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2007-12-08

「苦労してきた人ほど報われ、顕彰される」世界を築け


 ドローゴの場合は、長年務めた挙げ句、いざ“栄光の時”を向かえた途端、労知らずの連中に放り出されてしまった。

 我が創価の世界には、そうした不当な無慈悲の振る舞いは、片鱗だにもあってはならない。私も絶対に許さない。

 陰の労もなく、若くして、トントン拍子で幹部になりながら、そうした真の子を下に見るような言動は、学会の精神に反する。道理にも反する。人間としても卑しい。

 むしろ、「労してきた人ほど報われ、顕彰される」――我が学会は、そうした麗しい世界でなくてはならない。


【11.18記合同幹部会 1989-11-12 創価文化会館


 ドローゴとは、『タタール人の砂漠』(ディーノ・ブッツァーティ著)の主人公。


 どんな組織でも人数が増えれば増えるほど、一人ひとりの自覚と責任が弱まる。これは避けられない。川の上流は清冽な水がほとばしっているが、海に近くなればなるほど、ゆったりと濁った流れとなる。


 学会が75万世帯となったのは昭和32年(1957年)1225日のことである。そして、750万世帯を達成したのが昭和45年(1970年)128日。わずか12年で10倍の勢力となった。この当時の学会員が最も折伏をしたことは疑う余地がない。所謂、「広布第一章世代」である。


 昭和47年(1972年)、正本堂の建立をもって広布第二章に入るわけだが、750万世帯を達成した直後に「言論問題」(月刊ペン事件)が起こり、昭和54年(1979年)には、先生が会長を勇退されるという前代未聞の事態となった。社会との融合を図りながら前進した隙(すき)を突いて、味方に背中から斬りつけられたも同然だった。


 先生の指導が再び聖教新聞に掲載されるようになったのは、創立55周年(昭和60年/1985年)の少し前ぐらいからだったと記憶している。その後、創立60周年(平成2年、1990年)・第二次宗門問題を経て、現在の前進につながっている。


 会長勇退以前の学会員を「広布第二章世代」としよう。会長勇退から第二次宗門問題までを「文化祭世代」、それ以降2001年までを「創価ルネサンス世代」と付けておこう。中々上手いネーミングだ(笑)。


 当たり前だが、新しい世代になればなるほど、広宣流布労をしてない。例えば、若くして本部長・区長・総区長・副会長に登用されている面々は、さほど折伏をしてないはずだ。「広布第一章世代」は、自分が折伏をして組織を築いた(タテ線組織)。あらゆる活動(当時は「闘争」と言っていた)が、人材育成に結びついていた。それがいつしか、運営型・調整型・事務型の便利な幹部が重用されて、現在に至っている。


 役職と広布推進度は全く関係がない。それを知る幹部が殆どいない。

2007-10-29

「物事に間違っていなければ頭を下げてはいけない」


 牧口先生は、よく言われた。

「物事に間違っていなければ頭を下げてはいけない。悪に対して負けてはいけない」と。

 たとえ相手がどんなに社会的地位が高く、力のある人であっても、自分が間違っていなければ、絶対にへつらったり、馬鹿にされたりしてはならない――この毅然たる強さを学会精神の骨髄とせよ、との牧口先生の遺志であると受け止めたい。

 かつては、日本国中が軍国主義という「悪」に負け、国家神道に頭を下げていた。国家権力の言いなりにならなければ、大変な目に遭(あ)うという時代であった。

 しかし、牧口先生戸田先生の師弟は、何と言われようとも絶対に屈しなかった。神札を受けることにも応じなかった。信教の自由を踏みにじる暴挙に対して敢然と抵抗し、謗法厳誡を貫かれた。これが「学会精神」である。

 また、「持妙法華問答抄」に、「上根に望めても卑下すべからず下根を捨てざるは本懐なり、下根に望めても・慢ならざれ上根も・もるる事あり」(466頁)――上根の人に対しても(自分を)卑下してはならない。下根を見捨てないのがの本懐である。下根の人に対しても驕慢になってはならない。上根の人でも得道の道から漏れることがある――と仰せである。

