Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2006-03-03

絶望の淵で掴(つか)んだもの


【女子部】まりん


 2005年夏の私の闘いの記録を書かせて頂きます。


 まずは、私の生い立ちから語らねばなりません。


 私は、どうしても母が好きになれないまま大人になりました。父のことは大好きです。大変温厚で私の事を包んでくれる人です。母の方は……私のことを、母なりに愛してはいるのでしょうが、ほとんど愛情としてじることができないまま大きくなってしまいました。


 元々、ウチの教育方針は、父と母は正反対でした。母は、私の欠点ばかりを取り上げ、注指導して自覚させるやり方。

「アンタはこれだからダメなのよ! ここを治しなさい!!」

父は、いいところばかりを集中的に褒め、そこを伸ばす教育を私に施しました。

「お前には、お前にしかないいいところが一杯あるんだよ。お父さんはお前のそんなところが大好きだ」

 その正反対な教育を、私は同時に受けて育ちました。つまり、母にいっきり叱られたあとに、直ぐ父がフォローを入れる。そんな毎日を過ごす私は、正直どっちに従うのが正しいのか混乱して大きくなりました。


 両親なりに愛情を注いでくれるのは、子供なりにわかります。ただ、正反対なものを同時にされても……ただただ困ります。それも、両親とも共通項がひとつありました。「過干渉」です。

「親のいう事にちゃんと従っていれば、お前は立派な大人になれるから、安しなさい!」


 こんな風に、勝手に未来のレールを敷かれ、私のいや見よりも、親から見た理的な子供の生き方を勝手に最優先されてしまいました。それを嫌だ嫌だとでは反発しながらも、それをどう親に伝えるべきか、その手段も学べないまま、が次第に歪んでいくのを薄々自覚しながら、密かに気持ちを押し殺して成長しました。


 大らかで寛大な父には、それでも安を持って「お父さん」と甘えることができました。しかし、母には……母だけには……。


 私には、決定的に母に裏切られたい出を忘れることができません。もう、25年も前のことです。小学生だった私に、幼いながらも耐えいことが押し寄せました。「イジメ」です。


 最初は単なる数人の男の子からの冷やかしで始まりました。最初は私も、「嫌だなぁ……」といながら笑って済ませられる範囲でした。それが……日を追うごとにエスカレートしていきました。気がつくと、クラス中の男子からイジメを受ける毎日になっていました。そうなると、もう止まりません。男子だけではなく、女子たちからの無視もはじまります。変に我慢強かった私は、必死で耐えました。更にイジメは飛び火をはじめ、学年全体にまで広がっていきました。廊下を歩けば、他のクラスの知らない男子から罵を浴びせられました。、教室につけば、既に待ち構えていた男子たちから悪口の洗礼を毎日受けました。


 それでも、親には言えなかった。やっぱり、子供として、自分の親には配を掛けたくはありませんから。けれども、我慢にも限度はあるのです。ある日、給食の時間。順番に並んでいると、直ぐ前にいる男子から「お前は、うぜーから並んでんじゃねぇ! 近寄るな、どっか消えろ!」と言われて、自分の中の我慢が切れました。大で泣き出してしまったのです。さすがに担任の先生がイジメの実態に気づき、私を守ろうとしてくださいました。


 しかし……先生のやり方にも、大変傷つきました。先生は、あろうことか「緊急学級会」を開きました。しかも、デカデカと黒板に書くじゃないですか!!「まりんちゃんのイジメについて」と。そして、イジメの首謀者である男子数人を立たせて問い詰めました。「どうして、まりんちゃんをイジメるの!!」


 ……先生、それは大変逆効果です……。私を守って下さる気持ちはありがたいですし、先生を悪くはいません。しかし、その後の状況はひどくなるばかりであることは言わずもがなです。


 もう、どうしようもなかった。守ってもらえるはずの先生にも頼れず、学校での居場所を奪われた小学生の私が最後に頼るところは、やはり親しかありません。


 ある日、恐る恐る母に切り出しました。

「お母さん……私、学校でイジメられてる……」

 母なら、当然護ってくれるものと信じていました。母は私をチラッと見ると、きつい眼差しでこう言い放ちました。

「イジメられるお前が悪い。お前が弱いし何も言えないから相手はイジメるんや。悔しいなら、相手に言い返しなさい!!」


 必死のいで、“助けて欲しい”と娘が差し伸べた手を、母は平気で振り払った。の底から愕然とした。言葉になりませんでした。親しか頼る事の出来ない子供時代に、親子としての決定的なダメージを受けてしまった。


 それ以来、私は正直母を母として認められなくなってしまったのです。実の母親が、実の娘に平気で出来る事なのか。底信じられませんでした。これでは、まるで継母(ままはは)です。


 結局、母は一切取り合ってくれず、配して家に連絡を下さった先生にも「大丈夫です。あの子、それでもちゃんと学校に行ってますから」と言い放った。


 家にも居場所がなければ、結局、辛くとも学校に行かざるを得ない。そんな、まだ幼い私の情をも、母は一切汲んでくれませんでした。そのまま、私は小学校を皆勤で通いました。


 父には、イジメのことが話せませんでした。父が帰宅する前に、母にイジメのことを話してしまってこんな仕打ちを受け、とてもではありませんが父に訴えることが出来ませんでした。


 もし……もしも、父が母と同じ事を私に言ったとしたら……。私は、本当に生きていく場所を失うからです。とても怖くて父に聞けませんでした。私の母に対する決定的な不信はこの幼いときから離れなくなりました。


 それでも、どんなに反発しようが血のつながりだけは解消できません。いくら母親を取り替えたくても、そうはいかないのです。母の温もりを否定しながらも、私はのどこかで母を信じたい気持ちは常に持ち合わせていました。


「母は嫌い。信用できない。けれど、やっぱり母に愛されたい、母を認めたい、認めてほしい」

 いつも、がそう叫んでいました。けれど、いつも母に裏切られました。どうしてそんなこと言うの? どうしてそんなことをするの? ということばかりです。その度にショックを受けながら

「ああ……またか。仕方ない、いつもの事だ」と自分をあきらめさせていました。


 以前から凄い仕打ちを繰り返してきた母が更に迫力を増したのは、ここ数年のことです。


 私には兄がいます。母は一人子で優等生の兄を大変大切にしています。今は家を出て暮らしていますが、週末になると戻ってきます。兄が家を出てから、母は更に兄を可愛がるようになり、愛情注ぎの兄弟格差がもろ出しになってきました。


 夕食のおかずを差別するのです。凄いですよ! ある日、うなぎがメインディッュで出ました。母は私にピシャリ。「これは兄ちゃんが食べるんだから、お前は食べないでね」ひと切れも私に与える事はしませんでした。それどころか「もし、兄ちゃんが食べ残したらば、それは食べていいよ!」と平気で言います。私は。母にとっては野良犬と一緒なんでしょうか……


 それでも私は、精一杯の親孝行をしようと、両親を長崎旅行に行かせました。私は仕事の都合で一緒には行けなかったけれど、全額両親の旅費を出資しました。父も母も喜んで帰ってきました。謝の言葉を述べる両親に私も嬉しさが一杯でした。


 が、喜ぶのもつかの間……。母は、お土産のカステラを、全部兄に渡してしまいました。さすがの私も激怒。「私には食べさせてもらえないの!」。母は悪びれもせず、こう言い放ちます。「そんなに怒らなくても……アンタには、また行った時、買ってきて上げるからいいじゃないの」。


 こんな母、日本に何人いるのでしょう? 私は怒りで頭が変になりそうでした。


 こんな仕打ちを繰り返されても、私は実家を出ませんでした。資金がないわけは一切ありません。私は“貯金王”を自称するくらい、財力には自信がありますので。


 家を出ない理由は他にありました。「今直ぐにでも出てゆきたいけれど、出たら最後、一生母を許せなくなるのは目に見えている」からです。何か、何かきっかけがあれば、きっといつかの底から母を許し愛せる日がくるのではないか。わずかな希望をこれでも持ち続けていました。それまでは、我慢して耐えよう。私の精神力ならまだまだいける! と。あの、壮絶なイジメでも耐え抜いたんだからと、自分を奮い立たせている節(ふし)がありましたね。


 そんないを母は知る由もなく。そこまで言うか! という言葉をまだまだ平気で私に浴びせ続けます。


「アンタに毎もらってる食費が足りない。こんな額で暮らしていけるとってんの?」

 確かに多いとは言えませんが、私は就職してから毎欠かさず2万円を収めています。

それが足りない、というのです。兄も私と同額払っていましたが、文句を言うのはなぜか私にばかりです。第一、兄弟で4万払って、更に父の収入を加えると、我が家の食費って毎いくらかかるのでしょう。4人家族で一人2万で最低8万?? あり得ない額ですがな。そんな毎日豪華な食事はしてません!! どうしてそんなイチャモンを私に言うのか、全く気が知れません……。


 私には自分で凄いなぁとする部分が一つだけありました。

「よくぞ、グレずに大人になった!」

 多な時期に、グレてやりたいとの欲求もありました。両親とも母の教育法で私が育ったなら、間違いなく非行少女へ変貌したことでしょう。 けれど、父の大きな愛情が、私のそのいを阻みました。


「お前には、お前にしかないいいところが、たくさんあるんだ……」

 その言葉に、いつも後押しされていました。父をがっかりさせたくない。父の私への言葉が、いつもに刻まれていました。自分が傷ついた時、いつもその言葉をい出し、信じ抜いてきた。

「こんな私でも、認めてくれる父親がいる!」


 しかし、母の壮絶さは日を追うごとに増すばかりです。私は学会指導で母の偉大さを池田先生がおっしゃるたびに、

「ウチには当てはまらない。ありえない」といました。「母は一家の太陽である」――そんな指導もありましたが、その言葉を聞いた私はただ落胆するしかありません。誰にもそのことは言えませんでした。身内のことを人にさらけ出すには勇気が要る事です。まして、ウチは両親とも支部幹部です。親の体面をうと、とても言えませんでした。


「♪母よ あなたは なんと不議な 豊かな力を 持っているのか」

 有な”母”の歌を聞くたび、が疼(うず)きました。吐き気がするくらい、不快になりました。母は偉大なのか? ウチの母も例外なくそうなのか? 確かに良くも悪くも子供への影響力は甚大ですけれど……。本当に辛かった。哀しかった。


 悩みがあるなら祈ればいい。自分でもわかっているし、一番の近道です。けれど、どうしても母の事だけは祈れません。辛くて悩んでいても、母の事だけは、題目として、御祈として、私のには浮かぶ事すらできないのです。


 そして今年の5ゴールデンウィーク。またひとつ事件が起こります。母は書棚を整理していました。もう、長年の学会関連の書籍で一杯の書棚でした。中には他に、兄の趣味の車の雑誌等、家族のものも入っています。母は書棚に保管してあった、私の高校卒アルバムを引っ張り出してきました。


 そして、イライラした口調で私にアルバムを差し出してこういいました。

「アンタ、コレ滅多に見ないし要らないやろ! 邪やから処分するよ!」


 ……絶句しましたよ。母には今まで色んなことを言われ続けてきましたけれど、ここまで来たか! といましたね。


 私は動揺のあまり震えるで抵抗します。

「私、もう二度と、高校に行きたくても行けないんだよ。大切な記品だから、いるよ。捨てないでよ」

 冷静になれ。冷静に……崩れそうなに自分ではっぱをかけ、私は持ちこたえようと懸命でした。


 次の瞬間。私のいは見事に打ち砕かれました。母の追撃です。

「ええ?? いるのこんなもの!! 邪やから捨てたいのに!! ぶつぶつ……」


 私の中で、明らかに何かが壊れました。の中が真っ暗闇になるのをハッキリ覚えました。あまりのむなしさに、目から涙さえでませんでした。泣きたくても泣けない、言いようのないいが私の全身を駆け巡りました。


 恐らく、私はその瞬間からうつ病へと転落したといます。まだ、自分自身に「私は健常者」とのプライドだけは捨ててませんでしたから、精神科には行きませんでしたが、まず間違いなく病院にいけば診断が降りたでしょう。


 もし、学会っ子でなければ、私は頼るとこはやっぱり精神科しかなく自ら病院の門を叩いたでしょう。けれど、「学会っ子」であり、信の確信もそれなりにある自負をもつ私には精神科に行くことは“恥”である。そんな考えが私を押しとどめました。


 以来、私は人が怖くなりました。誰にも会いたくありません。私のカレシ君とは付き合いが長いのでいいですが、学会活動で同志に会うことがこの上なくキツく、辛く、拷問のようにじました。楽を分かち合ってきた、許せる同志のはずが……次第に学会活動から足が遠のき始めます。


 その頃、仕事でも賞与を減らされてからの闘いも続いていました。実は前年の夏、賞与を突然10万円も減らされ、一年近くも私は職場から干された状態にいたのです。それでも、ずっと、あきらめず密かに闘い続けていたのです。


 お金を減らされた腹立たしさに仕事をやめるのは簡単、仕事の質を落とすのも簡単。けれど、それは法者のすることではない。しいけれど、私は絶対にあきらめない! と誓って仕事を続けていました。「減らされた10万円分、仕事の質を上げよう。あなたは職場に居なくては困る、そういわれる存在になろう!」と。


 まさに職場も、家も、休めるところはどこにもありませんでした。まるで、イジメを受けていた“あの頃”の再来です。そして、私のうつ病は進行していきます。まさに、「ダブルブッキング」です。今まで味わったことのない、とてつもなく非常にしい生命状態に置かれました。


 そんな時……皆さんならどうします? やっぱり基本は題目だ! とうでしょう?? 私もずっとそうっていましたよ。


 けれども、自分がうつ病になってみて、初めて知ったことが一杯ありましたね。うつ病患者にとって、自分で唱える題目がとてつもなくしいことを。まさに、「生命への拷問」です。


 私は、母の言葉にノックアウトしてしまった自分を情けないとっていました。うつ病の本質は「自分の不甲斐なさへの責め、自己否定の生命状態」です。自分を否定しているのに、題目を上げるとどうなるか、説明しましょう。


 題目……それは学会員さんが知っているように、「自己の生命への賛嘆の言葉」です。自己否定のうつ病患者が題目をあげると、生命が混乱を起こすのです。それはまさに、「右手でお前はダメ人間だと自分の頭を殴りながら、左手で偉いね! 凄いね! と自分を撫でて褒める」そんな状態に置かれるのです。私も例外なく、その状況に置かれました。それは、幼い頃から両親に受けた“正反対の教育方針”を同時に施されて困惑した精神状態に似ていました。


 頭では「題目が特効薬」と信じていても、生命が受け付けないので、題目も少ししか上がらない毎日でした。それでも、諸天善神は私を護るものですね!

