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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2008-09-23

退転と不退転について


 ティラデンテスにとって、かつての同志の変など、小事であったに違いない。彼は自らの死をも超えて、祖国ブラジルの独立と自由を夢見、確信していた。死んでゆく彼のはどこまでも強く、勇気と慈愛の魂にあふれていたのである。

 ティラデンテスに報われたものは「死」であった。しかし彼は、「」の勝利、「魂」の勝利を勝ち取った。「」の強さこそ勝利である。革命精神を捨て、同志を裏切った者は、「死」は免れたかもしれないが、既に「敗者」であった。彼らは、「敗北」の汚を永遠に背負ってゆくことになった。

「勝利」も「敗北」も、「敵」も「味方」も、「幸福」も「不幸」も、すべて我が身の胸中、「一念」にある。外面に現れた姿は、一つの仮の姿にすぎない。真の実像は、「」の中に深く刻まれているものである。その味で、ティラデンテスこそ、真の勝利者であった。


 1792年421日、ティラデンテスは46歳で処刑された。ポルトガル政府は見せしめのために、彼の故郷で(原文は「に」)遺体をさらしものにした。そして、子孫3代にわたって制裁を加えることを決めたという。

 しかしブラジルの民衆は、一人の真の勇者を決して忘れはしなかった。彼の志は多くの人たちに受け継がれた。

 革命の火種は、やがて赤々と燃え広がり、ティラデンテスの死からちょうど30年後、ブラジルは独立を達成するのである。


東京・小金井圏青年会議 1990-01-28 小金井池田文化会館


 私の世代であれば「ティラデンテスの指導」を知らぬ者はいない。いたとすれば、そいつは田舎者(もちろん差別用語)だ。前を田吾作に変えるべきだと言っておこう。


 今、ネットで調べたんだが驚くほど情報が少ない。一般的には「チラデンテス」と表記されているようだ。ティラ=抜く、デンテス=歯で「歯抜き」。つまり、歯科技術を持っていたジョアキン・ジョゼ・ダ・シルバ・シャビエルの俗だ。ま、渾(あだな)といっていいのだろう。


 アメリカ合衆国の独立が1783年、フランス革命の発端となったバスティーユ牢獄の襲撃1789年のこと。つまり、ティラデンテスはナポレオンと同時代を生きたことになる。ポルトガルからの独立を夢見たティラデンテスは「貧しい」という理由でスケープゴートにされた。裕福で士でもあった他の9人も死刑になるはずだったが、結局、国外追放ということで落ち着いた。ティラデンテスはリオのランパドーザ広場で絞首刑となった。遺体は見せしめのため八つ裂きにされた。この広場は現在「ティラデンテス広場」とづけられている。

 調査は以上だ。本題に入ろう。疲れてきたので手短に書く。


 私は二十歳(はたち)の頃、会う人ごとにこんな質問をした。「『御本尊を踏まないと殺す』と言われたらどうする?」と。「エー、突然そんなこと言われてもなあ……」「と言ってる間に殺されるよ。さあ、どうする!」。少年部時代からの知り合いであるSがこう言ったのを今でもはっきりと覚えている。「その場で踏んで、家に帰ってから懺悔の唱題をする」。Sよ、お前ってやつは……何て正直者なんだ。この時、Sはまだ活動していなかった。


 我々は手がつけられないほど安易な姿勢で「不退転」を口にする。そのくせ実際は、勤行さぼりまくりの「退転の日々」を優雅に過ごしたりしている。退転と不退転の間には無限の距離が存在する。多分、エベレストの山頂よりも遠いよ。


 私がここで提示したい疑問はこういうことだ。「退転したっていいじゃないか」。相田みつをが既に言っていたかも知れない。私はなにも「ものわかりのよさ」を奨励しているわけではない。ただ、何とはなしに、もっと再チャレンジを認めてやってもよさそうなものだ、と考えているだけなのだ。ところが、人間社会(特に宗教団体)で「裏切り」は道徳にもとるものの最たる行為とされている。「裏切り者には死を!」ってじだよな。


 御書を開いても「退転することなかれ」のオンパレードである。ではなぜ、「退転しても構わないけど、また戻って来るんだよ」とは言われなかったのか? こういう自問自答をしないから、君の対話には説得力がないのだよ。淫祠邪教に洗脳された信者みたいのが学会には多過ぎる。まったく反吐(へど)が出そうだ。


