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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2008-03-03

知識を深く掘り下げよ


 現代は、「情報」が氾濫しているゆえに、一つのことを深く掘り下げて理解しようとするよりも、多くのものを「浅く」「覚的に」頭の片隅にとらえておくだけで済ませる傾向がある。

 しかし、これからは「知力の時代」である。深く正確な「知識」がなければ、「知恵」を発揮することもできない。

 広宣流布を進めていく上においても、単に「この信は素晴らしい」と言うのみでは、幅広く法への理解を広げゆくことは到底できない。あらゆる角度から語りに語り、多彩に表現してこそ、より多くの人々を納得させられる時代である。

 ゆえに諸君は、瑞々しい向上をもって「知識」を探求しゆく努力を忘れないでいただきたい。


【神奈川県、青年・学生部代表者会議 1990-01-15 神奈川文化会館


味のない会合に参加するぐらいなら、家で勉強しろ」と言っておきたい。私の基本的な考え方としては、「1000円払っても参加したい」という会合だけ出席すれば十分だ。


 地道な行動は大切だが、5年、10年と活動しながら、折伏もできなければ、家庭指導もできない活動家じゃしようがないよ。


 何かしらテーマを持って勉強することが望ましい。各人が生涯に一冊の本を出版できるぐらいの専門知識を身につければ百人力だ。


 他人のブログを覗(のぞ)いてしている内は30点!

2007-11-27

新鮮な発想、無限の着想力を発揮せよ


 ともあれ、誰にも真似できない独創をいかに発揮するか。新たな分野をいかに開き、新たな波を起こしてゆくか。ここにこそ、真実の英知の発露があり、あらゆる戦いに勝利しゆく源泉がある。

 新鮮な発、汲めども尽きぬ無限の着力。それは、単なる「知識」から生まれるものではない。「知識」を活用し、生かしてゆく「知恵」こそ、その根本であり、一切の頭脳戦に勝ちゆく「力」である。「知恵」なき「知識」は、卑しい「見栄」や「飾り」となることが少なくない。


【第2回創価栄光の集い 1989-11-03 創価大学中央体育館】


 1985年にソ連共産党書記長となったゴルバチョフ氏が翌年、ペレストロイカを提唱。一躍、時代の寵児となった。ゴルバチョフ氏は共産主義という鋳型に「新考」という風穴を開けた。


 この指導がなされたのは、まだバブル経済の真っ只中である。NTT株が160万円の初値をつけ、わずか2ヶ後には318万円の高値となったニュース(1987年)を覚えている人も多いだろう。人々が好景気に酔っている中で、先生は次代を見据えて、本格的なスピーチを開始された。同時期には、「知の戦国時代」とも指摘されている。


 第二次宗門問題直後、本尊下付ができなくなった青年部は、大学校運動に邁進した。その時に拠り所(よりどころ)となったのが、これらの指導であった。


 云く、「昔の学会セミナーは入り口が広く、出口は狭かった。これからは、誰もが自由に出入りできる場が必要だ」(笑)。環境問題に取り組んだところもあった。牛乳パックや空き缶を集め、学会と世間の垣根を低くすることを眼目とした。


「知恵を出せ!」と若手メンバーが集められた(笑)。普段なら見向きもされない好き勝手な見が重用された。


 たった2年ほどだったが、凄まじい変化だった。本山で行われた夏期講習会と同じく、経験した者にしかわからない世界であった。

2006-03-17

“精神の戦国時代”の到来


 また、個人だけにとどまらず、いかなる団体にせよ、時代の急速なテンポについてゆけないところは、みるみる淘汰され、消えてゆく時代である。古き、古き表現もまた同様である。

 その味で21世紀は、あらゆる団体が生き残りを賭けた“新たな戦国時代”ともなるにちがいない。

 それは、もはや軍事力の戦いではない。経済力のみの競争でもない。人々の精神の宇宙をどう開き、を充実させ、人間としての尊厳を実現していけるのか。誰がそれを成せるのか。その一点に焦点を定めた戦いである。その味で、知恵と精神の力の限りを尽くした、まさに“精神の戦国時代”が到来するであろう。

 それは同時に、知力の勝負ともいえる“知の戦国時代”でもある。

一面、大変厳しい時代でもある。しかしその反面、いくらでも伸び、拡大してゆくチャンスが広がっているともいえる。むしろ、痛快にして面白い時代ではないだろうか。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


