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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2008-02-05

権力者は民衆を手段に


 要するに、悪しき権力者は必ずとなる。現実に私どもは、嫌というほどそれを見た。自分を守るため、また自分の権威を守るために、我々を“手段”とした。

 真の指導者は自分自身を捨てて、民衆を“目的”とし、民衆を守る戦いをする。の権力者は、「姿」は似たように見えても、根本的に「」が違っている。


東京文京・台東・板橋区代表者会議 1989-12-24 東京上野池田講堂】


 創価学会は、民衆救済のための組織である。幹部の功を満足させるための組織ではない。リーダーのひとつで、権力者にもなれば指導者にもなり得ることを銘記したい。


 末代に法華経を失うべき者はには一代聖教を知りたりといて而もには権実二経を弁へず身には三衣一鉢を帯し或は阿練若に身をかくし或は世間の人にいみじき智者とはれて而も法華経をよくよく知る由を人に知られなんとして世間の道俗には三明六通の阿羅漢の如く貴ばれて法華経を失うべしと見えて候(6頁)


 この御聖訓は、「衣の権威」で学会員を足蹴(あしげ)にした日顕宗を示すものであるが、そこで索が止まってしまえば、「の外」に御書を置いていることになる。これからの「三衣一鉢」とは役職であろう。役職がどんどん上がっていって、信を失うことを指弾されたと拝する。周囲から「凄い凄い」とおだてられてダメになってゆくのだ。


 道修行の目的は「一生成」にある。であるならば、一生を通して見ないと、その人の真価は判らない。どんな紆余曲折を経ようとも、人生最後に勝てばよい。


 その味で言えば、事件のある問題を起こした学会員に自主的な退会を促しているような節があるが、私はおかしいとう。宗教団体なんだから、世間以上に敗者復活の余地を残すべきではないか。多くの会員に迷惑をかけたのであればともかく、個人的な過ちはもっと大目に見てあげるべきだと考える。

2008-02-04

悪鬼は生命力を貪る


 悪鬼はそのの通り、餓鬼界の生命である。餓鬼界は「貪り」の命である。何を貪るのか。

 それは妙法を持(たも)つ者の「生命力」であり、これは「奪命者」の働きである。また、「奪功徳者」として、妙法による「功徳」を奪おうと動く。

 更に、「立正安国論」等に示されたごとく、人々から正常な考を奪って、社会を乱していく。また、道修行への「信」を食い破ろうと邪をする。

 末法が進んだ現代は、こうした悪鬼がいよいよ充満し、飢えた餓鬼のごとく、妙法を持(たも)つ人と、広布の世界に押し寄せ、群がってくる。

 ゆえに、そのことを識し、自覚せずして、「悪鬼」と「」を寄せつけない戦いが必要である。

 それらをすべて打ち破っていく強き一念と祈りが不可欠である。

 その用と日々の祈り、また団結と知恵がなければ、虎狼の群れに一人、無防備で入っていくように危険極まりない。

 それが末法なのである。その悪の世界にあって、清浄なる妙法の信仰子を、どう守り、正法の世界を広げていくか。

 指導者の孤忠もここにある。夢にも簡単なものにってはならない。


 善と悪との壮絶なせめぎ合い。これが、この世の永遠の劇である。

 宇宙は常に、善と悪との闘争の舞台なのである。

 広宣流布が進んでいけば、組織が大きくなれば戦いは楽になってくるだろう。そう錯覚したとしたら、それ自体が既に悪に破れつつある姿である。

 また、自分はこれだけ信したから、もう配はないだろう。誰にもそんなことは言えない。

 法、信は永遠に前進であり、永遠に闘争である。その「前進」が即「安穏」なのである。朗らかに堂々と「戦い続ける」姿が、そのまま「勝利」の生命なのである。

 飛行機も飛び立った以上は、懸命に飛んでいる時こそ、最も安定している。エンジンの回転をゆるめれば、失速し、やがて墜落する以外ない。


 そして大切なのは、との戦いに「中間」はないということである。その本質が「の軍勢」なのか、「王の軍勢」なのか。どちらかである。

 一人の人間が3割だけの側で、7割はの陣営だとか(笑い)、だけれども、言っていることを聞けば、ちょっとだけの味方だとか(大笑い)、それらは法の眼(まなこ)から見れば、生命の実相を知らない滑稽な考え方といわざるを得ない。