 生命尊厳を説く法が、殉教を奨励する。この矛盾の中に鍵が隠されている。殉教者は遺された人々の魂に火を点ける。ティラデンテスも吉田松陰も同じ方程式だ。イエスソクラテスも同様だ。たとえ殺されたとしても、断固として曲げない信が人々の背骨に鋼鉄のごとき芯を打ち込むのだ。一人の死が万人の生に生かされる――これが殉教の本質であろう。


 と書いていて気づいた。不退転のゴールはエベレストの山頂である。つまり、そこで待ち受けているのは“確実な死”に他ならない。不退転=殉教である。今日は冴えているぞ。


「中々折伏が決まらなくて」とか、「うちの組織は人材が少ないんだよね」とか、「近頃はクソみたいな幹部しか見当たりませんなあ」とか、「新聞啓蒙さえすりゃあ、いいのかよ!」とか言っているようじゃ、エベレストの麓をうろうろしているようなレベルだろう。諸君を「1合目グループ」と命しよう。


 エ? 何? 私? そうだなあ、私のレベルはどうだろうね。青年部時代は「歌って踊れる創価班」を目指していたのは確かだ。本部担当の総括を降りる際、「安室奈美恵のような若い女と結婚する予定である。これからは私のことを“亀戸のサム”と呼ぶように」と皆に強要したことも間違いない。後輩を殴ったり蹴ったりしたのも事実である。ということで、私のレベルを公正に判断すると、4合目くらいでしょーな。


 誤解のないように断わっておくが、私の能力があと60%ほど未開発であるという味ではない。あと60%ほど、私の知らない妙法と師弟の世界があるだろうとの予測である。


 人生は短い。余命3ヶも、余命3年も、余命30年も大した差はない。生まれたばかりの赤ん坊だって、余命70年なんだよ。こんな短期間で誰もがになれるというのは真っ赤な嘘だ。なれるはずがない。そんなものは「創価都市伝説」だ。なぜなら、になれるのは不退転で一生を歩み続けた人だけなのだから。

2007-12-07

“死”は虚飾をはぎ取った「生命それ自体」の戦い


 いわゆる世間的に「偉くなりたい」と願う人は多い。しかし、人間として「偉大になろう」とを定める人は少ない。

 人の称賛と注目を浴びたいと願う人は多い。

 しかし、「死」の瞬間にも色褪せぬ「三世の幸(さち)」を、自分自身の生命に築こうとする人は少ない。

「死」――それは人生の総決算の時である。も富も地位も学識も、それのみでは何の役にも立たない。虚飾をはぎ取って裸になった「生命それ自体」の戦いである。厳粛にして、公正な勝負の時である。

 この戦いの勝者こそ、真の勝者なのである。


【11.18記合同幹部会 1989-11-12 創価文化会館


タタール人の砂漠』(ディーノ・ブッツァーティ著)を引用しての指導。私は未読。


 欲望には際限がなく、決して満たされることはない。幸福の鍵は「少欲知足」にある。また、理と野望は異なる。タッチの差だ。理とは自分の信に恥じない生きざまであり、野望は自分以外のすべてを手段にする狡猾(こうかつ)な生き方である。


 どんなに財産があったとしても、病はどうすることもできない。いくら有であっても、人間関係で悩む人は多いものだ。


 先日、NHKの「おはよう日本」から取材を受けた。私は界の裏事情を説明した。すると再び連絡があり、「上司と相談したところ、小野さんの話の方が面白そうだってことになったんですよ。お忙しいとはいますが、番組に出てもらえませんか?」と言われた。私は直ぐに断った。幹部をいじめ過ぎて、最近人相がよくないのだ(笑)。「実は、指手配犯なんだ」と煙(けむ)に巻いておいた(笑)。


 個人的に、賞状やメダルの類いを部屋に飾るのも好きじゃない。間に掲げてあるのは、先生の写真と「創価班」の揮毫、それから結婚式で頂戴した短冊だけである。


 私は、「無冠こそ青年の魂」という箴言(しんげん)をこよなく大切にしているのだ。人生最大の贅沢(ぜいたく)は、書物を堪能し、音楽に躍らせ、時々絵を見にゆくことである。これに過ぎるものはない。

