Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2009-06-07

信ずる者は常に勝つ


 更に誉会長は、師の広宣流布への精神を述べつつ、

 1.“いざ”という時には、「獅子」のでいかなくてはならない。自分を守ることに汲々として、あっちに付いたり、こっちに付いたりするような、信のない、臆病な人間であってはならない。私は何があっても信強盛に、常に戸田先生の弟子らしく「獅子」として進んできたつもりである。

 2.広布の組織においても、“互いに信しているから、言わなくてもわかっているだろう”というのは間違いである。正しいことを明快に言い切っていくのが、指導者の責任である――などと語り励ました。


戸田先生生誕90年記の懇談会/第3回懇談会 1990-02-11 東京学会別館】


戸田先生生誕90年記念の懇談会/第2回懇談会」の翌日に開催された会合。紹介された内容は大綱のみと察する。厳しい指導は公(おおやけ)にされなくなった。不信を起こすメンバーが出てくるからだ。そしてインターネットを中とした情報化社会は、組織から口伝を奪い去った。


「正しいことを明快に言い切って」ゆくのは、身についてしまうとしいことではない。何がしいかというと、「自分を正しく律して」ゆくことなのだ。自信がないから言い切れない。「嫌われたらどうしようかな」などと考えてしまう。大した好かれているわけでもないのにね(笑)。


 訓練期間においては、一つ一つを経験しながら、一つ一つの勝利を積み重ねてゆくしかない。この間の勝負どころを曖昧にした人物は、後々困る羽目となる。目の前の山を識し、踏破するだけの脚力が求められているのだ。


 獅子の部分に関しては、「先生、何を今更……」といういが拭えなかった。だが、壮年部へ以降してからわかるようになった。そして、引っ越してからもっとわかるようになった。こういうのは、わかっても嬉しくないね(笑)。


 大人は狡賢(ずるがしこ)くて卑怯だ。世渡りみたいにして組織を泳いでいる幹部も多い。幹部の前ではニコニコと愛を振りまき、いなくなった途端陰口を叩き出す婦人部は掃いて捨てるほどいるよ。


 こんな連中が後輩を守れるはずもない。彼等が守るのは自分の立場だけだ。


 外と関係ないように見えるだろうが、喧嘩(けんか)の強いリーダーは会合を盛り上げることができる。なぜなら考えようによっては、会合も参加者との喧嘩であるからだ。折伏も当然喧嘩である。牧口先生は「後の喧嘩を先にするのだ」と最初にきっちり破折しておくべき姿勢を教えられている。

2008-09-11

宗教の功罪


 人類、生命といった普遍的価値――高等宗教も、まさにそこを志向している。

 ゆえに、そうした「宗教」は「国家」の権力も、他のいかなる権威をも超越する。それらに屈しない人間をつくっていく。

 東欧の変革の底流にも、ポーランドを始め、「宗教」の土壌を背景にした“人間”の決起が、「イデオロギー」で鎧(よろい)した“権力”を打倒した――この革命劇は一面、このように見ることもできるかもしれない。

 歴史を見ても、「宗教」の力は、まことに巨大である。あらゆる「権力」「権威」が、宗教の力を恐れ、封じ込めようとしたり、利用しようとした事実も、十分に理由のあることなのである。


 問題は、その「宗教」もやがて権威をカサに、しばしば人間を抑圧する存在となることである。人間を解放するはずだった宗教が、制度化するにしたがって、反対に人間を抑えつけ、縛りつける悪の顔を示し始める。

 僧侶の立場を利用して、子を迫害した悪侶らも、その典型であった。

 ここに、制度化された「宗教」の悪に打ち勝つ、生きた「信」「信仰」の力が絶対に必要になってくる。

 人間を外から縛ろうとする「宗教」の悪の面に対して、人間の内面から、限りなく挑戦し、打ち破っていく。この真実の「信」を民衆に教え、根づかせているのが、日蓮正宗創価学会なのである。