 牧口先生はこの御文を拝されて、「門の人や高位・高官だからといって、へつらうのも法を下げる。いばって、信用をなくすのも法を下げることになる」と言われた。

 上根とは、法を信解し果を成(じょう)じてゆくための素地、機根が整っている人である。下根とは、そうした生命の素地が弱く、中々法を信解できない人のことを指している。

 この御文では、たとえ自分が下根だとっても、卑下してはならない。が見捨てることはないからである。逆に上根であっても、驕慢なになってしまっては、成がかなわないこともある、と戒められている。

 この義を拝された上で牧口先生は、肩書や社会的地位など、表面的な世法の次元にとらわれて、へつらったり、反対に威張ったりしては、法を下げることになる、と厳しく言われたのである。

 ゆえに、学会の中においても、幹部だから、社会的地位があるから、有人だからといって、その人に対して変に従順になったり、何も見が言えなくなるようではいけない。特別扱いの人を絶対につくってはならない。

「法」のために行動し、広布のために働く人が最も偉いのである。その人にこそ三世十方菩薩、諸天善神の賛嘆がある。この、学会の永遠の変わらざる精神を断じて忘れないでいただきたい。


【第11回関西総会 1989-10-12 関西文化会館


 殆どの会員は、幹部にものを言えない。遠慮しているとも考えられるが、最大の理由は「理論的な根拠が弱い」ことに尽きる。つまり、教学的な裏づけがなく、“自分の言葉”できちんと反論することが手なのだ。幹部が威張っているのか会員がおとなしいのかという問題は、鶏と卵のようなもので、どちらが先とも言いい。


 宗門問題については、関西で大事な指導がなされている。この指導もそう。権威に強い地域の代表といえば、大阪と東京下町だろう。しかしながら東京下町の場合、本気で上に文句を言うと飛ばされてしまう(笑)。その点、大阪を中とする関西の場合、学会本部が人事に介入する可能も低い。


 魚は頭から腐る。腐った部分を切り取らなければ、全身が腐敗するのは時間の問題だ。どんな立場であろうとも、この指導を実践できなくなった途端、「広布を阻む存在」となっていることを戒め合いたい。


 原島嵩は、理事長の子ということで特別扱いされた。山崎正友は、学会初の弁護士となって特別扱いされた。今だって、特別扱いされているのはたくさんいるだろう。おっと、具体的なことを書きそうになってしまった(笑)。危ない、危ない。


 幹部の子が幹部に、職員の子が職員になりやすいのは、多分、「組織の論理」を弁えているためだろう。「一々説明しなくても、わかってるだろ?」ってな世界だろう。ま、便利なんだよ。


 このままいけば、組織は自浄能力を失い、学会も内部告発によってしか不正を糾弾できなくなるだろう。最も不幸な結末である。

2007-08-21

傾聴


――カウンセリングには、来談者中療法、論理療法、認知行動療法、精神分析など、さまざまな技法がありますが、すべてに共通する基礎技法として「傾聴」があります。実際に、どのように聴いていくのでしょうか?


柴田●まず大切なのは「何を聴くか」ということです。自分の聞きたいことを聴くのか、相手の言いたいことを聴くのか――そこに雲泥の差があります。人間というのは外なほど、自分の聞きたいようにしか聴いていないのです。


《柴田博文/創価大学通信教育部助教授、臨床理士》


【「池田誉会長の生死観に学ぶ」/『大白蓮華』2007年2号】


 あらゆる会合でこのテキストを紹介してもらいたい。「を傾ける」のは能動的な姿勢である。如是我聞にも通じるとう。文底とは、言葉にできない真実のこと。であれば、言葉にならないいを汲(く)み取ることが求められる。「士は己を知る者のために死す」と言う。も楽も分かち合って、同志の契(ちぎ)りは生まれる。「目も節穴なら、も節穴」と言われそうな幹部が多過ぎる。

