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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2005-03-29

カルロス・シマ理事長(ペルー)


 その我が門下の門出に、私はつたないが真の一首を贈った。

「いつの日か 君を讃えん 時ありと 今日のペルーに 命をささげば」

 ――“明日”ではない、“今日”である。今日という日に命をささげてペルーの友のために戦おうと。そうすれば、いつの日か君を讃える時が来るに違いないとのであった。そして、今、その時が来た。

“只今臨終”の一法実践の精髄がある。“いつかやろう”ではなく、“今、戦う”、これが真実の信の行動である。


【第11回全国青年部幹部会 1989-01-06 創価文化会館


 ビデオ『アンデスを越えて――ペルーの創価家族たち』を通しての指導。舞台となっているのはタウカ村。首都リマから約630kmに位置し、車で往復36時間かかる。断崖絶壁を見下ろすタウカ村の標高は3366m。富士山の頂上と400mしか違わない。村の人口は、400世帯、2000人。電気はまだ通じてない。


 シマ理事長を迎えた座談会には50が集まった。だが、御本尊を受持しているのは、わずか2世帯。ペルーでは、勤行ができるようになるまで、御本尊の下付は認められない。


 ここで、タウカ村の一粒種となったナルシサ・デ・ラ・クルースさん(57歳)という婦人を紹介。

  • ナルシサさんは、9人もの幼子を抱えながら、夫に先立たれた。生計の道は、一枚の畑のみ。加えて、少女の頃から耐えい頭痛に悩まされていた。
  • して、持病が解消。
  • 学校に十分行かせてもらえなかったナルシサさんは、読み書きができず、経本が読めなかった。そのため、自分が折伏した人から、読み方を教えてもらった。
  • 6年越しで勤行を覚え、御本尊を受持できるようになった頃には、一枚だった畑は、22枚に増え、最近では、リマに2軒のアパートを持つなど、福運に包まれた境涯になっている。
  • 小さな村中に聞こえる村役場のスピーカーを通して、散々、悪口を言われたことも一度や二度ではなかった。だが、彼女は、どんな役人や村人の前でも、法の正義を言い切った。
  • ナルシサさんは、どんなに誹謗中傷されても、懸命に村のために尽くした。植林の中となって活躍し、村の共有財産を横取りしようとした横暴な役人とも戦った。
  • 今では、信してない若き村長までが、ナルシサさんのことを「村一番の協力者」と信頼を寄せている。村長の母親も入会。

 シマさんが、ペルーへと旅立ったのは34歳の時。学生時代に腎臓疾患(ネフローゼ)となり、医師からも二十数歳まで持てば、といわれた身体であった。ペルーに赴任して以来、ジョギングを続け、身体を鍛えながら、友の激励に奔走した。どんなことでも気さくに相談にのり、どんなところでも直ぐに飛んでゆき、どんな時でもいばらないし、怒らない。シマさんにペルーの同志は絶大な信頼を寄せている。


 ペルー広布先駆の父・故キシモト理事長は語った。「ペルー創価学会にとって、最大最高の福運は、先生がシマさんのような人をペルーに送って下さったことです」と。


 先生の下(もと)から出発して16年。誰よりも弟子の労を知る師匠は、シマさんを最大に讃えた。スピーチで紹介されたということは、永遠にを残したということでもある。


 世界190ヶ国にまで広がった陣列は、民衆の激闘によって綴られた歴史そのものである。

2005-02-05

アフリカ:薬袋忠さん


 ひとくちに11年というが、一般に商社などでも、アフリカの熱帯地域への赴任は、3年間が限度とされている。

 それほど、気候を始めとする諸条件が日本と大きく異なっている。

 高熱の出るマラリアとの戦い、「食べ物」や「水」の違い、干ばつ、物資の不足。文化・習慣の隔たりも大きい。

 一日一日、体を張っての戦いである。いわんや、その中で布教をし、指導に走る。筆舌に尽くせぬ労の連続だったに違いない。

 クーデターもあった。そうした中、「死」を覚悟することも一度や二度ではなかった。こう彼は語っている。

 しかし、彼には深き「使命」の自覚があった。アフリカ広布――その一点に徹していた。ゆえに彼には不動の強さがあった。愚痴もなければ、弱音もなかった。

 今、日本には多くの幹部がいる。その中の何人が彼と同じ状況下で、毅然と戦っていけるか。華やかな立場はなくとも、人目につかぬ陰に、こうした本物の学会っ子がいることを忘れてはならない。


【港・目黒渋谷合同支部長会 1988-09-12 東京・麻布文化会館


 アフリカ広布の先駆者、薬袋(みない)忠さんを紹介した指導。


 1974年(昭和49年)1聖教新聞特派員としてガーナに渡った。この時、33歳。「先生、アフリカへ行かせてください」――薬袋さんは「21世紀は、アフリカの時代」という信から、自らアフリカ広布の礎(いしずえ)になりたいと申し出た。以来、1984年(昭和59年)12、日本に帰国するまで、実に11年間、灼熱の天地でアフリカ広布のために戦い抜いた。


