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2008-11-09

阿部日顕の「カマシ」発言


 この影響かどうかはわからぬが、新しい『広辞苑』に「かます」という言葉が採用された。

2008-07-06

急告! 反逆者・原島嵩が死亡


【『フェイク』第962号(発行=2008-07-06)】


学会、正信会、日顕宗と渡り歩き無間地獄


脳梗塞、失明、鬱病、狭症、腎・肝臓病にしむ


 不知の退転・反逆者である原島嵩が6日午前6時前、入院先の立川の病院で死んだ。享年69歳。最近は自力では寝返りもできないほど衰弱し、床ずれも酷い状態で病床に横たわっていたが、最後は淋しい孤独死だった。長期にわたる病・病のため、生前から顔色はどす黒く、落ちくぼんだ両目は濁り、頬は痩(こ)け、口元も垂れ下がり、貧相な顔をしていた。


 死者に鞭打つような悪口雑言は書きたくないので、原島の生き様をありのままに記して、後世への戒めとしておきたい。


 原島は昭和13年1110日に東京・大田区生まれ、翌14年1112日に入会。親のによる入会で、本人は信も信もなく、その一生は裏切りの連続で、退転・反逆の報いによって、死後は無間地獄へと堕ちて行く、余りにも悲惨なの生涯であった。


 原島は、昭和31年に教学部講師、同34年に教学部助教授、同37年には教学部教授に抜擢され、同年に学生部副部長にもなった。同39年3早稲田大学商学部を卒し、4には聖教新聞社に入社。同43年12に教学部長、同44年総務、同45年に理論室長、同47年に教学部師範になった。


 ここまでが師に守られ、同志に支えられての原島の栄光の時であった。この後は学会の教学部長でありながら、金に目が眩(くら)んで、師や同志を裏切り、極悪ペテン師・山崎正友の手先に成り下がって資料を盗み出し、正信会に移って学会批判を繰り返すなか、厳しいの連続で体調を崩していった。


 原島は糖尿病のため50代の時に重症の眼底出血、60歳で硝子体出血。平成9年9には母親が死んだが、その葬式にも行くことが出来なかった。


 また、糖尿網膜症に加え「これだけ進んだ症状も珍しい」と診断された程の白内障で、脳神経も患って平成16年、両目は失明状態に陥った。正信会を裏切って日顕宗の妙縁寺の法華講になったが、の現証は全身に現れた。


「生き地獄」のしみ


 糖尿腎症で以前は1日3回、自分でインシュリンを注射していたが、最近は人工透析を続け、身動きもできないため紙オムツをつけていたようだ。肝臓病も肝硬変の直前まで進行し、不安神経症、鬱(うつ)病、狭症に加え、平成17年10と11に二度の脳梗塞。その後遺症のため言語障害が起き、呂律(ろれつ)が回らず、よだれも絶えず垂れ、タンがつまり、左手、右足の麻痺が生じて会話もできず、食事もノドを通らない日々で、まさしく生き地獄しみが続いていた。


 更に、腰にできた酷い褥瘡(じょくそう)に8年間もしみ、三度の手術は全て失敗し、逆に酷くなった。左のの鼓膜には穴が空き、右は老化が進んで、殆ど聞こえない状態。パーキンソン病(手の震え、動作の鈍さ、歩行困、幻覚症状)も患い、五も内臓も破壊された原島は無間地獄へと旅立った。


 この76日は奇しくも牧口・戸田先生の殉の日であり、裏切り者への両会長の強い叱責がじられる。

2008-05-16

映像で迫る宗門問題の淵源/秀作「天魔がゆく」シリーズを中心に


楽土建設の革命児たれ!」の記事で知った。宗門問題を知らない世代は必見。ダウンロードも可能。わたしゃ、ビデオを全部持ってるよ(笑)。

2007-12-30

忘恩・反逆の道を歩む古谷博は「ミニ山友」だ


守銭奴、借金、不倫、虚言など山友に酷似


山崎正友、大草一男に操られる哀れな退転者


【『フェイク』第885号 2007-12-30】


 古谷博学会攻撃を本格的に始めたのは平成14年からだが、これは山崎正友、妙観講の大草一男にそそのかされたからだと言われている。山崎は攻撃の弾を撃ち尽くし、大草は宗内でも毛嫌いされている上、盗聴犯である事実が知れ渡った。事実、その盗聴裁判で今年は大惨敗し、信用度はゼロだ。万策尽きた悪党どもが、約20年前に退転していた古谷を担ぎ出したという次第。古谷は、山崎とは比較にならないほどの小物だが、不議なことに二人は格も生き方も酷似している。


