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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2009-11-24

「伝説のマナー講師 平林都が行く/高知 病院編」


 はてなスターを付けてくれた人のブログ(「我が日々の日記」)で知った。いやはや凄い人物がいるもんだ。人材育成には、確固たる理論と技術が必要であることを痛させられる。


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2008-08-08

人材の城を築く


“人材のを築く”とは、御本尊を持(たも)ち、人間革命しきった社会の指導者、すなわち妙法の将をキラ星のごとく輩出することだ。人材のは、万事を成就させゆく出発であり、終点でもある。勇気だけで智がなくては蛮勇になってしまう。智だけで実践力がなければ、観的な実証のないカラ回りとなってしまう。結局、智勇兼備でなくては真の人材とはいえない。

 信を貫いてゆけば必ず人材になれると、否、人材なりと確信して前進してゆくことである。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 人材というものは実に不議で、誰かが育ち始めると次々に育つものだ。人と人との触発が連鎖反応となるのだろう。要は、“最初の一人”をどう育て上げるかが問われる。


 人材がいるかいないかではなく、「育てる人」がいるかいないかである。ニンジンだって、私が料理するのと、一流シェフが料理をするのとでは大きく異なる。素材の力を引き出す調理法と組み合わせが大事。


 人材育成しく考えることはない。色んなところを突っついてみりゃいいんだよ。で、相手の反応を待つ。この「待つ」行為がポイント。今時ときたら、幹部という幹部が締め切りに追われているから、待てないんだよなー(笑)。でね、突っつくところがなくなったら、足の裏か脇の下でもくすぐってやればいいよ。必ず笑うから。

 人を育てることは自分を育てることに通じる。若いメンバーは、ちょっとしたきっかけで驚くほど成長するものだ。


 今の青年部が可哀なのは、夏期講習会や文化祭に匹敵する舞台がないことだ。夏期講習会なんか、参加しただけで仮面ライダー並みに“変身”するメンバーたくさんいた。「伝統の夏」は「人材育成の夏」であった。


 真夏の太陽を浴びて、蝉が賑やかに鳴いている。お互いに“脱皮”の夏としよう。

2008-01-16

人材育成の目標に関する覚え書き


 都市部の平均値として、座50%、御30%とする。20%の差が、少し努力すれば何とかできるメンバーである。それだけに、最もデタラメに扱われている層でもある。御をAと考えれば、座−御の20%がBとなる。残り50%がC。


 舎衛の三億から考えると、座66%、御33%となるのが望ましい。もう一段上の理を言えば、御33%が座談会に友人を誘えば、実質100%となる。因みに、座全員が友人を出せば、132%となる。この辺りが究極の目標といえよう。


 四者で一番弱いのは男子部である。手を入れる優先順位は、男・女・壮・婦の順となる。

  • 壮婦で男女を回る。
  • 壮男で婦女を回り、婦女で壮男を回る→立場を変えると、効果が出る可能がある。挨拶できる人を増やす。
  • 急に会合参加を呼びかけない。
  • 壮男は飲みに誘う。
  • 婦女はお茶に誘う。
  • 相手の家に上がる。
  • 自分の家に招く。
  • 再度自宅に招き、幹部を用しておく→幹部から会合参加を促す。
  • 相手の家で勤行をする。
  • 幹部を伴って相手の家に上がる。
  • 全体的にみれば、世帯数=票となっている。
  • ということは、Bクラスを増やすことが最大の課題となる。
  • 具体的には、座談会参加者数を16%増やすことである(含む訪問)。
  • 地区の担当幹部全員が、必ず3ヶで一人の活動家を育てる。
  • 御=活動家の3分の1が折伏をすると、統監は1割増となる。
  • 未活動33%のメンバーに対し、飲み・お茶メンバーを増やせるかが課題。

 酔っ払った頭で、以上のことを考えついた。参考にしてもらえれば幸いである。

2007-11-26

実力、人格、内実を基準とせよ


 さて、今はテレビ時代。このテレビとともに生きてきた世代を「“どう見えるか”の世代である」と言った人がいる。つまり何にせよ、その「内実がどうか」というよりも、「どう見えるか」を基準にしてしまう傾向が強い、というわけである。

 確かに「どう見えるか」を気にする。「どう、いい格好をしようか」「どう自分を飾ろうか」とのいは、青年たちのに強いかもしれない。もちろん、それは若い世代だけのことではない。人間の常であるといってもよい。

 また「どう見えるか」が大事な場合も世の中にはあろう。だが、信の世界だけは、「こそ大切なれ」と仰せのごとく、「が一切を決める」世界である。「一三千」の法理で、「一」つまり「」が、「三千の諸法」――一切の現象を決めていく。

