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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2008-07-02

信・不信


 人は信ずることによって、信じられないことを実現しようとする。つまり、信じられないことを実現するために信ずるのだ。信深き人とは、誰よりも不可能を可能にする人の異である。何というパラドックスの妙か。

2007-11-15

信心は「自分自身の内実」が問われる


 まことに厳しい御指導である。「のみ之を仮りて中に染まざる信薄き者」(537頁)であっては、絶対に成することはできない。むしろ堕地獄である、と。

 信は形ではない。役職のみでもない。年数でもない。「中」に、生命の全体に、「信」を染めきれるかどうかである。

 信の強さ、深さ、正しさというものは、外見ではわからない場合が多々ある。いわんや表面的な“組織の論理”のみでは、見えない場合があまりにも多い。

 あくまでも信は自分自身の課題である。自分自身の内実がどうであるか、その生命の因果の問題である。

 いかなる幹部であっても、それが前だけであり、無責任であれば、むしろ罪をつくってしまう。

 いわんや信を利用し、広布の組織を利用して、自身の利を得ようとするなど、その「」自体が既に地獄界のである。

 広宣流布への責任をもって、ある時はしみ、悩みながら、労を惜しまず、我が色を燃やし、用いてゆく。それは確かに大変であるけれども、責任が大きい分だけ、生命の中に種が大きく育ち、豊かに爛熟(らんじゅく)してゆくのである。三世永遠にわたる「不壊(ふえ)の幸福」の当体になってゆく。

 ゆえに中途半端であってはならない。不惜身命が信の骨髄である。その真の「信伏随従」によって、我が生命を妙法に染めきっていってこそ、成という無限の大功徳がある。

 学会は「広宣流布」へのの団体である。御本尊に照らされたこの妙法の世界で、真剣に信行学の活動をしてゆく。その信強盛の人こそ、現代における「信伏随従」の人である。


【創立60周年開幕 広島県記勤行会 1989-10-15 広島池田平和講堂】


 内道と外道が相対(そうたい)して、内道が勝(すぐ)れる。新入会でなければ、誰もが知る法の法理である。しかしながら現実は、先生が懸されている「組織の論理」がまかり通っている。


 本来であれば、とっくに処分されるべき幹部が、本部職員の立場で抜け抜けと禄を食み、過ちを反省しているメンバーを退会に追い込んでいる。先日、青年部時代の後輩から電話があり、「最近の組織は、まるで『株式会社創価学会』ですね」と言ってたよ(笑)。


 組織である以上は、皆の合が必要である。だが昨今は、会員の合ではなくして、一部幹部の勝手な判断で全てが決定されてしまっている。


 今にしてえば、会長勇退は「組織の論理」そのものではなかったか。学会に降りかかる火の粉を避けるために、師匠を切り捨てたのだ。当時、首脳の一人は言った。「時の流れは逆らえません」と。5.3の記式典の司会者は、「名誉会長に拍手はしないよう」アナウンスした。こうした幹部をどうこうしろと言い立てるつもりはない。最大の問題は、当時の首脳全員が与同罪を犯した事実なのだ。


「信伏随従」とは弟子の覚悟と生きざまである。それにしては、面従腹背の偽者が多過ぎやしないか? 「師弟の偽装表示」だよ(笑)。今度から、インチキ幹部を「事務次官」という仇で呼ぶことを提案したい。


 長い展望に立てば、人事は「会員による投票制」にするべきだとう。会長職は既に投票で決めているんだから、さほど問題はあるまい。

2007-09-20

最前線で懸命に戦う友を讃えよ


 信の立派な人とは、役職の高い人ではない。役職がなくても、どういう立場であっても、信を深めてゆく人こそ尊いし、立派なのである。

 地道に絶え間なく道修行に励み、広宣流布のために戦っている人が偉大な人である。

 家庭訪問する、個人指導に歩く、弘教に励む、同志の面倒をみる――こうした基本の活動が、信の基礎体力をつけてゆく。したがって、いくら役職を持ち、巧妙に組織の中で戦っているような姿を見せても、基本となる道修行を怠り、広布の組織活動をないがしろにする人は、結局、行き詰まり、信の軌道から離れてゆく。それは、信を退転し、学会に造反した幹部の姿を通して、皆さま方もよくご承知のこととう。