 青春時代の誓いのままに生きた薬袋さんの顔は輝いていた。いも寄らぬ称賛の言葉を掛けられ、はにかむような表情をされていた。そこに、慢の暗い陰は微塵もなかった。


 自分が決めた道で、やるべきことをやり遂げた人は偉大だ。そして、偉大な人物は一様に謙虚だ。高に自分の成果を主張することはない。なぜならば、自分が勝った瞬間に、師弟という関係において一切が完結しているからである。


 家庭指導をしない幹部を、私が絶対に信用しないのは、喝采なき舞台を避ける惰弱な姿勢がそこに実相として現れているからだ。


 無の勇者達によって道なき道が開かれ、世界広布の胎動は世界190ヶ国にまで広がった。口で言うのは簡単なことだ。ほんの少しでも先人の労いを馳せる時、不平不満など出るはずがない。


 人間の身体は恵まれた環境にいると抵抗力が弱まる。少々の菌に冒され身体が蝕まれてゆく。


 極楽百年の修行は穢土(えど)の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず時のしからしむる(のみ)(329頁)


 困なところに身をおいて戦っているかどうか。真っ直ぐに師の後を歩み、師に連なる今日一日となっているのかどうか。これを確認せずしては、海外の同志に面目が立たない。


 今年は、「江戸の一日の功徳に及ばず」にして参りたい(笑)。

2004-09-20

世界を動かした偉大なる民間外交 4


「正義と勝利の座談会」第2部 81


江藤●池田先生は、モスクワ大学から誉博士(75年5)、誉教授(12年6)の称号を受けられています。この二つの誉称号を受章した日本人は、池田先生一人だけです。


秋谷●大変な、歴史的な事実です。


杉山●先生は世界中の大学から161もの誉博士、誉教授等の称号を受章されている。その記すべき第1号が、モスクワ大学からの誉博士号でしたね。


江藤●池田先生のリーダーシップによる、世界的な文化・教育交流と平和運動を高く評価して授与されました。授与式の席上、先生は「生涯、この博士号に値する行動を貫きたい。今は、むしろ責任をじる」と厳かに挨拶されました。


杉山●ロシアでは、モスクワ大学のほかにも、ロシアの国際大学(94年5)、極東大学(96年11)、国立高エネルギー物理研究所(98年4)、サンクトペテルブルク大学(00年1)からも誉博士の称号を受章されていますね。


弓谷●先29日には、ロシアの教育分野における最高学術機関である「ロシア教育アカデミー」の在外会員に就任されたばかりです。


江藤●ところで先生が初訪ソされた74年――先生は5〜6に中国、9ソ連、そして12に再び中国と、文字通り東奔西走されています。周来総理との歴史的な会見も、この第2次訪中の時でした。


秋谷●当時、周総理は76歳。コスイギン首相は70歳。先生は46歳の若さだった。


江藤●さらにまた先生は、翌75年1にはアメリカも訪問されています。その際、国連本部を訪問して事務総長と会見したほか、当時のキッシンジャー国務長官等の要人と会談。そして4には中国、5には欧州、そしてソ連を訪問されています。


鈴木●74年5の初訪中から、わずか1年間で、中国を3度、ソ連を2度、さらにアメリカ、欧州を訪問するという、超人的なスケジュールでした。


秋谷● 本当だったら、政治家こそが動き、日本から平和のメッセージを発信し、世界に貢献すべきだ。それを、保身で臆病で人気取りばかり考えているから、やらない。


弓谷●こうした先生の民間外交が、いかに先見であったか。今、世界は、国家対国家、政府対政府という従来の外交の枠組みを超えて、民間団体、非政府機関による活動が重みを増してきている。私の知っている学者も「米中ソに平和の大道を開いた、偉大な民間外交だ。時とともに輝いていますね」と驚嘆していたな。


秋谷●ところが当時、そうした先生の先見と行動を理解できない連中がいた。「宗教者が、なぜ共産主義の中国、ソ連に行くのか」等々、執拗、陰湿な悪の中傷があった。


鈴木●宗門の愚劣な坊主連中も“どうして折伏できない国に行くのか”なんて言ってたな(大笑い)。


秋谷●とにかく視野が狭い。日本の将来を考えないんだ。


鈴木●この74年の年末には、学会と日本共産党との間に「創共協定」が結ばれた。これも「宗教と共産主義の共存」という、文明史的義の上から結ばれたものだった。


秋谷●先生は現実に、共産主義の中国にも、ソ連にも行かれている。日本の共産党と対話するのは、自然の流れだった。するとまた、それを面白くわない勢力が陰湿に妬みはじめた。「学会は共産党と手を結ぶんじゃないか」と邪推し、反発しだした。