“大変”だからこそ、“大きく変わる”ことができる。この積極こそ、本因妙の魂だ。手をこまねいて嘆くだけなら、誰にでもできる。


 今、先生は一貫して「女子部を大切に」と指導されている。「先生、そりゃ、ちょいとばかり過保護じゃないッスかね?」と言いたくなるほどの徹底ぶりだ。


 若い女は、社会の中でも最も軽んじられている。職場でも、「どうせ、結婚するまでの腰掛けだろう」という冷たい視線にさらされている。「何もできないくせに生気だ」とか、コピーやお茶を頼まれたり、色んな労があることだろう。言ってみれば、“一人前の大人”として扱われてない現実がある。


 創価の新時代を迎えるに当たり、先生はそこに手を入れられた。当然、社会に対する警鐘の味も込められているだろう。不安定な時代にあって、“次代の母”を育てられようと、全魂を打ち込まれている。


 大体だね、援助交際をしていた世代が既に母親となりつつあるのだ。放っておけば、世の中が滅茶茶になるのは火を見るよりも明らか。喪失されつつあるモラルを回復するためにも、創価の乙女の健闘を祈らずにいられない。


 この指導を実践するためには、結局、民衆の機根を知るしかない。人々が何を求めているのか。どこへ向かおうとしているのか。何が満たされてないのか。何を見失っているのか。こうしたことは、一人ひとりのに分け入るような対話があって、初めて知り得ることができよう。


 また、世間のあらゆる動きを敏に察知すれば、そこに象徴される何かが必ずあるものだ。


 諸法実相の観世音なれば地獄餓鬼畜生等の界界を不議世界と知見するなり、音とは諸法実相なれば衆生として実相のに非ずと云う事なし、寿量品の時は十界本有と説いて無作の三身なり、観音既に法華経を頂受せり然らば此の経受持の行者は観世音の利益より勝れたり云云(776頁)


 観世音菩薩は、世の中の音を観じて人々を救ってゆく。民衆のなきを鋭く察知し、悩をすくい取ってゆくのだ。


 鶴見祐輔著『ナポレオン』(潮文学ライブラリー)の中で、ナポレオンが大地にを当てるシーンが何度となく描かれている。民の鼓動にを澄ます様が劇的であった。


 人類の新たな歴史は、いずれも動乱の中から生まれた。そして、革命は常に無の青年によって成し遂げられた。


 歴史を創るは この船たしか

 我と我が友よ 広布に走れ

2005-04-11

信心根本に知性豊かであれ


 これからのリーダーは、信を根本に、知豊かであっていただきたい。そうでなければ、多くの人を納得させることはできないし、かえって法を下げてしまう場合もある。

 一切法は法に通じ、法は一切法に開かれていく。ゆえに社会の万般の事象にわたって論じられる力をつけていく努力も必要である。そして、明快に、人のの奥の奥まで、指導の光を届かせる力量を養っていかねばならない。

 そうした指導者が増えれば増えるほど、社会の人々に妙法の偉大さを堂々と示し切っていける時代に入っている。


【記関西支部長会 1989-02-02 関西文化会館


 知とは、諸法から実相を手繰り寄せる作である。氷山の一角から全体を把握する像力であり、全く異なった事象の間に関連を見出す視点であり、物事の本質に鋭くメスを入れる探究である。


 メディア社会は、受け売りの知識が横行する社会だ。世論は図的な質問によって形成され、政治家や学者、あるいはコメンテーターやタレントが、勝手に国民の代弁をする。


 自分の考えを持っているか? その見は、昔読んだ書物に書かれていたことではないのか? その見方は、先日のニュース番組で報じられたものではなかったか?


 言葉に魂を吹き込む営みが対話だ。これを折伏という。


 極端な像をしてみよう。先生が過去になされた指導の全てをデータベース化し、先生ので発するコンピューターがあったとする。果たして、悩みを抱いている人々は、これで解決できるだろうか?