「もう、駄目かもしれない」

 そんないになったとき、携帯がやかましく鳴り響きました。隣の市に住む、学会員の友人です。しかし、私は電話を取りません。誰とも話したくない、ましてや学会の人とは。そんな生命状態です。


 友人は携帯に出ない私の生命状態を直したようでした。何度も、何度も、呼び出しを切っては鳴らすのです。私が出るまで何度も何度も……たまりませんでした。


 私は仕方なく折れました。真摯な友人のいには流石にかないません。電話を取りました。「もしもし……」つとめて普通に話しかけると、友人は大で問いかけてきました。「まりんちゃん!! なんか悩みあるんやろっ!!! 私には隠したってわかるんやから!!!!」

 彼女の強引な押しを遠慮できず当日に会うことになりました。彼女に、初めて母親の実態を吐露しました。ずっと懸命に耐えてきたが、それ以上の勢いで更に母から追い詰められていると。


 彼女は言いました。

「私も、実は母が嫌いなんだよ。私も人に言えなかった。やっぱり、母親は自分にとって一番身近で大切であって欲しい存在だよ。けれどね、ウチの母も全然優しくないんだ。私を追い込むような事を言うよ。やっぱり、まりんちゃんの眷属なんだね、私も。だからね、まりんちゃんが本当に辛くて伏せてきたことを今日話してくれてほっとしたし、嬉しかったよ。私だけではなかったんだ! 母のことで悩んでるのはってったよ。まりんちゃん! 悩みってね、乗り越えられるときに出て来るんだよ。信ってそうなの。それを疑ってはダメだよ。私の知ってるまりんちゃんなら絶対に大丈夫だから! 安しなよ」

 真剣に私を見つめて語る彼女の真に、オアシスを得たような気持ちになりました。


「ところで、その話。私以外の誰かは知らないのね?」鋭い眼差しに彼女は変わります。「うん、誰にも言えない」私がそういうと、即座に怒られました。

「まりんちゃん何言ってるのよ!! こんな時こそ、指導を受けないとダメじゃないの! そこまで悩んでいて、どうして隠すの! 直ぐに婦人部長に指導を受けなさいよ」

「で、でもぉ……(汗)」

「でも、じゃないの!! わかった?? 帰ったら直ぐだよ! 絶対受けなきゃダメ!」

 身を乗り出すように、彼女は私にを押しました。乗り気にはなれませんが、彼女のいを無にするような行動は流石に取れないと私はいました。


 支部婦人部長かぁ……。帰り道、とぼとぼ歩きながら悶々としていました。母は支部副婦人部長。支部婦人部長は、もちろん、ウチの母を一番見ているでしょう。だからこそ言いにくい。母が学会でどんな顔をして活動しているのかは私はよくわからないけど、母の表と裏、外と家の顔がこんなに違うって知ったらどうわれるのかな。そんなことを考えたりもしました。でも、友人は「女子部よりもこういった件は婦人部幹部が適切」と私に言い切っていました。やっぱり、指導受けるのは支部婦人部長かな……。


 支部婦人部長に電話、しようかな……。そうった瞬間、ウチの女子部部長の顔が浮かんできたのです。不議でした。


“私、部員さんが悩みを抱えているのに、それを知らないでいるのは絶対に嫌なんです!!”

「ああ、いつか二人でお茶を飲みに行ったとき、部長、そんなこと言ってたっけ……」


 どうしてこのタイミングで部長の顔とあの言葉をい出したのか。よくわかりませんが、何度も何度も私のにリフレインをします。


「支部婦人部長には指導をキチンと受けるとして、まず私の組織の部長にも指導を受ける報告をしておかないと……。部長、どうしてまりんさんのしみに気がつかなかったのか、って自分を責めちゃうかも……」


 私はそういなおし、まずは部長にメールをしました。直ぐに、部長から返信が来ました。


「メールありがとうございます! 今、最近まりんさんに会ってないしどうしているんだろうとって題目をあげていたところです! 本当にびっくりしました! けれど、凄く嬉しかったです! 明日、よかったら一度私とお茶にいきませんか? 色々お話できたら、といます」

「え……部長……」

 私の方こそビックリしました。何? 「今、祈っていたところ????」これが、“一三千”ってやつ??? 私は、わけもわからず部長をい出して気になっていたところです。


 以、って言葉は、やっぱり一三千という法則があるからこそなんですね。本当に、法は凄いといました。


 翌日部長と語り合いました。今までの母との関係。友人に話した全てをいのまま語りました。題目を唱えるのが非常にしいということも。


「まりんさんが何か悩んでいるのだってことは、最近会合で会わないので、薄々じていましたが、そういうことだったのですね……」

 部長はそういうと、少し間を置いて続けました。

「私、うまく励ますことが出来たらいいんですけど、どうしたら、まりんさんのを軽くして解決に導いてあげられるか、本当に力不足で言葉になりません。支部婦人部長なら経験もありますし、私なんかよりもっと頼りになりますから、もし、よかったら私から連絡していいですか? お二人で話し合いしづらいようでしたら、嫌でなければ私も含めて3人で指導受けませんか」


 私は部長の提案に、から謝しました。やっぱり、支部婦人部長に自ら連絡を取るのは気が引けていましたから……。「是非、3人でお願いします」。私は部長に指導日程をお任せしました。


 部長からメールがきました。日程が決まったと。一緒にお茶しながら語ろうということになり、その当日がやってきました。


 待ち合わせの時間にお店に行くと、支部婦人部長だけがいらっしゃいました。

「あれ、部長はまだですか」

「うん、ちょっと遅れるって言ってたよ。まりんちゃん、いらっしゃい。よく指導を受けようってって下さったわね。私、安したのよ。指導を受けるって決めたときから既に、解決は始まっているから、まりんちゃんも安なさい」

 そういって支部婦人部長はにっこり笑い、

「まりんちゃん、別に私と二人でもお話できるわよね? 部長は白蓮もやってるしいつも忙しい子だから、まりんちゃんが私と二人でも抵抗なければ、部長には席を外してもらったほうがいいかも知れないわね」

「そうですね……」

 婦人部長の話しやすそうな雰囲気で、その提案に異論はありませんでした。私はメールで部長と連絡を取って、支部婦人部長と二人でお話することにしました。


「実は……」

 私は母のことを語りました。私の母への情の亀裂が、小学校時代のあの事件にあるという事も。

「……」

 支部婦人部長はじっと私の話しにを傾けていました。そして、おもむろに切り出しました。


「私ね、以前からまりんちゃんを配していたのよ。“この子は危ないなぁ、危ないなぁ……”って。何度かあなたと話してみて、ずっとってたけれど、あなたは話し方からして理論的だし、凄く頭がいいのよ。けれども、そういった頭のよさが、恐らく結婚した後で変な方向に行く。ずっとそれを警戒していたの。あなたは頭がいいから、何でも自分で考えるのよ。で、自分の中で結果を出してしまう。だから、他の人なんかに比べて、ほとんど自分から幹部に指導を受けようなんてしないわ。それだから今回、よく指導を受けようとったなって私、嬉しかったのよ。と同時に、人に言うくらいだからよっぽどのことだろうとってた。話しを聞いての直接なは、“いつかこのことで悩むだろうな”とずっと私はっていた。というところね」


 支部婦人部長はそう語ると、私の目を真っ直ぐに見ていました。

「えっ……いつか悩むって?! そうっていた……と?」

 私は絶句しました。まさか、そんな回答が先に出てくるとは。


「まりんちゃんのお母さんは、確かにキツイところがあるという印象はあるわ。自分でもそれは、わかってるとはう。で、なるべく人前でそれを出さないようにしてるよ。けど、時々出ちゃうのね。たまに“ギョッ”とするようなことは、おっしゃるわね」


 母に対する所を簡単に述べて、支部婦人部長は続けます。

「まりんちゃんが、お母さんとの情の亀裂の原因が小学生時代にあるって、よく、自分で知っているわね!! 私、凄いとった。普通、そういう根本原因は、精神科の先生の所に行って調べて初めて発見するものよ。やっぱり、あなた頭がいいのよ。それにしても、これだけはハッキリ言うけれど、間違っているのはお母さんの方。“イジメられる自分が悪い”なんて……。もしも、まりんちゃんが病院に行くようになってその時の状況を精神科の先生に言ってご覧なさい。絶対にお母さんが烈火の如く叱られるわよ。『あなたがお子さんを追い詰めたんだ!』ってね。まりんちゃん。あなたが間違ってるのじゃない。それだけは絶対なんだから、決して自分を責めなくてもいいの。安なさい」


 その言葉を聞いた瞬間、私の目からどっと涙が溢れて止まりませんでした。


「まりんちゃん。信ってね、ずっと持続するためには、どうしても師弟の絆を女子部時代に自分から、つくって行くことなのよ。それがないと、いざというときに信がポキンと折れてしまうの。結婚して婦人部に行けば、もっともっと凄い宿命の嵐が吹き荒れるわよ。そのときに“師弟”がなければね、アッという間に信が崩れるの。女子部時代に生命に師弟を刻みこむ、それは鉄板に文字を刻み込むと同じこと。二度と消えない信を確立できるってことなの。婦人部になってからでは遅いわ。婦人部で師弟を学ぼうとしても、それは氷に文字を刻むようなもの。いずれ溶けていってしまう。あなたは、今この時に崩れない信を確立なさい。その時が来てると、私はうわよ。師弟はね、待っててもわからないの、自分から、先生を求めていくの。そうすれば、師弟とは何かって、必ず見えてくるから」


 支部婦人部長はそういって、自らの女子部時代を語ってくれました。胸のつかえが、すーっとなくなっていく。久々に、スッキリするものを私はじていました。元気を取り戻し、私は学会活動に復帰できるようになりました。


 しかし母はやっぱり、相変わらずです。やはり、とんでもない仕打ち、言動は続きました。


 そして、時は過ぎ。8に入りました。またまたひどい言葉を投げかけられたある日のこと……。私は、押さえきれない鬱憤がたまり母と喧嘩になりました。その時、最初に何を言われて喧嘩になったのか。ハッキリ覚えていません。その喧嘩で母に言われた一言で、頭が真っ白になり記憶が飛んでしまいました。


 喧嘩の挙げ句ブチ切れた私は、初めて言えなかった本音を母にぶつけてしまいました。

「お母さんは、私に今まで一体何をしてきた?? お母さんが私にしてきたことは、“精神虐待”じゃないの!! 前にも、私の卒アルバムを捨てようとしたよね? 私、どれだけ落胆したか、像もつかないの? 子供の大切な記品を、“邪なもの、いらないもの”と平気で子供に言う、そのお母さんの配慮のなさには愕然とくる!!」

 泣きじゃくりながら、必死に訴えました。


 母は、大変驚いた顔をして数秒絶句していました。

「……、お母さん、いつそんなことしたの? 嘘ぉ?? 覚えていないよ……」

「ハア???」

 私の方が絶句です。「覚えていない??? あんなこと平気でしておいて?」

「お母さん、知らないよ。いつそんなことをアンタにしたの?」

私は、また精神が転落してゆくのをじていました……。

 結局、母がする仕打ちは……「その日の気分」でやっている、ということが明らかになったわけです。これはたまりませんでした。


 いや、たまりませんって言葉では表現できかねるほどの、決定的なダメージをまともに食らったわけです。私は、底「もう、まりんはダメだ……もう耐えられない」といました。


「死にたいなぁ……」瞬間的に、そういました。もう、いい。もう、ここまで我慢してこんなこと言われて、これ以上、私にどうしろっていうの。もう、いいじゃん。死ねばいい……自殺しよう。


 頭の中で、その言葉がぐるぐる廻り始めました。しばらくして、「ハッ」としました。「ダメ!私はこれでも法者の端くれだ。信を知っている者としてここで負けたら……」

懸命におかしな考えを打ち消そうと、もう一人の自分がで叫びます。けれど、もう一人の自分も譲りません。

「まりん、今までよくやったよ、けれどもうダメだよ。もういい。もうこれ以上……」

 の葛藤は延々と続きました。うつ病が再発です。それも、本当に危険な状態の……。自殺したい、自殺したい……。ダメ、それはダメ……私は法者……。


 寝ても覚めても、仕事をしていても、常にその葛藤が毎日続きました。題目もあがりません。うつ病患者の題目がしいのは前に書いた通りです。


 仕事には毎日行きました。職場では普通に振舞ってはいましたが、務をこなしながらも、ハッと気がつけば「死にたい」と、強く強くじ続けている自分が居て“ゾッ”としました。また、私は会合に行けなくなりました。


 鏡に映った自分を見て、問いかけました。

「私って、何だろう。何で、こんないをするんだろう」

 私は、明らかに絶望の淵に立っていました。

「ああ……今の私、カレシ君のお父さんと一緒だなぁ……」

 私はひとつの結論にたどり着きました。


 カレシ君のお父さんは2年前、精神病を突然発症しました。一家8人を一人で支えて働いて働いて、家庭不和にも悩み、労に労を重ねた結果の病気でした。私は、「なんとむごい」と同情しながらも、やっぱりどこか他人事に捉えていました。お父さんは昨年、自殺未遂までしています。「家族に、これ以上迷惑を掛けたくない」そのいからとっさにとった行動でした。


 私はそんな悲しい状況をカレシ君から聞きながら、やっぱり他人事にしていた節があります。第一、口には出しませんが大きく偏見をもっていました。


「精神病を患うひとは、頭のネジがどっか飛んだ人だからそうなる」

が弱いから、そんな病気になる」


 だから、あんまり関わりたくない。この病気の人は怖い、気持ち悪い。第一、薬で治らないし! ひそかにそうっていました。


 それが今は自分です。他でもない、この病気の人は怖い、気持ち悪いとっていた本人がそうなっている。その事実に愕然としました。


「お父さんはが弱くて病気になったんじゃなかったんだ。自分の環境に我慢して我慢して、我慢に我慢を重ねて、堕ちて行ったんだ……。私と同じ気持ちだったんだなぁ……。今、初めてわかったよ……」


「絶望の淵に追い込まれた人の気持ちは、みんなこうなのかなぁ……。みんな、死んじゃダメだって葛藤しながら、とっさに電車に飛び込んだり、ナイフで手首切ったり、気がついたらそんな行動をとるものなんだなぁ」


 精神のどん底にいる自分になりはじめて、カレシ君の父のしみを理解しました。

「辛いなぁ……辛いって言葉がまだ軽くえるほど、しいなぁ……」


 カレシ君の父の辛さを、本当に理解した私は、次に猛烈な怒りを覚えました。

「ここまで、実の娘を追い込む実の母って一体何なんだろう!」

憎しみの火焔が轟々(ごうごう)と音を立てて燃え盛りました。


 母のこと、もう一生許せない。許さなくていい。信じようとした私が甘かった。バカだった。家にいて母を信じようなんてわなくて、よかったんだ。家を出よう。スッキリ離れよう! 母なんてどうだっていいじゃん!!