杉山●先日も、この座談会で話が出たが、あのデマ記事を書いた「月刊ペン事件」も、こうした政治的な動きの中で起こった謀略のデマ事件だった。


弓谷●時期的にも『月刊ペン』が学会批判のキャンペーンを始めたのは、先生の訪中、訪ソ、そして「創共協定」が表面化した直後でしたね。


秋谷●その通りだ。「月刊ペン事件」の裁判の判決にも、ハッキリ書かれている。


鈴木●「被告人(=『月刊ペン』編集長の隈部大蔵)は、昭和50年8ころ、当時表面化した創価学会と日本共産党との間のいわゆる創共協定に対し、教義上の立場から疑問をつのらせ、『月刊ペン』誌に創価学会批判記事を掲載することを企画し」(東京地裁、昭和58年610日)等とある。


江藤●一目瞭然だ。要するに「嫉妬」と「怨」の輩が仕組んだ、政治的謀略事件、デマ事件だったんだ。


秋谷●それに当時は、学会が支援する公明党も大躍進し、注目を集めていた。その反動も大きくなっていった時代だ。67年には、衆院に進出し、一挙に25議席を獲得。そして70年代後半には、国会議員から地方議員まで、総数3千数百人を数える一大勢力となった。


江藤●とくに公明党では、早くから女の国会議員が活躍していた。しかも衆院では、当時の東京1区から渡部通子議員、3区から多田時子議員など、いわゆる「花形選挙区」から選出され、活躍していた。


鈴木●そうした政治情勢に絡めて騒げば、世間も注目する。騒ぎになる。隈部は、そう踏んだんだ。そこで、ありもしないウソ八百のデマ記事を書き殴ったわけだ。


秋谷●あまりにもひどい事実無根の中傷記事だったので、学会側は、デマを書いた隈部を誉毀損で刑事告訴した。そして隈部は逮捕、勾留された。


弓谷●結局、先日も話に出た通り、隈部は池田誉会長をはじめ学会に「詫び状」まで書いた。「(『月刊ペン』の記事には)事実の確認に手落ちがありいちがいがありました」「行過ぎのあったことに対しては、率直に遺憾のを表明致します」とハッキリと謝罪した。


杉山●そして裁判でも最終的に金20万円の有罪判決が下された。これは当時としては最高額の金刑だった。非常に重い罪だ。


弓谷●この『刊ぺン』の裁判といえば、恐喝事件を起こして窮地に追い込まれた山崎正友が、愚かにも途中から首をつっこんできた。


杉山●山崎も自分が刑務所に入るのを怯えて、ありとあらゆるウソの工作をしてきた。学会を脅してきた。だが、ウソというのは「いつ」「どこで」「誰が見たのか」を追及すると、すぐバレる。山崎のウソはその典型だった。


秋谷●今からえば、山崎が静岡の墓園建設で裏金を握ったり、派手に遊び回ったり、宗門に出入りしたりし始めたのも、ほぼ同じ昭和50年、51年頃からだった。


鈴木●あの頃から、山崎は私生活の乱れがひどくなった。皆が、おかしい、おかしいとっていた。先生からも厳しく注されたが、それをまた一段と逆恨みしていったんだ。


杉山●結局、山崎は悪事に悪事を重ねた揚げ句に、「月刊ペン事件」の卑劣な画策も失敗。そして自分が起こした恐喝事件で懲役3年の実刑判決を受けて服役となった。


秋谷●その後も、学会は「猶多怨嫉」「悪口罵詈」の経文通り、嫉妬と妬みの迫害が続いた。まさに魯迅が「先覚者は、つねに故国に容れられず、また同時代人からも迫害を受ける」と喝破した通りだ。だが、学会は正義と真実であったがゆえに、すべてに勝った。ご存じのように、ますます偉大な発展を続けている。今や世界190ヶ国・地域にまで広がっている。


弓谷●正邪はハッキリした。法は厳しい。刑務所から出てからも、いまだに山崎のほうは地獄だ。いや、いよいよ地獄の奈落の底に沈むばかりじゃないか。


杉山●近年も、自分の汚らわしい不倫事件で断罪されたほか、今13日、14日にも誉毀損事件、プライバシー侵害事件などで断罪。しかも今なお20数件もの裁判を抱えている。文字通りの「裁判地獄」だ。



聖教新聞 2004-09-20付】

2004-09-18

世界を動かした偉大なる民間外交 3


「正義と勝利の座談会」第2部 80


弓谷●池田先生の第1次訪ソ1974年9)の圧巻が、コスイギン首相との会見ですね。


鈴木●当初、首相との会見は、予定になかったのです。しかし、訪ソ中の先生の平和への行動、友好への信を通して、ソ連側の認識が、みるみるうちに変わっていった。そして急遽、日程の最終日に、首相との会見が実現したのです。


杉山●そうだったんですか。ソ連側も、ずっと見ていたんですね。


江藤●何よりも、コスイギン首相自身の強い要望があったと、後で聞きました。


鈴木●1時間半にもわたる、本当に素晴らしい会見でした。首相が「あなたの根本的なイデオロギーは何ですか」と尋ねる。先生は即座に「平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です」。すると首相は「この原則を高く評価します。このを私たちソ連も実現すべきです」と。