 徹頭徹尾、“法は勝負”なのである。この基本が皆中々わからない。私は常に誰も気づかないうちに、「」という本質を見抜く。悪に対しては厳しく戦い、打ち破る勇者でなければ、大切な子を守りゆく使命は果たせないからである。


東京文京・台東・板橋区代表者会議 1989-12-24 東京上野池田講堂】


 この指導の一年後に宗門問題が起こった。最近の本幹では「宗門事件」と表現しているが、ピンと来るネーミングではない。


 学会は宗門問題に勝った。圧勝といってよい。若干、退転者が出たが、それによって一層清浄となった(笑)。


 次に定される「悪鬼」は学会幹部である。組織悪に目をつぶり、関わろうともせず、無責任を決め込んでいる連中だ。


 学会本部は、職員にとっては職場である。そこには当然序列があって、正義を叫ぶ余地は存在しない(笑)。しかも、守秘義務に縛られているため、相談もできない。例えば、悪い幹部を見つけた青年職員がクビを覚悟で糾弾できるかというと、かなりしいだろう。生活は何とかできたとしても、組織内で悪しきレッテルを貼られることが明らかだ(笑)。


 問題のある幹部がいても、人事にすら手を入れられない。これが現状だ。


 先生亡き後を考えれば、人事のあり方を変えるしかない。B長、地区部長は立候補制とし、支部長以上は選挙によって決めれば、現在よりもはるかにまともな組織にできるだろう。人事権を上の幹部が握っている内は、それが悪の温床となる。


 いずれにせよ法は勝負である。何があろうとも「勝つ」とを定めることだ。特に青年部は、「小さな悪」に鈍であってはならない。上の幹部と喧嘩できるだけの力を持て。

2008-01-30

「善」に生きているからこそ、「悪」に妬まれる


 信したとしても、常に色々な事件、出来事がある。どうしてなのか。

 その根本的理由の一つは、妙法を持(たも)った人は「善人」である。だからこそ「善人」を嫌い妬む「悪鬼」が、その人を懸命に狙ってくるからである。御書には、そう明快に説かれている。

悪鬼」とは生命論的に言えば、人間の福徳や生命力を“奪う”、宇宙の悪しき働きのことといえよう。これに対し「諸天善神」とは、宇宙の根本法である妙法を持(たも)った人を“守る”働きを指している。「善」に生きているからこそ、「悪」が攻撃するのである。

 大聖人が御書に、わかりやすく仰せのように、善人は妬まれる。また、金持ちは狙われる。まして妙法は、「永遠なる幸福」の法である。ゆえに妬まれ、騒がれるのである。


東京文京・台東・板橋区代表者会議 1989-12-24 東京上野池田講堂】


 不幸と幸福が綱引きを繰り返すのが人生だ。時にたった一つの不運が不幸の連鎖となることもあれば、小さな努力が幸福のリズムを奏でることもある。


 幸不幸は、「自分」が「何」を「どのようにじるか」で決まる。法に説かれているのは主観的な世界観だ。内なる生命に因も果も包括され、外なる世界は縁に過ぎない。道修行の目的は生命の境涯を高めることにある。鍛え抜かれた生命は、たとえ悪縁であったとしても、幸福の因としてゆくことが可能だ。


 末法という時代の世界には、常に悪の重力が働いている。


 此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の王の眷属なり(1081頁)