 その後、私は母を憎みじる生命へと変わって行きました。自分では気がつかないうちに、どんどん目つきがおかしくなっていきました。(あとで部長から「まりんさんの表情が変わっていた」と指摘されました)


 もちろん、ずっと会合には出ていません。出るつもりもありませんでしたね。けれど、メールで会合日程は毎度降りてきます。一応目を通しますが、無視、無視。しかし、ある日、別に行きたくはないけど、なんとなく部の日に参加してしまったのでした。何で? 解りません。ふらっと、出たくもないのに出てしまいました。


「ああ! まりんさん、お久しぶりです! ご労様です!」

 部長以下、いつものメンバーが笑顔で迎えてくれました。その後、メンバーと会合で何を語ったのか、何を学んだのか、内容は全く覚えていません。右から左にメンバーの音を通過し、生命に響くものは一切ありませんでした。


「ケッ、なんであたしこんな所にいるんだろ!来る必要もなかったのに!」

そういながら会合は進み、終了。会場を後にし、私はメンバーと一緒に歩きながら帰宅していました。


 部長が私にそっと近寄り、小をかけてくださいました。

「まりんさん。体調大丈夫ですか?」

 部長が私の顔をのぞきこみます。

「まりんさん、何か悩みがあるんじゃないんですか?」

 私の足が止まりました。


「私、ずっと配してました。まりんさんのこと。それに、今日久々に顔を見て、やっぱり何か悩んでいるんじゃないかと……。また、あのことですか?」

 部長はゆっくりと語りかけてきました。

 私は堰(せき)を切ったように情があふれ出しました。

「ウン……しい……」


 私達はメンバーと離れ、二人だけで立ち話になりました。

「母が……母は、その日の気分で平気で私を打ちのめすことが明らかになったの。もう“辛い”を通りこして、ヤバイよ。病院に行こうかとうくらい、気が変になる」

 私は一部始終を話しました。


 部長は、どうしていいかわからない表情をしました。けれど、次に、力を込めるようにこう言ったのです。

「まりんさん、ずっと我慢していたんですね。辛かったですね」

 その言葉が……その一言が、私の生命の端から端まで貫きました。“ああ、そうなんだ。私、ずっと我慢していた”。その言葉が、底染みました。嬉しかった。


“今の私のしみを、から同してくれる人がいる!! たった一人だとしても、本当に解ってくれる人がいる!!”


 私、この一言で生きていけると瞬時にいました。部長の真が、光の矢のように五体を突き抜けました。なぜだか、わかりませんが、凄く安したのを今でも強く覚えています。


 今、一番私が欲しかったのものは、「現在の状況がどんなに悪くとも、今の自分を大丈夫だと認めてもらえる相手の」だったのだといます。


 部長は続けます。

「今日、どうしても、まりんさんに会いたいって題目を送っていました。そしたら、願い通り、まりんさんが部の日に来てくれて!! 本当に願いはかなうんだって、びっくりして、嬉しかったんですよ!!」


 私もビックリでした。ふらふらっと出るつもりもない会合に出てしまったのは。部長の題目に吸い寄せられていたから!ということが、わかったから。ああ、一三千って、ほんとーーーに凄すぎる。また、法は凄いといました。


「まりんさん、辛いですけど逃げちゃダメですよ。家を出ても、どこへ行こうとも、お母さんから離れられたとしても。結婚してまた同じような人と遭遇しますよ。今度、お母さんと同じようなお姑さんとあった時、まりんさんどうするんですか? もう一度、初めから、辛いいを繰り返しますよ。今、この時に乗り越えましょう! 私からも懸命な題目を送ります。必ず、今のしみの味がわかる日が来ます。お母さんに、から謝できる日が来ます。それまで、あきらめちゃ絶対にダメです! 闘いましょう!まりんさんなら出来ます!」


 部長の渾身の励ましで、私はまた立ち直りました。創価学会の強さは、これに尽きるとじましたね。闘志は取り戻しました。けれど、次には一体どうしてよいのやら。悶々とする日が続きます。


 題目は大分落ち着いてあげられるようになってきましたので、御本尊に題目を唱えながら必死で考えました。部長の言葉を。


「今のしみの味が解る……。母にから謝できる……。どうしたら……どうしたら……そして、それはいつなんだろう」


 直ぐには結果は出ません。けれど、部長の励ましは私の生命にしっかりと刻まれていました。

「絶対に、ここからは逃げない!私は部長に約束した! から理解してくれる人の真を裏切ることだけは、断じてしない!」

 題目をあげながら、必死の手探りが続きました。


 何週間過ぎたでしょうか。状況は変わりませんが「逃げない」――それだけは胸に刻んで毎日を送りました。どうしたら、このしみに味を見出せるのか。どうしたら、あの母にから謝できるのか。どうしたら、私は幸福になれるのか。


 懸命にもがき、題目をあげ、毎日を過ごしました。

法対話……?」

 ある日ふと、そんな言葉が口をついて出ました。


考にはまず、理論ありき」が常に信条のはずの、“理論派まりん”が、考えてモノを言うという回路を飛ばして、瞬時にいついたことです。いつもの私にすれば、大変、珍しいことでした。生命自体が、私の第九識が、私の殻(から)を突き破ったかのように、言葉だけが先に口から出てきました。


「あれっ?」

 後から、なんでそんなことを口走ったのか。検証しました。

「大願に立て」

 直ぐ、この言葉が頭に浮かびました。『大白蓮華』に連載されている、池田先生開目抄講義にも太字で書かれていた言葉。広宣流布という大目的を指した言葉。大聖人のお言葉であり、池田先生が繰り返しご指導くださる言葉。


 私は信の中で教学が一番得なのですが(いやいや、教学しか取り得がないかも知れないが)、もしかすると、私の生命自体が私の頭以上に、教学で学んだ事を覚えているのではないか??


 鳥の卵は最初は黄身と白身しかない。けれども液体なのに、温められるとくちばしが出てきて勝手に殻を割るように、私の中から、自分のいもよらない事が起きたりする、それじゃないのかな?


 私はとっさに新池御書の一節をい出していました。

「此の経の信と申すは少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず法華一部に背く事無ければに成り候ぞ、に成り候事は別の様には候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、如我等無異と申して釈尊程のにやすやすと成り候なり、譬えば鳥の卵は始めは水なり其の水の中より誰か・なすとも・なけれども嘴(くちばし)よ目よと厳(かざ)り出来て虚空にかけるが如し、我等も無明の卵にして・あさましき身なれども南無妙法蓮華経の母にあたためられ、まいらせて三十二相の嘴出でて八十種好の鎧毛そろひて実相真如の虚空にかけるべし」(1443頁)


 ……大願に立て、それが法の願いであり、大願に立ったとき、必ずになれる。何度も何度も学んできた。今こそ、それを実践するときじゃないか。しいときは人間誰しも自分のことしか考えない。けれど、それを踏み越えて人のために行動するとき、自分の幸福の道も共に開けると。私はそれを何度も何度も会合で、教学で学んできた。


「これだ!」私は、目が覚めるいをしました。行動だわ、行動!! 私はが軽くなりました。自分の事は確かに滅茶茶でグチャグチャだけど、そればっかりに目を向けるばかりじゃなく、友人にも当たってみよう。


 早速、一人の友人にメールをしてみる。最近の文明の利器は便利ですよね。人の都合を聞かなくとも、簡単な内容なら気軽に文字会話が出来てしまうのですから。


 会って話すことができればいいし、直ぐに会うのは無理でも、自分から何かアクションを起こしてみよう。私の気分転換も兼ねて。そうって、「最近どう?」的な挨拶を送信しました。友人から間もなく返信が届きました。私はわくわくしてメールを読みました……が、しかし。「うわっ。なんか機嫌わるっ!! あの人どうしたんだろう(汗)」。友人は、いつになくイラついたような文章を送信してきました。「今、がムシャクシャしてます!」と言いたげな、投げやりな文面。ネエネエ、いきなり、それはないんでないの?? 私も今大変なんだよ。せめて、明るく振る舞ってこちらから送信したのにさぁ。

 ……と、ちょっと落ち込んでぶつぶつ考えましたが……。「もしかして……!」私はいなおします。

情を全面的に出すって事は何かしら“理解して欲しい”との欲求の表れと捉えられる、よね?」


 友人も理由は何か解らないけど、何かに悩んでいる。私も今、凄く自分のことで悩んでいる。辛くても、あきらめない、そのスピリッツを今の私だからこそ、相手に発信できないだろうか?


 私は、直ぐに返信を打ちました。

「私の事、聞いてくれる?今、こんなことで悩んでいるのよ」

これで何人目かな。私の全てを語るのは……そういながらいを綴りました。


 返信がまた、届きます。

「それはまた、大変だね。けど、ったことを言わせてもらうね。きついこと言うよ。親はずっとそれできたんだから、ずっと変わらないとう。このまま家にいれば、まりんちゃんまた同じこと言われるって。そんな親からは離れたほうがいいよ。もういい歳なんだし」

 ……なるほど。そうだよね、これは世間一般ではモットモな見っていうんだろうね。それしか解決方法って、普通はないよね。


 ウーン!! 私の決を、友人にどう言えば、わかってもらえるのかしら。法的な、「から逃げない」という精神を。「嫌なものから離れろ、長いものに巻かれろ」っていう精神風土の日本で、私の得た確信と信を、法の根幹を、どう語ったら伝わるのかしら!!


 私は考えながら、更にメールをします。

「私がどうして家をでないか。像はつく? それなりに蓄えもあるのに、なぜ虐待の家に居ることを選択するか。自分の母親を許せないまま家を出たなら、一生母を恨んで生きていくことは目に見えているから。自分の肉親を許せない自分が、ましてや他人をどこまで信じて許せる? 無理に決まってるよ。だから今、猛烈な辛さと闘ってる! 究極のところ、『人を許す』『人を信じる』というのが、何より一番しい。でも、そこを乗り越えないうちは、たとえ誰と何処にいても、結局は『孤独』やよ。人間は、人との関わりの中でしか暮らしてゆけないのだから! ……だから、解決の糸口が見つかるまでは、どうしても逃げられない!」


 また、返信が友から届きます。

「んーー。まあ、まりんちゃんがそこまで言うなら一緒に住んでもいいじゃん。だけど、それなら、嫌な事言われても、死にたいとか言うべきではないとうよ」

「…………」

 私は携帯を片手に持ったまま、しばらく固まっていました。理論派まりんの友人たち……つまりまりんの眷属たちは、まりんと同じ、理論派揃い。


 このメールで、正直、“これこそごもっともな見”だと、反論できなくなりました。

次の瞬間、言いわけが私の中に巻き起こります。

「そりゃ、そうかも知れないよ、けれども、あなたがもし話を聞くだけでなく、本当に私の立場を体験するのなら、絶対にそんな正論を振りかざせなくなるよ! 私だって、簡単に死にたいなんて考えたりしたんじゃない。しんでしんで、自分を責めて責めた究極の状態に置かれたのよ! そんな、簡単に言い切れる程の精神論ではないんだから……!」


 ……自分を正当化させる言い分が、私のに沸きあがります。悔し紛れに、何か言い返そうと気を取り直して文字ボタンを押そうとしました。……が。直ぐに指が止まりました。やっぱり、引っかかります。友人の言葉が……


「嫌な事を言われても、死にたいとか言うべきではないとうよ」


 友人の言葉は間違ってはいません。母にひどい仕打ちをされて、「死にたい」とか言う私のままじゃ、今後何も進展は望めない。それは確かなことでした。何かをどうしても変えないといけないのです。


 やっぱり友人の理論には対抗できないと、唇を噛みました。悔しくて何か言い返したい気持ちは、たくさんあるけれど、返信メールは打てませんでした。


「嫌な事を言われても、死にたいとか言うべきではない……」

「嫌な事を言われても、死にたいとか言うべきではない……」


 延々と頭の中で繰り返す友人の言葉。完全に、私のに刺さっていました。


「母を、どうやって許せばいいのかな……どうすれば、謝できるのかな……」


 仕事中でも、友人のあのフレーズが離れません。なんだかとっても悔しくて、辛くて、それだけでが一杯でした。


 一分一秒も間隔なく、容赦なく友人の言葉が私の頭を駆け巡ります。その日、仕事をしながらから考え続けて、とうとう昼休みになりました。ご飯を食べながらも、頭ではあの言葉が私を支配し続けていました。


「そもそも、死にたいと私がってしまうまで追い詰める母って、一体どういう存在なんだろう……」


 私は、どんどん考えていました。

「どうしても、あそこまで実の娘を追い詰めなくてはならない理由でもあるんだろうか?」

「母は何か、れっきとした理由があっての行動?」

「私、お陰でエライいをさせられたよなぁ……もう少しで自殺するところだった!」

「結局自殺い留まったけど、確かに精神病は患ってしまったよな……」

「あんなにしい病気だとはわなかったし、ましてや自分は絶対にかからない、私は健常者だといこんでいたから、何かの拍子で誰でもなるって病気とはまったくわなかったなぁ……あれは外だったし、かなりショックだったなぁ」

「もし……無理にでも私の精神を突き落とすために執深くやっていたとしたら?」

「オラオラァ! これでもか! これでもか!! まりんよ、これでもまだ足りないか! 早く早くどん底まで落ちてしまえ!……なんてさぁ」

「まさか母の使命がそれだったりするなんてことあったりしてねえ?」

ハッ!!! 私はわず、口を開けて叫びました。

「ああーーーーーーーーッ!!!」

 私の目の前が一瞬、真っ白になりました。

『母の、使命?!』


 ブツブツ考え続けた挙げ句の果てに、何とはなしに浮かんだその言葉が私の生命全体を駆け抜けました!