秋谷●会見の模様は、私も詳しく聞いている。――ソ連側はコスイギン首相をはじめ、政府と党の首脳が、ズラリと席についている。ところが先生は、終始、泰然、悠然としておられる。ソ連側の質問、問いかけにも電光石火で鮮やかに切り返していかれる。まるで火花を散らすような、やり取りの連続。先生のスピード、頭脳の回転の早さ、当即妙の対話に、ソ連側もわず嘆のを上げていた――と。


鈴木●その通りです。そして先生は、この3ヶ前に訪問した中国の印象を率直に語った。中国で先生は、主にソ連からの核攻撃に備えた、巨大な地下防空壕を視察され、中ソの緊張関係を実された。そこで「中国はソ連の出方を気にしています。ソ連は中国を攻めるつもりがあるのですか」と質(ただ)した。首相は「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」。さらに先生は「それを中国の首脳に、そのまま伝えてよろしいですか」と確認。首相から「結構です」と明確な回答を引き出したのです。


江藤●先生は、その3ヶ後の74年12、再度、中国を訪問。コスイギン首相の言葉を直接、中国のトウ小平副首相(当時)に伝えておられます。あの中ソ間の危機の時代にです。


秋谷●コスイギン首相は会見の終わりに、先生に、こう語ったそうだ。“池田会長のおっしゃられたことに厚くお礼を申します。会長が提起した問題を考えていきます。重要な友人の言葉です。どんな障害が生じても会長がいる限り、ソ日の友好は崩れないでしょう。私は会長に会えてよかった”と語っておられた。


弓谷●首相は自宅に戻ってからも令嬢に「今日は非凡で、非常に興味深い日本人に会ってきた。大変複雑な問題に触れながらも、話がすっきりできて、うれしかった」。このように語っていたと、うかがっています。


鈴木●その通りです。先生は第2次訪ソ(75年5)の際もコスイギン首相と再会を果たされました。そして第3次訪ソ(81年5)の折、首相令嬢のグビシャーニ女史とも会見なさっています。首相が亡くなった直後でした。


江藤●グビシャーニ女史は、首相を偲んでの先生の訪問に「嬉しい、大変に嬉しい」とから喜んでおられました。“どれほど父が池田先生を尊敬していたか。どれほど先生に会いたがっていたか。私には、よくわかります”と、涙を浮かべながら語っておられた。そして“家族全員で相談し、父の遺品を、ぜひ先生に、お贈りしたい”と申し出られたのです。


鈴木●それが首相の肖像のあしらわれた、クリスタル製の花びんです。首相が60歳の時に“社会主義労働英雄”として贈られた貴重な品です。


秋谷●大切な記録として、東京牧口記会館(八王子市)に展示されています。


江藤●その後、池田先生は、ソ連、ロシアの時代を通じて計6度にもわたって訪問。歴代首相をはじめ、ゴルバチョフ大統領、モスクワ大学の歴代総長などと対談を重ねてこられています。


秋谷●コワレンコ氏(元ソ連共産党中央委員会国際部副部長)は、こう証言している。

「(池田誉会長は)ソビエト時代の3人の首相、コスイギン、チーホノフ、ルイシコフ氏とも会見をされており、もちろん、3人の歴代首相と対話を行った日本人はいない」と明言している通りだ。


弓谷●特に90年のゴルバチョフ元大統領との会見は、電撃的でした。あの会見で、ソ連の国家元首の史上初めての訪日の向が表明されたのですから。


秋谷●私も日本で、NHKの午後7時のニュースで見た(笑い)。当時、いつゴルバチョフ大統領が訪日するかが、日本でも注目されていた時だった。


鈴木●会見の終了後、重大なニュースなので、先生自ら日本の報道陣への記者会見に臨まれ、その内容を説明されたのです。


江藤●実は、先生と大統領が会見した前々日、当時の桜内義雄衆議院議長が大統領と会見したのです。ところが、北方領土問題で決裂し、大統領の訪日については白紙に戻りかけてしまった。


杉山●その時の模様は、長岡大学教授の中澤孝之氏の著書『ゴルバチョフ池田大作』にも詳しく書かれていますね。


鈴木●中澤教授は、時事通信社のモスクワ支局長などを歴任された方だ。日本でも有数のソ連、ロシア通の方です。


弓谷●中澤教授の本によると、大統領と桜内議長の会見に同行した、当時の駐ソ大使の枝村純郎氏も、頭を抱えたそうだ。「ゴルバチョフは、日本側が領土問題しか取り上げないのであれば、両国政府間で協議されていた訪日は再検討せざるを得ないと言い出した」と枝村氏は述懐している。それほど深刻な事態だった。


鈴木●ところが、その2日後、先生が大統領と初会見された。そして、大統領は「できれば、来年春、桜の咲くころに日本を訪問したい」という向を先生に明かしたのです。大統領が訪日の時期を明言したのは、これが最初のことでした。