 平々凡々と真面目に生きているだけでは、どうしても悪縁に引きずられる。人の不幸はニュースになっても、幸福は見向きもされない社会だ。


 確かに金持ちは妬まれる。美人も妬まれる。であるならば、善人が悪人に妬まれるのは当然だ。


 ただし、創価学会が社会に与える影響力が大きくなっている昨今、正当な批判にを傾ける姿勢が求められることは言うまでもない。

2006-09-23

死魔


 命あるものは必ず死ぬ。そんなことは誰もが知っていながら、人は死を恐れ、忌み嫌う。戦争や事故などで人間の原型すら保ってない遺体を見ると、考は停止する。像力も働かない。そこにあるのは単なるモノだ。動かなくなった死体を見て我々は、いつの日か自分もモノと化す恐怖を味わっているのではないだろうか。


「なぜ、死んだのか?」――時に人の死は、自分の人生にブレーキをかける。相手が若くして亡くなった場合、特にそれが顕著だ。学会員においては、そこから「信していたのに……」と引き継がれる羽目になる。これが怖い。「あんなに頑張っていたのに」となったら、完璧な不信だ。


 青年部時代、私の後任の本部長が亡くなった。まだ37歳だった。ずっと一緒に戦ってきた同志だった。亡くなったその日も、私は病院へ足を運んでいた。壮絶な姿で戦っていた彼の姿を私が忘れることはないだろう。


 後日、最高幹部で追善勤行会を行った。その頃、担当で入っていた東京男子部長も参加した。終了後、ある本部長が言った。「小野さん、どうしてあの人が死ななきゃならないんですか?」と。私の隣にいた東京男子部長が激励した。しかし彼は私を見つめて、「でも、俺は絶対に納得できませんよ」と言い放った。私は言った。「納得できなくて構わないよ。納得できないまま、一生引きずっていこうよ」と。


 私は鬼のように戦った。戦うことでしか悲しみを乗り越えることができなかった。それ以前にも数の男子部が亡くなっていた。亡き同志を胸に抱き、背中に背負って戦った。


 一年ほど経った頃、自分の甘さをい知らされた。先輩幹部を喪(うしな)った本部が壊滅状態となっていた。担当していた主任部長が言った。「本部長を始めとする多くのメンバーが、先輩の死に不信を抱いている」と。その愚かさに、私は怒り狂った。一列に並べて、ぶん殴ってやろうかとったよ。我が子を喪った母親のことをえば、我々の悲しみなんぞ、底が知れているのだ。


 人間というのは実におかしな動物で、何でも「わかりたがる」質がある。「納得できない」と極度な不安に襲われる。「なぜ、死んだのか?」と。江原啓之の番組を見ると、それがよく理解できる(笑)。疑問の裏側にあるのは、「なぜ、生まれたのか?」「そんなに若くして死ぬんだったら、生まれて来ない方がよかったんじゃないのか?」「そもそも、生まれてきた味があるのか?」といういだ。根っこにあるのはエゴイズムであり、遺(のこ)された我が身を苛(さいな)むセンチメンタリズムだ。


 これが死魔の本質だとう。死魔は、生きる気力を奪い、を過去に縛りつけ、悲しみで翻弄する。誰もが死魔に襲われる。そこから自分が一歩成長しない限り、克服することはできない。


 私は亡くなった同志にから謝している。彼等と出会ったことに対して。そして、共戦の確かなる歴史を築いたことに対して。彼等の存在なくして、現在(いま)の私はない。そして彼等は現在(いま)もこれからも、私の中で生き続けるのだ。

2006-05-18

宗教革命は、前代未聞の偉大な誇り高い革命


 古来、数千年の人類の歴史における全ての革命は、に耐えつつ、勇断をもって勝ち取ってきたが、との戦いを敢行したものは一つもない。したがって、流血の悲惨を生み、同胞の殺戮(さつりく)を伴い、また、革命が成就した後の社会も、“夢に見た社会”とはならなかった。

 妙法による私達の偉大な宗教革命の実践は、これまでの全ての革命が図して達成できなかったものまでも、達成することができるのであります。それは、所詮、この地上を支配している、宇宙の、法界のとの戦いを根本としているからであります。この味において、私達の革命は本質的には、いかなる過去の革命にも似ていない。すなわち、前代未聞の偉大な誇り高い革命といわなくてはならない。

