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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2006-04-06

「冒険」とは「自己実現」であり「自己表現」


 歴史上のかつての“航海”は、むしろ多くの悲惨と争いをもたらした。悲しい、残酷な歴史であったといってよい。

 だが、私どもの旅は、反対に「平和」と「文化」を運びゆく大航海である。しかも、今や世界的視野に立って行動すべき段階に入った。

 そこで必要となるのは、若々しき「冒険」の魂である。「冒険」とは「自己実現」であり、「自己表現」である。

 自らの力がフルに発揮されるのも、もはや引き返す術(すべ)なき「冒険」での鍛えによる。そこには、「独創」がわき、「人格」が確立される。「動」が広がる。「団結」も生まれる――。

 これに対し現代日本は、“アンチ冒険”の官僚的発、体質が染みわたっているといわれる。しかし、それでは人生の深き価値が生まれない。

 また、「科学」も、この冒険のから生まれた。否、新しい世界はどこでも、若々しき未知への挑戦から突破口が開かれてきた。

 その味で、「平和の新世界」「広宣流布の新大陸」へと、青年諸君にこそ、私は勇気ある「新航海」の先駆をお願いしたいのである。

 日蓮聖人は「椎地四郎殿御書」にこう仰せである。

「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」(1448頁)

 ――迷(めいく)に満ちた人生の大海を渡るには、“妙法”の船でなければ不可能である――と。

 私達こそ、“妙法”の船に乗り、進む勇者である。その確信も深く、広布の航海者としての誉れある人生を、堂々と生き切ってゆきたい。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 冒険とは、「危険を冒(おか)す」ことの謂い。つまり、今までやったことがない、計算できない、リスクが高い、失敗する可能がある、等々の要素がある。


 日本人は農耕民族で、団体戦によって生き抜いてきた歴史がある。このため、皆と同じ平均が好まれ、「出る杭(くい)は打たれる」結果となる。右にならえで、「寄らば大樹の陰」、「長い物には巻かれろ」と強者に媚びる。ま、ジャイアンにくっついているスネ夫みたいなもんだな(笑)。


 村社会では余計な真似をすると嫌われる。優先されるのは正義ではなく、“村のしきたり”だ。閉ざされたコミュニティで、掟(おきて)に従わなければ村八分となる。火事と葬式の場合は村で面倒をみるので“八分”となっている。完全に除外しないところから、理ではなく情による判断であることが明白だ。


 こんな話がある。昔、ある山国に、並外れた跳躍力を持つ男がいた。高い塀でもひとっ跳び。現代に生まれていれば、オリンピック選手になったことだろう。村中の評判となり、大にも届く。やがては、将軍の知るところとなった。将軍は男を呼び寄せて、「やらせてみよ」と命ずる。用された柵の反対側には、たくさんの竹槍(たけやり)が埋め込まれていた。権力者にとって利用価値がなければ、高跳びでさえも危険視された。【『冒険と日本人』本多勝一(日文庫)による】


 村社会では新しいことをしようとすると、必ず反対される。若き先生が、軍楽隊(現在の音楽隊)や体育大会(後の文化祭)を提案した時、最高幹部である理事室は強く反対した。民音をつくる時も、ソ連を訪問する時も、反対した幹部がいた。いつの時代も、頭の古い抵抗勢力が存在した。


 学会組織も、中者次第で“村”みたいになってるところがあるね(笑)。後輩に見を求めない組織や、反対見を嫌う組織は、完璧な村ですぜ(ニヤリ)。


 そんな組織悪に負けてはならない。生命力を満々とたぎらせて、冒険に挑もう。青年ならば、岡本太郎の言葉を、よくよく噛みしめて欲しい。「可もなく不可もないのは不可」とされた牧口先生の精神を見失うな。

2005-03-04

創造力こそ幸福の源泉


 そして、「子供達が、の奥底(おうてい)で最も欲しているのは何だとうか」とのSGI会長の問いに、「それは『幸福』である。子供は常に、あふれるばかりの愛情に包まれ、『安』の中にいることを欲している。もちろん、幸福の内容は年とともに変わっていく。“自転車”が幸福の原因となる年齢もあれば、“ボーイ(ガール)フレンド”が幸せの象徴となる年代もある。だが、生涯、変わることのない『幸せ』の源泉とは何か。それが『創造力』なのである」と強調。