秋谷●まさに歴史的なビッグニュースだった。翌日の新聞各紙も1面トップで「ゴ大統領、来春訪日を明言」(読売新聞)、「ソ連大統領、来春訪日を明言」(日新聞)等と大々的に報道した。皆が驚き、また安堵した。


杉山●枝村氏も、当時の境を「予外の朗報」「正直、ほっとしました」と自著などに綴っていますね。


江藤●実は、会見の前日だったといますが、先生と同じ宿舎に泊まっていた桜内議長から、ご挨拶したいという申し出がありました。しかし、先生が議長を訪問し“民間の立場ですけれども、明日、ゴルバチョフ大統領との会見に臨んでまいります”と礼儀を尽くされたのです。


杉山●ああ、そういうことがあったのですか。


弓谷●先生とゴルバチョフ氏は、これまでに8度、会見されています。私も93年、創価大学4年生の時に、創大記講堂で行われた、ゴルバチョフ氏の誉学位就任の記講演会に参加させていただきました。光栄にも、その際、私からゴルバチョフ氏に「創価友誼之証」を贈呈させていただきました。


江藤●先生とゴルバチョフ氏の対談集である『二十世紀の精神の教訓』も、日本語、ロシア語のほか、ドイツ語、フランス語、イタリア語、韓国語、中国語の7言語に翻訳・出版され、大反響を呼んでいます。


鈴木●本当に深い友情を結んでおられる。それを妬んで、ゴルバチョフ氏と会うために、あろうことか「学会が数十億円もの金を使っている」などと、デマで中傷したバカな売文屋もいたな。


秋谷●バカバカしい! そんな大金、どこから出せるんだ。もし「金を出した」のなら、税務署が克明に調べている。そもそも学会は、何によらず、お金を出す場合は、宗教法人法、学会規則に則り、責任役員会の議決や所定の手続きをきちんと踏まなければ、できないことになっている。そんなことも知らないのか(笑い)。


弓谷●だいたい「金で買った」と言うんだったら「いつ」「どこで」「誰が」「誰に」「いくら払った」のか。具体的に事実と証拠をハッキリ挙げて書くべきだ。それが何一つ、ないじゃないか。それこそデマの証拠だ。


杉山●当時、学会の広報室が抗議したら、全く何も言わなくなった(笑い)。本当に愚劣だ。


弓谷●だいたい学会には何も取材していない。事実の確認もしない。こんなの、狂気の沙汰だ。日本の恥だ。


江藤●ゴルバチョフ氏も、こういう類のデマには、本当に怒っておられた。失礼千万な話だ。


弓谷●ドイツの詩人ハイネは、こう喝破している。「人間が偉大になればなるほど、中傷の矢に当たりやすくなる。小人には中傷の矢さえ当たらない」まさに日本の嫉妬社会のことじゃないか。



聖教新聞 2004-09-18付】

2004-09-17

世界を動かした偉大なる民間外交 2


「正義と勝利の座談会」第2部 79


杉山●先日、池田先生ソ連初訪問(昭和49年9)について話が出ましたが、当時の模様を、もう少し詳しく教えてほしいというが届いています。


秋谷●大切な歴史です。そこで今回は当時の経緯に詳しい鈴木副会長、江藤副会長に来てもらった。


鈴木、江藤●よろしく、お願いします。


秋谷●実は、ソ連からは、昭和30年代に、学会に招へいの話がありました。池田先生より「青年部の代表が行ってはどうか」とのご提案をいただき、1963昭和38)年9に、当時、青年部長であった私と代表が、学会幹部として初めてソ連に行かせていただいたのです。

 招へい元はソ連の「今日のアジア・アフリカ」編集局で、十日間にわたって、モスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、キエフ(現・ウクライナの首都)、トビリシ(現・グルジアの首都)などを回らせていただいた。

 すでに、そのころから先生は、ソ連との交流にを砕(くだ)かれておられたのです。


杉山●将来を考え、手を打たれたわけですね。


秋谷●そうです。その11年後に先生の訪ソが実現しました。


鈴木●しかし、当時でも日本でソ連といえば「怖い国」「一番嫌いな国」という印象が強かった。

 それだけに手に入る情報も、ほとんどなかった。むしろ“反ソ連”の立場からの資料が多かった。とにかく実情、実態がつかめない。それほど日本とソ連は疎遠でした。


江藤●実は、宗教の指導者が来るというので、ソ連側も、かなり不安だったようです。ソ連側の受け入れ責任者を務めたコワレンコ氏(元ソ連共産党中央委員会国際部副部長)も証言している。

ソ連共産党指導部、共産主義者は、池田先生創価学会代表団のソ連訪間を、はじめ歓迎しなかった」「指導部は、創価学会について正しい情報を持っていなかったからです」と当時の事情を明らかにしている。