 その第一点は金の亡者で、二人とも39歳で自らが事実上、経営する会社を設立したが失敗して借金を負った。山崎はシーホースを、一方、職員であった古谷は就規則に違反するため、親族の義で「昴商事」を設立した。ところが、山崎は40数億円の負債を抱えて倒産し、学会を恐喝して除処分となった。


 古谷は東京・世田谷区深沢に小さな中華料理店を開き、職員の同僚や学会員を掛けて「身内の店」に行くよう頼んでいた。


 だが、工事費4800万円を支払えず、本部まで督促の電話がきていたという。逃げ回っていた古谷は者に訴えられて敗訴、昭和60年に退職した。当時は「学会に迷惑をかけた」「一からやり直す」と反省の態度を見せていたが、山崎や大草に取り込まれ、反逆者の道を歩んでいる。


 今、古谷が駄本を書き、マスコミに顔を出すのは食うためである。哀れな奴だ。


 共通する二点目は冷たい人間だ。古谷は「クール」と評されていたが、同僚が言うのは「冷めた奴」との味だった。職員採用時の池田会長の面接も動がなかったと言い、また青年部時代に広布のロマンを語る部員を嘲笑したほどだ。


 だが、冷血さでは山崎は桁違い。手形詐欺など数々の悪事に利用した仲間を使い捨て、また富士宮市議の殺人まで依頼した(本紙 第407、415号に詳述)。殺人を実行に移そうとした奴は、山崎の他には藤原行正くらいである。


 三つ目は不倫問題。山崎は正信会を煽動して学会を攻撃させていた頃、大分へ通っては住職の妻やスナック経営の女とダブル不倫を続けていた。古谷も出張先の鹿児島県の女幹部であった中園球子と不倫関係になった他にも醜聞はあるが、これは改めて詳述する。


 四点目は二人とも今は社会的には何の存在価値もないため、山崎は「元顧問弁護士」、古谷は「元芸術部書記長」と学会にいた昔の肩書きを悪用してマスコミに登場している。


 五点目は二人が大ウソつきという点だ。山崎は裁判所公認だが、古谷も退職の経緯など己の正当化を図るためウソを並べている。


 ついでに大学を4年間で卒できず、7年間、在籍したのも同じだ。古谷は日大芸術学部を中退。その理由を『週刊新潮』(1227日号)は「学会活動に没頭するあまり」と書いているが、真っ赤なウソだ。


 学会学生部では当時も今も「勉学第一」を強調している。己の怠惰を学会のせいにするのは退転者の常である。山崎も昭和30年から7年間、大学に在籍した。


 古谷は「ミニ山友」とも言うべき小悪党である。

2007-12-24

古谷博


【『フェイク』第883号 2007-12-20)】


金銭問題で転落の人生


「小多仁伯」こと「古谷博」の品格なき素顔


飲食店経営で失敗、多額の借金を背負って逃げ回る


 日新報道という三流出版社から、また学会誹謗の本が出たことを「週刊新潮」(1227日付)が報じている。本の著者は「小多仁伯」となっているが、本は「古谷博」(65歳)である。この本の音読みをペンネームにしているのだ。


 古谷は学会の元職員であったが、女問題と金銭問題を起こして退職せざるを得なくなり、転落の人生を彷徨っている。


 今では極悪ペテン師・山崎正友の子分になり、大草一男ら妙観講が作っている「妙」、それに乙骨正生の「フォーラム21」に登場し、短期間だけ勤めた芸術部の元書記長の肩書きを悪用して学会批判を繰り返しており、更に「週刊新潮」の情報源にもなっている。