 要するに、「宗教」は「権力の悪」にも打ち勝つ力を持つ。その「宗教の悪」に打ち勝つ力、人間解放の究極の力が「信」なのである。

 私たちは、この「信」の力を奮い起こして、幾たびとなく「策謀」や悪知識の「権威」に勝ってきた。


 人間は、いかなる権力、権威の奴隷になってもならない。それでは民衆は利用され、永遠に流転の悲劇となる。この悲劇を転換するために、日蓮聖人は戦われた。国家権力と既成宗教の権威との連合に対して、ただお一人、常に命に及ぶ迫害の中、真実の自由への闘争を続けられたのである。

 どんな権力、権威にも侵されない一個の人間の力、その絶対の証明を大聖人はしてくださった。「人間の旗」「勝利の旗」を打ち立ててくださった。

 この大聖人の御精神、代々の御法主のおを破壊しようとしたのが、かの悪侶らであった。これからも、日蓮正宗創価学会の中に同様の動きが現れてくることがあるかもしれない。それらに負けては、広宣流布はない。人類の真の「幸福」と「安穏」と「満足」への道も消え去ってしまう。

 ゆえに、妙法への正しき「信」を教え、信仰という「魂」を脈々と伝え、永遠に広げていかねばならない。そこに「創価学会」を創立された牧口先生、そして戸田先生の誓いもあった。私は真っ直ぐにその軌道を歩んでいる。


「信」による一個の人間の確立。何ものにも屈せず、「魂の自由」を貫く人間群の育成。私の現在の行動の焦点もここにある。

 それは、状況の変化次第で右に左に揺れる日本人の“自我なき精神風土”を根底から変革する戦いでもある。今のままでは日本人は不幸である。確たる基準がないゆえに、何を見ても正しく判断することもできない。情や利害、先入観等の奴隷となって、自分を見失い、歴史の動向をも見失ってしまう。

 また、人間として信用されず、国際社会にあっても孤児のようになっていこう。


東京・小金井圏青年会議 1990-01-28 小金井池田文化会館


 21世紀の基調とすべき指導である。宗教は人間を自由にする跳躍台でもあり、束縛する大リーグボール養成ギブスでもある。


 宗門問題の前夜ともいうべきタイミングでの絶妙なる指導。我々が気づいたのは、ずっと後になってからのこと。知らないうちに予防接種をされていたようなじだな。いつだって、そうだ。後になってから先生の指導の味を知り、自分の人生の義を勝手に深めている。先生は、偉大なナレーターなのか? 「この時まだ彼等は気づいていなかった。人類史の新たな扉を開いていることを――」。


 坊主の権威には勝ったものの、まだまだ奴隷が多い。いわば「創価のクンタ・キンテ」。役職の奴隷、活動の奴隷、打ち出しの奴隷、成果の奴隷、書類の奴隷などなど。尚、奴隷の定義については「やりたくないことをやらされている状態」としておく。自分の頭でものを考える機会がなかった2世、3世のメンバー。そう、君のことだ。教学的な裏づけが乏(とぼ)しく、まだまだキャリア不足の若い婦人部。そう、あなたのことだ。


 ここで問題にしている「自由」とは、勝手気ままという味ではない。「自分の力を最大限に解き放つ」という次元である。100メートルを走ることに関しては、ジャマイカのウサイン・ボルト選手が一番自由である(北京五輪で9秒72の世界新)。イチローや北島康介も自由だ。トインビー博士は、最も自由に歴史を読み解いたといえる。


 このように考えると、宗教とは「信じる自由」を追求する世界であることが理解できる。その割には、学会員ってえのあ頑(かたく)なだよな(笑)。どうも不自由とみえる。


 日蓮大聖人は封建的な束縛された時代の中で、最大に自由であった。牢獄に縛られた戸田先生も自由な境涯だった。どうして我々は、自由な環境にいるにもかかわらず、これほど束縛されているのか? ひょっとしてSM趣味があるのかも知れない。もっと鍛えて、鞭打って、ローソクたらして……。