弓谷●すると、どういう経緯、契機で、ソ連への訪間が実現したのか。先生の中国訪問については、よく知られていますが、訪ソの歴史は、あまり知りません。

 その点から、お願いします。


鈴木●わかりました。直接の発端は、初訪ソの前年である1973年の127日のことです。

 池田先生は、ソ連科学アカデミー会員のナロチニツキー氏、準会員のキム氏を創価大学に迎えて会談されました。


江藤●ちょうど、そのから、東京の後楽園技場(当時〉で「大シベリア展」が闘催されたんです。シベリアで発掘されたマンモスの完全骨格と剥製(はくせい)が、ソ連国外で初めて公開されるという展示会でした。


杉山●そうでしたね。私は小学生でしたが(笑い)、マスコミでも大変、話題になったのを覚えています。


江藤● 主催は、大シベリア博委員会と毎日新聞社でした。展示の成功のために、池田先生のリーダーシップにより、創価学会としても協力した。

 そのことが機縁となって、先生とナロチニツキー氏、キム氏の会談になったんです。


江藤●この会談でナロチニツキー氏とキム氏から「ぜひ、モスクワにお越しください」と、ここで初めて、訪ソの要請があったのです。


鈴木●ところが、その後、ソ連からは正式な招待状が、すぐには届かない。

 考えてみれば、創価学会は宗教団体。ソ連は共産主義国。しかも先生は、当時、ソ連と敵対関係にあった中国の国連参加、日中国交回復を提言しておられる。

 コワレンコ氏が“ソ連の指導部は学会について正しい情報を持っていなかった”と述懐しているのも、そのあたりのソ連の空気を指して言ったのでしょう。


江藤●結局、翌年(1974年)になって、モスクワ大学の招へいというかたちで、訪ソが決定したのです。


杉山●何から何まで困を極めていたのですね。

 今からは、像もつきません。


鈴木●訪ソは決定したが、さっきも言ったように、我々は正直、不安でした。

 そんな折、池田先生から、私ども随行メンバーに「世界平和のために行くのです。しっかり祈って」と伝言を、いただいたんです。

「世界平和のために」。どれほど先生が、断固たる決でいらっしゃったか。皆が勇気百倍でした。


弓谷●先生は出発の前日の夜には、新宿区の大願寺を訪れられていますね。


秋谷●大願寺は1972年3に、池田先生が発願主となって寄進された寺です。できて間もないころだった。


鈴木●当時の大願寺には、今は池袋の法道院にいる早瀬日如がいた。学会本部のある新宿区の寺ということで、先生が、どんなに大切にし、真を尽くされたか。

ソ連への出発の直前まで、直接、足を運ばれたという一事をしても、よくわかるでしょう。


杉山●そして今、現実にロシアにも妙法を持ったメンバーが、モスクワはじめ各地で喜々として社会の中で活躍している。

 この現実を考えると、どれほどの義があったか、深く実します。


秋谷●池田先生こそ、日蓮大聖人の御遺命通りに法を弘められた大功労者です。本当に全宗門の、全末寺の大人であられた。

 それを日顕は嫉妬に狂い、裏切り、切ってきた。どれほど極悪人か!

 血の通った人間にできることでは、到底ない。


鈴木●池田先生は74年98日午前11時過ぎ、羽田空港からソ連へ出発されました。この日は日曜日でした。

 モスクワのシェレメチェボ空港に第一歩をしるされたのは、同日午後3時12分(日本時間同9時12分)。東京もモスクワも、素晴らしい晴天でした。


秋谷●歴史的な瞬間だった。

 先生は10日間の訪問で、当時のコスイギン首相をはじめ、ノーベル文学賞作家のショーロホフ氏、モスクワ大学のホフロフ総長など、各界のリーダーと次々と会見し、深い友情を結ばれた。冷戦の「鉄の扉」を開いた、まさしく人間外交の真髄だった。


江藤●超過密スケジュールでの行動でした。文化省、教育省、ソ連科学アカデミー、ソ連対外友好文化交流団体連合会等々を訪間。主なものだけでも20数回もの要人との会談、協議を重ねられました。


鈴木●さらに先生は、行く先々で学生と懇談したり、地元の記者のインタビューに応えるなど、それこそ寸刻、寸秒を惜しんで動かれました。

 申しわけないことに、随行メンバーと、ソ連側の担当者が、先生の宿泊される部屋に集まり、深夜まで打ち合わせをさせていただくことが、たびたびでした。先生にも、奥様にも、ずいぶんご迷惑をおかけしてしまいました。


江藤●モスクワ大学と創価大学の交流が決まったのも、この時でした。

 まさに、この初訪ソで、日ソ両国間の文化・学術交流の扉が本格的に開かれたのです。


鈴木●とにかく先生のエネルギッシュな行動に、ソ連の要人たちも驚き、盛大に歓迎してくれました。ソ連の方々が私ども随行メンバーにも、とにかく「食べろ、食べろ」と出してくれる(笑い)。

