がない。真の創造も、喜びもない。ゆえに生きた知の深まりも、価値ある行動の広がりもないであろう。

 ところが一歩、人間への行動を起こす。友と会い、語る。一緒に悩み、考える。すると中には、限りない慈しみと知恵が湧く。それが、い切った実践となっていく。いつしか生命は、ダイナミックに回転を始める。「友情」が、生命にみずみずしい触発を与えているのだ。

 友への断ちい熱情。会って確かめ合う信頼と誓い。しみを分かち合うの強さ、潔さ。「友情」はを強くし、人生の行き詰まりを破り、越えてゆく大いなる力となる。


【静岡県青年会議 1990-01-21 富士宮国際文化会館


「小さな自分のカラに閉じこもった生活」――これって、アンチ学会の連中そのものだよ。奴等の行動は、「アンチアンチによるアンチのための書き込み」に集約されている。生きがいは“創価学会を貶(おとし)めること”である。結構だ。そういう人生があってもいいだろう。アンチアンチ同士で固まって、ビッグバン以前の宇宙ぐらいの大きさになってゆくに違いない。多分、鼻クソぐらいの大きさになる予定である。


 で、今度は我々だ。友達と会えば生命が「ダイナミックに回転を始める」とは限らない。「ダイナミックな空転」はありがちだ。そこの男子部、お前さんのことだよ。幹部から無理矢理背中を押されて、ヨロヨロと慣の法則で友人のところに辿り着いているような姿もある。そう、君はサッカーボールだ。地球の引力に敗れて、必ず止まることになっている。


 これはだ、志がどこにあるのかという問題だ。「中々やる気は起こらないのだが、中堅幹部なんで取り敢えず既成事実をつくっておくか」――これが根のない部幹部の活動スタイルだ。数は上がっても実(じつ)がない。皆無。ゼロ。ブラックホール。穴があったらお前が入れよ。


 大組織になればなるほど、相対的に自分の志が小さくなる。企も教団も変わらない。人間は管理下に置かれ、手足のように動かされる羽目となる。「俺はロボットなのか?」――そう、ロボットだよ。


 突っ込んだことを書いておこう。組織というものは、「組織する」場合においてのみ本来の目的を果たすことができる。つまり、自分が中となってネットワークを拡大すれば、そこに集うのは「志を同じくする」人々となるのだ。だから、出来上がった組織の一構成員という自覚では、自分の志が欠落してしまう。


組織を守る」ことは正しい。だが、「組織に生きる」ことはやめるべきだ。「組織のための自分」なのか、あるいは「自分のための組織」なのか――こうしたことを考えている学会員は極めて少ない。創価学会幸福になるための組織である以上、正解は後者となる。だから本当は、「自分の人生をよりよいものとするために、創価学会を使ってみる」という姿勢こそ正しいのだよ。これぞ、究極の組織利用。このあたりを、反対にい込んでいる会員が目に余る。自分を犠牲にしながらの学会活動だ。まるで祭壇に捧げられた生贄(いけにえ)。そんなものは、殉教の精神とは異なるマゾヒズムに過ぎないよ。


 洗い物をする時はタワシを使う。遠くに出掛ける場合は飛行機を使う。幸せになるためには創価学会を使う。これでオッケー。


 まあ、色々と回りくどいことを書いているが、結局、随自意とはここから始まるのだ。自分が自分の志で動く。そうすると、生命はダイナミックに回転を始める。試しにやってごらんよ。活動が楽しくなるから。


 尚、以上のテキストは、25歳以下の青年と入会3年以内のメンバーに対して書いたものである。それ以外で該当する人がいたら、一度脱会して、再入会した方がいいかもな。もちろん本気で言っている。

2008-01-25

一つの出会いから新たな道が開かれる


 一つの出会いから、次の出会いが生まれる。新たな道が開かれる。出会いというものの価値は、容易には計り知れないものである。ましてや法に偶然はない。すべてに味があり、一切が深き因果の理法の表れである。

