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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2010-01-08

組織伸長が抱える課題


 ユマニテの記事から索してみる。

 布教こそ宗教の生命線である。なぜなら信仰によって得られた歓喜は、一個人の内面にとどめておけるものではないからだ。また、周囲に悩める友がいれば、自然な振る舞いとして信仰を語ることはあってしかるべきだろう。


 ところが組織というものは大きくなるにつれて組織拡張に重が移る。組織の発展が優先された途端、一人ひとりの幸福や信仰の深化は二の次となる。布教は果たすべき目標として具体的なノルマが課せられる。この時、「相手を幸福にする」はずの布教が、「取り敢えず入会すればオッケー」的な勧誘と化すのだ。このため、若いうちから学会活動にいそしむようになると、どんどん友人を失うというジレンマに陥る。もちろん私もそうだ(笑)。キレイサッパリ友人はいなくなり、もはや跡形もない。


 年末に行われる地区討議では、必ず明年の目標が設定される。地区部長は最初っから何も考えちゃいない。ま、来ただけでもよしとしておこう。地区婦人部長はやる気満々に見えるが、それも空元気の部類だ。皆が皆、伏目がちとなり沈黙が漂う。指されることを恐れた若手が小で「あ、すいません、ちょっと電話しないといけないもんで……」と言って席を外す。巧い。実に巧妙だ(笑)。地区婦人部長は抜け目なくB長か白ゆり長を指する。「ブロックの目標はいくつですか?」と。そこには、ブロックの目標を合算して地区の目標にしておけば、各ブロックと地区とは運命共同体となる惑が働いている。地区部長は「ま、何とかなるでしょう」程度にしか考えていない。彼はただのお荷物に過ぎないのだ。広布の電信柱。道端に立っているだけでオッケー。たまに動くと必ず余計なことをしでかす。「それでは、来年の目標は3世帯ということで……」。毎年同じ光景が繰り返される。毎年、毎年……。歴劫修行のように。


※このドラマはフィクションです。登場する人物は架空のもので、よく似た地区部長がいたとしても本ブログは一切責任を負いかねます。


 ま、そんなわけで、目標を達成するために友人を利用するケースが増えてゆくのだ。聖教新聞の啓蒙がその最たるもので、読まれてもいない新聞がどのくらいあるか像してみるといい。これ自体が環境問題だと言ってもいいほどだ。同様に無理な布教を進めれば、「拝まれない御本尊」が雑乱することになるだろう。そこの男子部! そう、君のことだ。


 信仰は個人の次元で行うべきものである。であれば、信仰の目的は個人の内面を豊かにし、自由な方向へリードするものでなければならない。そして深められた確信は必ず歓喜となって外に表れ、人間の発光が人々のを打ち、共を獲得するのだ。


 組織というのは概である。実体はない。我々が組織という時、そこにあるのは自分を取り巻く人間関係なのだ。つまり、組織の問題は「関わり合いの問題」ということになる。もう少し踏み込んで表現すれば、「問題のある組織」というものは存在せず、「問題を放置している人々が関係をなしている」と考えることも可能だろう。


 結局、「組織の伸長」とは「自分の伸張」に他ならない。


 もう一点、私が最近じているのは、「価値論にかまけて真理の探究をしなくていいのか?」ということであるが、これについては日を改めて書くことにしよう。

2010-01-02

『社会と宗教』〜組織論


 ユマニテの「〈社会と宗教〉組織論・宗教組織の二面性」を読んでじたことを記す。勝手ながら、同ページから引用させていただいた。私は未読。


 ついこの間に出たような覚があるが、何と四半世紀も前であった。1985年の発行というと、ちょうど全国で文化祭運動が繰り広げられていた頃だ。青・男は太田・浅見の黄金時代。


 1990年から2001年にかけて世界の構造は劇的に変わった。まず、金融・経済のグローバル化によって政府が国内経済をコントロールできなくなった。これはどの国でも一緒だ。このため、どこかの国で不安要素が表面化すると、たちまち世界中に波及するようになってしまった。そして、欧米が支配しやすい仕組みになっている。


 日本ではバブル経済が弾け、それまで国家を支える最大のインフラとして機能していた「会社」が、リストラと称して社員の首を切りまくった。それ以降、終身雇用という概を失った国民は今日に至るまで不安を抱えながら生活している。