 おかげで私も、数キロも太ってしまったくらいです(大笑い)。


杉山●モスクワ大学のトローピン教授は、先生の初訪ソを、ロシア革命を描いたジョン・リードの不朽の作『世界をゆるがした十日間』になぞらえていましたね。

「短い滞在だったが、これは“世界を揺るがした十日間”だった」と。


鈴木●ソ連ある方々にとって、それが実だったのでしょう。何しろ日本とソ連の間には、政府間の文化交流の協定すら結ばれていなかった時代です。


江藤●当時、在日ソ連大使館の参事官として、先生の初訪ソに協力してくださった、クズネツォフ氏(元ロシア外務省アジア太平洋局長)も証言しています。

創価学会を母体とした創価大学や民主音楽協会は、わが国との文化・学術交流に積極的に関わり、両国の関係の進展を促してきました」

「そしてそれが、国際関係が緊迫した際に、ソ連・ロシアと日本との衝突を回避する役割を幾度となく果たしたのです」と語っておられる通りです。


秋谷●後で触れるが、これほどの大偉を、日本は「島国根」だから妬んでばかりだった(笑い)。

「木を見て森を見ない」というか。深い哲学も、信もないから、狭量で、偉大な真実が見えない。それが今の世界の中で、経済は注目されるが、本では信頼されない日本の現実の姿になっている。


聖教新聞 2004-09-17付】

2004-09-15

世界を動かした偉大なる民間外交 1


「正義と勝利の座談会」第2部 77


弓谷●今8日、池田先生がロシア、当時はソ連を初訪問されてから30周年を迎えました。


原田●あの池田先生訪ソが、今になってみて、どれほど画期的、歴史的なものであったか。何しろ米ソ冷戦の一番厳しい時代だった。何よりも「核の脅威」が広がっていた。


原●しかし日本から見ると、ソ連は“鉄のカーテンの国”“怖い国”という印象が皆にあった。政治家も日本の将来を考えて本気で行動する人間がいなかった。


秋谷●だからこそ、池田先生は行動された。当時の状況を知る識者は、先生の先見を異口同音に讃えている。


中島●先日の聖教新聞(98日付)でも報じられていたが、当時、在日ソ連大使館の参事官だったクズネツォフ氏も、こう語っていた。「あのしい時期に、あれだけの短期間に、民間レベルで、ソ連と中国の両国首脳と会えるような人物は、日本のみならず、どこを探しても見つからなかったと言えるでしょう」「30年前の池田会長の『第一歩』が、表には見えない『種』となり、『根』となって、両国民のに大きく花開いてきた」と。


野村●まさしく、21世紀を見据えての「平和」と「文化」と「教育」の行動が開始されたわけだ。先生は“中国もソ連も日本の隣国であり、友情を結ばなくては、日本とアジアの平和、安定はない”という強い信だった。


秋谷●何しろ、日本は目先のことしか考えない。「宗教者が、なぜ共産主義の中国、ソ連に行くのか」等々、それはそれは執拗な、また悪の中傷があった。


中島●宗門の愚劣な坊主連中も“どうして折伏できない国に行くのか”なんて言ってたな(大笑い)。


原田●内外ともに無理解の壁。中傷の嵐。どこにも味方はいなかった。その中を先生は、日本のため、世界平和のために敢然と道を開かれたのです。


秋谷●重大な歴史だ。先生の初訪ソの歴史については、また改めて語り合いたいとう。


原●さらにまた、先生が訪ソされた74年の年末には、学会と日本共産党との間に「創共協定」が結ばれた。これも「宗教と共産主義の共存」という、文明史的義の上から結ばれたものだった。


中島●するとまた、それを面白くわない勢力が陰湿に妬みはじめた。「学会は共産党と手を結ぶんじゃないか」と邪推し、反発しだした。


秋谷●実は、あのデマスキャンダルを書いた「月刊ペン事件」も、こうした当時の動きの中で起こったことだ。『月刊ペン』が学会批判のキャンペーンを始めたのは75年。時期的には先生の訪中、訪ソ、そして「創共協定」が表面化した直後のことだった。


野村●その通りだ。そのことは「月刊ペン事件」の裁判の判決にも、ハッキリ書かれている。「被告人(=『月刊ペン』編集長の隈部大蔵)は、昭和50年8ころ、当時表面化した創価学会と日本共産党との間のいわゆる創共協定に対し、教義上の立場から疑問をつのらせ、『月刊ペン』誌に創価学会批判記事を掲載することを企画し」(東京地裁、昭和58年610日)等とある。


中島●一目瞭然だ。謀略の舞台裏が、明らかじゃないか。要するに「月刊ペン事件」の本質とは「嫉妬」と「怨」の輩が仕組んだデマ事件、政治的な謀略事件だったということだ。


原●『月刊ペン』というのは、もうとっくに廃刊になったが、右翼絡み、総会屋絡みの三流雑誌だった。どっかを脅したり、因縁をつけては、商売をするという手口だった。それに隈部は「大乗教団」という宗教団体の幹部だった。判決に「教義上の立場から」とあるのは、そのためだ。