 がんじがらめのロープは、社会の至るところに張り巡らされている。これほどの情報化社会になると、「自分の考え」など存在しない。昨夜、君が友人に語った政治的な見は、先週の「サンデープロジェクト」で田原総一郎が話していた内容だ。


 宗教革命が単なる階級闘争となれば、新たな階級が跋扈(ばっこ)する結果となるのは必然であろう。そこに現れるのは、「新たな束縛」に過ぎない。紙上座談会が「赤旗的」な異臭を放っているのは、組織防衛という目的のために、会員の自由を蔑(ないがし)ろにしているからだ。


「確かに自由が大切であることは認めるが、方向を誤ると大変なことになる」という本部長クラスのが聞こえてきそうだ。だが、配には及ばない。自由には自覚が伴うからだ。自由であるからこそ失敗に気づく。「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの――みつを」。だから、つまずくのは早い方がいいんだよ。元暴走族少年なら勘弁しようもあるが、現役中年暴走族はダメだろ? 「ちょいワルおやじ」はファッションのことだが、極悪おやじでは堪(たま)ったもんじゃない。


 当然、自由にだってルールがある。それは、人を傷つけないことだ。そして真の自由を獲得した者のみが、多くの人々を幸せへと導いてゆける。

2007-12-31

戸田先生「人生も信心も強気でいけ」


 私どもの前途には、権力の迫害もあれば、様々な妨害もある。しかし、決して驚くことではないし、恐れる必要もない。信仰ゆえのであれば、それはむしろ信仰者の誉れであり、大いなる喜びである。少なくとも私は、戸田先生の弟子として、そうしたいで今日まで生きてきたつもりである。

 戸田先生は晩年、「人生は強気でいけ。信も強気でいけ」と指導された。いかなる事態にも、いささかも動ぜぬ強さ、大きさがなければ、広宣の荒波を乗り切っていくことはできない。弱々しい自分ではも破れない。敵も倒せない。結局、人生の戦いに敗れ、不満の人生で終わる。

 ゆえに、この戸田先生の指導を改めてに刻み、明年へ「強き」で前進していきたい。


【第24本部幹部会 1989-12-20 創価文化会館


 先ほど、こんな話をにした。近隣に引っ越して来た方から、「以前、お宅に公明党のポスターを貼ってあったのを見たのですが、学会の方ですか?」とを掛けられた。「はい、そうですよ」と答えると、「引っ越して来てから数ヶが経って、やっと統監のカードを回してもらえることになりました。内は、主人が信に猛反対で本当に大変なんです。何とか信の話を聞かせてもらえないでしょうか?」とのこと。取り敢えず、携帯電話の番号を教えてもらったという。相手の方は、既に70代だそうだ。


 いつ、入会したのか知らないが、こんな話を私は鵜呑みにしない。所詮、自分の弱さを亭主のせいにしているだけだろう。厳しい状況に置かれた人ほど、自分に都合のいい修飾を施す傾向がある。ま、信の粉飾決算といってよい。


 こんな人物が、三類の強敵に勝てるわけがない。大体、俗衆増上慢(=亭主)に負けているじゃないか(笑)。


 家族が未入会だったり、未活動だったりすると、必ず何だかんだと言いわけをする人が多い。明らかな証拠を示していないだけだとうのは、私一人であろうか?


 ある調査によると、自尊の強い人ほど詐欺に引っ掛からないという結果が出ている。弱気の人ほど騙(だま)される可能が高い。


 信とは、我が内なるを信ずることである。弱々しい信であっては、爪楊枝や割り箸で釣り鐘を叩く程度の功徳しか出ない。反動をつけて、撞木(しゅもく)を打ち込む強気の姿勢が大事だ。


 ただ注したい点は、戸田先生の指導は人生と信に関してであって、人間関係にあって妙な強気は発揮しない方がいいだろう。亀田兄弟みたいになりかねないからね(笑)。


 青年部時代、「命懸けで――」なあんて決発表するメンバーを時折見かけたが、信頼に足る人物は一人もいなかったよ(笑)。


 師弟共戦の2007年が幕を閉じる――。

2007-12-19

少女パレアナは何にでも喜びを見出した 


 パレアナは、どんな人に会っても、何かしら「嬉しいこと」「喜べること」を見つけた。誰だって、自分に会ってから喜んでいる相手に対し、悪い気持ちを持ち続けることはしい。だから皆、いつしかパレアナの味方になった。