2006-11-11

プライバシー


 個人プライバシーの守秘、すなわち個人の私事の秘密を守ることについて確認しておきたい。

 私どもは、多くの同志に囲まれて、互いにいやり、守り、支え合いながら、広布の活動に励んでいる。これほどありがたいことはないし、これほど美しく麗(うるわ)しい「の世界」は他にない。

 そこで、特に幹部の皆さまは、信の先輩として、後輩や友人から様々な相談を受ける場合が多々ある。その際、相手のプライバシーは絶対に尊重しなければならない。

 立場上、知り得た秘密を守ることは、いかなる組織、団体においても当然のことである。医師や弁護士などは、プライバシーを含めて、務を通して知った人の秘密を第三者に漏らした場合には、処されることが刑法第134条に規定されている。

 また、公務員についても、「守秘義務」が国家公務員法第100条、地方公務員法第34条に定められており、則の規程も国家公務員法第109条、地方公務員法第60条に明示されている。


 こうした職上の立場と学会の役職とは、もちろん次元が異なる。私どもにとって「プライバシーの尊重」は、何よりも人間としての信頼の問題である。

 信仰は、その人の人生の幸・不幸に深く関わる問題である。ゆえに学会の幹部には大きな責任がある。また、強いの絆で結ばれた信仰の世界であるがゆえに、相手は幹部を信頼し、学会を頼って相談してくれるのである。その“”を絶対に裏切ってはならない。その味で、個人プライバシーを守れない人は、法者として「失格」である。

 私も、多くの方々からお手紙をいただき、実に様々な報告も受けている。しかし、他人に言うべきでないことは、一度たりとも口にしたことはない。


 ところで、人生の様々な悩みについて相談を受けた時、自分一人では、指導し、解決できない場合には、先輩に相談することもある。

 更に、その人が抱えた問題を克服するために、皆で祈り、応援してあげたいという場合も出てくる。

ただし、そのような場合でも、プライバシーに関することは、本人の了解を得て、その人が本当に喜び、安できるよう細やかに配慮してゆくことが大切である。

 相談にきた本人が知らない内に、周囲の多くの人が知っていたというようなことがあってはならない。

 組織の中には、問題を抱えながら、誰にも相談できずにいる人もいよう。せっかく勇気を出して相談にきた人が、たとえ善からであったとしても、幹部の不用な言動によって不愉快ないをしたり、しむようなことがあれば、大きな誤りである。それでは、ますます相談しづらくなってしまう。

 触れられたくないプライバシーの問題を、無理に聞く必要もない。それを話すかどうかは本人のであり、幹部が強いて聞く権利もなければ、幹部に無理に話す義務も全くないからである。

 どうか皆さま方は、このような問題の一つ一つに賢明に対処し、一人ひとりの「人格」を最大に尊重しながら、他人に言っていいことと、言ってはならないことを峻別できる聡明な、責任あるリーダーであっていただきたい。


「秘密を守る」ということで、一つの極限状況を描いた映画がある。その映画はフランスの劇作家ポール・アンセルメの戯曲「われら二人の道義」を映画化したものである(ヒッチコック監督のアメリカ映画『私は告白する』)。

 この映画の舞台はカナダのケベック。主人公はカトリックの神父であり、信者の告白を他言してはならないという義務を負っている。

 ある時、彼は、自分が面倒をみていた男から、殺人の罪を犯したと告げられる。罪を償うように諭(さと)したものの、他言はできない。

 その内に、警察はあろうことか、この神父を殺人犯だと誤解して追及を始める。しかし、彼は頑として秘密を口外しない。ますます証は悪くなり、遂に逮捕され、裁判にかけられる。それでも彼は黙秘する。

