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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2009-12-29

真の道徳的行動は説明できない


 さて、道徳について科学的に話すのはしい。なぜなら、厳密な味では、科学的に説明可能な道徳というのは辞矛盾だからだ。「よいこと」というのは、それが単に、進化的な有利さやその他の計算可能な利益をもたらすというだけならば、本当の味での「よいこと」ではない。そうだとすると、それは利己主義の一形態になってしまうからだ。同情は外圧化された恐怖となり、親切は、やがて見返りのある投資となってしまう。共は協同のための戦略となり、愛は、ディドロが述べたように、「一対の内臓の中に起こる、地よいドキドキ」となってしまう。真の味で利他的、真の味で無私、自己犠牲的であるならば、道徳的行動は説明を超越したものに違いない。


【『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト/長谷川眞理子訳(岩波書店、2008年)】


「説明を超越した道徳的行動」を私は「随自意」とづけよう。の中に火が灯(とも)り、赤々と燃え広がる瞬間が確かにある。そこに存在するのは、「やむにやまれぬ何ものか」だ。真の道徳的行動は条件反射的に現れる。努力、計画、目標とは無縁のものだ。決すら介在しない。溺れている人や、道端(みちばた)で倒れている人を見て躊躇(ちゅうちょ)することがあるだろうか? この即座の行動こそが「即」であり、相即の関係縁起と呼ぶ。しんでいる人に駆け寄る時、分断・分離・分裂はどこにもない。人類が縁起を自覚すれば、本当の味で人類は一つになるのだ。戦う日常に身を置くと、いつしか敗者や弱者を見下すようになる。戦いの目的が勝負となっている限り、分裂は避けられない。我々は「法は勝負」と叫びながら、組織内の競争に余がない。勝負とは周辺組織に勝つことであり、あの支部やこの人に勝つことである。ついに「法は競争」となり、組織という組織は敗残者だらけとなってしまった。「勝負」を浅い次元で捉えた結果がこのざまだ。人と人とがを開き、を通わせ、を結び合わせるために戦え。自分自身が妙法の当体として光を放ち、妙の三義(開、蘇生、具足・円満)を吹き込んでみせろ。

人間の境界はどこにあるのだろう?

2009-09-04

随自意


 あるとき、ねこは だれの ねこでも ありませんでした。

 のらねこだったのです。

 ねこは はじめて 自分の ねこになりました。ねこは 自分が だいすきでした。

 なにしろ、りっぱな とらねこだったので、りっぱな のらねこに なりました。


【『100万回生きたねこ』佐野洋子(講談社、1977年)】


100万回生きたねこ (佐野洋子の絵本 (1))

2009-08-18

多数


 多数というものよりしゃくにさわるものはない。なぜなら、多数を構成しているものは、少数の有力な先進者のほかには、大勢順応のならず者と、同化される弱者と、自分の欲することさえ全然わからないでくっついて来る大衆とであるから。(「格言と反省」から)


【『ゲーテ格言集』ゲーテ/高橋健二編訳(新潮文庫、1952年)】

ゲーテ格言集 (新潮文庫)

2009-08-17

随他意


 それゆえ何よりも大切なことは、羊の群のように、先を行く群の後に付いて行くような真似はしないことである。そんなことでは、進むべき道を歩んで行くことにはならず、単に誰もが進んでいく道を歩むにすぎない。ところで、われわれを害悪に巻き込むことの最も甚だしいのは、多数者の賛成によって承認されたことを最善と考えて世論に同調することであり、また沢山のことをわれわれの先例として、道理に従って生きるのではなく模倣に従って生きることである。その結果、人々の倒れた上にまた他の人々が倒れて、これらの者たちの重なった大きな山ができるのである。


【『人生の短さについて』セネカ/茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年)】

人生の短さについて 生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

(※左が茂手木元蔵訳、右が大西英文訳)

2009-06-16

心からの叫び


 君の胸から出たものでなければ、

 人の胸を胸にひきつけることは決してできない。(「ファウスト」第一部544-5行)


【『ゲーテ格言集』ゲーテ/高橋健二編訳(新潮文庫、1952年)】


ゲーテ格言集 (新潮文庫)

2008-03-01

未来の実像は「青年の胸中」にある


 さて、「未来の社会」「これからの地球」といっても、その実像はどこにあるのか――。それはすべて未来を担いゆく若き君達の胸中にある。法の「一念三千」「因果倶時」の法理では、そのように捉えることができる。

 今、諸君のにどのような未来が、どのような希望が描かれているのか――ここに、すべてがかかっているといってよい。

 その味で21世紀は、もう始まっている。諸君の胸の中で刻々と育まれ、胎動している。

 ゆえに私は、広宣流布の大いなる「明日(あした)」を開くために、全魂を込め、諸君の胸中の“21世紀”に向かって語りかけたいのである。


 21世紀はどんな時代になるのか。それは、若き諸君自身が決めていく以外にない。「どうなるか」ではなく、「どうするか」である。


【第19回全国青年部幹部会 1990-01-08 創価文化会館


「決めて、祈って、動く」のが信のリズムである。を定めない祈りは、淡い期待に過ぎない。また、祈りなき行動は必ず空転する。


 未来といっても、断絶した時の彼方(かなた)にあるわけではない。「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(231頁)。


 学会の将来は、現在の青年部・未来部によって決まる。ゆえに、壮年・婦人部は全力で応援し、育成する必要がある。しかし、私の周囲には育てるべき青年部が存在しない(笑)。男子部も女子部もいないのだ。で、持て余した力を、こうしてキーボードに叩きつけてるわけだ(笑)。


 会社においても同様だ。若い社員をどれだけ大切にしているかで、会社の命運は決定される。若い連中をアゴで使っているような会社は、いつの日か滅んでゆくことだろう。


 キーワードは「希望」。若いメンバーのに希望を描く日々の行動でありたい。会長就任から数年を経た頃、先生がよく「20年後を目指しなさい」と青年部に指導されていたことがい出される。


 青年は爆発する力を持っている。おとなしい青年は、ただ発揮できないだけだ。昔の文化祭や夏期講習会のように、青年が絶叫し、狂喜乱舞する舞台が必要だ。ラインの活動だけだと、どうしても小ぢんまりとなってしまう。