 私はわず椅子からガバッ! と立ち上がりました。今までの、母から受けたの一つ一つが、先ほどいついた「使命」という言葉でつながっていきます。しかった場面が、頭の中で映像で一つ一つ鮮明に蘇ります。


 私はついさっきまで、母に辛いいをただ単に「させられた」とっていました。

でも! 実はそうじゃなかったとしたら……。もしも、どうしても必要があって、母が「あえて」私にしてきた事だとすれば……


 母自身は、恐らく何にも考えてしているわけじゃないだろうけど、私にとってはどうしてもひどい仕打ちを経験せざるを得ない理由が、もし「ある」とすれば……


「ああ、そういうことだったんだな……」


 私の中で、今までの味全てが、つながりました。今まで私は何度も母の仕打ちに耐えて来た。けれど、最後はとうとう精神の限界値を振切ってしまい、自殺を考えた。


 そしてそこで、初めて「精神病」というものに向き合った。ずっとずっと軽蔑し、見下してきた「生命の病」に!! 他人事では決してなく、自分、いや誰もがいつなるかも知れないって事に。


 もし、母に極限状態まで追い込まれなければ……。自分から母を避け、家を出ていたなら……。私はいつまでも、この病気を見下し、馬鹿にし続けたに違いない。


 人を自分の了見で見下げ、馬鹿にするという、傲慢な自分の愚かさを、母が嫌われ役を買って出て教えてくれたとしたら!! 悩む人と同じ立場になり初めて、自分のいあがる汚さに気がつく。絶望の淵に立つ人のしみがどれほどのものか。私はい知らされた。


 やっと、初めて母に謝が出来る。傲慢な母だけれど、その傲慢さが私の生命を写しだしてくれる。もしも、嫌われ役が母じゃなければ、絶対にこの私の悟りは無理だ。もし、友人が母のような仕打ちをすれば、私は必然的に、友人を避け、縁を切るだろう。母だから、一番切っても切れない肉親だからこそ、私は自分と向き合い、悟ることができたのだ。


 母は、私をちゃんと愛してくれているのではないか。優しい人間へと成長させるため、私をここまで導いてくれたのではないか。そこまで理解した私の目からは、涙が溢れて止まりませんでした。


「お母さん、ごめんね……。嫌な役を負わせてごめんね……。お母さん、お母さん、ずっと気がつかなくてごめんね……」


 職場の誰もいない場所まで走っていった私は、をひそめて、泣きじゃくりました。

「ずっと恨んでごめんなさい。ずっと解ってあげられなくてごめんなさい」

そのいが私からとめどなく溢れ続けました。


 私が母に対して抱いていたいが変化その日から、母の、あれほどひどかった言動、仕打ちがピタッとなくなったのでした。


 私は母に直接何も言ってはいません。「ごめんなさい」「ありがとう」との一言さえ言ってはいないのです。


 けれど嘘のように、以後はあれだけ悩まされ続けたことが、一切なくなったのです。これも一三千!! 法の凄さ、醍醐味だと驚嘆しました。


 以後母は別人のように、優しくなりました。まさに、御書に仰せの通りです。「地獄しみ ぱつと消へて」――。


 全ては……、全ての環境は自分の生命境涯の行動から発せられ、そのまま自分へと還ってくる。依正不ニの原理が、まさに自分の体験そのものであるということ……。これが、私のこの闘いの最終結論となりました。


 そして嫌いだった母が、誰よりも自慢の母となりました。更に私はすごい功徳を同時に得ることになりました。


「精神病を蔑(さげす)む側の理」と「精神病を患(わずら)う側の理」、どちらも同時に理解できるようになったと共に、その発症の過程、傾向、そして完治のために必要なことを一通り知ることになりました。


 全て自分が体験してきたことです。全部理解できます。


 私は、「の病」に悩む人々を救うという大変大きな使命を持ち、この世に出現した地涌の菩薩ということを紛れもなく自覚したわけです。まさに、新池御書の一節にある、「釈尊程のにやすやすと成り候なり」です。やすやすと簡単に、釈尊ほどのになる手段を得ました。


 それに、今まで学んできた御書と、池田先生のご指導の深い味を知ることができました。この大きな体験したことで、どれほどの重要なことを知ることができたか……。これ以後は、其の事について検証してゆきましょう。


【「検証:日蓮仏法の理論」に続く】(※テキスト制限量をオーバーしているため、別ページとした)

2004-09-01

川上幸夫


 それは独立して3年目の山を越えた、昭和59年のこと。長男・直人(なおひと)を交通事故で失いました。高校1年生でした――。


 私はこの道47年の製本屋。中学を卒してこの界へ。入会は20歳の時。幸福学歴ではなく信で決まると聞いたからでした。


 男子部の隊長、輸送班(創価班)として戦いました。悩みは仕事との両立。会社から三度、「明日から来なくていい」と言われました。その都度、決を固めました。「自由に活動できる境涯になろう」と。55年、願の独立。間借りでの厳しい経営でした。


 それを見て直人が言いました。「一緒に働いて二人で家を持とう」。その子がどうして……。信すれば幸せになれると折伏してきたのに。逃げ出したいといました。


 そうした時、私は池田先生の勇姿をい浮かべました。先生は、いついかなる時も微動だにしない。そのお姿に動しました。もっと強く、もっと戦おうと誓いました。徹して活動。アジア、アフリカまで弘教に走りました。そうして10年、悲しみを乗り切った矢先の平成5年。今度は、創価中学・高校・大学と進み、印刷会社に就職したばかりの二男・高志が、悪リンパ腫に冒されました。


 6年間の闘病。その間、高志は創価班、地区リーダーとして活動しました。「絶対負けない」と結婚もし、抗ガン剤を打ちながら戦うことを止めませんでした。


 私たち夫婦は「子を絶対に勝利させる」と真剣に唱題。針のムシロに座っているような緊張の連続でした。先生から何度も激励を頂きました。平成12年1、先生がアメリカのデラウェア大学の誉博士号を受賞された時には、「君と一緒にこの称号を頂くよ」との伝言とともに記の文鎮を頂戴しました。それから一週間後、を引き取りました。


 長男の事故、二男の闘病と、私は20年間、宿命と戦いました。子達に教えられました。人生とは戦い続けることだと。2年前、61歳にして地区部長の任も喜んで受けました。仕事も人生も勝たなければ子の成の証明にはなりません。それまで私は一歩も退(ひ)きません。


 先生は指導されています――「とは戦い続けること」と。私は広布に戦う以外、執着がなくなりました。アメリカ創価大学へ寄付をさせていただきました。「川上高志奨学金」として子のを残していただき光栄です。私は最後の勝利まで戦い続けます。


【『大白蓮華2004-09号/東京・文京区(副本部長)】

2003-06-25

愛犬「シロ」が教えてくれた“使命”


【女子部】まりん


 私は福子です。生まれながらにして御本尊様に巡り合いながらも、長い長い間、信に立つことができずにいました。自身の使命をじる今、当時のことを綴(つづ)って振り返ってみたいといます。


 私は支部幹部を務める両親の元に生まれましたが、学会が嫌いで仕方ありませんでした。両親は学会活動で大変忙しく、私は物ついた頃からお留守番が多く、寂しさ募る毎日でした。子供ながらに両親の活動はたくさんの人を幸せに導くための大切な活動だと理解する一方、信をしていないお宅の同級生とその両親を羨ましくっていました。


 両親は生命に及ぶ宿を信で何回も断ち切っており、御本尊様の凄さ、功徳などを私が幼い頃から何度も語ってくれましたが、私は御本尊様の計り知れない力をじつつも自ら法を求めて行こうという気持ちにはなれませんでした。毎日毎晩、会合の連続で家を空ける両親を見て私はいました。


「信をすれば功徳があるかもしれない。しかし、気力も体力も時間も人一倍必要なようだ。そんなに手間のかかる信仰でしか幸せになれないのだろうか? もっと簡単に幸福になれる方法があるのではないか? 努力と信だけでも道は開けるのではないだろうか?父も母も私と接する時間を割いてまで活動をしているけれど、私はそこまでして学会にしがみつくつもりはない。まぁ、どうしようもなくなった時にやればいいんじゃないの?」


 そういながらも、学生時代は未来部の会合には真面目に出席しておりました。それは私に信があったからでもなんでもなく、ただ、「両親は幹部だから、子供である私がしっかり活動していないと親の顔が立たない」という、両親に対する一種の義務だけでした。そんな姿勢ですから、当然楽しくありません。会合に行って元気になるどころか、自己矛盾を増幅させる一方で、辛くて嫌で仕方ありませんでした。この頃のの葛藤が、社会人になってから信に反発してゆく直接の原因となってゆきます。


 真面目に信をする振りをして社会人になった私ですが、社会に出ると至る所で、あらゆる人から学会に対する悪口をにするようになりました。元々、学会に対し識を持っていた私は、こらえきれない苛立ちを覚えました。


「どうして私は学会員の家に生まれたのか。もし信していない家に生まれていたならばどんなに気楽に生きていけるだろう! 学会2世として、好きで信したわけではないのに、人に悪口を言われながら学会員という前を背負っていくとは一体どういう事なんだ……」


 社会人になり、しばらくは女子部の会合に顔を出していましたが、少しずつ活動から遠ざかり始めました。私は世間の波に飲まれ、自分が学会員であることを、とても恥ずかしくうようになっていったのです。学会員である自分を忘れたくて仕方がありませんでした。そのうち会合に出なくなった私……。女子部の先輩が度々家庭訪問に来てくれるようになりましたが、私のはすさんでいました。わざと嫌な顔をして見せ、散々悪態をつき、大まで出して追い返すようになっていました。電話が掛かってくると怒鳴りつけて途中で切ってしまったりも何度もしました。もう学会とは全く関わり合いたくなかったのです。


「私は、私なりにもっと簡単な方法で幸せになる道を見つける!!」そうっていました。


 しかし、両親は時々うるさく「会合に出なさい」とは言うものの、それ以上のことは言いませんでした。今からうと、父も母も私に自分の過去の姿を見ていたのかもしれません。実は両親も一時期、学会から離れ、先輩に悪態をつき、その後、厳しい現証が出てきて、やっと本当の信に目覚めたという経緯があったからです。ですから、子供にもきっとそんな日が来ると予していたのかも知れません。


 私は女子部の先輩に対して当初、こうっていました。「こんなに熱に私のところに来て何が楽しいんだろう? 追い返されるだけなのに! 私はどんなに励ましを受けたところで、活動するつもりなにのにね。やりたい人だけやってたらいいんだよ! 全くご労さんなこと」。完全に見下げていました。そして毎回笑顔で訪問されるのがたまらなく嫌でした。「つくり笑いしてるんじゃないよ」とも内っていました。


 しかし、どんなに強く追い返しても、どんなにひどい言葉を浴びせたとしても、めげずに、何度でも満面の笑みをたたえて訪ねて来てくれるのです。そして何度も何度も電話を掛けてきてくれるのです。さすがの私もこれには参りました。


「どうしてあきらめないの? こんなにひどいことしているのに。それなのにどうして笑顔でいられるの? 私、この人には勝てないな……。もしかしてこの芯の強さこそが、信仰の力なんだろうか?」


 そううようになっていった頃です。私の生き方を一変に変える出来事が起こりました。


 2000年113日、5時頃――。


 ちょうど私の誕生日でもあったこの日、我が家の愛犬シロが16年の生涯を終えました。シロは座敷犬です。よく家は会合の拠点になっていましたが、シロは会合の邪をしたことは一切ありませんでした。吠えもしないし、つないでいなくても会合中に飛び出して行くこともありません。ずっと会合が終わるまでをひそめてじっとしていました。


 そんなシロが、亡くなる3時間前、も絶え絶えで、自力で立ってることもできないはずだったのに、突然、間に歩き出したのです。夜中の2時だったのですが、御本尊の前まで歩いて行くと、なんと頭を下げて御本尊様にご挨拶をしたのです。信じられないかも知れませんが本当なのです。驚くと同時に、衝撃が走りました。教学も、学会も何にも知らず、話すこともできないシロが、御本尊の凄さをその生命でじ取ってる。そして、瀕死の身体で、私達に何かを教えようとしている! 涙が溢れました。シロを抱きかかえて父は号泣していました。


 シロはそれから3時間後の早亡くなりました。素晴らしい成の相でした。普通、犬は死後カチカチに硬くなるとよく聞きますが、シロはまるで寝ているように関節が柔らかく、丸3日間はホンワカと体温が残り、顔は御書で説かれる半眼半口(はんがんはんく)の相でした。


「信以外で幸せになれる方法がある」とっていた私の妄は完璧に打ち砕かれてしまいました。私は自分の目で確かにシロの成の姿を見たからです。この法を否定するすべを完全に失ってしまいました。


 シロは、ただただ、御本尊様を純粋に信じ、謝のお辞儀をして旅立ちました。人生の総決算は死ぬ瞬間に現れるといいます。シロの一生は御本尊様への謝で締め括られ、人間である私達にまで動を与えていったのです。人間でも叶いがたい成を、シロは動物の境涯で、謝の一のみで叶え、最高の相で霊山(りょうぜん)に旅立っていったのです。私はこの事実を通して、シロのように純粋な信を貫けば、自身の成はおろか現世の願い全て、確実に叶う法であることを大確信することができました。絶対に間違いありません。私は自分の目で、確かにその真実を見届けたのですから! そしてまた、信は“こそ大切なれ”であることも、シロが身をもって教えてくれました。


 あの日、発(ほっしん)してから3年たった今、私は大きく変わりました。何より、一番変化したのは自分の今いる環境にから謝できるようになったことです。確かに、色々と悩みはあります。しかし、この御本尊様は“祈りとして叶わざるはなし”の御本尊様であることを、頭ではなく、生命で実できるようになってからは、生活の中で起こること全てが喜びなのです!


