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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2006-10-17

「善」とは何か、「悪」とは何か


 ある時、一人の青年が牧口先生に質問した。ちょうど60年前の話である。

 まだ信していなかった青年は、こう尋ねたという。

 高い次元における善悪を、どうすれば凡人が判断できるのでしょうか?

「善」とは何か。「悪」とは何か。善悪をどう判断していけばよいのか――まことに大きな課題である。今の時代も多くの人が迷っている。

 青年らしい鋭い問いかけを、牧口先生は真正面から受け止められる。先生の偉大な人格を彷彿(ほうふつ)とさせるエピソードである。

 牧口先生は、厳しい表情で答えられた。

「それは観ではわからない。実行だ! 今の社会、道徳論、倫理観などでは解明できない。大物の宗教家でさえ曖昧である。彼らは葬式屋だから判別の道さえわかっていないのだ」

 低次元の宗教屋には、何が善であり悪であるかさえわからない――と。自分が自分でわからない。混乱している。


 それでは、どうすればよいのか。牧口先生は、きっぱりと結論された。

「世界最高の宗教を命がけで修行する。その努力と勇気があれば、わかるようになる。若者は実行と決だ。やれば必ずできる」

命がけで実践すればわかる。しなければわからない。――これが先生の主張である。

 牧口先生ご自身が、広宣流布のために、文字通り“命がけ”で法を実践された。だから、善悪の判断が明快であった。皆を正しく指導できたのである。

 その後、大聖人法をいちばん守るべき宗門が堕落し、神札を受けるという謗法にまみれた時も、その極悪の姿を正しく見抜かれた。そして断固として戦われた。

 私も広布のために命をかけて戦っている。だから善も悪も、はっきりとわかる。

 善と悪、は常に一緒に現れる。気をつけないと、見分けがつかなくなる。ほど恐ろしいものはない。

 そのを見きわめるのが法である。と戦い、勝つための法である。見きわめる力、勝つ力は、命がけの信からしか生まれない。

 を見きわめなければ、本当の戦いはできない。

 真剣なる闘争を貫いた人――結局、その人が一番の幸福者である。栄光の人である。勝利者である。最高の善の世界を、晴れ晴れと生き抜ける人である。


 牧口先生は、青年をこう励まされた。

「勇猛精進したまえ。実行だよ。精進だよ。老人にはなったが、私も実践しています」

 時に、牧口先生は63歳。偉大なる“求道の言葉”である。私の胸に深く突き刺さっている。

 みすみずしい求道――そこに法の源流があり、信の原点がある。また、創価学会の大道がある。

「求道の人」は、いつも若々しい。喜びをもっている。すがすがしい。謙虚に自分を見つめ、謙虚に自分をつくりあげている。だから、偉大な自分ができあがる。

 いつまでも生き生きと、どこまでも求道の人生を進んでいく――その人が本物の法者であり、創価学会の同志である。


【第77回本部幹部会 1994-04-23 東京牧口記会館


 メールマガジンの読者から、「入会検討中です」というメールが寄せられた。緊張が走った(笑)。数日後に発信したのが、この指導である。


 青年の質問は、観の次元であったことだろう。それに対して牧口先生は、「世界最高の宗教を命がけで修行すれば、必ずわかる!」と答えた。これこそ、「無明を切る利剣」(725/760/991頁)の言葉だ。慈悲と破折が一体となった智の言論である。


 牧口先生は、青年の質問を真正面から受け止め、軽んじるところがない。一人の人間として、誠実かつ真剣に対話をされている。本当に偉大なことである。


 一部の婦人部幹部で、折伏している最中に「そんなこといいから、一緒にやりましょうよ!」を連発する人がいる。対話が成立してないことにすら気づいてないようだ(笑)。


【※指導は、宮本氏の投稿によるもの】