 この駄本の著者、出版社、それを紹介する週刊誌と、いずれも反学会系のオンパレードといったところだ。


 今週発売の「週刊新潮」が紹介している本の内容は、古谷が、これまで述べてきた与太話に妄を加えて虚飾した陳腐なもので、一読にも値しない。こんな本が定価1680円では買う人などいない。


 退転してを受け、現在、生き地獄の日々を過ごしている山崎正友や原島嵩、既に地獄に堕ちた竜年光らに共通するのは、己自身が引き起こした問題を棚に上げ、学会に責任転嫁して批判する点であるが、この古谷も、その例外ではない。


 まず、この古谷が退職したのは多額の借金が原因だった。古谷は職員でありながら昭和56年、同族会社の「昴(すばる)商事」を立ち上げた。これは服務規程違反だが、古谷は自らの氏は登記せず、陰から会社を動かす事実上の経営者になっていた。そして東京・世田谷区内に中華料理店「敦煌」を開店したものの、工事代金の四千八百万円を支払うことができずに逃げ回っていた。


 だが、者に訴えられて昭和60年4に敗訴して学会にいられなくなり、同年7、退職したのである。


 退職した後は、既に退転していた藤原行正(元都議)などの脱会者を頼り、その後、学生部の先輩であった山崎正友に接近して関係を深めた。これが真相であるが、古谷は平成16年11、学会本部に抗議文を送りつけて「私は、自分の関係する飲食店のことで、右翼団体や暴力団の嫌がらせを受けつつ、民事で係争中」と述べた上で、厚顔無恥にも、学会が「弱者」を守らなかったと癖をつけた。そして、その抗議文を平成16年121日付「妙」に掲載した。


 だが、考えても見よ、借金を踏み倒して逃げる古谷のような奴を「弱者」とは言わない。「盗人猛々しい」とは古谷、お前のことだ。


 まさしく、古谷は飲食店を経営して失敗し、多額の借金を背負い、債権者の取立てから逃げ回って、学会にいられなくなった品格なき下劣な男である。


 また、古谷の女問題だが、これは鹿児島県に出張した際、同県の女幹部であった中園球子と不倫関係になったのである。


 こんな絶対、あってはならない醜態を晒すのが古谷である。この二人は最近の121日付の「妙」紙上でも「小多仁」「中園」の前で小川頼宣、小川洋美らと一緒に学会の悪口を言っている許しい奴らだ。




【『フェイク』第884号 2007-12-23】


悪党に共通する自己弁護と逆恨み


山崎正友の下働き男・古谷博のウソを暴く


己自身の退職年を間違う奴の昔話が信用できるか


 退転・反逆の悪党に共通するのはウソを並べて己自身の失態を学会に責任転嫁して逆恨みすることである。


 前号で述べた通り、古谷博の退職は借金問題だが、それを「学会を見限った」故に退職したと書いている。腐りきった根である。


 小多仁伯(こたにはく)のペンネームで古谷が書いた学会批判本の内容も取るに足らない昔の戯言だが、いかに姑な奴であるかを、具体例を上げて指摘する。


 その第一は古谷が平成16年1118日、当時の秋谷会長に宛てた「抗議文」に見られる。その抗議文とは同年1018日付の聖教新聞の紙上座談会で「山崎にくっついている悪党は、まだいる。退転者の古谷博と小川頼宣というやつだ」「古谷というのは、飲食店を経営して失敗。借金を背負った揚げ句、債権者の取り立てから逃げ回って、学会にいられなくなった男だよ」と指摘されたことに対し、古谷が学会本部に無礼千万な一文を送り付けたものだ。


 その駄文を「妙」が平成16年121日付で大きく取り上げていた。


 その中で古谷は「山崎にくっついている悪党」との指摘が「著しく私の誉を侵害している」として「山崎師団」に触れたあと、「私も小川頼宣氏も、それには当てはまりません」と弁解。また「学会在籍の頃は、私にとって山崎氏は雲の上の人」と書いた後、今は「からのパートナー」と述べている。つまり「くっついている」のではなく、山崎と同格だとでも言いたいのか? 古谷や小川に「師団」を構成するような実力・能力がないのは百も承知だが、山崎の下で蠢いていたのは事実である。