 悩みがあるからこそ、人間が大きくなります。成長できます! 別に格好つけて勝手な観論を展開しているのではありません。


「願いが叶うかもしれない」のではなく、「絶対に願いが叶う」と断言する御本尊様です!


「幸せになれるかも知れない」のではなく、「必ず幸せになる」と断言する御本尊様です!


 シロが身をもって教えてくれたように、“純粋な一”があれば、どんな悩みをもしみも全て自分の成長の種と変化し、間違いなく、輝く人生が送れるのです!! 法とは希望の異です! 悩みのない人なんていません。しかし、悩みすらも喜びとする人生を歩める人は、誰よりも幸福です。ましてや、宇宙一、確実に最高の人生を築くことができる方法が目の前にあるのです!!


 御本尊様に背を向け、世法で幸せを掴もうとしていたあの頃の私をうに、“本当にもったいない時間を過ごしてきた……”と後悔することしきりなのです。あの頃の私が怒鳴りつけた先輩の側に立って、命の底からの歓びを一人ひとりに伝えてゆくこと――これこそが私の学会活動です。


 今、たくさんの先輩や同志の方々と共に広布の道に邁進(まいしん)できることを、何よりも誇りにいます。


 未活動の頃は、1秒たりとも学会のことを考えるのが嫌でたまりませんでした。しかし、学会の事、部員さんのことをいつも考える私が、今、厳然とここにいます!!


 ああ、生まれながらにして法と縁していて本当に良かった!! 学会員で本当によかった!! 多少、遠回りしたけど、の底からそういます。


 私が反発していた日々も、法の眼で見れば大切な使命に変わります。過去の私のように未活動の部員さんに、を大にして私の体験や私のいを語りたいのです!


 この法の素晴らしさを! そして学会の温かさを!!


 これからも、歓喜、動、謝の信で頑張ってゆきます!

2003-05-20

ドキュメント 「尾道丸」救助した「だんぴあ丸」


奇跡の救出劇が「プロジェクトX」で放映


 520日(2003年)に、NHKテレビ番組「プロジェクトX」で、1980年(昭和55年)1230日、千葉県・野島崎沖・東南東約1500kmの太平洋を舞台にした救出劇が放映される予定。この奇跡の救出活動の指揮をとったのが、当時「だんぴあ丸」の船長で波涛会の尾崎哲夫さん(69歳)である。大阪・泉南市在住。副支部長。(当時は壮年部副B長。47歳。長崎県出身)


 当時、海事故が相次ぎ、「低気圧の墓場」と恐れられていた野島崎沖。荒れ狂う嵐の中、船首が折れた大型貨物船「尾道丸」はまさに沈没寸前だった。その危急に接し、近くを航行中の大型貨物船「だんぴあ丸」が現場に急行。二重遭の危険を顧みず、44時間に及ぶ必死の救助活動の結果、尾道丸の乗組員29人全員を救出した。


 瞬間風速25m以上の暴風雨が吹き荒れる中、「死の恐怖」と戦い続けた3日間、尾崎さんは、「私には御本尊がある」と題目を唱え、ひたすら救出のチャンスを待った。そして冷静沈着な救出活動を敢行。後日、海の専門家たちから、「国民的顕彰」「まさに神(かみわざ)」「日本のみならず世界の船乗りの鏡」と絶賛された救出活動を成し遂げたのは、信仰で培った“忍耐”と“勇気”であった。


 この後、尾崎さんに民間の海救助活動としては初の総理大臣表彰が贈られている(1981年9)。また、救出された「尾道丸」船長の北浜亮さんは、尾崎さんの紹介で1982年に入会。


 この救出劇は、池田先生からも「聖教新聞で紹介してみては」との提案があり、1981年(昭和56年)426日付で実に3ページ、ドキュメント「『尾道丸』を救出した『だんぴあ丸』――“の海域”で死闘44時間」として紙面を飾った。


 今回、NHK取材班は、この聖教新聞掲載の「ドキュメント」を参考に、同番組を製作した。現役船長を退いた尾崎さんは現在、学会活動、地域のボランティア活動で活躍している。




1981年(昭和56年)426日付聖教新聞で3面にわたって掲載された】


の海域”で死闘44時間


海の男54人の友情と忍耐の勝利


 冬の海は吠えていた。鋭い牙をむいて吠えていた。1980年も終わろうとする1230日。“の海域”と海の男達から恐れられている千葉県・野島崎東南東約1000kmの太平洋上は、異常に発達した低気圧の通過で瞬間風速25m以上の暴風雨が吹き荒れていた。すでにこの冬、2隻の大型船が、この海域で飲み込まれ、消を断った。例年にない大シケ。たけり狂う荒海を航行していた「尾道丸」(33833総t)はついに船首部を食いちぎられ、沈没の危機にさらされた。近くを航行中の「だんぴあ丸」(50451総t)が、SOSをキャッチ。すぐさま針路を転進、マストよりはるかに高い波を越え、遭現場に急行した。“ほえる海域”で迫りくる死の恐怖と戦うこと3日。「だんぴあ丸」は、尾道丸の乗組員(29人)全員を無事救出することに成功した。これは“わが国海史上まれにみる快挙”“国民的顕彰に値する”と高く評価され、そのち密な救助方法は「世界の海運界にとって教科書にもなる」と称賛のが尽きない。この「だんぴあ丸」の船長が尾崎哲夫さん(47)=大阪府泉南市、阪和支部、壮年部副B長=であった。これは“の海”で44時間、生死を賭した海の男達が展開した未曽有の海救出のドキュメントである。(北野原良生記者)


29人全員奇跡の生還


だんぴあ丸/尾崎船長(壮年部副B長)中に見事な救出作


「入港12に延期だ」


“飲み込まれてたまるか!″――ほえる“の海”にあって、キバをむき出す海と真っ向から戦いながら大型鉱石専用船「だんぴあ丸」は航行していた。

第一中史汽船所属、乗組員25人、50451総t。全長250m、幅39m、南米のチリから鉄鉱石88810tを積んで一路、茨県・鹿島港を目指していた。予定だと暮れのドン詰まり1231日に入港できるはずだった。

 ところが1223日ころから向かい風が強く吹き始め、うねりが高くなり、しだいに船速は落ちていた。30日になると20mに達する西風が吹き、高層ビルが幾重にも倒れかかってくるように大波が、ウオーター・ハンマーといわれるぐらいの、ものすこい力で船体に打ち込んできた。

「うーん、これじゃ無理だな。局長、入港予定を延ばそう。12日夜だ。至急、電報を打ってくれ」――ブリッジから荒海をながめていた尾崎船長は、電文にしたためて渡辺通信長に渡した。

 1980年の暮れといえば、西高東低の完全な冬型の気圧配置でシベリアの大寒気団が南下、北陸、東北を中に大雪を降らせていた。この大寒気団を日本列島に強く呼び寄せた低気圧が“の海”で急激な発達をみせながら縦横無尽に暴れまわっていたのである。

 このため2前の28日午前8時、ユーゴスラビアの貨物船「ドナウ号」(14712総t)が、野島崎東方約1200kmの洋上で第一船倉浸水の無線連絡を最後に行方不明、翌29日午前11時ごろ、インドネシアの貨物船「ガルサ・ティーア号」(3139総t)が沈没、18人は救助されたが、6人の行方不明者を出していた。いずれも三角波のキバにやられたのか――。

「だんぴあ丸」には、こうした海状況が刻々と伝わっていた。

 きのうは人の上、きょうはわが身の上――一瞬の油断も許されない海象状況。入港予定の延期が乗組員に伝わった船内には一段と引き締まった架張が漂った。「このぶんだと“紅白歌合戦”が見られるな」。つい先程まで交わされていた和やかな会話はどこかへ行ってしまっていた。

 船乗りにとって海は友達だ。が、凶暴な敵にもなる。180度、豹変する海の恐ろしさ――。

“夏は実に波も静かでいい所なんだがなあ”。船長室の窓から荒れ狂う海をながめる尾崎船長の脳裏にそんないがよぎる。

 51年、船長として遠洋航海に初出航して以来、この“の海”は3通過していた。だが3回とも夏場、世界的にうての荒海になる冬場は今回が初めてだった。

“大波”が襲う間隔がさらに短くなるようなら、い切ってスピードダウンを図らねば……とった。


「SOSだ、転進せよ」


 この矢先だった。ドアがあいてがした。

「キャプテン、近くでSOSいます」。の主は野田二等通信士だった。視線を窓外に向けたまま「冗談じゃないよ。SOSたいのはこっちだよ」ととっさに尾崎船長は答えた。

 この荒天下、すでに大型船が2隻、遭している。冬の“の海”は初体験だ。たけり狂う海をどう無事に航行しきるか、高速輸送という役目柄、う回は許されない。

 急激な発達を続ける低気圧の中を突っ切るしかない。他船の航行安全など考え及ぶ状況でなかった。

「そうですか」

 船長室を出て行こうとする二通士の背に、あわてた格好で尾崎船長は呼びかけた。

「ちょっと待ってくれ。ポジション(位置)は……」

 そう言ったかとうと、すでに二通士が手にしていた通信メモを取り、ブリッジに駆け上がっていた。

 尾崎船長の戦いが始まった。

「局長、方探で方位を確認してくれ」

「セコンドオフィサー(二等航海士)、レーダーをみてくれ、入るかもしれん」

 無線室に電話を入れる。

 エンジンコントロールルームにも指示した。「SOSいる。ただちに救助に向かう。(エンジン)回転をできるかぎり上げてくれ」。チラリと腕時計を見た。13時09分――。

「200度の方向です」と通信長から。「200度、56km付近がチラチラします」と植村二等航海士から、相次いで返答が入る。乗組員の行動も機敏だ。

「了解。その距離ならVHF(超短波無線電話)が入るはすだな」

 船長は自らスイッチを入れた。叫んだ。

「尾道丸、尾道丸、こちらだんぴあ丸。度ありましたら応答願います」

 直ちに応答があった。

「こちら尾道丸、度良好です。どうぞ……」

 さっそく発航港、到着港、積み荷、数量、船長、乗組員数……問い合わせる。尾道丸は33833総t、乗組員29人。石炭52000tを積載して香川県の坂出港へ航行中、遭したことが判明した。

「こちら尾道丸、一番ハッチと二番ハッチの間が折れて船首が上下しています」

「沈没の恐れは」

「船首がついてますから、まだ大丈夫だといますが、油断できません」

「了解しました。6半ころには近くに行けるといます」

 無線室は、保安庁への連絡、尾道丸からの電報依頼などでてんてこ舞いとなった。渡辺通信長は緊迫した面持ちで二通士を指揮してテキパキと処理していく。海上一の大確信で筋という55歳の、脂の乗りきった通信長の行動に、尾崎船長は全幅の信頼を寄せていた。

まもなくである。

「船首が切れた。すぐ退船する」という通信メモが、船長の手元に届いた。

ドドーン。相変わらず船体を大きく揺さぶる音がする。まるで高層ビルのような、海そのものの塊みたいな“青波”が、急行する「だんぴあ丸」に襲いかかる。

 船首は完全に海中に突っ込み、船首楼の周囲から真っ青な海水が滝のようにウインドラスめがけて流れてぶつかりあう。瞬間、真っ白なしぶきと変わってマストより高く舞い上がったかとうと、今度はスコールのように船橋楼をたたきつけた。

 尾崎船長は、当直甲板手からメモを取り上げると、ブリッジに上がった。


「私には御本尊がある!」


「船首折れた、救助頼む」


「こちら、だんぴあ丸、度いかがですか」

「尾道丸、船首が切れました。退船準備を始めます。至急救助を頼みます」。悲痛ながとぎれがちに届く。“ここが肝だ”船長ははやるを抑えた。

 死の恐怖を前にして、人間は正常な判断、行動は不可能に近い。この非常緊急事態において一人でも暴走者が出て勝手にボートをおろしたりすれば、それにつられて遭船内にはパニック状態が起こることは明白だ。大シケの洋上ならボートで脱出しても海のもくずとなるだけだ。

「尾道丸、こちらだんぴあ丸。積荷の石炭は浸水率は小さいから、船首が切れてもすぐには沈みません。落ち着いて行動してください」尾崎船長はゆっくりと、自ら落ち着いた口調ではっきりと呼びかけた。

 しのび寄る“死”。尾道丸の乗組員の恐怖はつのるばかりだろう。まして司厨部や機関室の人達の恐怖は計りしれない。船の状態が皆目わからない。船長が沈まないから安しろ、といっても決して素直に納得できる精神状態ではない。懸命に両船の交信に聞きをたてているはすだ。