 こうした背景があって、組織という組織が金属疲労を見せ始めたのだ。これは覚えておくように。


 先生は組織の功罪を挙げた上で、組織を肯定する論調。これに対してウィルソンは同を示す。


池田●しかし、それ(※教が組織化をも包含していた)にもかかわらず、組織がその本来の精神のもとに運用されるということは、きわめてしいことでした。なぜなら、組織には権力と利益、誉が付随し、組織における高い地位は、本来は精神的に優れた人に与えられなければならないにもかかわらず、権力欲や利欲が強く、狡知(こうち)に長(た)けた人物がこれを奪い取る事態が、しだいに多くなったからです。本来の、崇高な精神を後世に伝えるための組織が、逆に、醜い欲望を醸成する場となり、修行者のから、崇高な精神を駆逐(くちく)する働きをするものとなっていったことも、認めなければなりません。

 現代において、宗教団体は、組織なくしては存続も発達もありえないわけですから、組織における幹部はもとより、会員の間にも、高度な精神と献身とが、過去のいかなる時代にもまして、ますます要請されるわけです。(「ユマニテ」より拝借)


【『社会と宗教』ブライアン・ウィルソン池田大作(講談社、1985年/聖教文庫、1996年)以下同】


 要は、「何を組織するか」に尽きる。宗門問題から既に20年が経過しようとしている今、学会精神は薄れるばかりだ。昨今は「信強盛」という言葉も死語となりつつある。かような時代にあって、先生が懸している組織悪が横行するのは避けいことだろう。


ウィルソン● このため、ある一点を越えると、商社に要求されるような現代組織の形態へと宗教が合理化されることは、決してありえなくなります。また、そうした合理化は、政治、裁判等の事項、あるいは教育方式や医療福祉方式にさえある程度は適用できるわけですが、宗教にとっては、その程度の合理化すら不可能になるのです。

 このように、宗教が組織化されうる適正な度合いというものには、絶えざる解消不能の緊張がつきまといます。もちろん、この緊張については、同一の宗教運動の中にあっても、グループが違えば、じ方にも差が生じます。自分たちが携わっている特殊な活動の質上、精神的体験の本質に最大の力点を置こうとする人たちがいる一方で、また、精神が強調されすぎれば組織にとって最善とわれることが実行できなくなる恐れがあると、折にふれてずる人たちもいることでしょう。このバランスは、多くの場合、微妙なものです。


「絶えざる解消不能の緊張」と来たもんだよ。絶妙な表現だね。よっ、ウィルソンの旦那! と援を送りたくなってくらあ(笑)。


 ウィルソンは精神に傾き過ぎて運動を損なう場合があることを指摘しているが、学会においてはこれが逆転している。


 以下は私の個人的な考えである(←いつもの逃げ口上)。学会組織の行き詰まりは、運動しかないところに起因している。長期間にわたって戦い続けてきた人々は疲労困憊(こんぱい)し、少子化によって世代交代も上手くいっていない現状がある。その上、活動が完全に会合型となってしまっているため、一人ひとりの悩みに手が入らない。しかもその会合が形式化しており、会員が自由に発言できる場がどこにもない有り様だ。このため人材とは「何も考えないで、ひたすら結果を出すこと」を味するようになっている。


 つまり、バランスを正常に保とうとする作用がどこにも働いていない。いや、そんなレベルじゃないな。バランスを考えることすら出来なくなっているようにう。


 宗教組織に求められるのは教育機能であろう。例えば草創期にあって、学会に入ったおかげで読み書きできるようになった人々は多かった。これ自体凄いことだ。では今、どうだろうね? 「学会に入ると頭がよくなる」「学会に入ると格がよくなる」などと世間で噂されているだろうか? まったく聞いた例(ためし)がないよ(笑)。それどころか、10年くらいやっていると、どんどん格が悪くなっているような気がする。


 運動=行学ではない。そこを真剣に考えることだ。

社会と宗教(上) 社会と宗教(中) 社会と宗教(下)

2009-10-20

組織と信仰


 信仰は人間を自由にする。組織は人間を束縛する。何のための組織か? 人間のための組織ではなく、組織のための組織になってないだろうか。組織の拡大は広宣流布とは似て非なるものだ。幸福の拡大を見失って組織拡大に傾いた時から、学会全体の信は弱くなった。組織の力学を優先すれば人間は手段と化す。民に犠牲を強いる教団は邪教である。組織である以上、歯車の存在であって構わない。ただし、自分の力で回転させることを忘れてはならない。