2006-12-25

死刑賛成論者の詭弁


 死刑賛成論者は例外なく、自分を被害者の立場から論じる。自分や家族が加害者となる可能を完全に無視しているところに、死刑賛成論者の詭弁がある。

2006-09-30

死刑制度について


 奈良女児誘拐殺人事件の被告に対し、奈良地裁は求刑通り死刑を言い渡した。被告本人もそれを望んでいたという。


 死刑制度を論じる際にありがちなのは、理情が入り乱れることだ。「被害者の人権はどうなるのだ!」なんて見がその代表。ジダンの頭突きに共するのも、また同様。


 私が一番恐ろしいとじるのは、メディアの情報を鵜呑みにして、会ったことすらない人物を容疑者=犯罪者と決めつけて、安易に「死ねばいい」と判断する考回路だ。かような面々を私は密かに「死ね死ね団」と呼んでいる。情報化社会となった今、警察とマスコミがぐるになれば、どんな人物でも犯罪者に仕立てることが可能なのだ。オーウェルが描いた『1984年』の世界は既に現実となっている。


 死刑制度には、冤罪(えんざい)という影が常に付きまとう。裁判とは、限られた証拠の中で罪を論じるのであって、全てがわかっているわけではない。


 重いテーマだが、本音を書いておこう。まず、死刑は生産的でない。何も生まない。これが一つ。そして最も大事なことは、「理由があれば人を殺していい」という死刑制度の根底にあることだ。衝動に身を任せて幼い少女を殺した人間がいて、死をもって罪を償えという人々がいる。「殺す」理由は違っても、やってることは同じなんだよ。


 私の身内が他人を殺したら、間違いなく自分の手に掛けるだろう。殺された場合も同様だ。しかし実際問題として、拘留されてしまえばそれもかなわない。そもそも、死刑制度に賛成するのであれば、自分で殺しにいくべきだろう。そんな時だけ、国家を当てにし、裁判官を恃(たの)み、誰かがロープにぶら下げてくるのを待つのはおかしい。法律の壁なんぞ、あっさり越えてみせればいいのだ。


 犯罪者にも家族や友人がいる。メディアという凶器は、家族をも晒(さら)し者にする。凶悪な犯行であればあるほど報道は詳細を極め、これでもかと憎悪を煽り立てる。奈良女児誘拐殺人事件も同様だった。被告の父親は、連日の取材攻勢によって店舗を閉鎖せざるを得なくなり、引っ越しを余儀なくされ、挙げ句の果てに非の死を遂げた。だが、ニュースで報じられることはない。


 法の眼(まなこ)から見れば、相手のを絶つ行為が許されるはずがない。死刑制度は全国民が加担する殺人に他ならない。被害家族の情を法律で解決しようとすればするほど、問題は複雑になるだろう。


 私は断じて死刑制度に反対のを上げる。しかし、仇討ちを否定するものではない。

2006-09-23

死魔


 命あるものは必ず死ぬ。そんなことは誰もが知っていながら、人は死を恐れ、忌み嫌う。戦争や事故などで人間の原型すら保ってない遺体を見ると、考は停止する。像力も働かない。そこにあるのは単なるモノだ。動かなくなった死体を見て我々は、いつの日か自分もモノと化す恐怖を味わっているのではないだろうか。


「なぜ、死んだのか?」――時に人の死は、自分の人生にブレーキをかける。相手が若くして亡くなった場合、特にそれが顕著だ。学会員においては、そこから「信していたのに……」と引き継がれる羽目になる。これが怖い。「あんなに頑張っていたのに」となったら、完璧な不信だ。


 青年部時代、私の後任の本部長が亡くなった。まだ37歳だった。ずっと一緒に戦ってきた同志だった。亡くなったその日も、私は病院へ足を運んでいた。壮絶な姿で戦っていた彼の姿を私が忘れることはないだろう。


 後日、最高幹部で追善勤行会を行った。その頃、担当で入っていた東京男子部長も参加した。終了後、ある本部長が言った。「小野さん、どうしてあの人が死ななきゃならないんですか?」と。私の隣にいた東京男子部長が激励した。しかし彼は私を見つめて、「でも、俺は絶対に納得できませんよ」と言い放った。私は言った。「納得できなくて構わないよ。納得できないまま、一生引きずっていこうよ」と。