 その証拠に今年94日、東京地裁で山崎自身が「古谷さんとは時々、会っている」「古谷さんはパソコンに堪能な人なので手伝ってもらった」と証言していたではないか。


 山崎は失明寸前で、字も下手クソだから、裁判所への提出文書の作成などを古谷にやらせていた。それを「山崎にくっついている」というのである。その指摘が「誉の侵害」ならば、山崎と決別すればよいだけの話である。


 次に、故か、悪か、己の退職の「年」を間違えている。これも抗議文の中で「私が貴殿に本部職員の辞表を提出しましたのは、忘れもしません、昭和62年6のことでございます」「私が本部職員を退職した本当の理由を、一番良く知っているのは、秋谷さん、あなたではないですか。おさらいのために、もう一度退職した理由を申し上げます。私が退職した翌昭和62年7は、東京都議会議員選挙があり、いくつかの区で二立候補して戦った激戦の年でした」と書いていた。


 古谷は何を寝ぼけているのか。昭和62年に都議会議員選挙は実施されていない。古谷が退職したのは昭和六十年だ。何が「忘れもしません」だ! 「おさらい」しなければならないのは、古谷自身だ。


 今回の『週刊新潮』では、素知らぬ顔で「私は昭和60年に学会本部職員を辞めて……」と修正しているが、一事が万事、己の退職した年を偽る、或いは間違うような奴のカビの生えた昔の戯言など信用できるか!

2007-10-17

大草一男は「紀元会」を盲信していた


妙観講は淫祠邪教に染まった者の吹き溜まり


身延の僧「日如は親の仇も討てないダメ男」


【『フェイク』第864号 2007-10-16】


 日顕宗の法華講大講頭で、妙観講の講頭・大草一男が、若い頃にはまっていた邪宗教が「紀元会」(大和神社)である。この邪教は先日、リンチ殺人事件を起こして長野県警小諸署捜査本部によって15日、15歳から80歳までの女信者21人が傷害致死容疑で逮捕された。


 紀元会は、長野県小諸市に本部を置く邪教団体。井健介という香具師が昭和45年(1970年)に設立。京都や群馬など10ヶ所に拠点を置き、現在、信者は約400人といわれている。「紀元水」という、いかがわしい水を飲むと不治の病が治るなどと宣伝していた。


 小諸市の隣の佐久市内で、子どもができないことに悩んだ母親が「お百度参り」をして産まれたのが大草一男である。長じるにつれて、生来の香具師体質が増長し、大和神社の教祖と感応した。


 高校生の時から、この設立されて間もない怪しげな宗教に入れ込み、杉並区内の学生寮で、同じ寮生たちに「これは、長野の大和神社という霊験あらたかな宗教のありがたい水だ。えらい利益があって、効き目があるから飲めよ」と皆に勧めていた。


 ところが、差し出されたビンの底には黒いものがたまっていて、見るからに水が腐っているようだった。


 それで、気味悪がって、だれも飲もうとしなかった。すると、大草は「じゃあ、俺が飲んでやらあ」と言って、ゴクッ、ゴクッと飲み干した。


 それから、下痢と嘔吐で、数日間、大草が七転八倒のしみを味わったことは言うまでもない。


 大草が教祖から聞いた話といって、周囲に吹聴していたのが「天の川というのは本当にあるんだ」という与太話。


「その証拠に、教祖が夢の中で天の川を渡る夢を見て、起きたら、腰から下がビッショリと濡れていたんだ」と、大草は大まじめに語っていたという。


 普通に考えれば、変な夢を見て、お漏らししたにすぎない現象が、大草にとっては「天の川に水が流れている」証拠になってしまう。


 こんな頭の程度だから、芸者写真はクビのすげ替えだの、シアトル事件はなかった、正本堂の大理石が腐食していた等々と「妙」で、大嘘のキャンペーンばかり張って、宗門の足を引っ張ってきたのである。


 大草は学会の婦人部に折伏されて入会したが、学会の清らかな世界に水が合わず、一年足らずで脱会し、法道院から理境坊へと流れていったのである。


 現在の妙観講は、統一教会の霊商法にはまって、鮮の高僧の霊が宿っているという壺を磨き続けた支部長、妹が高稲荷に取り憑かれていた支区部長、大和神社の「紀元水」に凝っていた講頭など、淫祠邪教に染まっていた人間の吹きだまりとなっている。