秋谷●あまりにも、ひどい事実無根の中傷記事だったので、学会側はデマを書いた隈部を誉毀損で刑事告訴。隈部は逮捕され、勾留されている。


原田●どれほどインチキな作り話だったか。何しろ判決でも“隈部は当時、仲間のライターから「ネタ元の人間も、タレ込んだ人間も、素が怪しい。要注人物だ」「記事は載せないほうがいい」と忠告を受けていた”と明確に認定されているほどだ。


弓谷●その上で判決はデマ記事の作成にあたっては「具体的にも一層の慎重さが必要な状況にあったと考えられる」と結論している。


中島●にもかかわらず隈部はデマ記事を書いた。それほど根深く嫉妬に狂い、金儲けに狂っていたということだ。


弓谷●当然、裁判で隈部は厳しく断罪された。最終的に金20万円の有罪判決が下された。これは当時としては最高額の金刑だ。


原田●しかも隈部は、池田誉会長をはじめ学会に「詫び状」まで書いている。「(『月刊ペン』の記事には)事実の確認に手落ちがありいちがいがありました」「行過ぎのあったことに対しては、率直に遺憾のを表明致します」とハッキリと謝罪している。


原●それだけじゃない。この『刊ぺン』のデマを利用して、学会攻撃を目論んだ、極悪ぺテン師の山崎正友。こいつの謀略も大失敗したことは、ご存じの通りだ。


中島●あんなデマに飛びついたからだ。


野村●何しろ山崎のウソは、作り話ばっかりだから「いつ」「どこで」「誰が見たんだ」と厳しく追及すると、すぐウソとバレる。結局、法廷で山崎らは“ウソをついた”と20回以上も断罪されて、赤っ恥をかいた。


原田●そして山崎は、自分の犯した恐喝事件で懲役3年の実刑判決を受けて服役。商売道具にしていた、弁護士の資格もなくし、完全に社会の落後者となり、今では日顕のところぐらいしか出入りできない(笑い)。


弓谷●それに山崎は、自分の汚らわしい不倫事件まで発覚して、断罪されたほか、今年3には、デマ記事などで2度も断罪され、今なお20数件もの裁判を抱え「裁判地獄」でのたうち回っている。


秋谷●先生の偉大な民間外交への嫉妬に端を発した「月刊ペン事件」だった。結果から見て、あのデマ事件が、いかに政治的な謀略事件だったか。山崎が関わったことで、その真相、内幕が、一段と浮き彫りになったと言える。


原田●法上も「猶多怨嫉」「悪口罵詈」と経文にある通り、偉大な発展をすればするほど、謀略と戦わなければならない。また戦い勝ってこそ偉大な前進がある。


秋谷●先生と会談され、対談集の準備も進められている、アルゼンチンの人権活動家のエスキベル博士(ノーベル平和賞受賞者)は、こう喝破している。“迫害こそ正義の証である”と。事実無根のデマの嵐こそ、真実の「正義の人」である何よりの証

だ。


聖教新聞 2004-09-15付】

2003-07-13

カナダ


【上野久仁子 カナダ・バンクーバー(60歳)】


 カナダでの池田先生との出会い。生涯、あの光景は忘れないでしょう。それだけでも“宝のドラマ”です。それが……。驚きました。身体中が動で震えました。


 615日付の聖教新聞で、先生の地球紀行「我がふるさとは世界」の「カナダ優しさの空間」に、そのドラマがつづられているのです。


「私はモントリオールから、西のバンクーバーへと飛んだ。ここで、私は『人生の虹』に出会った。総会へ行くと、会場の一番後ろに、車椅子の婦人がいた。シックな服。50歳くらいだろうか。私は、まっすぐに近寄っていった」――。


 1993年。先生の3回目のカナダ訪問の折、私はバンクーバーでお迎えしました。会場に入ってこられると、先生は後方にいる車椅子の私を見つけられ、を掛けてくださったのです。


 紀行文の言葉です。


「えらかったね。よく頑張ったね。みんなの模範だね」。身にあまる言葉です。


 私は大阪に生まれました。10代で両親とカナダへ。そして、バンクーバーで入会。アクシデントはその後でした。1966年、ロサンゼルスへ車に乗せてもらって向かう途中、交通事故で半身不随になりました。24歳でした。その時、妙法に巡りあっていなかったら、私の勇気と挑戦の人生は幕を閉じていたでしょう。


 同志に支えられ、励まされ、今日の私があります。先生は、すべてご存じでした。先生は、私の人生を“太陽の光”のような温かさで見守ってくださいました。だから、私は勝てました。事故から36年の歳が流れました。だいぶ覚が戻っています。新たな挑戦の欲がわきます。


 池田先生と初めてお会いした時のことを「ああ、前にトロントの空港で会った。皆と見送りに来てくれた日系の女だ」と。また、驚きました。そこまで覚えてくださっていたのです。


 そして、バンクーバーでの「元気そうだ。幸せそうだ。よかった」との“の言”。胸奥に強く響きます。


“一人との出会い”をこれほど大切にされる指導者がいるでしょうか。“先生への謝”が、私のカナダ広布への支えです。同志の方々をから励ましていける白身に成長します。


【「」/聖教新聞 2003-07-13】