 幸いなことに、決め手がなく、彼は無罪となる。

 しかし、宗教者としては、犯罪者の疑いを広められただけで致命的な痛手となった。釈放された彼を、裁判所の前で群衆が取り囲み、口汚い罵を浴びせ、嘲笑し続ける。

 人波の中をくぐってゆく彼の姿は、まさに殉教者のようであった。

 真相を知る犯人の妻は、とても見ていられず、わず真実を叫ぼうとする。

 それを止めようとした犯人が、妻を銃で撃ち、そこから全てが明らかになってゆく。

 卑劣漢の汚を着せられたこの神父が、実は最も自分の誓いに忠実な人間であった。やがて、この事実が証明され、映画は終わる――。


 これは少々極端な例かもしれない。また、国法上も、宗教的観点からも、多くの異論があろう。また、悪を助長させ、人間としての道を踏み外させてしまうことは、絶対にあってはならない。

 ただ、それはそれとして、プライバシーという次元ではあるが、自分がひとたび誓った「約束」「誓い」というものは、最後まで貫くべきものである。

 時には守秘によって自分が不利益を受けることもある。秘密を口外されないのをいいことに、秘密を守ってくれている人を裏切り、逆にその人を攻撃し、陥(おとしい)れようとする場合もある。

 私もこの40年間、こうした裏切りや堕落の姿を幾度となく見てきた。しかし、守るべき個人の尊厳や秘密は、厳として守り通してきたつもりである。それが、法者としての生き方であり、信だからである。


 日蓮大聖人は「約束」ということについて、次のように仰せである。

「いふにかひなきものなれども約束と申す事はたがへぬ事にて候」(1512頁)――取るに足らない者であっても、約束というものは破らないのが習いである――と。

 約束は約束として守り通し、信義を貫いてゆく。ここに人間として、法者としての大切な姿勢がある。


 ロシアの作家プーシキンは『ベールキン物語』という小説の中でこう述べている。

「よしどんな種類の秘密にもせよ、総じて秘密といふものは、女ごころにとつては辛い重荷になるものである」(改造社版『プウシキン全集』第3巻、神西清訳)と。

 簡単に言えば、女にとって黙っているというのは大変な痛である(笑い)ということになろうか。

 また、「一人の女に話したことは、世界中に話したのと同じことである」(爆笑)と言った皮肉屋もいる。

 要するに、“女はおしゃべりだ”という味であるが(笑い)、実は男についても同じことが言える。

 結局、人の不幸を喜ぶようなゴシップを好んで話したり、広めたりする人は、薄っぺらな人格という他ない。何でもすぐにしゃべりたがるという軽率さは、戒めてゆくべきである。

 その点、明確な目的に生きる一流の人々は、こうしたゴシップを聞こうともせず、自分で話そうともしないものだ。政治家でいえば、イギリスのサッチャー首相は、そうしたリーダーの一人である。

 要するに、言うべきことは敢然と言い、一方、言ってはならないことは厳然と守るという「勇気」と「良識」――これが大切なのである。


【第8回全国婦人部幹部会 1989-09-06 創価文化会館


「大変な悩みを聞かされると、こっちの命がグーーーッと重くなる。相手の悩みを引き受けるというのは大変なことだ。祈れば祈るほど重たくなる。それに耐え切れなくて、関係ない人に話す。話せば自分は楽になれる。しかし、問題は絶対に解決しない」――私の父が、ある人にこう話していた。


 地域や組織によっては本当に酷いところがある。東北のある村では、指導を受けると、翌日には皆に知れ渡っているそうだ。


幹部に相談した内容が漏れたことがありますか?」の結果をよくご覧いただきたい。結婚が破談となったケースもあるようだ。


 口の軽い幹部どもによって、幹部不信が広がっている。


 また、私のように強烈なキャラクターの持ち主で、幹部の立場を脅(おびやか)かし、蔑(ないがし)ろにするタイプの場合だと、迅速な連係で対応策を講じつつ、「彼はしい、厳しい、怖い」というレッテルが貼られる。だから、私にちょっとしたエラーや失敗があると、それら全てが誇張され、増幅されて、幹部間を駆け巡る。ま、何があっても負けないけどね(笑)。