 宗内でも異端視され、毛嫌いされているのは、この辺の臭みが本能的に察知されているからかもしれない。


 先日、身延派の僧が、こんな話をしていた。「大石寺の日如はダメな男だ。妙観講の大草は大講頭になってのさばっている。いくら隠尊の日顕がいるとはいえ、自分の父親の早瀬日慈(故人)をしめた大草らに対して、仇討ちすら出来ないとは余りにも情けない」と。

2007-09-09

光久日康の日顕批判で内紛状態の宗門


「宗門の疲弊は学会の破門が原因」


正論を言った光久住職、本山で謝罪文を棒続み


【『フェイク』第853号 2007-09-05】


 日顕宗の全国教師講習会が829〜30日、大石寺で行われたが、能化の光久日康・妙縁寺住職が飛び入りで謝罪するハプニングがあった。これは同住職が日顕の「C作戦」断行を批判したことに関して「反省とお詫びの言葉」の一文を読み上げたもので、当初の予定には全くなかった。


 ところが読み上げる際、同住職は何度もつっかえて、自分で書いた謝罪文ではなく、信彰あたりが書いた物を読まされているのが参加者にも伝わったという。


 光久住職の「お詫び」は隠居した日顕、総監の八木日照、庶務部長の阿部信彰が仕組んだ猿芝居で、早瀬日如は蚊帳の外におかれて、結果だけを知らされた。


 講習会初日の29日、日顕は例によって隠居の身でありながら出しゃばって講義。いつもはダラダラと下手の長話の日顕が珍しく、「宗務院から早めに終わるよう言われている」と言って2時間で終了。すると、庶務部副部長の斎藤栄順が「只今より妙縁寺住職・光久日康師よりお詫びの言葉がございます」と発。ここで信彰が経過を説明したあと、前述の通り、光久住職が「反省とお詫びの言葉」を読み始めたのであった。


 日顕を批判すれば能化でも容赦しないとの見せしめなのだが、これまでにも雑誌「道」で日顕を痛烈に批判した花野充道、また、日顕の「大御本尊偽物発言」を記録したうえ、それを敢えて暴露した河辺慈篤が日顕から睨まれた。だが、この二人とも大衆の面前での謝罪はさせられていない。それどころか、河辺は東京・新宿区の大願寺に栄転まで果たした。


 それでは、能化の光久住職が、何故、教師講習会の場で謝罪を強いられたのか。その「お詫び」に至るまでの経過を述べることにする。


 今年5、日如の台湾旅行に同行した光久住職は、坊主達を呼び寄せて日顕が学会を破門した愚挙を非。「今のままでは広宣流布はできない。宗門の未来のためには学会との関係修復が必要だ」等と自分の情を吐露し、この後も講員に同趣旨の話を繰り返していた。


 その発言内容を要約すると、1.現在の宗門の疲弊を招いたのは日顕が学会を破門したことに起因する、2.宗門のトップはその非を謝り、学会首脳と話し合うべきである、ということになる。


 同住職の話は間違ってはおらず、法華講の中にも同調する講員が現れ、日如はにしても静観していた。だが、日顕だけが異常なまでに激怒し、八木と信彰を使って追及させた。


 宗務院は89日に光久住職を本山に召喚。この日は日顕が蓮葉庵に滞在しており、早くから八木、信彰と謀議。そこでは、1.光久を罵倒して関東大布教区の大支院長と東京第一布教区の支院長を辞任に追い込む、2.全国教師講習会の席で謝罪をさせる、3.妙縁寺に八木が行って講員に光久の日顕批判が大問題であると徹底する、等を決定した。


 その翌日付で大支院長、支院長を辞任。後任に鈴木譲信(江東区・妙因寺)が任命されたのを知った妙縁寺の講員は「住職は正しいことを言ったのに処分はおかしい」とのを上げた。


 今回、謝罪させられた事実を講員が知ると、日顕への憎悪のが強まることは間違いない。


「万死に値する」のは日顕、お前だ!