 私は鬼のように戦った。戦うことでしか悲しみを乗り越えることができなかった。それ以前にも数の男子部が亡くなっていた。亡き同志を胸に抱き、背中に背負って戦った。


 一年ほど経った頃、自分の甘さをい知らされた。先輩幹部を喪(うしな)った本部が壊滅状態となっていた。担当していた主任部長が言った。「本部長を始めとする多くのメンバーが、先輩の死に不信を抱いている」と。その愚かさに、私は怒り狂った。一列に並べて、ぶん殴ってやろうかとったよ。我が子を喪った母親のことをえば、我々の悲しみなんぞ、底が知れているのだ。


 人間というのは実におかしな動物で、何でも「わかりたがる」質がある。「納得できない」と極度な不安に襲われる。「なぜ、死んだのか?」と。江原啓之の番組を見ると、それがよく理解できる(笑)。疑問の裏側にあるのは、「なぜ、生まれたのか?」「そんなに若くして死ぬんだったら、生まれて来ない方がよかったんじゃないのか?」「そもそも、生まれてきた味があるのか?」といういだ。根っこにあるのはエゴイズムであり、遺(のこ)された我が身を苛(さいな)むセンチメンタリズムだ。


 これが死魔の本質だとう。死魔は、生きる気力を奪い、を過去に縛りつけ、悲しみで翻弄する。誰もが死魔に襲われる。そこから自分が一歩成長しない限り、克服することはできない。


 私は亡くなった同志にから謝している。彼等と出会ったことに対して。そして、共戦の確かなる歴史を築いたことに対して。彼等の存在なくして、現在(いま)の私はない。そして彼等は現在(いま)もこれからも、私の中で生き続けるのだ。

2006-04-18

青年よ、君は恥ずかしくないのか


 広宣流布に生き抜いた人の「生死」は、無上道の「生死」である。

 私は40年以上、世界中、数限りない人々の「死」の実相を見てきた。また、詳しく報告も受けてきた。

 その結論として、見事なる「生」は、見事なる「死」をもたらしているといえる。「死」に臨んで、ごまかしは一切きかない。厳しき総決算として現れてくる(席上、昨年亡くなった山川副会長、秋山元国際部長の素晴らしい遺言が紹介された)。

 皆さま方もご承知の通り、多くの先輩は、最後の最後まで立派に信根本に生き、模範の臨終の姿を示してくださっている。

 皆さま方も、「よき人生」を、そして、永遠の幸福へと連なる「素晴らしき生死」をと、私は願してやまない。


 かつて、「ドレフュス事件」の話をした。ユダヤ人であったフランスのドレフュス大尉が、軍部によってスパイ容疑を捏造され、流刑となる。当局は、反ユダヤ人情を利用し、ドレフュスを窮地に追い込んだ。

 その時、敢然と一人立ち上がったのが文豪エミール・ゾラ(1840-1902年)である。彼の作品『居酒屋』や『ナナ』は日本でもよく知られている。ゾラとドレフュス事件との関わりは今日は略させていただく。

 ある時、ゾラはこう呼びかけた。「青年よ、青年よ……」と。

 ――青年よ、青年よ、君は恥ずかしくはないか。正義の人が何の助けもなく、孤立無援で、卑劣な攻撃と戦っている時、それを黙って見ていて、青年よ、君は恥ずかしくないのか、と。

 血涙を流しながらの叫びとも私にはえる。

 ともあれ、「謙虚なる勇者」の正義を、身をもって助けようとしない「臆病な傲慢者(ごうまんしゃ)」であってはならない。それは、断じて法者の生き方ではないからである。


【第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 いよいよ指導の結論部分である。世界と時代の変化・混乱を見据えながら、“精神の大航海時代”を勝ち抜く急所を、我々は教わった。歴史は、ありとあらゆるものを淘汰(とうた)する。ただ平凡に、淡々と努力する程度のレベルで生き残ることはできない。では、いかなる姿勢、覚悟、一で臨まなければならないのか? 広宣流布という未聞の大を担う人物の魂は、どうあるべきなのか?