 は不議である。は微妙である。こちらが悪い情を抱いていると、たいていは相手にもそれが伝わっている。こちらが笑顔のいで接すれば、相手にも微笑みのが宿る。こちらが粘り強く手を差し伸ばせば、相手もいつしか手を差し伸ばす――相手はいわば、自分にとって「鏡」のような存在なのである。

 パレアナは、自分がまずから「喜ぶ」ことで、「鏡」である相手からも、少しずつ「喜び」を引き出していった。

 また、どんな人に会っても“素晴らしい人だ”とまず決めて、その“信頼”を率直に表現した。だから、多くの人が何とかその信頼に応えようと動いた。

“あの少女のようになりたい”――見えない「の力用」が人々のを揺さぶり、大きく開花させていったのである。

 ――パレアナの物語は、アメリカ中に広まった。そして、ある辞書には「パレアナ」のが「喜び」を味する言葉(普通詞)といして載せられるまでに定着した。


 パレアナのように、「何にでも喜びを見出す」ことは、呑気(のんき)な気休めではない。「義務」や「愚痴」で日々を灰色におおうよりも、よほど創造的な「強さ」が要求される。

 また、「何にでも喜びを見出す」――これは、一歩間違えれば、単なる現状肯定の、お人よしになりかねない。

 それはそれとして、同じ一生であるならば、喜んで生きた方が得である。同じ行動をするのなら、楽しんで行動した方が価値的である。

 まして、法では「一の妙用」と説く。また、「一念随喜」(随喜とは、随順して歓喜すること)」と説き、「随喜功徳」(随喜の一念に広大な功徳が備わる)と教える。

 にあふれる喜びの光――そこに信仰の証明があり、境涯のバロメーターもある。

 ともあれ、「生き生きと生きよ」――自身のため、愛する家族のため、友のために、私はそう申し上げたい。その人には、悩みをも希望へと変えゆく勇気が湧く。のみならず、多くの人々のに希望の灯(ひ)をともしてゆくことができる。その味でどうか、厳しい現実の生活も、豊かなで楽しみながら、強くまた強く、価値ある人生を創っていっていただきたい。


【第9回全国婦人部幹部会 1989-11-29 創価文化会館


 青年部のメンバーは、以下の御書を全部、大きな拝読した上で、『少女パレアナ』(エレナ・ポーター)を読んで頂きたい。ま、人間革命が30%ほど進むことだろう。

少女パレアナ (角川文庫クラシックス) パレアナの青春 (角川文庫)

2007-11-26

実力、人格、内実を基準とせよ


 さて、今はテレビ時代。このテレビとともに生きてきた世代を「“どう見えるか”の世代である」と言った人がいる。つまり何にせよ、その「内実がどうか」というよりも、「どう見えるか」を基準にしてしまう傾向が強い、というわけである。

 確かに「どう見えるか」を気にする。「どう、いい格好をしようか」「どう自分を飾ろうか」とのいは、青年たちのに強いかもしれない。もちろん、それは若い世代だけのことではない。人間の常であるといってもよい。

 また「どう見えるか」が大事な場合も世の中にはあろう。だが、信の世界だけは、「こそ大切なれ」と仰せのごとく、「が一切を決める」世界である。「一三千」の法理で、「一」つまり「」が、「三千の諸法」――一切の現象を決めていく。

 ゆえに「どう見えるか」という、自分を飾った「虚像」ではなく、自分のが「どうあるか」という、自分自身の内実、「実像」が大事なのである。

 私どもの青年時代を、現代の青年たちと、一概に比較できない面もあるが、草創の青年部は“どう見えるか”とか、外見など一切関係なかった。“創価学会とともに、どう人生を生きるか”“どう広宣流布に戦うか”との一途のいで進んできた。いわば殉教の精神であった。その決でやってきた。