「現代は、確かに数限りない『モノ』や『情報』があふれている。だが、そのためにかえって、子供達は、自分で考え、工夫し、作り出していく力を失いつつある。モノも情報も“与えられる”ことに慣れ、自ら『創造』し、『発見』することができなくなった。そこには、本当の喜びも幸せもない。

 大人になっても状況は同じである。いかなる分野であれ、価値ある仕事は、みずみずしい『創造』から生まれる。『創造』の泉が枯れてしまえば、そこには、何の進歩もないし、喜びもない。絶えず、自身を向上させ、新たな発を現実のものとしていく豊かな『創造力』こそ、生涯にわたる『幸せのカギ』にほかならない」と語った。


【ブライアン・ワイルドスミス氏 1988-11-08 東京聖教新聞社】


 ワイルドスミス氏は世界的な童話画家。キーピングやバーニンガムと並んで英国絵本の黄金期を築いた一人である。代表作の一つである『マザーグース』は1964年に出版されて以来、世界中の親子に愛され続けている。池田先生の童話の絵も8作品を手がけている。日本でも人気が高く、静岡県伊東市の伊豆高原には、「ワイルドスミス美術館」がある。


 対談が行われた当時、私が担当していた高等部のメンバーと学び合ったことも懐かしい。


 ワイルドスミス氏の言葉は、相対的幸福と絶対的幸福を示唆している。絵画を通して、世界中の子供と向き合っている氏ならではの言葉が光彩を放つ。


 子供は本来、あらゆるものをおもちゃにし得る存在だった。だが、欲しがってもいない玩具を与えられれば、子供の能力を閉ざす結果になりかねない。


 悲しいことに、東京では本当に外で遊ぶ子供の姿を見なくなった。を掛けようものなら、逃げ出されてしまう現実もある。


 昔の子供は、木登りをして、身体が鍛えられ、年長者が幼い子に手を貸し、普段はお目にかかれない眺望を手に入れた。かくれんぼや缶ケリで、ルールを守ることを学び、「夕焼け小焼け」を歌いながら家路についた。いわば、学校と家庭とは別の子供だけのコミュニティがあった。


 核家族化と少子化が子供社会を失わせた。進学・就職のために故郷を離れ、マイホームを建てた途端、単身赴任を命ぜられ、家族すらバラバラにされている社会の現状だ。学校から戻ってきた子供を迎えるお母さんの姿も、どんどん少なくなってきている。いつ、イジメられるかわからない学校生活はストレスまみれだろう。その子供を家で待っているのは、一方的にしゃべり続けるテレビか、物言わぬおもちゃである。そして、一つく暇もなく、管理されたスケジュールによって、疲れた足を引きずりながら塾に向かう。その姿は、残が日常化した企戦士さながら。


 更に今の子供社会は、携帯電話やゲームソフトによって、“持たざる者が不幸”というの貧しさを露呈している。


 知育玩具の開発に携わる福崎毅氏はこう語る。「人は物を作って発達してきたのに、今は消費するだけで創造がない。それが、子供をおかしくしている。理屈を教えるより、創造する喜びを教えないと」。


 ワイルドスミス氏は「創造力こそ幸福の源泉」と力強く語っている。創造とは、新しい価値を生み出すことである。祈りをもって、人生の目標に挑む学会員の人生は創造そのものだ。偉大なる人間革命は、創造の極致といっていいだろう。春三、新しい生命力を発揮しながら、会う人ごとに新たな価値を与えゆく対話を展開して参りたい。

2004-03-29

創造的生命


 私の胸にあふれてやまぬ“創造”という言葉の実とは、自己の全存在をかけて、悔いなき仕事を続けた時の自己拡大の生命の勝ちどきであり、汗と涙の結晶作以外のなにものでもありません。“創造的生命”とは、そうした人生行動のたゆみなき錬磨のなかに浮かび上がる、生命のダイナミズムであろうかとうのであります。