 信とは確信の異である。祈れば祈るほど、動けば動くほど確信は深まる。更に、同志の体験を聞き、人間革命の実証を見て、確信はより一層深まる。


 昔、ある乙女が、「信すれば、必ず幸せになれる。その証拠として、半眼半口の相で亡くなる」と学会員から聞かされた。女は、「本当かしら?」と疑問にい、確認することにした。それからというもの、学会員の葬儀があると聞くたびに火葬場へ走った。何度も足を運んだある日のこと。火葬場の職員からを掛けられた。「お宅は若いのに、しょっちゅう来ているね。本当に不議なんだが、お宅が来た時は“焼け具合”が全然違うんだ。“地獄火”という言葉があるけど、普段はね、そんなじで炎が猛り狂ったようになって、関節にたまったガスが抜けるたびに遺体が、生きてるように動くんだ。でもね、お嬢さんが来た時は、柔らかい炎が遺体を包み込むようになって、遺体も殆ど動かないんだよ。不議だ」と。若き乙女は、学会員の成死相と、この一言で入会を決した。この女が後年、北海道広布の功労者である緒方博愛(はくあい)さんの夫人となる。


 我々は幸運なことに正しい宗教と巡り会うことができた。後は、正しい実践をするかどうかである。


 ゾラの叫びが、怠惰な私の背中を鞭打つ。それは、師の言葉となって、更に激しく私の肺腑(はいふ)を貫く。


 ゾラは、一面識すらないドレフュス大尉を守るために、を台無しにし、人生を棒に振った。然るに、大ある師匠が迫害されている時に、我々は何をしたというのか? 


 言論問題、第一次・第二次宗門問題と大に遭い、戦ってこられたのは、先生ただお一人である。


 会長勇退の際、首脳幹部の一人は言った。「時の流れは逆らえません」と。それを今、批判するのは簡単だ。「知らなかった」と言うこともできる。その場に居合わせた幹部が、その発言を否定した形跡もない。かような幹部の後ろに連なっていたのが我々ではなかったか? 結果的に、指をくわえて何もしなかったのではないか?


 よくよく以下の指導を読んで頂きたい。

 学会は師匠を見放した。だが、それでも師匠は学会を見放さなかった。池田先生という稀有な師匠によって学会は救われた。これが、「会長勇退」の真実の歴史である。私は当時、高等部だったが、与同罪は免れないものと覚悟している。

2006-03-30

Oさんの通夜


 Oさんの通夜へ往く。婦人部、お二方を伴って。


 亡くなったその日に私は、共通の先輩だった神田學志さんに、Oさんの越し方を手紙で報告した。以前、Oさんのことを書いたブロック通信も同封しておいた。


 Oさんは、今から10年ほど前に、組織でとんでもないトラブルに遭遇した。それ以降、組織から距離を置くことになる。普通の人なら、とっくに退転したことだろう。M支部長(副区長兼任)が足繁く通い、Oさんは少しずつを開いていった。その後、B長となったMさん(副本部長兼任)の人とナリに、Oさんは強く惹かれていった。そして、私の登場である(笑)。


 Oさんは、私が江東区から引っ越してきたと知るなり、「じゃあ、神田さんのことは知ってるでしょう?」と訊いてきた。「知ってるも何も、私は20代の頃から親しく指導を受け、男子部時代から壮婦を連れて行って、指導を受けてきたんですよ。まあ、言ってみりゃ、私は神田門下生の一人です」と胸を張った。


 それから、少ししてOさん宅を訪れた際のこと。私が、「Oさん、神田さんに電話してみましょうよ!」と言うと、突然、顔を曇らせた。江戸っ子らしいシャキシャキした物言いで「大体さ、こっちは30年以上も、挨拶すらしてねえんだよ。どの面(つら)下げて、おめおめと、話せるかってえんだよ」と言い放った。


 私はにこやかに、「あっ、全然、関係ないッスから」と応じ、携帯でダイヤルした(笑)。「神田さんに板橋でお世話になったOさんという方をご存じですか?」「ああ、知ってるよ」「実は、私が引っ越した先の組織で一緒になりまして。今、Oさんのところにいるので、替わります」と、私は電話を手渡した。


「ああ、神田さんですか! Oでございます。本当にご無沙汰しておりました――」。闘病のことを報告すると、すかさず指導が入った。「ハイッ、ハイッ、ありがとうございます」の連発である。電話を切るなり、「母さん、あの神田さんが、『よく、頑張ったな』って褒めてくれたよ。あの神田さんが!」と、子供のようにはしゃいでいた。