 ともあれ、たとえ役職がなくても、組織の第一線で日々懸命に活動している人を最高に尊敬し、大事にしてゆくことが、信の指導者のであることを忘れてはならない。


【第21回本部幹部会 1989-09-15 東北文化会館


 信の立派な人とは、役職の高い人である――これが現実だわな(笑)。


 初対面だと、どうしても役職で判断してしまう。私もそうだ。「失礼ですが、役職は?」「あ、私、副会長です」「ハハァアーーーッ」とひれ伏すのが普通(笑)。


 通常、信行学は“修行のスタイル”と受け止められているが、実はそうではない。信行学とは“力”のことである。つまり、信力・行力・学力。力とは負荷に対抗するものであるから、筋肉が必要となる。だから、祈らない人は祈れなくなる。動かない人は動けなくなる。そして、学ばない人は学べなくなるのだ。これを身口意の三業という。瞬間最大風速みたいな成果など、全く当てにならないことが理解できよう。地道な人間革命の中にしか、法勝利の実証はない。


 真面目に戦っている婦人部幹部が一様に嘆くのは、「壮年が動かない」ことである。そんなことで悩んではいけない。壮年が動かないのは久遠元初以来のことだ(笑)。「動くのが当前」とっているから頭に来る。「動かないのが普通」とえば、世界は明るくなる(笑)。


 家庭指導が楽しくなってくれば、幹部として一人前である。あとは、何でも出来るようになる。後輩と一緒に回ると、どの程度戦っているかが瞬時にわかる。「わかる」というよりも、「見えて」しまうのだ。


「あの人は会合に出ないから厳しい」などと、相手を向こうに見ている内は対岸の火事だ。“相手側からの関わり方”を問題にするのは随他である。人間関係は、“自分の関わり方”で全て決まる。これが随自意の哲学であり、依正不二・三変土田・一三千もここから始まる。


 折伏もしなければ、家庭指導もしない。そんな人間ばかりが集まる会合に、果たしてどのような味があるのか?(笑)


 聖教新聞は、会長・理事長が家庭訪問する様子を報じるべきだ。

2006-11-05

役職と信心


「役職」と「信」について、戸田先生は次のように指導されている。

学会組織は、御本尊を信ずるという点においては、会長もなければ、組長もありません。皆、同じです。ただ広宣流布のため、折伏のための行程としての組織があるのであって、信の上では組長であっても、支部長より信の強い人がいるかもしれません。また、地区部長だといっても、それこそ一組員より信がない人がいるかもしれません。

 功徳は信で論ずるもので、組織の位置をもって論ずるものではない。そのところを、よくよく間違わないようにして下さい」と。

 要するに学会の役職は責任職である。役職に就いた人は、その自覚を強くもつべきであるし、ますます信を強盛にしていかねばならない。しかし組織上の役職というものは、すべての人が就くわけではない。また、役職がないからその人が信がないとは絶対にいえない。役職がなくても信の強盛な人は多くいる。ゆえに役職の上下と信の厚薄を混同してはならないし、妙法の世界は、ただ信によって、その人の偉大さが決まっていくことを忘れてはならない。

 さらに、戸田先生は、「信」と「組織」について、次のように述べられている。

「だからといって組織がいらないとは絶対にいえない。組織は広宣流布のためにある。組織がなければ広宣流布はできない。どこまでも組織組織として、厳存しなくてはならない。そして、どこまでも、異体同の精神がなければ広宣流布ができないと、(大聖人は)おっしゃっている」と。