 尾崎船長は交信をゆっくり進め、何よりも乗組員の胸中にうずまく恐怖を取り除くことに全魂を傾けた。

「トリム(船首尾の釣り合い)はどうですか」「傾きは」「ボットムサイド・タンクは」「ショルダー・タンクは」……船の様子を一つ一つ祈るようないでたずねていった。

 ったより落ち着いた口ぶりで要領の良い報告が戻ってきた。尾崎船長は内ホッと胸をなでおろした。「本船はできる限り早く急行します」

 いつしか“の海域”は真っ暗い夜のとばりに包まれていた。いぜん風速は20m。弱まる気配はない。青波が、右舷から打ち込み、ハッチを越えてわがもの顔に暴れて左舷へと落下していく。そのたびに船は大きくローリング(横揺れ)した。

「尾道丸の灯が見えます」。当直甲板手から連絡が入った。

 18時36分。だんぴあ丸は尾道丸から10kmの地点に近づいた。双眼鏡はハッキリと、暗闇の向こうに、デッキライトに照らし出された船体をとらえた。

 だが、救助活動に入るまでにはまだ一日半の時をまたなければならなかった。


救出成功へ全魂


風速25m、マストより高い激浪の中で


「退船」「夜明け待ちを!」


「見たところトリムはないようだね」

「イーブンキール(船首尾が水平のこと)でヒール(傾き)もありません」

「急迫した危険はないようだ」

 巨大船の閃光灯は暗闇の中で緑色の弱々しい光を放っている。デッキとブリッジに、オレンジ色の救命胴衣を着けた人影が視野に入る。船首が、斧(おの)で断ち切ったようにぽっかりともぎとられ、激浪に洗われている。

「ひどいもんだねえ」

「夜だし、この波じゃでとても救助作には入れませんね」

 一歩誤ると二重遭の危険が十分あった。一航士と話していた尾崎船長は尾道丸に伝えた。

「本船はいつでも救肋作ができる態勢で待機しています。とにかく夜明けを待つ方がいいといます。いかがでしょうか」

「はい、夜明けを待ちます。よろしくお願いします」

 SOSを受信して以来、尾崎船長は、必ず全員無事救出する覚悟であった。この覚悟は、船長として当たり前といえば、当たり前かもしれない。だが、一歩誤れば、全乗組員の生命を危険にさらすのみならず、失ってしまう最悪の結果を招きかねないのだ。

「決断する時、船長は孤独」だという。いざという時、これが最善策かどうか、全くわからない。しかし一瞬の逡巡(しゅんじゅん)も後退も許されない。最善であると確信して、後は全魂を傾注して責務を全うしていくしかなかった。

 そのためにもつね日ごろから真剣に唱題に励み“生命の尊厳”を説く法を実践していける自身を鍛えていかなければならないとっている。

 尾崎船長は47年に入信していた。航海中も、自宅にいる時も、晩の軌行・唱題は真剣であった。

 航海を何度も重ねていくと多くの経験を積み、知識が豊かになる。だが、海は二度と同じ顔を見せてはくれない。刻々、変わるのが海の表情であり、気なのだ。いざという事態に遭遇した場合、的確な判断、決断を下すことにおいて、過去のすべての経験や知識をフルに生かしつつ、試練を切り開いていく力とするには、何が必要か。尾崎さんは、一つ一つの試練を越えるほどに、ことに当たって微塵も動ぜす、しかも機敏に、的確に行動していく人間を培っていくためには正しい信仰が必要だ、という確信を深めていた。

 全員救出は成功すると決めてかかった尾崎船長の覚悟の奥には、確固とした生命の尊厳を説ききった正しい信仰があった。

 だんぴあ丸は、尾道丸を並行に通過して東へ転進、北に向けて機関を停止した。両船の距離は約6km。

「キャプテン。エンジンはいつでも自由に使える状態にしてありますから」

いつのまにか平川文治機関長が傍らに立って柔和な笑みを送っていた。

荒天の下、救出チャンスを持つ緊張した長い夜が始まった……。

 夜が明けた。大みそかの31日――。

 前夜は一睡もしていない。時折、船内を一巡しては、船長室で唱題に励んだ。

 ブリッジのすぐ下にある船長室は、ベッド・ルームと居間からなる。

 ベッド・ルームの居間側の壁に御厨子を御安置してあった。その下方に高さ1mの物置台がある。ベッドとその台の間、約1m半のところに正座して尾崎船長は救出成功を祈り続けた。


「今までにない題目だ」


 青波が襲うたびに、船体が大きく傾く。船横に向いて正座しているので上体が前のめりになったり、後方に倒れかかったりした。ベッドと物置台が上体を支える役目を果たした。揺れ動く船長室だが、尾崎さんの“覚悟”は揺るぎなかった。

 いな、唱題を続けるほどに、ますます不動のものとなっていった。

「キャプテン、題目ですよ。今までにない題目、あげましょう」

 前夜、赤尾末春操機長が尾崎船長の肩をたたいて励ました。赤尾操機長も学会員だった(兵庫・塩屋支部、副B長)。信して15年。尾崎船長より7年長い。船乗り30年のベテラン操機長も、遭船の救助は初めてだった。

「私達には御本尊様がある。絶対に成功しますよ」

 何度も何度も激励の言葉をかけてくれた操機長の確信に満ちた笑顔が、唱題する船長の脳裏に浮かぶ。“赤尾さんも祈っている”そううと強かった。

 第一中央汽船の船員の中で波涛会員は、尾崎船長と赤尾操機長の2人だけ。その2人がはからずもだんぴあ丸に乗船していたのである。

 6時00分。前日とまったく変わらず、海は大シケだった。1時間に1〜2度の間隔で、空が真っ暗になりバケツをひっくり返したようなスコールが両船をめがけてくる。風速計はときに25m以上を示す。針は計器が壊れるかとわれるほど激しく振れた。

「チョッサー(一航士)、風力、風向は変わりはないか」

「ありません」

「波の上がり方は」

「変わりません」

 ブリッジで船長の問いかけに一航士は計器を見ながら答える。

「これじゃ、きょうの救助活動は無理だな」

「そうですね」と相づちを打つ一航士。

 そこへ司厨長が入ってきた。

「キャプテン、昼の食事、どうしましょうか」。救助活動に入り尾道丸の乗組員が、移乗した時のことをたずねているのだ。

「(救助は)できないから必要ない」。キッパリと答えた。

 尾崎さんのハラは決まっていた。だが、船長の指揮権は救助者と被救助者の関係にあっても相手の船へは及ばない。したがってもし死の恐怖に耐えきれず、シケの中を尾道丸の乗組員が退船してきたなら、制止するわけにはいかず救出活動に入らなければならなかった。そうなると、この大シケの中だ、両船の乗組員の中から犠牲者は必ず出る。それはなるべく避けたかった。

「こちら、だんぴあ丸船室です。本船には燃料も食料もたっぷりあります。何日でも待てます。沈没のおそれがなければもうしばらく待ってはいかがでしょうか。一人の犠牲者も出したくありません」

「了解しました。それでも12時が限界です。近づいたら救命索発射器を撃ち合ったらどうでしょうか」悲痛ないがこもるだ。

 付近の海面に黒い帯状の模様が肉眼でもはっきり見えた。船首部の切損開口部に激しく打ち込む巨大な波浪で、浸水をからくも防いでいる石炭が流出している。次々とバルクヘッドが破られ、タテ方向の亀裂が走った場合は、危険だ。またたくまに船は沈没の一途をたどってしまう。

「検討してみます」

 尾崎船長は答えた。


「救命索は危ないな」


 刻一刻、迫り来る死。尾道丸の乗組員は、昨夜は一睡もしていない。眠れるわけがない。恐怖、焦燥がつのるばかりだ。そういをはせると尾崎船長は“慎重にならなければいかんゾ”と、自己に強く言い聞かせていた。

「ラインの長さは360m、水平距離は250mです。ですから、救命索を生かすには両船が200m以内の距離に近づく必要があるわけです。しかし、これは、こんなに荒れた海上じゃ、非常に危険極まりないことだといます」

 救命索発射器の説明書をもってきて説明する平野一航士の言葉にいちいちうなずきながら、尾崎船長は聞いていた。

 聞き終わるとVHFの受話器を取った。「尾道丸、私はトラック島の近くで風力5の中で、漁船を救助したことがあります。その時の方法でやります。貴船は安全に退船することだけを考えてください。あとは責任をもって全員無事に救出します」

 強い口調には、どこまでも死の恐怖を取り除こうとする力がこもっていた。

 7時16分。両船の間隔は6kmのまま。波浪は衰えない。あわよくば両船もろとも飲み尽くさんと虎視たんたんとねらっている。

 い切って救出に入るか、じっくり待つか――船長としての正場が近づく。ブリッジの窓の向こうに激浪をもろにかぶる尾道丸をながめる尾崎船長の目は鋭い。

 植村薫二等航海士が、レーダーをのぞいて得た尾道丸との正確な距離や方位を書いたメモをもってきた。

「キャプテン」

 間近にきて呼ばれて初めて気づいた。

「ありがとう」と、二航士に向けるひとみは笑っていた。メモを受けとり再び 窓外に向けた顔にはもう笑みは消えていた。

 とにかくキャプテンは辛抱強く持つなあ、焦った素振りはサラサラない。同船するのは3回目だが、こんなに沈着したキャプテンの姿は初めてだな……そんないでジロリと見返しながら二航士は出ようとした。

 出合いがしら、平川機関長とバッタリ会った。

「おい、あんまり船長の顔色を見るなよ。船長は全員助けたいとって、じっと時機をみてるんだ。無言の圧力をかけたらいけん」

 機関長は仲間と会うごとに、こう注していた。57歳のベテラン機関長には船長のが手にとるようにわかっていた。右手には、今回の乗船が最後になるからと、子さんから無理に持たされたカメラがぶらさがっていた。

「キャプテン。さきほどブリッジで尾道丸をこのカメラに納めてきましたよ。それにしてもこんな具合でカメラが役立つとわね」自慢げに語る機関長の姿に、尾崎船長の緊張がほぐれた。


「青波だ」「もう一日待て!」


 9時15分。だんぴあ丸は、接近を試みた。

 それまで尾道丸の周囲を巡りながら、遭船の様子、シケの模様を見つめる船長の頭の中は、最良の救助対策はないものか――激しく回転していた。

 両船間の距離がわずか500mになった。その時だ。例の青波が、さらえるものは何でもさらっていくぞといった勢いで右舷からはい上がりハッチを越えて左舷へ突進していった。船体は大きくローリングした。

 大きく傾いた、だんぴあ丸を見た。その瞬間、尾道丸の乗組員は、改めて青波の恐ろしさをい起こしたにちがいない。

 それは、海上生活者ならよく知っていることだ。救助の手を差しのべた船が、遭者を引き揚げ中、船を襲う青波にたたかれて、二重の犠牲を払った事件はよくある。また、大の男が青波にはじきとばされて、わずか10cmの甲板とパイプとのすき間にミンチのごとく押し込められて亡くなった話もある。

「これではボートは転覆する恐れがあるし、無理です。もう1日、待ちましょう」――直ちにVHFを通じて連格をしてきた。

“これこそ諸天の加護だ。青波が諸天の加護でなくてなんだろう!”――尾崎船長は、瞬間、の底からそうわないではいられなかった。

 なぜなら、鉄ののような大型船も、この時ばかりは板子一枚下は地獄である。恐怖ので一夜を過ごした尾道丸の人達がもう一晩、荒れ狂う海上で、沈没の危機にある船の中で過ごすことができるわけはないだろう。退船してくれば、大シケの中、必ず犠牲者が出る。救助する自船の乗組員の中からも必ず出る。最悪のケースだ。それをあの青波が止めてくれたのだ。

 同時に、青波は、なんとか救助を急ごう、シケの中でも最良の方法はないかと、いつしか焦りかけていた自分を「まだまだ持て! 落ちつくんだよ、船長!」と、叱りとばしてくれたようにえた。

御本尊に守られてるゾ”――どこからともなくふつふつと謝のがわいてきた。

「尾道丸、貴船はあくまでも安全に退船することだけを考えてください。一人の犠牲者も出したくありません。こちらも万全の態勢で準備をすすめております。安してください」

 荒天は続く。だが、この時、これで絶対に全員救出はできたゾ、という確信が五体にみなぎってくるのを尾崎船長は覚えた。


粘り強くチャンス待つ


「風はゆるむゾ、必ず」


“あすあたり、必ず凪(なぎ)がゆるむ計算になるな”――。

 尾崎船長はブリッジでここ3日間、送られてきた天気図を熱に見比べていた。 天気図は航海中、6時間毎にファクシミリで届いていた。

 冬季の北半球の気象は極を取り巻く上層の等圧線に4つの気圧の谷がある。1日の進行速度は経度で約15度。1週間ごとに気圧の谷がやってくる。陸でいえば三寒四温のような変化だ。したがって4日以上強い季節風が続くことはほとんどない。必ずゆるむときがくる。31日は吹き始めて4日目にあたっていた。気圧が西の方から上がってきているのを、船長は見逃さなかった。

 船橋で、両船の離れ具合、気象状況、相手の船の変化などを確認すると、後は当直者に任せて尾崎船長は船長室におりていった。そのまま室内に入ると御本尊の前に座り真剣に唱題を始めた。

 その夜、大井司厨長が部屋にやってきた。

「キャプテン、いよいよあすは元日ですね。二重のお祝いだ。正料理は数物ですから普通の皿では出せません。盛り付けは任せていただけますか」

「ええ、よろしくお願いします」

 目を輝かせて帰っていく司厨長を見送りながら、尾崎船長は決めた。

「元日の祝杯を共にあげる準備ができております。無事を祈っております」。これを移乗開始の合図の言葉にしよう、と。

 尾道丸の乗組員の希望と余裕に包まれた笑顔が、船長の脳裏に浮かんだ。“題目だ、とにかく題目だ”こう自分に言い聞かせた。


一糸乱れぬ完璧な態勢


「不議だ、不議だ」


 11日、午前4時。

 シケもようやく静まりかけた。夜明け前の海を、尾崎船長はブリッジからながめている。

 船乗りになって30年。それを記して伸ばしたヒゲが“ベテラン船長”の風格をかもしだしていた。

 この30年、一度も経験したことのないこの2日間の時の流れをい返していた。

睡眠した時間はどれだけあったか。皆無に等しい。今、ウトウトと1時間ばかり眠りについたくらいだ。人間の限界をはるかに越えた“極限状態”にあった。

 しかし自分をはじめ、皆が、どこまでも冷静に、沈着に事に処すことができ、すべでがスムーズに運んでいる。自らのこれまでの航海の体験や蓄積した知識をはるかに超えた力が働いている。