 ゆえに私は出会いを大切にする。どなたと会っても、決していい加減な気持ちでお話したことはない。常に最大の誠と真で対話してきたし、これからも変わることはない。それが深き人生のあり方と信じているからである。


東京文京・台東・板橋区代表者会議 1989-12-24 東京上野池田講堂】


 人生は、経験という縦糸と、出会いという横糸で織りなされている。それぞれの季節に、様々な人物と行き交う。を許せる友もいれば、ただ通り過ぎるだけの人もいる。


「気は」というが、「気が合うかどうか」が決定的な印象が強い。特に私は好き嫌いが激しいので、ひと目見て嫌な奴だと「多分、俺の先祖がこいつと似た奴に危害を加えられたに違いない」と勝手にDNAの責任にしている(笑)。


 世間における友人関係は、覚の似ている者同士が寄り集まる。私の場合、癖の強いタイプが多い。それでいて、皆が皆「俺が普通だ」と口々に言うのだから困ったもんだ(笑)。「俺が普通で、世の中の多数がおかしいのだ」なあんて言ってやがるよ。


 友達と会ってホッとするのは、上下関係がないためだろう。っていることを何でも語り合える関係が地よいのだ。


 社会人になると、得てして利害関係が多くなる。選択の基準は損得だ。公私の区別がやたらとはっきりしていて、プライベートでも付き合う人は稀だ。友人は人生の彩(いろどり)を鮮やかなものにしてくれる。


 一方、組織における同志という関係は、地域に支えられていて少々微妙だ。引っ越した途端、全く行き来のなくなるケースが多い。こいつあ、ちょっと寂しいね。それでも突然電話をすると、瞬時に以前の関係に戻るのだから不議だ。


 人と会うと、互いの生命が触発し合う。それは、握手と似ていて、双方の力が加わっている。


 学会員の悪い癖は、一方的に何かを頼もうとするところだ(笑)。もっとリラックスして、ご機嫌伺いに行くぐらいの気持ちが望ましい。じっと相手の話にを傾けていると、色々なことがわかってくる。時には、悩みを打ち明けられる場合もある。自分の目的は、それから話しても間に合うよ。


 ただし、まだまだ根のない20代前半以下のメンバーは、最初に目的を告げておくべきだ。会話をコントロールできるようになるまでには、それなりの訓練が必要だ。


出会いを大切にする」とは、偶然を必然に変える生命力の為す(わざ)である。


 生物を無生物から区別するものは、生物は自分で動くということ、つまりactivityすなわち発動力をもっているということですが、機械文明はそのactivityを失わせるという格を本質的にもっているのです。しかも、このことは単に身体について言われるだけではなく、特に精神について語られねばなりません。いったい、精神こそ自由なものであり、新たなものを創造するものです。私はこの点を、すなわち精神の自由と創造を、を大にして強調したいのです。人間が動物に優るのは、自由をもっているということと、他から強制されずに動くということ、いや、単に自発的に動くだけではなく、未だかつてなかったものを、自ら創造するということですが、それを人間にゆるすものは精神なのです。ところが、いっさいを機械化することは、人間の精神をも眠らせ、その創造を人間から奪う結果となるのです。


【『「自分で考える」ということ澤瀉久敬(第三文明レグルス文庫)】

2004-09-05

一つの出会いから世界広布が


 一つの出会いから、一つの出会いへ。一つのから、一つのへ。そして数限りない出会い動を生みつつ、妙法もまた世界に広がっている。この「からへ」「人間から人間へ」という方程式を忘れてはならない。文化・宗教が流布しゆく際の真髄がここにある。


【第4回本部幹部会 1988-04-22 創価文化会館


 広宣流布とは、民衆が奏でる叙事詩であり、壮大なドラマである。そして、この革命の舞台にあっては、全員が主役だ。脇役は一人もいない。一人ひとりがかけがえのない存在として光を放つのだ。