 ゆえに「どう見えるか」という、自分を飾った「虚像」ではなく、自分のが「どうあるか」という、自分自身の内実、「実像」が大事なのである。

 私どもの青年時代を、現代の青年たちと、一概に比較できない面もあるが、草創の青年部は“どう見えるか”とか、外見など一切関係なかった。“創価学会とともに、どう人生を生きるか”“どう広宣流布に戦うか”との一途のいで進んできた。いわば殉教の精神であった。その決でやってきた。

 どんなに会合で上手に話をしたり、立派そうに見えても、それは成には結びつかない。信とはまったく無縁のものである。そんな格好や、表面的な姿で信が決まるものではない。

 大事なのは、その人の「」がどうかであり、一個の人間としての「振る舞い」「修行」が、どうかである(拍手)。


 それに関連して、真の「人材」とは何か、「人材」を見る基準は何か、を述べておきたい。

 それは、結論していえば「信・行・学」があるか、ないかである。社会的地位がある。有である。人気がある――そんなものは信とは関係ない。そんなことにとらわれて、人を判断しては絶対にならない。

 あくまでも「信・行・学」が深いか浅いか。「法」のため、「広布」のために、どこまで戦っているかである。もっと具体的にいえば、一人の信仰者、修行者として、現実にどれだけ「折伏・弘教」をしたか。行学に励んでいるか。新聞啓蒙などによって、信の理解を広げたか。また人々の激励にどこまで行動したか。その「力」こそが、真の広布の人材の「力」なのである。

 根本の「信・行・学」を基準として、その上でさまざまな個や特長を尊重していく。そこに社会的に活躍している人も、すべて生かされていくのである。しかし、「才能」や「学識」だけでは、広宣流布はできない。いわゆる“個的な面白さ”だけでも、法は弘まらない。広宣流布は、そんなに簡単なものではない。


 また、「人」をうまく動かす人を見て“あの人は力がある”“人材だ”という人もいる。だが、根本の「信・行・学」を無視して、要領よく「組織」や「人」を動かし、それをもって、広布の“人材”と考えることは、大いなる誤りである。そういう人は、必ずといってよいほど、「人」を「人間」として見なくなり、「組織」の上にあぐらをかくようになる。そして、みずみずしい信を失って、堕落と退転の道を歩むことになる。ゆえに「人を使う」ことだけがうまい幹部であっては絶対にならない。「組織」の長の立場にある皆さまは、この点をよくよくに刻んでいただきたい(拍手)。

 人間を、その人の人間としての実力、人格、内実以外の基準で見ていくのは、根底は「人間」をバカにしていることになる。と同じく、「人材」を「信・行・学」以外の基準を根本として見ていくのは、信法、更には学会をバカにするである。信仰者として、これは許されることではない。


 次元は異なるが、先日もお話したように、吉田松陰は「忠義の人」と「功業の人」を峻別した。これも“どうあるか”、つまり、どう革命の大義に殉ずるかと、“どう見えるか”、つまり功(手柄)を得て、どう革命の中で評価されるか、との一の違いを鋭くとらえ、叫んだのではないだろうか。この「一」の違いは、小さいようであまりに大きい。


 ともあれ、“いつか広布の時が来るだろう”と、「時を待つ」臆病の人であってはならない。

「時」はつくらなければならない。「時」は自らつくるものである。時代の「変化」に応じ、「変化」についてゆくだけでは足りない。時代に負けないで、時代の新しき「変化」をつくり出してゆく。この人こそ広布の大人材であると私は申し上げたい。


【第22回本部幹部会 1989-10-24 創価文化会館


 かつては山崎正友(元顧問弁護士)も人材だった。原島嵩(元教学部長)も同様。竹入義勝(元公明党委員長)もまた然り。


 当時を知らぬ若い聖教記者が彼等を貶(けな)しているが、「悪人は悪い」という程度の内容にとどまっていて、全く参考にならない。それどころか聖教記者は、後々反逆した彼等に、人材と目されるだけの力量があったことすら無視している。こうした姿勢によって、会長勇退が単なる“過去の歴史”として位置づけられてしまい、現在と未来に生かす視点が抜け落ちている。


 多くの幹部や議員が反逆者について証言しているが、聖教記者と大差がなく、自分達の自戒や反省は皆無といっていいだろう。


 例えば、山崎正友の野に満ちた日常的な発言、原島嵩の酒癖の悪さ、竹入義勝の宝石漁(あさ)り――こうした事実を知っていた人々は少なくなかったはずである。学会本部に進言した義憤の人もいたことだろう。だが、そのは先生のに届くことはなかった。