「不議だ」

「不議だな」

ポツリつぶやくと尾崎さんは船内を一巡しに出かけた。傍らにいた平野一航士は、そのつぶやきの味がわからず、けげんそうに船長の後ろ姿を見やった。

 厨房部はすでに正料理の準備に追われていた。

 再びブリッジに戻ると一航士と最終の打ち合わせをした。

「ポートは止めて、ライフラフト(膨張式救命いかだ)を3隻で脱出する。それもロープでつないでもらうよう、尾道丸に伝えてください」

「わかりました」

 一航士はさっそく尾道丸に無線を入れた。

「尾道丸、船長は起きておられますか」

「まだ休んでおられます」

 両船のやりとりを聞きながら、尾崎船長は、安した。――船長が寝られたようすだから、全員、休がとれたはずだ。これなら、きょうの救出活動は大丈夫だ。あとは天候のみ……。

 波は穏やかになったかにみえた。が“の海”はそうたやすくは引き下がらず、最後の抵抗を試みるのであった。

 救出方法はすでに30日の夜、決めていた。

 ミーティングは、一航士と一機士、一航士と通信長、司厨長と甲板長と操磯長……というふうに個々に研究し打ち合わせていく。それらを一航士がまとめて船長にもってきた。


「“神”ですよ、あれは」


 熱な討議の結果、(1)救命艇は船体と艇の間に体がはさまれる恐れがあるので使わず、ライフラフトを3隻使う(2)3個のラフトを風下舷の海面に投下、展張後、ロープで連結(3)だんぴあ丸の方は尾道丸の風下舷に接近し、舷側にライフネットをたらす(4)ロープの中央に輪を作り、尾道丸の人達が自力でネットをはいあがると同時に、だんぴあ丸の人達が甲板上でロープの両端を引き、上るのを助ける。

 このほか、船内の人員配置、救助態勢も組み立てられ、司厨部では救助後の、遭者のための風呂、部屋割り、供食の仕方も決められていた。

「パンツとシャツや日用品の寄付をしてください」と、寺西三航士が通路にダンボール箱を2個用した。1日で、下着類や日用品が箱からあふれていた。

 後に、このだんぴあ丸の用周到さに対し、海救肋について研究している日本海技協会の斉藤吉平調査部長は、その模様を聞いて舌を巻いた一人だ。

「とにかく完ぺきですね。船長の判断力といい、救助役務の分担と準備の良さ、そして両船間はもとよりライフラフトと本船間、船橋と甲板上の現場間の、完ぺきな通信連絡、そして救助後の準備、何もかも、あの世界中で一番シケている冬の“の海”で冷静に行われたとは、今でも信じられないくらいです。まさに“神”ですよ。常日ごろの船長を中とした人間的なつながり、チームワークががっちりとできあがっていたからだといます。この救助方法は、日本のみならず世界の船乗りの鏡です」

 5時半。

「今から準備して2時間後に退船します。よろしくお願いします」

「了解しました。こちらもそれに合わせて準備します」

 尾道丸から連絡が入った。平野一航士がそれを受けた。そこへ大野甲板長がブリッジに上がってきた。

「救助のために必要な品物は大丈夫ですか」

「はい、ライフネット1枚、ライフボールが2個、トランシーバーは3台……」

「それぞれの置き場所は明確になってますね」

「はい、大丈夫です」

 2人で最終的な打ち合わせ。

 6時。だんぴあ丸の乗組員は全員、起床した。

 6時半。「準備完了。ライフラフトを投下します」尾道丸から連絡が入る。両船の距離は約600m。救命索発射器は使わない。

「一号艇投下」

「二号艇投下」

「三号艇投下」

 と続いた後「乗艇を始めます」。

 尾崎船長は用した言葉で答えた。

「元日の祝杯を共にあげる準備ができております。無事を祈ります」

 一号艇乗艇が完了したころ、スコールがやってきた。風速計は17m。ヒヤリとする瞬間だ。が、まもなく「全員、乗艇完了」の連絡。だんぴあ丸の甲板上で救命胴衣を身にまとい待ち構える16人の顔に安堵(あんど)の色がさした。


「スコールよ、来るな」


 10人、10人、9人と分乗した3隻のライフラフトは、ロープで連結されて風船のようにふくらんで海上に浮かんでいる。オールを使って尾道丸から離れようとするが、うにまかせない。ライフラフトは風向き、波の流れに左右される。約3mのうねりがあるためオールでは自由に方向はとれないのだ。

 やっと離れた。が、なんと待機するだんぴあ丸とは逆方向に流されている。海上の模様から尾道丸から風下に待機していたのがウラ目に出た。海の男と“の海”との知恵比べである。

 急きょ、救助船は一回転して待機場所を、3隻のライフラフトの流れてくる方向にとった。両船の距離はやはり約600m。

 もう乗艇開始後2時間を経ようとしていた。もたもたしているとスコールが襲う。スコールの間隔は約2時間という。これは太平洋上の掟(おきて)だ。

 万一、ライフラフトがスコールに飲み込まれたら、万事休す。

“スコールよ、来るな!”――54人の男達のは一つだった。ここで失敗すれば、九仞(じん)の功を一簣(いっき)にかく。

 やっとロープで連結されたライフラフトが待ち構えるだんぴあ丸の左舷に到着した。左舷に打ちつける波はない。が、上下の波の振幅は約3m。人の背丈の倍ぐらいある。波の上をエレベーターのように上下に浮き沈みしているライフラフトから、それも波が一番上に上がったところで、左舷にたらされたライフネットに飛び移るわけだ。

 タイミングがはずれるとザブンと海水をかぶってしまう。いつしか間囲にサメが不気味に群がっていた。船から排出される汚物をかいで近寄ってきたのだ。

 ともかく順番にライフネットを一人一人はいあがってくる。それを甲板から引っぱる。

「落ち着けよ」「もう少しだ」合図マンの甲板手の激励の言葉がとぶ。

 強引に引き揚げるのでデッキの上で引っぱる人の腕は棒のようになってしまった。動きのにぶい人が出れば、すぐだれかが代わって引っぱった。交代でテキパキと無駄のない作で遭者がデッキに次々とたどりついた。

「早く風呂だ! 案内してやってくれ」――甲板手の、生き生きしたが甲板に響いた。


「二航士、方向を鹿島へ」


 果たしてスコールがやってきた。ゴーッという音とともに。

の海”の最後のあがきにもえた。

 再び風速計は17mを示した。残る2号艇から一人また一人ライフネットへ移るところだった。

「スコールが通り過ぎるまで待ったらどうか」。ブリッジから尾崎船長は、甲板上でトランシーバーをにあて現場で指揮する一航士に聞く。

「やれます。続けてやらせてください」。勢いに乗っているときは事故は起きない。

「よし、了解!」

 幸い、尾道丸の方では年配者から先に上らせていた。残っている人は若い。激しいシャワーの中をネットを上ってくる。

ついに29人、全員が甲板に上り切った。ブリッジの時計が8時45分を示している。

「ありがとうこざいました」

 尾道丸の北浜船長が、目に涙をいっぱいためて甲板上に出てきた尾崎船長に抱きついた。

「一人でも犠牲者を出していたら、私は生きてはあがれませんでした」

 胸の中でつぶやく北浜船長。28人の乗組員を守るため迫りくる死の恐怖と戦い抜いた男の、像を絶する労が、尾崎船長には同じ船長としてわかるような気がした。

 人は、海の男にロマンを求めるかもしれない。しかし、船乗りにとって結果がすべてであり、それはいいしれぬ厳しさを、突きつけられている。どんなに努力し、研究し、労を尽くしたとしても、結果が失敗であれば、それは即、死を味するのだ。こうした例は枚挙にいとまがない。

 今度の“奇跡に近い救出”も、人は、たまたまよい条件が重なって結果が良かったのでは、というかもしれない。

 しかし、どこまでも船乗りは結果がすべてなのだ。

“助かった”という事実こそが最も尊く最高の賛辞が送られるべきだろう。

“よくぞ、お互いに辛抱強く耐えぬくことができましたね”そんないが込みあげてきた。尾崎船長の目にも涙があふれた。抱き合う二人の両腕にグッと力がこもった。

「セコンドオフィサー、方向を鹿島に向けてくれ。コース、290度」

 尾崎船長は、船長室に戻り、会社に喜びの電報を打った。柱時計は9時15分を指していた。

 SOSを受信してから44時間と6分。すさまじい死闘だった。だが、ついに54人の海の男達は勝ったのだ。彼らの友情と忍耐と団結の前に、ほえ続けた“の海”は屈服したのである。


船上で涙あふれる新年会


「おトソの味忘れられない」


 午前10時。船上にだんぴあ丸と尾道丸の乗組員が勢ぞろいした。動と激の新年会が始まった。

 司会の渡辺通信長のが弾んでいる。

 日焼けしたとの顔にも会の笑みがこぼれていた。

 尾崎船長はあいさつした。

1981年、おめでとうございます。もし一人でも犠牲者を出していれば、元日をこうして祝うことはできなかったでありましょう。八という字は日本では古来、末広がりとして喜ばれる数字です。

 81年は、日本人船員に吉となる年であるといます。希望に満ちた年、1981年を明るく元気に頑張りましょう」

 続いて通信長が、届いたばかりの海上保安庁警備救部長からの電報を読んだ。

「尾道丸の救助に対しては、悪条件にもかかわらず沈着、冷静、的確な救助活動により乗組員全員を救助されました。それは船長以下乗組員一同の崇高な同僚愛と高度な技術のたまものであり、その功積を高く評価し、謝のを表します」

 読み終わると、大拍手が起こった。

 乾杯の盃を交わした。

「助けてもらっただけでもうれしかった。それなのに、25人分しか用していなかったはずの正料理を、分かち合っで、私達のためにも新年会を開いてくださって、何といっていいのやら……このおトソの味は生涯忘れられません」

 北浜船長はをつまらせた。同じく尾道丸・山根厚志二等機関士も「この新年式のほかにも、着替えの衣類をはじめ、日用品やコーヒー、飲み物などまで提供していただいて謝のしようもありません」と激の面持ち。「お風呂からあがって、軟らかく乾いた服を着ることがこんなに気持ちがいいものだとは、知りませんでした」と乗組員のだれもがいった。

 おトソを、グイと飲みほした尾道丸の乗組員の目からまた新しい涙があふれた。

 和やかな歓談が続く。

 自分達のもともと着ていた服が乾くと、尾道丸の人達は、真の衣類をきれいに洗たくして返した。海の男達の麗しい友情と生きる喜びを満載しながら、だんぴあ丸はひたすら新春の太平洋を一路、鹿島港に急いだ。


の海域”とは


この冬、大型船2隻が行方不明……

 千葉県・野島崎東方約300kmから5000kmの北緯30度から35度付近の太平洋上は「の海域」と呼ばれる。気象庁海上気象課の話では北太平洋は「低気圧の墓場」と呼ばれ、冬場は台風並みの大シケが続くうての荒海になるという。

 44年15日、大型鉱石専用船「ぼりばあ丸」(33800総t)が船体を真っ二つに折って沈没、31人が死亡。45年29日には「かりふぉるにあ丸」(340000総t)がやはり船体を折って沈没、5人が死亡した。このほか、大型船が次々とナゾの沈没を起こしており、バミューダ(米東海岸)沖の“ナゾの三角海域”と並んで野島崎沖は“の海域”として海の男から恐れられている。

 今冬季は例年にない大シケで、昨年1228日、ユーゴスラビアの貨物船「ドナウ号」(14712総t)が、翌年12日、ギリシャの貨物船「アンティパロス号」(13862総t)が、相次いで行方不明、海上保安庁が捜索したが浮遊物すら発見できない。

 いったいこの冬、の海で何が起こったのか。こうした中で「尾道丸」が沈没を免れたことは、現代科学の力が及ばない大自然のミステリー解明へ、大きな手掛かりが得られるのではないかとの期待がもたれていた。しかし、乗組員全員救出後、日本に向かい、えい航中、惜しくも沈没、関係者をがっかりさせた。

 さる46日、リベリアの大型鉱石船「マルコナ・トレーダー号」(39600総t)が野島崎沖において船首に大穴をあけながら、千葉県君津市の岸壁に到着。

の海域”の“生き証人”として今、関係者の間から熱い視線を浴びている。

 の海を通る北太平洋航路は日本と北米大陸を結ぶ重要な貿易ルート。それだけに“なぜここで遭が多いのか”――一日も早いナゾの解明へ関係各方面の関は高まっている。


“国民的顕彰”に値する


【元東京商船大学長・浅井栄資氏の話】


「今回の尾崎船長はじめ、だんぴあ丸の乗組員の方々の、29人全員の救出という功績はまさに国民的顕彰に値するものであります。

 かつてアメリカの大型船がベーリング海峡で遭した時、ちょうど通りかかった日本船が救助にあたったことがあります。結局、3人しか救出できなかった。その時、アメリカのとった態度はどうか。米大統領みずから救出にあたった日本船に謝を込めて表彰の記品を贈ったのです。また、の海で『かりふぉるにあ丸』が沈没した時、ニュージーランドのオーテアロー号が救助に当たったが、22人を救助したが、残ながら5人の犠牲者を出してしまいました。それでも勇気ある人命救助の行動に対してイギリスは、女王からの勲章をその船の船長に贈ってたたえています。