 学会も、いじめを傍観するような連中が増えれば、おしまいだ。学会員は誰よりもデマしめられてきた。デマは、それを流す連中と、鵜呑みにする人々によって支えられている。その学会の中で噂話が流れるとすれば、学会の組織とは到底いえない。

2006-10-14

幹部のマナーがなってない


 昨夜、本幹衛中に行く。先々に副B長になった方と、3ヶぶりに参加する方を伴って。


 私の組織東京都下の田舎のため、幹部の携帯マナーがまるでなってない。前任の区長自ら、衛星中継の合間によく携帯電話を使用していた。いつか、首を絞めてやろうとっていたのだが、知らぬ間に組織が異動となっていた。幹部が話している最中、前に座っている婦人部が携帯メールを打っている姿も決して珍しくない。


 このような常識のない幹部が非常に多い。できることなら、一度脱会して、世間で常識を学んでから、再入会して欲しいもんだ。


 前々から私はを煮やしていた。すると昨日、こんなことが起こった。衛星中継の受信状況がよくなかったのか、担当役員がやたらとデカイで内線を使って話をしていた。私が二度ばかり、舌打ちをして睨(にら)み付けた。効き目なし。と、私が連れ出した副B長が普通ので「うるさいな」と言った。これまた効き目なし。副B長は叫んだ。「前の方、うるさいぞ!」。婦人部の目が私の後方に集まっていた。振り向くと、立ち上がった副B長が男子部の役員に止められていた。すかさず私が歩み寄り、「いいよ、いいよ」とを掛け、内線で話している幹部に「もっと、小さなで!」と伝えた。


 帰り際に、「いやあ、○○さんが暴れるのかとったよ。どうせやるなら、ぶん殴ってやってもいいよ。殴った後で私が止めるから」と言うと、ケラケラと笑っていた。彼と私だから、よかったようなものだ。このように、最前線での戦いを、デタラメな幹部が木っ端微塵にしてくれる。私が7回ほど足を運んで、やっと連れ出しているのだ。


 最前列の青年部に先生がを掛けられる。女子部の一人が出身校を尋ねられ、「名桜大学です」「エッ、何大学?」「前のに、桜と書きます。沖縄です。先生、ありがとうございました!」という、やり取りがあった。


 ご存じのように、沖縄は去る910日に統一選があり、見事完勝した。時を合わせるように、91日から再び連載が開始された『新・人間革命』は、沖縄を舞台とした「虹の舞」の章だった。一人の女子部と先生のやり取りで、沖縄いも寄らぬ最高の総括をすることができた。決して偶然ではない。の所作とは、こういうものなのだ。


 海外のメンバーによる「五丈原の歌」は全く悔しい限り。実は、いつの日か先生の前で歌おうとに決め、私はずっと練習を重ねてきたのだ。でも、いいや(笑)。

2006-08-09

友の声に素早く呼応せよ


 私は毎日、世界中の同志から様々な報告を受けている。

 同志から寄せられるには、私はいち早く、確実に反応してきた。

 ある時は激励の伝言を送り、ある時は御礼を述べる。緊急で指示を出さなければならない時もある。

 友のに直ぐに呼応する。何かの手を打つ。

 こうした一つの誠実な反応があれば、友のにパッと喜びが広がる。勇気が広がる。

 何より、懸命に戦う友への“礼儀”であるといえよう。

 特に日本人は曖昧で、物事を決めないといわれる。

 世界中どこでも、一流の人は決断が早いものだ。

 自分から皆のを聞き、どんどん報告してもらう。そういう配りもリーダーは忘れてはならない。


【婦人部代表幹部協議会 2006-02-10 東京・新宿区】


 例えば、留守番電話に伝言があったとしよう。後輩からの場合、「○○です。また、電話します」という内容が大半である。私は直ぐに電話をかける。既に遅い時間であれば、翌に必ず連絡する。相手のを聞くまで、「何かあったのかな? 事故か、悩みか、問題か……」とに緊張が走る。いい報告を期待することは絶対にない。