 広布の活動も新たな発展への段階を迎えている今日、信組織の基本を示された、この戸田先生の指導をしっかりと汲み取っていくべきである。


【第2回中部総会 1987-09-21 中部池田記講堂】


 役職は、信のレベルを表すものではない。人事で登用されることが、成功の道標(みちしるべ)と考えている愚か者を時々見かける。それこそ、信のない姿を露呈したも同然だ。


 21世紀に入り、青年部の力が格段に落ちた。まず、婦女一体が打ち出され、今年になって遂に壮男も歩調を合わせることとなった。青年部幹部が折伏を決められない。また、年長者からの相談に応えることができないといった窮状を反映したものだと像する。


 学会青年部も既に3世、4世が占めるようになりつつある。きっと、恵まれ過ぎた環境で育ってきたために、求道のカケラも持ち合わせてないのだろう。任務中の創価班を見ても、とにかくだらしがない。ただ、突っ立っているだけだ。役員と何ら変わりがなく、「警備」という識すら見受けられない。


 広宣流布を最大限に価値的に推進するための組織である。そして、民衆を守るための組織である。信強盛な人が責任ある立場となっていけば、皆が安して活動に励める。ところが、中枢にいるのは本部職員と創大出身者のみとなってしまった。ここに組織弱体化の最大の理由がある。このような実態がある中で上昇志向を抱くのは馬鹿げている。


 信とは個人レベルの世界である。どんな組織にいようと関係ない。戸田先生のように、牢獄の中ですら自由な境涯を獲得することができる。そこでまず第一に提案したいことは、「信を深めよう」ということだ。広宣流布は一人立つことから始まる。であれば、まず、組織に依存する精神を捨てろと言いたい。正役職をしているならば、口が裂けても「やりましょう!」と言うな。全部、自分でやれ。


 第二に「力をつけよう」。社会で生きてる以上、力がないと馬鹿にされる。誤解を恐れずにいえば、一番わかりやすい力は腕力である。ところが文明の発達に伴って、武器が作り出されるようになると力関係は一変する。より精巧で破壊力の強い武器を買える人間が力を手中にした。ここにおいて、腕力よりも経済力が勝るのだ。大企をみてごらんよ。みんな、武器を製造しているから(笑)。力の基本は暴力であることが明白だ。


 特に男諸氏に言っておきたいことは、本部職員と比較した時、我々民間人の方が有利なのは、「いくら金儲けをしても構わない」という一点だけである。“金儲けをする自由”が与えられていることを忘れてはならない。


 第三に「個を磨こう」。個とは自分らしく生きる中で自然と現れる輝きである。皆が進む方向に、さしたる理由もなく付いて行くような人に個はない。個のない人は面白みに欠ける。人間革命を通して、強烈な個を発揮すべきだ。


 以上の三点を私は叫んでおきたい。先生がいなくなった後、問題を起こすのは職員か創大出身者と相場は決まっている。多分、公明党からは出ないだろう。そのために今、散々叩いているのだ。私が提言する三点を多くの学会員が実行してゆけば、どのような問題が起きようとも、組織は磐石になるはずだ。


 組織の上に乗っかるな。自らが組織をつくれ。「組織する」という発をもて。

2005-09-14

正しき信心は“師弟の道”に


 広宣流布にとって、何が一番大事なのか。それは取りも直さず「信」の二字である。いかに大きな権威の建物があっても、そこに法があるわけではない。いかに才知に優れ、いかに教学があるからといっても、信が弱ければ味がない。また、いくら人数が増えたとしても、一人ひとりの信が強盛でなければ、将来の発展は望むべくもない。

 たとえ今は、人数的には小さな存在であっても、正しき「信の道」、法の正しき「筋目」ともいうべき「師弟の道」を厳然と貫いていく――その姿それ自体に「広宣流布」がある。つまり、正しき「信の道」を一分の狂いもなく歩んでいる、その中にこそ「因果倶時」で、大いなる未来の発展という「果」がはらまれている。ゆえに、やがて時とともに、妙法の力用(りきゆう)によって、像もできなかった広宣流布の発展がなされることは、絶対に間違いない。現に、日本における60星霜に及ぶ学会の発展の歴史がそれを如実に証明している。