 ゆえに、己に打ち勝つことなくして、どうして妙法の革命児として誇ることができようか、と申し上げたいのであります。社会のを、厳しくとして見破る眼力なくして、どうして妙法の革命児と自負することができましょうか。

 妙法の利剣を磨きに磨き、現代社会の一切の悩に精通し、恐るべきとの戦いに凱歌をあげるには、着実にして果敢な折伏の怒涛のごとき実践しかないことを知るべきである、と申し上げたいのであります。


【第17回全国男子部総会 1968-11-17 東京・日大講堂】


 古来、革命は民の幸せを勝ち取るために行われてきた。虐(しいた)げられる人々の、生き死にさえ軽んじられた時、圧縮されたエネルギーが爆発する。しかしながら、いずれの革命も、社会制度の改革を目指すにとどまり、結果的に新たな権力者を生み続けてきた。


 革命の序・正・流通が成り立たないのは、「との闘争」がないからだとの指摘である。


 此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の王の眷属なり(1081頁)


 つまり、我々の住む世界は、第六天の魔王=権力者が牛る世界であり、権力者の言いなりになる人々で構成されているということだ。また、権力を手にした途端、人間が狂ってくることまで示唆(しさ)しているのかも知れない。その本質は、人間を“モノ化”し、手段として扱うことである。


 市井(しせい)の庶民は誰一人として戦争を望んでない。しかし、一部の政治家によって戦争が行われてきたのが歴史の常である。そして、戦地に駆り出されるのは、常に庶民であった。敵国に打撃を与えれば、同胞の死は不問に付された。国家という怪物は、まるで石でも投げるようにして国民の生命を弄(もてあそ)ぶ。


「妙法の革命児であれば、己に勝て」との指導は、単なる精神論ではない。己を打ち破らなければ、権力のにたぶらかされてしまう。例えば、学会の尊い役職を担いながら、権威主義官僚主義に堕してしまう幹部がいるのもそのためだ。


「社会のを厳しく見破れ」との指摘も極めて重要。事件や事故を見て、個人の宿命で片づけるのは簡単だ。そこから、もう一歩深く社会の問題を捉えてゆく。民衆を無気力にし、コントロールしようとする働きがの本質だ。


 第六天の魔王十軍のいくさををこして法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土をとられじうばはんとあらそう(1224頁)


 この世界は、の軍勢と軍が熾烈(しれつ)な闘争を繰り広げる世界である。我々が推し進めるのは、人間革命を基本とした宗教革命である。妙法の利剣を引っさげ、快刀乱麻の折伏戦を、今日も明日も。

2006-04-02

風に向かって走れ


 ところで、大航海を可能にしたものの一つは「新しい船」であった。

 要約し、わかりやすく言うと、王子らの工夫もあって、「風に向かって走る船」が開発されたのである。

 それまでの航海は「風向き次第」であった。追い風の季節風を待っての旅であった。それを様々な技術改良によって、順風の時のみならず、あらゆる風向きの場合にも前進できるようにしたのである。

 この発明は、自然を克服した大きな一歩だった。まさに“必要は発明の母”である。

 人間もまた、風向きで流されるのではなく、目的地を目指して“風に向かって走る”力があって初めて「人生の大航海」ができる。

 その力の源泉となるのが「信」であり、信によって培った「信」である。そして、人間としての偉大な使命の「自覚」なのである。

 いわゆる順風満帆の人生、山登りでいえば、ふもとの方をもなく歩いて回るような人生は、何の味わいもなく、また、大きな価値を生まないものである。むしろ、険な山の尾根に敢然と挑み、山頂を目指す生き方こそ、大いなる「価値」と「歴史」を残すものだ。

 いわんや私どもの「広布」と「人生」の歩みは、あらゆる向かい風にも力強く挑戦し、新しい価値と歴史をつくりながら、人類史に永遠の光彩を放ちゆく、誉れの航海であると申し上げたい。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 これを座談会で実験した壮年部の方がいた(笑)。私は直接見てないのだが、隣の地区の男子部が「もう、凄かったッスよ」と語っていた。水を張ったタライに、手作りの帆船を浮かべ、正面から扇風機を回したそうだ。何度やっても、船が引っくり返ったという(笑)。だが、その気やよし。忘れ得ぬエピソードである。