 学会本部にはびこる官僚主義が、彼等をして反逆させるに至ったと言ってよい。


 もしも今、学会に山崎正友がいたとすれば――私は慄然とせざるを得ない。


 この指導は実に重要な内容で、10年、20年と活動すれば身につくという代物ではない。

2007-10-01

恩師「幹部が自らを指導し、幹部自らが自己を磨いてゆけ」


 師・戸田先生は、昭和33年211日、すなわちご自身が迎えた最後の誕生日の折に、お祝いに集った弟子達に向かって遺言のごとき厳しき口調で言われた。

「幹部が自らを指導し、幹部自らが自己を磨いてゆけば、会員は自然と育ってゆくのである」と。私はこの指導を決して忘れなかった。常に率先して実践してきたつもりである。

 いくら熱に説き、言葉巧みであっても、口先だけでは人は動かない。後輩は成長しない。これまで幹部となりながら、退転・反逆していった人々の姿は、この根幹の指導を忘れ、自らの「慢」に溺れ、「策」に走った結果であった。それは本当の法者の姿ではない。

 大切なのは、リーダー自身の懸命な実践の姿である。謙虚に自らの人間革命に励むところに後輩は安し、ついてくるのである。


【第10回SGI総会 1989-10-04 創価文化会館


 組織のどこに身を置くかで決まる。楽な位置から先輩風を吹かしているのか、それとも誰よりも厳しいところで戦っているのか。例えば、家庭指導を奨励する幹部は、まず現場に入ってない(笑)。まして、自分の決として述べた場合、今までやってないことを白状したも同然だ。


 わかりやすい例を示そう。副会長があなたの組織に家庭指導で入ることになった。予定は2時間。この場合、どういうコースを組むかというと、頑張っているメンバー、家に上がれるお宅を優先する。間違っても、ドアの空かない家には連れていかない(笑)。多忙を縫って来てくれるのだから、ムダがないように配慮をする。副会長は、家庭指導をしたという既成事実に満足する(笑)。


 このように現場の配慮が、幹部を甘やかす結果になっていることが珍しくない。どこの組織においても一番切実な問題は、「会えない部員に会う」ことであり、「出ない部員を出す」ことなのだ。上の幹部が、そこに気づいていない。


 こうした背景もあって、組織の厳しいところは、地区部長やB長任せになっているきらいがある。


 更に、担当幹部が半年から一年ほど入っているにも関わらず、活動家が増えないとなれば、必然的にB幹部・地区幹部がお手上げ状態となる。


 先生の指導は素晴らしい。皆、そうっている。だが、指導を体現する人がいない。


 幹部カードの本尊流布数は、既にいい加減なものとなっているので、人材育成数を記すことを提案したい。

2007-01-06

闘争の焦点は人材育成


 いよいよ広宣流布も「秋の陣」を迎える。

 焦点は何か。

「人材」である。これからのリーダーを、徹して鍛え、育てゆくことだ。

戸田先生は、人材を求めておられた。

「ますます、人材が必要である。いつでも私の手駒となる人材が輩出してほしい」

「青年部は、みな、私の手駒となってもらいたい。いつ、いかなる大任を受けても、悠々と引き受けてもらいたい」

師の仰せ通りに、私は広布の最前線に身を投じた。行く先々で、栄光の凱歌を轟かせた。


【関西・九州・中国・四国合同研修会 2006-08-07 長野研修道場


 植物にせよ、ペットにせよ、人間にせよ、「育てる」には時間を要する。だから、「たか子」が求められる――失礼、「待つ覚悟」だった。


 そして、手を抜けば死が待っている。だが、水をやり過ぎれば種は腐り、エサを与え過ぎると犬は糖尿病になり、過保護に育てられると人は大人になれない。


「育てる」行為は元々本能に備わっていたはずだ。しかし、そこで育った人間は動物と変わりがなかったことだろう。雑草は放っておいても伸びるが、胡蝶蘭はそうはいかない。社会が複雑になった現在、親ですらまともに子供を育てられなくなってしまった。


 広宣流布が流れそのものであるならば、人材育成なくして令法久住はあり得ない。人間は十人十色だ。ここに人材育成のしさがある。100人いれば、100通りの育て方がある。自分との格闘を避けているリーダーは、ギリシャ神話の「プロクルステスのベッド」のように、枠にはめ込もうとする。そこにあるのは“自分の都合”だけだ。


 私は盆栽が嫌いで仕方がない。針金でグルグル巻きにされた姿は、大リーグボール養成ギプスそのものだ。勝手に自由を奪って、自分のい通りに育てようとする姿勢は、醜悪としか言いようがない。同じことを人間に対して施せば――必ず壊れる。


 幼い子にどんぶり飯を山ほど食べさせたところで、突然、大きくなることはない。毎日毎日、同じことを繰り返し、その中で愛情を注ぎ、言葉をかけ、反応を確認しながら、ある時、振り返ると、「育っている」事実を知るのだ。


 会合で立派な話をする幹部は多いが、実際に人を育てている幹部は見当たらない。隠れているようにもえないのだが(笑)。


 今日は、23歳の池田先生が、戸田先生から後事の一切を託された「師弟相伝」の日。