 そこには嵐もあろう。雨も強かろう。一時的な敗北の姿もあるかもしれない。しかし“創造的生命”は、それで敗退し去ることは決してない。やがて己の胸中にかかるであろう、爽やかな虹を知っているからであります。甘えや安逸には創造はあり得ない。愚痴や逃避は惰弱な一の反映であり、生命本然の創造の方向を腐食させてしまうだけであります。創造の戦いを断した生命の落ち行く先は、万物の“生”を破壊し尽くす奈落の底にほかなりません。

 諸君は、断じて新たなる“生”を建設する行為を、一瞬だにも止めてはならない。創造は、きしむような重い生命の扉を開く、もっとも峻烈な戦いそのものであり、もっとも至な作であるかもしれない。極言すれば、宇宙の神秘な扉を開くよりも、汝自身の生命の門戸を開くことの方が、より困な作、活動であります。

 しかし、そこに人間としての証(あかし)がある。いな、生あるものとしての真実の生きがいがあり、生き方がある。“生”を創造する歓喜を知らぬ人生ほど、寂しくはかないものはない。生物学的に直立し、理と知を発現しえたことのみが、人間であることの証明にはならない。創造的生命こそ、人間の人間たるゆえんであるといますけれども、諸君、いかがでしょうか。

 新たなる“生”を創り出す激闘の中にこそ、はじめて理を導く輝ける英知も、宇宙真理まで貫き通す直観智の光も、襲いくる邪悪に挑戦する強靭な正義と志力も、悩める者の痛みを引き受ける、限りない情も、そして宇宙本源の生命から湧き出す慈愛のエネルギーと融和して、人々の生命を歓喜のリズムに染めなしつつ脈打ってやまないものがあるからであります。

 逆境への挑戦を通して開かれた、ありとあらゆる生命の宝を磨き抜くにつれて、人間は初めて真の人間至高の道を歩みゆくことができる、と私は確信するのであります。ゆえに、現代から未来にかけて“創造的生命”の持ち主こそが、歴史の流れの先端に立つことは疑いないと私はう。この“創造的生命”の開花を、私はヒューマン・レボリューション、すなわち「人間革命」と呼びたい。これこそ諸君の今日の、そして、生涯かけての課題なのであります。


創価大学第4回入学式 1974-04-18 創価大学体育館】


 先生は、37日から413日までの約40日間にわたって北米・中南米を訪問。この日は帰国してから5日目で、時差などによる身体の変調を抱えての講演となった。冒頭では「そのため話に飛躍があるかもしれません。また、聞きづらい点があるかもしれませんが、ご了承ください」とわざわざ断られている。


 疲労をも超越しゆくあふれんばかりの生命力は、創大生への信頼と期待に支えられているような気がしてならない。ほとばしる言葉の勢いは、先生の枯れることなき生命の泉から生まれる。


 ともすると、「創造」という言葉は、縁覚界を中とした芸術の世界にしかないような錯覚を覚えがちである。その芸術の世界にあってすら、生涯にわたって「創造」の軌跡を描くことはしい。現代にあっては、いくばくかの財産を手にした途端、落ちぶれてゆく芸術家も数多い。


 先生は結論として、絶えざる生命の変革作こそが「創造」であると教えられている。「一年の決」でも紹介した牧口先生の座右の銘「日に新た、日に日に新た、また日に新たなり」(『大学』)が蘇る。我が生命を鍛え、眠れる力を発揮する中に「創造」がある。人生という与えられた時間の中で、齢(よわい)を重ねるごとに「私」という新たな作品をつくりゆくことが究極の「創造」である。ノミを振るう手を止めてしまえば、それは過去の作品になってしまう。


 新しい自分が、新しい勝利を手中にする。時折りしも「創価1000万」の大闘争である。いまだかつて成し遂げたことのない目標に向かって進むのみ。人生、最高、最大の「創造」に挑みたい。


 今日、ある幹部と話す。こらえ切れない悩みを、こらえ切らなければならぬ段階に入る。今はしい。いつの日か楽しく振り返る時が訪れることを信ずる。