2008-09-11

宗教の功罪


 人類、生命といった普遍的価値――高等宗教も、まさにそこを志向している。

 ゆえに、そうした「宗教」は「国家」の権力も、他のいかなる権威をも超越する。それらに屈しない人間をつくっていく。

 東欧の変革の底流にも、ポーランドを始め、「宗教」の土壌を背景にした“人間”の決起が、「イデオロギー」で鎧(よろい)した“権力”を打倒した――この革命劇は一面、このように見ることもできるかもしれない。

 歴史を見ても、「宗教」の力は、まことに巨大である。あらゆる「権力」「権威」が、宗教の力を恐れ、封じ込めようとしたり、利用しようとした事実も、十分に理由のあることなのである。


 問題は、その「宗教」もやがて権威をカサに、しばしば人間を抑圧する存在となることである。人間を解放するはずだった宗教が、制度化するにしたがって、反対に人間を抑えつけ、縛りつける悪の顔を示し始める。

 僧侶の立場を利用して、子を迫害した悪侶らも、その典型であった。

 ここに、制度化された「宗教」の悪に打ち勝つ、生きた「信」「信仰」の力が絶対に必要になってくる。

 人間を外から縛ろうとする「宗教」の悪の面に対して、人間の内面から、限りなく挑戦し、打ち破っていく。この真実の「信」を民衆に教え、根づかせているのが、日蓮正宗創価学会なのである。


 要するに、「宗教」は「権力の悪」にも打ち勝つ力を持つ。その「宗教の悪」に打ち勝つ力、人間解放の究極の力が「信」なのである。

 私たちは、この「信」の力を奮い起こして、幾たびとなく「策謀」や悪知識の「権威」に勝ってきた。


 人間は、いかなる権力、権威の奴隷になってもならない。それでは民衆は利用され、永遠に流転の悲劇となる。この悲劇を転換するために、日蓮大聖人は戦われた。国家権力と既成宗教の権威との連合に対して、ただお一人、常に命に及ぶ迫害の中、真実の自由への闘争を続けられたのである。

 どんな権力、権威にも侵されない一個の人間の力、その絶対の証明を大聖人はしてくださった。「人間の旗」「勝利の旗」を打ち立ててくださった。

 この大聖人の御精神、代々の御法主のおを破壊しようとしたのが、かの悪侶らであった。これからも、日蓮正宗創価学会の中に同様の動きが現れてくることがあるかもしれない。それらに負けては、広宣流布はない。人類の真の「幸福」と「安穏」と「満足」への道も消え去ってしまう。

 ゆえに、妙法への正しき「信」を教え、信仰という「魂」を脈々と伝え、永遠に広げていかねばならない。そこに「創価学会」を創立された牧口先生、そして戸田先生の誓いもあった。私は真っ直ぐにその軌道を歩んでいる。


「信」による一個の人間の確立。何ものにも屈せず、「魂の自由」を貫く人間群の育成。私の現在の行動の焦点もここにある。

 それは、状況の変化次第で右に左に揺れる日本人の“自我なき精神風土”を根底から変革する戦いでもある。今のままでは日本人は不幸である。確たる基準がないゆえに、何を見ても正しく判断することもできない。情や利害、先入観等の奴隷となって、自分を見失い、歴史の動向をも見失ってしまう。

 また、人間として信用されず、国際社会にあっても孤児のようになっていこう。


【東京・小金井圏青年会議 1990-01-28 小金井池田文化会館


 21世紀の基調とすべき指導である。宗教は人間を自由にする跳躍台でもあり、束縛する大リーグボール養成ギブスでもある。


 宗門問題の前夜ともいうべきタイミングでの絶妙なる指導。我々が気づいたのは、ずっと後になってからのこと。知らないうちに予防接種をされていたようなじだな。いつだって、そうだ。後になってから先生の指導の味を知り、自分の人生の義を勝手に深めている。先生は、偉大なナレーターなのか? 「この時まだ彼等は気づいていなかった。人類史の新たな扉を開いていることを――」。


 坊主の権威には勝ったものの、まだまだ奴隷が多い。いわば「創価のクンタ・キンテ」。役職の奴隷、活動の奴隷、打ち出しの奴隷、成果の奴隷、書類の奴隷などなど。尚、奴隷の定義については「やりたくないことをやらされている状態」としておく。自分の頭でものを考える機会がなかった2世、3世のメンバー。そう、君のことだ。教学的な裏づけが乏(とぼ)しく、まだまだキャリア不足の若い婦人部。そう、あなたのことだ。