 神田さんは、すかさず激励の手紙まで送って下さった。


 ここからOさんの、広布第一章、第二章を地区部長として戦った生命力が蘇った。私は一日おきぐらいに訪ね、夜が更(ふ)けるのも忘れて語り合った。


 草創期の大先輩である神田さんによって、Oさんは完全に救われた。2年と数ヶにわたって、私と語ってきたのは、組織から離れていた空白期間を埋める作だったのだ。実の父親とよりも、この方と話した時間の方が長いほどだった。


 こうしたことを、神田さんに報告した。そして今日、返事が届いた。そこに書かれていたのは、「今度生死の縛を切つて果を遂げしめ給え」(177頁)との御聖訓をわせる凄まじい指導だった。私は、荘厳なる生死の実相を教えられ、ただただ激に打ち震え、決を新たにした。


 23日にOさんが逝去し、25日には知人の家で女の子が誕生。令法久住は連綿と続く――。


 以下、ブロック通信に書いたものと併せて、一部をご紹介する――


 大聖人有縁の地である大田区池上に生まれる。曲がったことが大嫌いな江戸っ子気質は今も変わらない。戸田先生の遺言であった300万世帯を目指す折伏戦の渦中で入会。昭和37年のこと。

 学会とはそれ以前から縁があった。先生が蒲田支部で指揮を執った昭和28年に初めて折伏を受けた。それ以来、大の学会嫌いに。昭和33年にも東京駅で、3.16の儀式に向かう多くの学会員と遭遇している。

 入会から2ヶ後、初登山。偶然にも池田先生と一緒に御開扉を受けることができた。総本山からの帰路の車中で、組長に任命された。部員が一人もいない組からの出発だった。当時の支部長が神田學志さん(創価高校副理事長)。支部長の帰宅を待ち、夜毎(よごと)、12時過ぎに指導を受けた日々は今でも最大の誇り。求道の実践は、70世帯の弘教となって結実した。

 昭和40年、新宿区へ移転。繁華街のある百人町で地区部長に。新宿では、数々の先生との出会いが。

 宿命の嵐が吹き荒れたのは昭和43年から。酔っ払い運転の大型トラックに衝突され、脊髄(せきずい)骨折の大怪我。100日の入院生活を余儀なくされた。退院後、3ヶして再び、交通事故に。今度は、セメントを積載した大型トラックの脇見運転だった。この時、両足の大腿(だいたい)骨を骨折し、識不明の重体に。それからというもの、後遺症に悩まされる日々が続いた。

 昭和55年には肺気腫を患(わずら)い、平成14年には膵臓(すいぞう)癌になった。更に昨年1、リンパ腺で癌が発見された。ひたぶるな唱題に徹し、「断じて、癌では死なない。死ぬ時は他の病気」と断言した。

 来し方を振り返り、「入会するまでに、散々、学会批判をしたい知らされた」と笑う。放射線治療・抗癌剤の副作用が全く現れず、医師が首をかしげたほど。病室で副作用にしむ大勢の人々を見て、の底から功徳を実した。昨年の8以降、体調はすこぶる良好。元気がありあまって、奥さんが手を焼くほど。

「すぎし存命不議とおもはせ給へ」(1192頁)の御文をかみしめる毎日。

 八王子に来たのは昭和50年。不議にも、大田区、新宿区、八王子と、師弟有縁の地で戦ってきた誉(ほま)れに胸を張る。

 地域貢献にも尽力。自治会副会長の時、バスの運行時間は、7:00-21:00だった。何度もバス会社と交渉を重ねた末、ついに6:00-23:30までの延長を勝ち取り、団地住民の足を確保した。

 言われなき誤解にしみ抜いたこともあった。だが、絶対に逃げるような真似はしなかった。ここにこの人の真骨頂がある。

 6人の子宝に恵まれ、9人の孫に囲まれる。長女は、創価高校の勤務を経た後、市議会議員に。次男は創価大学を卒後、大手建設会社に就職。現在、茨県全域の責任者として、職場で創価の旗を振る。

 誰よりも厳しいを知る人は、誰よりも素晴らしい功徳を実する人でもあった。労を重ねたことによって、誰よりも人の痛みを知るリーダーとなった。今、胸の中を去来するのは、深き報謝のい。


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