 この方程式は、いかなる時代、いかなる地域や国にあっても同じである。それゆえに私どもは、信にだけは妥協も、安逸もなく進んできたわけである。

 逆に、いかに表面的に立派そうに見えても、正しき信の大道を踏み外してしまえば、もはや正法の世界ではない。


【第10回本部幹部会 1988-10-19 創価文化会館


 組織を運営する以上、そこには必ず政治が生まれる。就中(なかんずく)、組織上の問題を対処する際は、役職が高いほど楽だ。下から上に向かって、これを行なおうとしても、中堅幹部がデタラメだと、恐るべき労力が必要となる。


 今、ざっと組織を見渡すと、「上昇志向が強く、失点を避けようと頑張る人」、「旦那が職員のため、猫をかぶっている婦人部幹部」、「長年にわたって同じ役職をしているため、惰の軌道に入っている人」、「とばっちりを恐れて、人間関係のトラブルにはタッチしようとしない副役職」、「社会で実証を示すことのみに専している壮年幹部」、「尾ひれのついた噂話を垂れ流す“悪事をなす”女幹部」、「家のローンを支払うのが人生の目的と化した“ローン・レンジャー”」などがウヨウヨしてますな(笑)。


 自分の一段上、二段上に、こんな幹部がいたら、もう大変だ。何か行動を起こす度に、こっちが悪者に仕立てられてしまう。組織を“政治”が覆うと、かようなことになる。


 東京下町の男子部の合言葉は、「信で勝負しろ!」。数でもなく、キャリアでもなく、年齢でもない。長い間、戦っていると、組織の政治に敗れるような場面も出てくる。だが、広宣流布の世界なのだから、信で勝てばいいのだ。簡単な話だ。でも、一番しい(笑)。


 やるべきことを全てやり切り、祈りをもって万全の態勢を整える。大宇宙のリズムにギアがはまった瞬間から、どのような問題でも、唸(うな)りを上げて回転し出す。問題やトラブルは、組織が革命するためには不可欠な要素なのだ。


 これができないと、妙なプライドが頭をもたげて、必ず退転する。和合僧から離れてしまえば、成の軌道から外れる。我見を根本とした自転だけでは、求力を失い、どんどん中からかけ離れてゆく。


 大宇宙の根本法則である妙法には誰人も逆らえない。そうであれば、祈り深き人には、誰もかなわない。真っ直ぐに、御本尊を見つめ、師匠を見つめ、迷いなく戦おう。

2005-07-12

青年は沸騰する信心であれ


 かつて『随筆 人間革命』でも紹介し、また先日も少し触れたが、ある年の夏、戸田先生を囲む青年部首脳の会合があった。

 その時、先生は、ある穏健そうな青年に、こう指導されていた。その青年は、戸田先生配通り、後に退転してしまった――。

「閉ざされた青年であってはならない。水の信というけれども、水も、時と条件によっては、沸騰することもあるのだ。革命児は、ただの平穏なゆっくりした生活を夢見るようでは、成長できなくなるだろう」

 を閉めきったなにか陰湿な青年であってはならない。先生はよく、昼は、はつらつと太陽とともに働き、学び、夜は星を友にしていくような、理情の融合した革命児であれと語っておられた。

そして「ともかく、何かで第一人者となるというだけの執をもつことだ」と結論しておられた。

 信した以上、可もなく不可もなくといった中途半端な生き方では、厳しく見れば、結局、不可である。何らかの味で、自分ならではという「第一人者」になろうという志と努力・精進が大切である。その一が信を深め、また信の力を証明していくことを忘れてはならない。