 ここで問題にしている「自由」とは、勝手気ままという味ではない。「自分の力を最大限に解き放つ」という次元である。100メートルを走ることに関しては、ジャマイカのウサイン・ボルト選手が一番自由である(北京五輪で9秒72の世界新)。イチローや北島康介も自由だ。トインビー博士は、最も自由に歴史を読み解いたといえる。


 このように考えると、宗教とは「信じる自由」を追求する世界であることが理解できる。その割には、学会員ってえのあ頑(かたく)なだよな(笑)。どうも不自由とみえる。


 日蓮大聖人は封建的な束縛された時代の中で、最大に自由であった。牢獄に縛られた戸田先生も自由な境涯だった。どうして我々は、自由な環境にいるにもかかわらず、これほど束縛されているのか? ひょっとしてSM趣味があるのかも知れない。もっと鍛えて、鞭打って、ローソクたらして……。


 がんじがらめのロープは、社会の至るところに張り巡らされている。これほどの情報化社会になると、「自分の考え」など存在しない。昨夜、君が友人に語った政治的な見は、先週の「サンデープロジェクト」で田原総一郎が話していた内容だ。


 宗教革命が単なる階級闘争となれば、新たな階級が跋扈(ばっこ)する結果となるのは必然であろう。そこに現れるのは、「新たな束縛」に過ぎない。紙上座談会が「赤旗的」な異臭を放っているのは、組織防衛という目的のために、会員の自由を蔑(ないがし)ろにしているからだ。


「確かに自由が大切であることは認めるが、方向を誤ると大変なことになる」という本部長クラスのが聞こえてきそうだ。だが、配には及ばない。自由には自覚が伴うからだ。自由であるからこそ失敗に気づく。「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの――みつを」。だから、つまずくのは早い方がいいんだよ。元暴走族少年なら勘弁しようもあるが、現役中年暴走族はダメだろ? 「ちょいワルおやじ」はファッションのことだが、極悪おやじでは堪(たま)ったもんじゃない。


 当然、自由にだってルールがある。それは、人を傷つけないことだ。そして真の自由を獲得した者のみが、多くの人々を幸せへと導いてゆける。

2008-08-10

孫文「害を除くのは急がねばならぬ」


 中国革命の父・孫文(そんぶん)は、国を衰亡させる愚行を呵責(かしゃく)し、「害を除くのはとくに急がなければならぬ(伊藤秀一訳「理建設」、『孫文選集 第2巻』所収、社会社)と訴えた。

 戸田先生も、まったく同じいであった。

 悪は早く見抜け! 悪は早く追い出せ!──と。

 絶対に「後回し」にしてはならない。

 広宣流布を妨げる動きは、断じて排するのだ。隙を見せてはならない。

 悪が威張り、増長すればするほど、学会が行き詰まってしまうからだ。

 ウズベキスタンの大詩人ナワイーは巧みに綴っている。

「毎日毎日、私利私欲の網ばかり編んでいる人は、最後には、自分が、その網にかかってしまうだろう」と。

 また、インドの非暴力の闘士ガンジーは「堅固さと勇敢さは、敵対者にも深い印象を与えないではいないものです」(田中敏雄訳注『南アフリカでのサッティヤーグラハの歴史 2 非暴力不服従運動の展開』平凡社)と述べている。

 諸君は生き生きと、民衆の中で光る大指導者になっていただきたい。強い信をもって、堂々たる姿で、悠然と生き抜くのだ。


【青年部代表研修会 2008-08-01 学会本部】


 厳しき指導を拝すたびに、私は焦燥の虜(とりこ)となる。果たして悪を見抜ける幹部がどれだけいることか。善でも悪でもない中途半端なサラリーマンみたいな連中が殆どだ。破折精神など組織のどこを探しても見つからない。注や指摘すらなくなってしまった。結局のところ、幹部に対する求力の低迷が組織の弱体化につながっている。


 恐ろしいのは、こうした指導が単なる“精神論”として受け止められ、「現実は違うんだよなあ」とあきらめてしまう姿勢だ。既に小悪人は掃いて捨てるほど存在する。一旦任命してしまうと、一定期間は変えるわけにいかないという幹部の都合がまかり通っている。降格人事・役職解任となると、任命者の責任問題ともなりかねない。


 適当な正義を叫んでいる奴等は山ほどいるが、しむ会員のを傾ける者は少ない。悪を見抜いたところで、ケリをつけることができる人はもっと少ない。悪い幹部を糾弾したのはいいけれど、とばっちりを受けて尻尾を巻いてしまう者が大半だろう。