 広布を推進する原動力は組織の力ではない。一人ひとりの信力・行力である。組織といっても、所詮、人の集まりだ。そうであれば、人間に光を当てずして、誰が動こうか? 号令や打ち出しで人を動かそうとする幹部は必ず堕ちてゆく。信根本のリーダーは、功徳と人間革命をもって皆を率いてゆく。


 信の世界にあって遠慮は不要だ。遠慮をすれば、した分だけ自分が損をしてゆく。役職ではなく、真の責任が重んぜられる世界なのだから。天草四郎やジャンヌ・ダルクに役職があっただろうか? 熱原の三烈士にしても同様である。革命は、自らの信で立ち上がった一人によって成就されることを忘れてはならない。


 この下半期、いよいよ学会創立80周年を目指しての折伏戦がスタートした。何はともあれ、先生がご健在の時に、一人でも多くの池田門下生をつくることが我々の最重要課題だ。先生の眷属を呼び現してみせる! 全ての友人を先生につないでゆこう! この決で臨みたい。

2004-04-26

人生は出会いによって綴られる


 人生において「出会い」は大事である。ある味で、人生は「出会い」によってつづられているといってよい。いつしか忘れ去られていく出会いもあるかもしれないが、一瞬に人生を変える出会いもある。

 ゆえに、私は一つ一つの出会いを最大に大事にしてきたつもりである。諸君も、同志や後輩の人との「出会い」を決しておろそかにしてはならない。最大の「誠実」と「真剣」と「真」をもって接し、激励をお願いしたい。

 一人の人との「出会い」にどのように振る舞うか、そこにその人のありのままの人間が表れるとっている。自分の立場や多忙さのために、いい加減な、不誠実な対応であったり、傲慢な、人を見下すような姿があれば、先輩として、また幹部として失格である。それでは人間としても嘆かわしいし、後輩も可哀である。


【第1回全国青年部幹部会 1988-01-09 創価文化会館


 オウム真理教の犯罪が明るみに出た際、「優秀な若者が、なにゆえ反社会的な宗教団体に参加したのか?」と多くのマスコミが疑問を呈した。彼等は、“出会いを誤った”といえよう。


 人生は、誰と出会うかで決まる。依正不二といい、縁といっても、出会いに集約される。


 上京して数年を経た頃、今までお世話になった方々の前を書き出してみたことがあった。私の人格形成に何らかの影響を与えた人の数は、実に200人を上回った。まだ、26歳ぐらいだったと記憶する。


 更に先輩方から受けてきた薫陶や指導をい返した。私が後輩にしてきたアドバイスの9割以上が先輩から教えてもらったことだと気づいた。オリジナルは1割にも満たないだろう。


 30歳を過ぎてからは、何はともあれ、自分が教わってきたことだけは、後輩にしっかりと伝え残してゆこうとの強い自覚が芽生えた。


 私の人生を決定付けたのは、師匠・池田大作先生との出会いによるものだ。我が人生にとって、これほどの僥倖(ぎょうこう)と福運はない。その出会いは、小学校1年の時である。詩「大いなる希望」によって、私のには師匠の存在が刻印された。小学校2年より、先生のご健康とご長寿を祈り続けてきた。


 更に、我が運命を決めたのは、高校3年の時に、小説『人間革命』(当時は10巻までしかなかった)を通読したことであった。この衝撃は、いまだに余韻が消えてない。生涯、消えることはないだろう。


 先生のを体して、内にあっても外にあっても、情熱と誠実の塊(かたまり)となって、を通わせる出会いを繰り返してゆきたい。出会えたこと自体を喜び、謝できる日々でありたい。


 相手のに何かを与える、何かを残す、何かを動かす。シビレエイは自分が電しているから、触れる人をも電させる。自分の動のボルトを最大限にして、相手のは痺れる。


「あなたと出会えてよかった!」こう語る人々の数が、1000万に直結する。