 どんなに会合で上手に話をしたり、立派そうに見えても、それは成には結びつかない。信とはまったく無縁のものである。そんな格好や、表面的な姿で信が決まるものではない。

 大事なのは、その人の「」がどうかであり、一個の人間としての「振る舞い」「修行」が、どうかである(拍手)。


 それに関連して、真の「人材」とは何か、「人材」を見る基準は何か、を述べておきたい。

 それは、結論していえば「信・行・学」があるか、ないかである。社会的地位がある。有である。人気がある――そんなものは信とは関係ない。そんなことにとらわれて、人を判断しては絶対にならない。

 あくまでも「信・行・学」が深いか浅いか。「法」のため、「広布」のために、どこまで戦っているかである。もっと具体的にいえば、一人の信仰者、修行者として、現実にどれだけ「折伏・弘教」をしたか。行学に励んでいるか。新聞啓蒙などによって、信の理解を広げたか。また人々の激励にどこまで行動したか。その「力」こそが、真の広布の人材の「力」なのである。

 根本の「信・行・学」を基準として、その上でさまざまな個や特長を尊重していく。そこに社会的に活躍している人も、すべて生かされていくのである。しかし、「才能」や「学識」だけでは、広宣流布はできない。いわゆる“個的な面白さ”だけでも、法は弘まらない。広宣流布は、そんなに簡単なものではない。


 また、「人」をうまく動かす人を見て“あの人は力がある”“人材だ”という人もいる。だが、根本の「信・行・学」を無視して、要領よく「組織」や「人」を動かし、それをもって、広布の“人材”と考えることは、大いなる誤りである。そういう人は、必ずといってよいほど、「人」を「人間」として見なくなり、「組織」の上にあぐらをかくようになる。そして、みずみずしい信を失って、堕落と退転の道を歩むことになる。ゆえに「人を使う」ことだけがうまい幹部であっては絶対にならない。「組織」の長の立場にある皆さまは、この点をよくよくに刻んでいただきたい(拍手)。

 人間を、その人の人間としての実力、人格、内実以外の基準で見ていくのは、根底は「人間」をバカにしていることになる。と同じく、「人材」を「信・行・学」以外の基準を根本として見ていくのは、信法、更には学会をバカにするである。信仰者として、これは許されることではない。


 次元は異なるが、先日もお話したように、吉田松陰は「忠義の人」と「功業の人」を峻別した。これも“どうあるか”、つまり、どう革命の大義に殉ずるかと、“どう見えるか”、つまり功(手柄)を得て、どう革命の中で評価されるか、との一の違いを鋭くとらえ、叫んだのではないだろうか。この「一」の違いは、小さいようであまりに大きい。


 ともあれ、“いつか広布の時が来るだろう”と、「時を待つ」臆病の人であってはならない。

「時」はつくらなければならない。「時」は自らつくるものである。時代の「変化」に応じ、「変化」についてゆくだけでは足りない。時代に負けないで、時代の新しき「変化」をつくり出してゆく。この人こそ広布の大人材であると私は申し上げたい。


【第22回本部幹部会 1989-10-24 創価文化会館


 かつては山崎正友(元顧問弁護士)も人材だった。原島嵩(元教学部長)も同様。竹入義勝(元公明党委員長)もまた然り。


 当時を知らぬ若い聖教記者が彼等を貶(けな)しているが、「悪人は悪い」という程度の内容にとどまっていて、全く参考にならない。それどころか聖教記者は、後々反逆した彼等に、人材と目されるだけの力量があったことすら無視している。こうした姿勢によって、会長勇退が単なる“過去の歴史”として位置づけられてしまい、現在と未来に生かす視点が抜け落ちている。