 組織の抱える問題が象徴しているのは、「序列によって炙(あぶ)り出された人のの恐ろしさ」である。大体のケースが、無責任な幹部の不作為によって放置されている。悪と戦っていない幹部の言葉は、吹けば飛ぶように軽い。あまりの軽さで空の彼方に消えてしまう。


 純粋なまでの正義は、絶対に悪を許さない。なぜなら、悪を容認すれば、自分自身が悪に染まってしまうことを知悉(ちしつ)しているからだ。

2008-04-20

聖教新聞九州版「地区革命」


九州で地区部長をされているUさんからの


 小野さんが、九州版まで読んでいたとは(笑)。


 地区強化のホシも長編詩にあることを痛しますとあるが、もうそれは皆さんが読まれ実行しているから色んな課題が出ているわけで、そんなのは百も承知で、現場はその世界と違う所で悩んでいる情況をよくよく協議していただきたいものです。


 特に婦人部の「打ち出し主義」はすさまじく、自分で考える余裕すら与えないハードな活動となっている。また、九州長が交代してから、打ち出しのタイミングが悪すぎる。熊本は総県長も交代しているのでなおさら悪くなっている。


 協議会に関しても行事予定・打ち出しを連絡するので手一杯。協議する事もないので人はどんどん来なくなる。時間があれば雑談になるのが関の山。


 地区が母港というのであれば四者一体の戦いであるはずが、戦いの打ち出しは婦人部長会で話され、協議会では婦人部長が仕切らざるを得ない。地区部長はその流れを聞いていると言うのが大半ではないか。青年部が来ても何もすることがないし、発言しようと言う気配がない(これも問題だが)。上の幹部に、四者という壁がある限り末端がしむだけだ。


 新聞での九州長に関しては……。「三つのS……。この軸がぶれない限り……。私の軸は『師弟』です」。どうも上から目線にしか聞こえないのです。九州の男子部時代……。来るかどうかは相手の自由。私は絶対連れ出すと決めます。「100%案内運動」。連絡は私たちの責任・使命。部員の半数以上。

そんなの関係ねえ! と言いたいですよ(笑)。壮年部一発結集8割のわが地区ですが、「結集に信はいらない!」と上の幹部には言いまくっています(笑)。問題はその先と、来なかった人。


 地区を称えているところで、なぜ「(笑い)」が入るのか? 理解にしむ。「一生懸命の企画を笑うのか?」と言いたい。


 地区部長・地区婦人部長の皆さんが、あの長編詩でどれだけ激励されたか。そのがわからない幹部はいらない。尚、九州長が持ち歩いている、A4小冊子の長編詩は地区幹部の方が作ったものだ。


 乱筆乱文にて申しわけありません。

2008-04-19

聖教新聞九州版「地区革命」10


 最終回は田村九州長へのインタビュー。特に取り上げるべきところもなく、読むだけ時間のムダだ。


 九州版で連載された「地区革命」の企画それ自体は好ましいものだった。だが、結局のところ幹部の官僚主義を再確認する結果となった。最大の功績はアンケートを通して「会員の生の」を掲載したことである。い切って、アンケート内容をそのまま掲載した方が、幹部にとってはインパクトの強いものとなったことだろう。


 私が最も配しているのは、この程度の記事で「決する地区部長」がいるかも知れないことだ。かような人物は、詐欺やマルチ商法の類いに気をつけた方がいい。「乗せられやすい格」であることが明らかだ。九州学会員がまともな覚を持っていれば、必ずや聖教新聞社に情を入れたことだろう。


 最後に、私から地区部長に対していくつか具体的なアドバイスをしておこう。


 1.まず、地区部長であれば真面目に動くことだ。動きもしないで、踏ん反り返っているタイプがいまだに多い。連載記事からも明らかだが、地区部長に求められているのは「機能すること」である。「地区革命をするなら、まず地区部長を代えて欲しい」という婦人部のが聞こえてきそうだ(笑)。


 2.動いている地区部長であれば、地区の問題が明確になっていることだろう。その点について、地区婦人部長と一緒に指導を受けに行くべきである。


 3.座談会以外の会合や家庭指導の際も、幹部に入ってもらう。


 4.地区婦人部長と、どんなことでも言い合える関係を築く。


 5.に一度ぐらいはB長と飲みに行く。


 これだけできれば十分だ。できない人は、今直ぐ地区部長を降りた方がいい。辞めることで、皆に希望を与えることが可能だ。