【12本部幹部会 1987-12-04 創価文化会館


 当時の青年部であれば、忘れようにも忘れられない指導の一つ。豪放磊落(らいらく)な戸田先生の人間が窺える言葉の数々。


 青年ならば、燃えたぎる何かを持て。青年ならば、熱に浮かされたように何かに打ち込め。青年ならば、理と大義に生きよ。若くして、ちまちました小市民になってはいけない、という戸田先生いが込められていたに違いない。


 失敗を恐れるな。逃避と怠惰を恐れよ。石橋を三度も叩く必要はないぞ(笑)。


 どこにあっても、誰からも必要とされる逞しき笑顔の青年であれ。

2004-12-01

信心のチェック法


 人間の覚器官で情報量が最も多いのは目だそうな。色・形・遠近を一瞬にして判別するのだから、それも当然か。他の覚器官の数百倍もの情報量を得ることができる。俗に「百聞は一見に如(し)かず」と言われる通り。


 しかしその一方で、T・ノーレットランダーシュによれば、五から入る情報量は毎秒1100万ビットもありながら、識が処理できる量は40ビットだそうだ。多くの場合はその半分程度。


 自分の目で見たとしても、錯覚という場合もある。


 リトマス紙というのがある。紙を水溶液に浸して、酸かアルカリかを調べるもの。青色のリトマス紙が赤くなると酸で、赤色のリトマス紙が青くなるとアルカリということになる。


 目で見たところでわからなくても、かようなチェック法もあるのだ。


 その昔、「リンゴをかじると歯茎(はぐき)から血が出ませんか?」という歯磨き粉のコマーシャルがあった。出血があれば膿漏(のうろう)の可能があるというもの。わかりやすいこのコマーシャルは一世を風靡(ふうび)し、多くの消費者の購買欲に火をつけた。


 信というのは目に見えない。役職が上になればなるほど、信がありそうな気もするが、某教学部長や、某顧問弁護士、あるいは某副会長や某議員の方々がその幻を見事に打ち破ってくれた。合掌――。


 リンゴをかじって勤行をすれば一目瞭然ともなれば便利だろうが、そんなわけにもゆくまい。


 いくつか考えてみた。

  • されると怨嫉してませんか?
  • 会合に5分遅れても平気じゃありませんか?
  • 聖教新聞を読んでも、動忘れてませんか?
  • 「希望者!」と呼び掛けられて、周囲を見渡してませんか?
  • 組織目標を決める時、誰がやるのか曖昧にしてませんか?
  • 会館で、幹部につかまらないような動きをしてませんか?
  • 勤行もしないで、長時間の活動に励んでませんか?

 ほほう。結構あるもんですな。


 しかし、これらをもって他人を測ろうとするのは誤りである。人は関係ないのだ。信とは、御本尊と自分、先生と自分の間の問題なのだから。自分が定めた目標に向かって、歯をくしばりながら、誰が見ようが見まいが、黙々と進んでゆくのが正しい姿だ。華々しい決は要らない。人前で大言壮語する必要もない。冥(みょう)の照覧あるを信じて、やるべきことを断固としてやるまでだ。


 たった一人になったとしても、我が陣営の勝利を自分の手でもぎ取ってくる覚悟の人がいれば戦いは勝利を収める。


 大聖人は蒙古が日本を攻めてこようとする時に、宿屋入道へしたためられている。


 日本国の中には日蓮一人当に彼の西戎(さいじゅう)を調伏するの人たる可しと兼て之を知り論文に之を勘う(169頁)


 国家が揺れに揺れ、世界が戦乱に突入せんとしているその時に、大確信の言論戦を展開された。地位も誉もない大聖人が、「日本を救う方途を知っているのはこの私だ!」と叫びに叫び抜かれている。迷いが生じると、その間隙(かんげき)にがつけ入る。世界が激動する今こそ、創価の大確信で怒涛の如き対話を展開し抜いて参りたい。