 できるかもね(笑)。でも、そうだとすれば、我々は使命を失うことになるから、全員の地獄行きが決定する(笑)。


 多分、正確な答えを導き出すと、悩みを解決できる人もいるが、解決できない人もいる、ということになろう。


 なぜ、解決できないケースがあるのか? それは、言葉にいが込められていないからだ。共に泣き、共に笑うことができないからだ。言葉に体温が伴い、血が通ってこそ、相手のに響くからだ。


 知を磨くには、まず、自分が興味を寄せていることを徹底的に学ぶことである。学んでゆく内に、どんどんと枝分かれして、更なる興味の対象が発見できる。あらゆる方向へ探究の根を伸ばしてゆけば、知識は天を目指す枝のように体系化されて知と化す。


 池田先生が、世界中の識者から共を勝ち取っているのは、平和提言などで示した英知によるものだ。光り輝く知に吸い寄せられて、直接会った途端、その人間にノックアウトされる(笑)。


 噺家(はなしか)や漫才師は、人を笑わせるのが仕事だ。学会の幹部は、人を歓喜させ、勇気と希望を持たせることが仕事である。それができなければ、幹部としての責任を果たせないので、謗法となってしまう。

2004-12-27

見識


 見識は独立せる自由人の基本条件であります。私どもはそれを法に求めました。そればかりではありません。見識はこの社会の複雑な機構のなかを生き抜いていく、責任遂行上の負担能力の基礎でもあります。それは、他人の利害とも大きく関わっていく必然を持つものであります。

 ことさら堅しく、しく考える必要もありませんが、未来の時代に生き、未来の社会にこれから進む諸君は、自分なりに堂々とした見識を養っていただきたいのであります。

 信の見識は深く、職の見識は独特に、社交の見識は広く、学識は正確に、余技の取得は豊かにと得ていくならば、まずまず堅実ではなかろうか、と考えるものであります。自分の個にマッチした方向と仕方で、存分に見識を伸ばしてください。

 誰が見ても非常識と良識の差は歴然たるものがあります。環境の混乱に引き込まれて埋没し去るか、また環境のみを恨み批判してしむか。その反対に、環境と前向きに調和して自分を建設していくか。学会健児は残らず後者であっていただきたい、と私は諸君の見識を祈るものであります。


【第21回男子部総会 1973-02-18 東京・日大講堂】


 広布第二章で訓練を受けた方であれば、誰もが知る有な指導。特に、「信の見識は深く、職の見識は独特に、社交の見識は広く、学識は正確に、余技の取得は豊かに」の部分は暗記の必要あり。


 前半部分はしい言い回しとなっているが、広布第二章にあって先生は一貫して、法の哲学的展開を指向されている。相呼応するように世界各国の識者から対談の申し込みがあったことは、歴史が示す事実である。


 生命と宇宙を貫く法を知った以上、卓越した見識を示さずして、多くの人々からの共を得ることはできない。個人や社会、はたまた世界が抱える困な課題に対して、根本的解決への方途を提示し、相手の目を開かせ、そこに希望を映し出すことが求められる。


 同じ物事を見ても、見る人や見る位置によって、全く違う表情が見えてくるものだ。人は不幸に喘ぎ、悩に覆われると、往々にして部分観にとらわれる。「私が悩んでいるのは、あの人のせいだ」などと不幸の原因を環境のせいにしがちだ。その視界を開き、幸福への段階を示したのが五重の相対であろう。


 二乗、悪人、女、畜生というあらゆる差別を乗り越えて、万人が幸福になる道を指し示したことによって、法は全民衆に開かれた世界宗教となったのだ。西洋の宗教は、差別を取り払うことができなかったが故に、的な行き詰まりを避けられなかった。


 今日は、先生が総講頭を罷免(ひめん)された日。僧・日顕が後ろから斬りかかった日であり、その黒い嫉妬が明らかとなった日である。


 若い頃から遊蕩三昧の限りを尽くした日顕は、海外布教にあってすら深夜の街を徘徊して、トラブルを起こしていた。この下劣な法主の見識は、誰もが唖然とするほどの低レベルで、「ベートーベンの第九を合唱するのは謗法」と言い掛かりをつけてきた。癖にも及ばぬたわ言は、世界中から物笑いとなった。


 あの日から14年。除歴に怯えながら余生を過ごす日顕は、自らの生命の火に焼かれ、列車の下で軋(きし)むレールや、常に火を当てられる鍋底みたいな境涯となっていることだろう。


 極悪との闘争にケリをつけ、更なる連戦連勝の歴史を築いて参りたい。


 首都東京は、本日付の指導より闘争開始。