 このようにすべての海洋国は、海救助活動に対し、その誉を顕彰する制度がありますが、日本も人命尊重、船の安全を守るためにもそういう制度があった方がいいと願っています。今回のだんぴあ丸の活躍を契機に海洋国・日本としての識が、全国的に高まっていくことを期待しています」


取材余話


○……尼崎さんは、救出成功の因をこう言う。「大シケの中で丸2日間、じっと待ち続けることのつらさを本当に知った。忍耐ですね。あそこまでよくぞ耐えられたものだなと、自分でもビックリしてるんです」――。

 荒れ狂う海にただよう破損船。いつ沈没するかもわからない。だが、いま脱出させれば結局は、海のもくずだ――この時の忍耐はまさに最大の勇気であり、力であろう。尾崎さんは、これこそ信仰で学び、培ったものだとも言った。忍耐できる人のみが人生に勝利できる。忍耐できることそれ自体に、すでに勝利が含まれている。このことを、尾崎さんが今回示した行動は、如実に証明している。

 関係者の間でも「全員を無事救出するという固い信で最後までよくじっと時機を待っていたものだ。さらに相手船のの動揺を察知し、ことこまかに気を配って激励している。並の人間じゃできないことだ」(全日本海員組合安全福祉局安全・法対部副部長・山元浩一氏)というが出るほどだ。

 尾道丸の乗組員も尾崎船長の指示を落ちついて受け止め、しのびよる死の恐怖に2昼夜も耐え抜いたことは、立派であり、見逃してはなるまい。


取材余話 その二


○……「今回の航海で1年分の題目をあげたようにいます」と尾崎さんは笑った。救助活動中、終始、口の中で題目を唱えた。「すると不議とが落ちついできて、打つ手、打つ手がピタッとうまくいった。こんなことは初めて。まさに極限状況の中で御本尊様の力を痛しないわけにはいきませんでした」と言い切った。

 尾崎さんは長崎県の生まれ。17歳の時、船乗りの第一歩を踏んだ。すでに船乗りだった4歳上の兄の影響で、昭和26年、佐賀県唐津の海員学校を出ると第一汽船KKに入社。見習甲板員から出発した。

 32年、海技専門学院の甲種二等航海士科に1年間在籍、免許を取得。さらに36年4、甲種一等航海士に。41年、海技大学校本科を卒して翌年、32歳の時、甲種船長の免許を取得した努力家であり、労人である。

 この間、生命の法則、宇宙の法則を完全に説き明かした法にひかれて入信(47年)。生命の尊厳を貫く固い信で、今回の貴重な体験を積んだが、さらに自己を鍛えて尊い人命をあずかる職務を全うしていきたいと静かに語った。


取材余話 その三


 尾崎さんは、高3長女を頭に2男2女の父。妻の文子さん(41)は大B担当員で活躍する。一家はまさに学会家族である。

 文子さんが夫の“歴史的な快挙”知ったのは、だんぴあ丸が鹿島港に入った16日。1230日は、モチつき、31日は正料理の準備に追われていて「全然、知りませんでした」。

「事故があった」と電話で第一。「えっ、父ちゃんの船が?」とビックリ。「いや、(遭船を)救助して29人全員を助けたんや」という夫の淡々としたに、2度ビックリしたという。

 その遭船救助活動が“の海”と船乗りから恐れられている洋上で、それも暴風雨の中で行われたことを知って「わず受話器を落としかけました。もうから御本尊様の力を痛しないわけにはいきませんでした」。

 また文子さんは、題目ノートをつづっている。51年10から始めた。その前に夫は船長として遠洋航海へ初出航している。重責を担う夫の無事航海を深くに期していた。題目ノートをみせてもらうと、今年11日、つまり、無事救出が完了した日に、文子さんの唱題は600万遍達していた――。


 夫人・文子さんの体験


【放映日翌日、泉州総県の婦人部幹部会で体験発表】


  • 私の入会は昭和41年。当時、主人が船乗りであったため、不安な生活が続き、ノイローゼになったことが入会動機です。
  • 私が入会したことを知った主人は、言論問題が起こっていた当時などは、藤原弘達の本や、週刊誌に載っている学会批判の記事を私に見せながら、猛烈に反対しました。
  • 入会後、子供にアトピーやチック症状の宿が次々と、出てきました。しかし、退転したらもっと不幸になると、歯を食いしばって、先輩について折伏に走りました。
  • その後、子供たちの症状も収まりました。
  • その頃、主人は、たまたま海上生活から、仕事の関係で、3年間、大阪勤務となり、陸上生活となりました。そのときに、住んでいた金剛団地で、自治会の副会長をすることになりました。担当は、盆踊り。櫓(やぐら)の設営やら、人集め、スポンサー探しなど、大変な担当です。いざ、櫓を組むとなりました。当時、金剛団地で自治会を仕切っていた共産党関係の役員は、こんな時、誰も手伝ってくれません。そのときに、文句一つ言わず、てきぱきと手伝ってくれたのが、学会男子部のメンバーです。手伝ってくれた人全員が、学会男子部。その姿にを打たれ、昭和47年、ついに主人も入会しました。
  • 危険な船上生活を続けていた関係で、信仰の必要はもともと痛していた主人ですから、入信してからは、船長室に壇・御本尊を御安置し、信に励むようになりました。
  • 昭和53年、泉州文化が落成した折、池田先生が来館してくださいました。会館落成の特別財務に頑張り、当日を迎えた私は、配達員の代表として会合に参加させていただきました。その時、運営誘導にあたっていた創価班の手違いで、何と先生と幹部の代表との記撮影に入らせていただくことができました。
  • そして、ずっとつけていた題目ノートが600万遍を数えて迎えた昭和55年の暮れ。あの海事故が起こったのです。
  • 題目ノートとともに、歩んできた私の人生ですが、今回、番組が放映されたこの5で、40回目の100万遍、4000万遍となりました。
  • 番組の最後で、主人と一緒に桜の並木道を歩くシーンを見て、信してきて本当によかったとの底からいました。

の海に勝て!』尾崎哲夫(潮出版社、2003年)


魔の海に勝て!


DVD


プロジェクトX 挑戦者たち 第VII期 嵐の海のSOS 運命の舵を切れ

2003-01-22

大野利夫


【東京・足立区 会社経営 59歳】


 我が家は貧乏のどん底で46年前に入会しました。当時、私はまだ中学3年生でしたが、一回り年上の男子部の先輩に、会合に連れて行ってもらうのが楽しみでした。


 の温かい人で、電車やバスに乗る時は、いつも自分で切符を買って、そっと私の手に握らせてくれました。


 夏季地方折伏の帰途、あることで、先輩が労して旅費を工面していたと知った時は、ありがたさと申し訳なさでわず泣きました。


 ある日、私が「将来、働いていっぱい返しします」と言うのを聞いた先輩が、夜空を見上げながら、「僕は、君がいくらお金を稼いでもうれしくないよ。広布の人材になることが一番うれしいんだ」と言った一言が、忘れられません。


 今も健在で、私を見守り続けてくれている先輩は、私の誇りです。


【「みんなの広場」/聖教新聞 2003-01-22】

2003-01-10

水間芳子


【57歳 圏副婦人部長(婦人部本部長兼任)愛媛県・保内町】


プロローグ


「お父さん、お母さん、勝ちましたね! 本当におめでとう」――来賓祝辞に立った新婦の上司が、開口一番、そう語った。先月28日に松山市内のホテルで行われた、結婚披露宴。予期せぬ言葉に、新婦の母・水間芳子さん(57)=川之石支部、圏副婦人部長(婦人部本部長兼任)=の瞳から、大粒の涙があふれた。


 原因不明の慢多発関節リウマチと闘って26年。陰で支えてくれた夫・弘運さん(59)=保内支部、副本部長(支部長兼任)=とともに、3人の娘を育て、全員を創価大学に送り出した。昨年9月に嫁いだ三女・玉井令恵さん=松山市、土居田支部、ブロック担当員=に続く、長女・晴子さん=砥部町、宮内支部=の晴れ姿。信仰の書びにあふれた母と娘が、いを綴った。


母の手記


 私たちが信できたのは、晴子のおかげでした。小さいころから引っ込み案だった晴子が、配で配で。そんな私を見かねた姉が、お題目を唱えては、と励ましてくれました。


 実際に唱えると、不議なくらいが軽くなるのです。反対する夫を何とか説得し、娘たちと入会したのは、1976年(昭和51年)のことでした。


 晴子はまだ五つ。でも、いつも私の隣で、題目をあげていました。その晴子が、見る見る積極的になっていくではありませんか。私の信の原点となりました。


 翌年、病が私を襲いました。慢多発関節リウマチでした。錐で傷口をえぐられるような鋭い痛みが、全身の関節を襲うのです。


 身体にちょっと触れられても、跳び上がるほどの痛さ。起き上がりたくても痛くて手を付けない。あごの関節が痛くて、食事もほとんど取れません。トイレに行く回数を減らすため、水分も極力取らず……体重が38kgまで減った時もありました。


 強力な痛み止め薬を、飲みました。しかし、飲み続けると身体に負担がかかるため、常用はできませんでした。


 薬を飲まない日は、夜中も激痛に襲われました。毎晩、うめき声で娘たちを起こさないように、タオルを口にはさんで耐えました。「この痛みと一生付き合っていくことを覚悟してください」――医師の言葉が脳裏をよぎります。


 そんな私を、娘たちが励ましてくれました。3人で力を合わせて、家事もしてくれました。晴子と香代=二女・圏女子部長=が、買い物や掃除を、3歳だった令恵まで、エプロンを着けて「きょうは私がお母さん!」と言っては、できないなりに、台所で洗い物をしてくれるのです。


 健気に手伝ってくれる娘たちを見て、私は胸の中でいつも祈るのでした。“この子たちを、必ず立派に育てます! 広宣流布の人材に!”と。


 夫は月の半分が出張。婦人部の先輩が毎日のように食事を作りに訪れてくださり、学会同志のありがたさを痛しました。


 発病して1年がたったころから、“薄紙をはぐように”痛みが軽くなっていきました。


長女の手記


 母はいつもお題目を唱えていました。そして、口癖のように話す言葉が三つありました。


「お母さんの身体はね、今はこんなでも、必ず良くなるからね! 『冬は必ず春となる』のよ」「お父さんが信できるように、皆で祈ろう!」「池田先生のもとへ、創価大学に行こうね」――母は、膨(ふく)れた手を合わせながら言うのです。その確信あふれる言葉が、私たち姉妹の希望でした。


 私自身、小学校に上がる前から勤行に励み、母を手伝ったのも、“お母さんと一緒に頑張り、お母さんの祈りをかなえたい”との一からでした。


母の手記


 80年、夫の転勤で、仙台から愛媛に戻りました。そのころには、多少は動ける身体になっていました。


 私は、“絶対に宿命転換しよう”と決し、聖教新聞の配達を始めました。しかし、いとは裏腹に、疲れやすく、なかなか足がついていきません。


 その時も、娘たちが手伝ってくれたのです。特に就学前だった三女の令恵は、毎日、三輪車に乗って、「私たちが配った分だけ、お母さんが楽になるんでしょ?」と言いながら、一緒についてくるのです。その姿に、幾度も胸が詰まりました。


 身体は、見る見る良くなっていきました。その姿を見て、84年、ついに夫も入会。翌年4月、愛媛青年平和文化祭で、夫妻そろってダンスの演技に出場することになりました。


 本番一週間ほど前の夜でした。練習が終わって帰宅すると、家中に小さなメモが張ってあるのです。玄関、壁、ドアノブ、果ては蛇口や箸置きにまで。そこには「あと少しで先生に会えるよ、頑張ってね」「お父さん、運転に気をつけてね」「お母さんの分、お題目あげてるからね!」……1枚1枚には、娘たちの前も書いてあります。私は、その文字に込められた娘たちの優しさに、疲れも痛みも忘れ、泣きながら3人を抱きしめました。


 当日、文化祭に出席された池田先生の前で、夫とともに元気に踊ることができました。そして誓いました。“先生、これからは、私の人生すべてを、人々の幸せのために使っていきます!”と。


長女の手記


 文化祭を大成功に終え、母は毎日、元気に活動へ出掛けていきました。帰宅すれば、「きょう、○○さんと法対話してきたの!」と、うれしそうに話すのです。母の話を聞くのが、私の楽しみでした。


 支部婦人部長に任命された88年には、母はあの身体で運転免許も取得しました。そして95年からは、全長約40kmの“日本一長い”佐田岬半島を含む西宇和本部の婦人部本部長としてはつらつと活動する毎日でした。


 女子部で本部長を務めた香代が驚いていました。「私の友人は、あなたのお母さんさんの体験を聞いて入会できたんです!」「お母さんの明るさと体験にひかれて発しました」と、あちこちの女子部員から謝され、あらためて母の偉大さを実したと言うのです。


 私たち姉妹は順番に、89年、91年、93年と、創大に入学し、池田先生のもとで鍛えの青春を送ることができました。母の祈り、そしてもちろん、グチもこぼさず懸命に働き続けてくれた父のおかげ、と謝でいっぱいです。


母の手記


 リウマチの合併症と言われる強膜炎を患い、失明寸前になりましたが、信根本で乗り越えました。


 昨年、十数年ぶりにリウマチの検査に行くと、変形した手首の関節を検査した医師が、「病期は、ステージ4(末期)です。本当に痛みがほとんどないのですか?」と、目を丸くしていました。


 幼き日、娘たちに告げた祈りは、すべてかないました。今うと、身体が不自由な分、何倍もの“”で勝負できたからだといます。これからも、婦人部の先輩として、娘たちに負けてはいられません。


長女の手記


 最後に、披露宴で読み上げた、両親への「贈る言葉」を――。


「お父さん、かつては信反対だったのに、創大に行かせてくれて、本当にありがとう!

お母さん重いリウマチもにもかかわらず、いつも太陽のように励ましてくれたありがとう!

これからも、婦人部の良き先輩として、いろいろと教えてください。


晴子より」


【聖教新聞 2003-01-10付】