 多くの幹部や議員が反逆者について証言しているが、聖教記者と大差がなく、自分達の自戒や反省は皆無といっていいだろう。


 例えば、山崎正友の野に満ちた日常的な発言、原島嵩の酒癖の悪さ、竹入義勝の宝石漁(あさ)り――こうした事実を知っていた人々は少なくなかったはずである。学会本部に進言した義憤の人もいたことだろう。だが、そのは先生のに届くことはなかった。


 学会本部にはびこる官僚主義が、彼等をして反逆させるに至ったと言ってよい。


 もしも今、学会に山崎正友がいたとすれば――私は慄然とせざるを得ない。


 この指導は実に重要な内容で、10年、20年と活動すれば身につくという代物ではない。

2007-11-18

一切の理不尽に反撃せよ


 いかなる策謀、いかなる弾圧にも絶対に屈しない。必ず反撃する。自分の「自由」「信条」を侵(おか)すものは決して許さない。一切を弾き返す。そうした“強き個人”“強き人間”であっていただきたい。

 つまり、不当な圧迫や、いわれなき中傷をされて、弱々しくなってしまうような人間では、偉大な幸福者にはなれない。いかなる嵐の圧迫にも悠然と立ち向かい、切り返し、はね返し、笑顔で前に進む人には、幸福という勝利の旗が翻る。

 ともあれ、法は勝負である。信仰の勇者として、正義と信の戦いには、絶対に負けてはならない。


【創立60周年開幕 広島県記勤行会 1989-10-15 広島池田平和講堂】


 この指導だけ実践してゆけば、必ず勝者になれる。世間に媚び、組織に額(ぬか)づくことなかれ。人間としての矜持(きょうじ)を失えば、奴隷も同然だ。

2007-11-09

魂の自由


 ともあれ、あらゆる権威を弾き返し、“魂の自由”を勝ち取ってゆく――。ここに本当の信仰の力がある。


【第11回関西総会 1989-10-12 関西文化会館


 昨日、関西池田記会館にて本部幹部会が行われた。実に7年ぶりの関西入りである。大関西、おめでとう!


 この指導に宗門問題の極があり、本質が言い尽くされている。例えば、上司にペコペコ頭を下げているサラリーマンは、「上司の肩書」の前にひれ伏しているのであって、人間に敬を表しているわけではない。“虎の威”と言ってよい。多くの場合、何らかの利害関係によって強者と弱者の立場が決まる。


 権威に弱い人々は、“魂が不自由”なのだ。世間に縛られ、既成の知識に盲従し、会社組織に隷属している。


 一見、最も自由であるように見受けられる「お笑いの世界」だが、実はデビューした年代で序列が決まっている。彼等の関係においては、芸ではなくキャリアがものを言う。チト、官僚臭いね(笑)。噺家(はなしか)なんぞの影響もありそうだ(入門順の序列)。「古いほど価値がある」というのは、骨董品の世界と変わりがない(笑)。


 家柄、学歴、人気、地位、誉、財産などの類いは、いずれも権威の象徴だ。影響力の大きさを考えれば、マスコミや政治家は更に権威の度を増す。そして、人間が精神によって支えられていることを踏まえれば、・信条に関わる権威が最大のものであり、宗教においては「衣の権威」と呼ばれる。


 淫祠(いんし)邪教の類いがなくならないのは、罪とを絡めたデタラメ話によって奴隷にさせられる人々が多いためだ。「信じること」と「騙(だま)される」ことは隣り合わせだ。オレオレ詐欺を見れば一目瞭然だ。嘘を信じた瞬間から、不幸な人生が始まる。


 我々は「衣の権威」に勝った。しかし多くの会員は、相変わらず「組織の奴隷」だ(笑)。私は違うよ。


 ただし、勘違いしないで欲しいのだが、自由を獲得するには、それなりの力が必要となるので、訓練期間を避けて通ることはできない。「自由」と「不自由」も紙一重だ。「わがまま」と「忍耐」という物差しだけで判断するのは軽挙に過ぎよう。


 下から上を動かせ。それが実現すれば、学会の成だ。真の自由とは、自立することである。青年よ、一人立て! で、その後座るな(笑)。