 私にとっては、これが普通だ。何の努力も要さない。20代から条件反射になっている。ゆえに、私から電話をし、「メッセージをお聞きになりましたら、ご連絡下さい。何時でも結構です」と言ってるにも関わらず、電話をしてこなかった幹部は二度と信用しない。たとえ、相手が副会長であったとしてもだ。クソ幹部を相手にしていると、こっちの信までおかしくなっちまう。


 先生が指導されていることは策ではない。演じようとしたって無理だよ(笑)。人間の発露として、自然に振る舞うことができなければ、役職に乗っかって踏ん反り返っている証拠だ。


 先生は偉大である。だが、偉大な幹部は少ない。ってこたあ、自分が偉大になるしかないね(笑)。共々に偉大な弟子に!


【※指導は、NON氏の投稿によるもの】

2006-05-08

常識豊かな振る舞いと幅広い社会性が大事


 社会をもち、常識豊かなことが必要であります。一般の人は、信は別問題として、常識豊かな、社会のある学会員の行動を見てし、納得するのです。いきなり法の深遠な哲学についてくるものではありません。まず、“あの人は親切だった。よく、かばってくれた。丁寧に説明してくれた。あのお宅の生活態度が立派だった。あの奥さんの相がいい。あのご主人の生活態度がいい。真面目だ。あのお子さんは快活だ”等々のことで99%評価が決まるといえましょう。

 座談会に来て、その場で入信しなくても、「いつでも、いらっしゃいね」と言われれば、また来てみたいとう。2時間しい法の話よりも、その一言の方にを動かされる場合もあるのです。

「よかったら、内へ遊びにきて下さい。丁度あなたと同じくらいの娘がおりますから。信仰は別問題として、遊びにきて下さい」……これでもいいでしょう。こういう常識豊かな、幅広い社会が大事なのです。


【「創価学会座談会」/1968-01〜1969-04までの本部幹部会の指導を中に、まとめたもの】


 こんな話を聞いた――。


 高齢の婦人部の方が、同世代の友人から悩みを打ち明けられた。「でも、信しないだろうな」と勝手にい込んでいた。ところが、事態はどんどん深刻なものとなり、放っておくわけにいかなくなった。「御本尊様、妹みたいにっている友人を何とか助けてください」と、昨年は100万遍の唱題をやり切った。今までにない祈りを捧げる中で、彼女は決する。「学会の話をすれば、付き合いがなくなるかもしれない。でも、これ以上、大変なことになってしまえば、私が後悔することになる。ならば、断じて折伏をしよう!」と。


 個人折伏をしたことのなかった婦人は、勇気を奮い起こして「一緒に題目を唱えてみない?」と切り出した。「いいよ」――いとも簡単な返事に信じられないいがした。友人は入会を決


 その後、支部婦人部長、婦人部本部長、圏婦人部長に会わせるが、中々決着がつかない。ある日、白ゆり長から頼まれて、地区副婦人部長が訪問した。友人の方は、自分の悩みを切々と語り、どうしようもないいを吐露。地区副婦人部長は1時間半にわたって、じっとを傾けた。聞き終えて、「今までのご労が無駄にならないのが、この信です」と言うなり、友人の表情がパッと明るくなって、「学会に入れて下さい!」と握手を求めてきた。これには、地区副婦人部長の方が腰を抜かした。めでたく入会に至った。


 後日、この方が言うには、「学会の偉い人は、『御本尊は凄い』、『学会は素晴らしい』と言うけど、今の私の悩みが解決するのかどうかを言ってくれなかった。私の悩みは特別だし、どんな信仰をしても駄目なんだとっていた」とのことだった。


 成果に焦る幹部は瞳が曇って相手が見えなくなる。だから、“売れないセールスマン”のように、説得力を欠いてしまうのだ。挙げ句の果てには、「相手を幸せにする」ことを忘れて、「学会に入れる」ことが目的と化す。結果的に、単なる教勢拡大になってしまっている。幹部から煽(あお)られて、締め切りに間に合わせるような折伏はやめた方がいいよ(笑)。