 風が強ければ強いほど、凧(たこ)は天高く舞う。四度の大とは、困を極めるほどに、より深き使命に目覚め、自体を顕照しゆく生きざまを示されたもの。生命(いのち)に及ぶほどの危険に遭遇しても尚、「喜悦はかりなし」(1360頁)と、自在に人生を楽しむ絶対的幸福境涯の高らかな人間讃歌だ。


 僧・日顕によって、学会は真の世界宗教へと飛躍した。ここに、学会のみが、大聖人の衣鉢を継ぐ、正当な和合僧である証が存在する。


 学会全体に襲い掛かった風雨は、全て先生が受けられた。そして、これほどの功績・績を残されながらも、いまだに戸田門下生として弟子の道を貫かれている。我々は“反転攻勢”などと軽々しく言ってのけるが、それはひとえに先生の一から始まり、先生の一に帰着しているのだ。


 その師じるのであれば、せめて、自分に向かって吹く風には、堂々と立ち向かってゆきたい。


 大風吹けば求羅は倍増するなり(1136頁)

2005-08-17

連戦の中で“正義の哲理”は磨き抜かれる


 すなわち、天台の戦いは、同時代の論客はもちろんのこと、「中国500年」「インド1000年」にわたる、釈尊以後のありとあらゆる邪義を論破しゆく、壮大な法戦であった。

 その壮絶なる戦、言論戦に対し、当時の最高の権威という権威が、「雨のごとく」「風のごとく」天台を総攻撃した。今でいえば、民衆に全幅の信頼を寄せられている学者や言論人による非に当たろう。

 その連戦に次ぐ連戦の中で、正義の哲理は、いやまして鍛えられ、磨き抜かれていった。圧迫が激しければ激しいほど、天台はそれを上回る大いなる力を発揮して、正義を証明し、宣揚していったのである。


 悪世にあって、正しきものには妨害がある。進むものには抵抗がある。当然の道理である。像法時代の天台ですら、あれだけの風雨を受けた――。

 法の目的は「成」にある。そして、大聖人は身命を捨てるほどのとの戦いがあってこそ成できると仰せである。ありて、初めて成がある。悪口されればされるほど、「」の境界に近づける。これほど、ありがたいことはない。

 その味で、むしろがあればあるほど、から喜び勇んでゆくが、まことの信である。


【第2回神奈川県支部長会 1988-07-19 神奈川文化会館


 稀代の悪僧・日顕による宗門問題以降、日蓮正宗が清流ではなく、謗法まみれの濁流であることを我々は初めて知った。何の根拠もなく、僧侶を尊敬してきたが、それが誤りであることもわかった。出家とはばかりで、在家以上に世俗の垢(あか)にまみれ、酒色に溺れている事実を知った。


 学会を取り巻く黒い闇に一閃の光を放ったのは、「地涌からの通信」だった。北林芳典氏の『暁闇』によれば、「ちなみに、不破優に従った編集部の2は、とある地域の創価学会男子部の副部長と同地区リーダーであった」という(「断簡6 岩を穿つ雨滴」)。創価の絢爛たる広布史に、そのは燦然(さんぜん)と刻まれた。尊い学会員を守るために、現場を奔走した教宣部・広宣部の方々も、また同様である。


 学会が仏勅の団体であるならば、その目的は会員の成に尽きる。世界190ヶ国、1500万の会員を擁する巨大な団体が、急ハンドルを切ることは許されない。急激な変化によって、会員が不信を起こしてしまえば、日蓮大聖人の精神に背く結果となろう。


 北林氏の一連の著作のように、“今だから”こそ明らかにできる事実もある。学会の人類史的義は、数百年、数千年単位で見た時に、初めて鮮明になると私は考える。


 時代は刻々と変化している。これからも、変化の波にさらわれそうになることがあるかも知れない。その時に、御書に拠(よ)って立ち上がる人こそ、創価後継の本格派である。