達師が光久師に「次はお前がやらないか」


【『フェイク』第854号 2007-09-07】


 光久住職の日顕批判の背景に何があるのか――昭和42年、お仲居になった同住職は日達法主から全幅の信頼を受けていた側近中の側近だった。その達師のもと、同住職は長年、学会と共に僧俗和合して広宣流布の道を歩いてきた体験があるだけに、学会への認識も深いとわれる。今年になって日顕の「C作戦」断行を批判したのも単なるい付きではなかった。


 それは光久住職が最近も「以前からこういういでいた。言わずに死んだら悔やまれる。いたたまれないいで話した。単純に批判しているのではない」と語っている通りである。


 光久住職が謝罪させられた際に「私の発言は誤りで、万死に値する」と読み上げたが、これは本音ではなかろう。同住職は相承詐称の日顕こそが「万死に値する」とっているに違いない。


 一方、「反日達」の情を抱く日顕は、光久住職が日達法主の側近ナンバーワンだったからこそ、怒りも倍増したのである。日顕日達法主の弟子「妙観会」メンバーの大勢を追放し、日達時代に完成した正本堂、大客殿、大化、プレス・センターなどの建物を相次いで破壊した。


 それら建物ばかりか、日達時代に植樹された桜までも伐採した。そして今回、側近だった光久住職の大支院長などの役職を解いて、全国の坊主が集まった講習会で恥を掻かせた。これで一件落着どころか、内紛は激化すると見る向きがある。


 もともと、光久住職は日顕の相承詐称に批判的で嘲笑していた。日顕が「昭和53年415日に大石寺の大奥で相承を受けた」と真っ赤なウソを言った時、光久住職は「415日にしていいのか? あの日は達師が忙しい日だが……」と揶揄。日達法主の行動を詳細に知っていたからだ。


 光久住職が「達師が忙しい日」と漏らした裏付けとして、昭和53年415日の日達法主のスケジュールを記しておこう。

  • 00:00 大客殿にて丑寅勤行。
  • 01:30 丑寅勤行を終え、大奥に戻って就寝。
  • 06:30 起床。徒歩にて御影堂へ。
  • 07:00 御影堂で日目上人の御講日の法要を奉修。
  • 09:30 誕生日の祝賀のため3人の僧が大奥にて目通り。
  • 10:00 原田篤道が婚約者、双方の両親、媒酌人の細井珪道らとともに結婚の挨拶。
  • 11:00 東京の大石寺出張所(文京区西片)に向けて出発。到着後、同出張所にて休憩。
  • 18:00 千代田区のホテル・グランドパレスで誕生祝賀パーティー。
  • 21:00 西片の出張所に戻って就寝。

 この行動を見ても大石寺で相承する時間的余裕が全くなかったことは明白だ。


 ついでに、正信会の菅野憲道の話を紹介する。昭和54年2、菅野らが日達法主に目通りした際、山口法興が「猊下、ご相承を阿部さんにだけは渡さないで下さい」と直言。日達法主は「よく分かっているよ。大丈夫だ」と答えたという。


 その後、日達法主が光久住職に「次はお前がやらないか」と言ったこともあり、当時は「次は光久師か菅野慈雲師かと噂されていた」ということだ。


「なぜ学会と争う必要があるのか」


大客殿破壊の時も「どうなっているんだ?」


【『フェイク』第855号 2007-09-09】


 日達法主は日顕に相承する気がなく、宗内では「次は菅野慈雲(日龍)か光久諦顕(日康)だろう」と囁かれていたことは前号で述べた通り。それを物語るのが、日達法主の逝去(昭和54年722日)直前の指示だ。達師は「明、どんなことがあっても本山に帰るから、大奥の対面所に布団を敷いておけ。その時、御仲居(光久)と大宣寺(菅野)は必ず来い」と厳命した。当時、総監だった阿部信雄(日顕)も観妙院(故・早瀬日慈)も呼ばれてはいなかった。達師は大奥の寝所ではなく、敢えて対面所と指示したうえで御仲居と大宣寺を呼んだということは、この二人のうち、どちらかに相承するつもりだったのは間違いない。


 だが、容体が急変して相承できないまま他界。これ幸いとばかり、日顕が虚偽の自己申告。日慈(日如の父)が生前、「私が我慢したからそうなったのです」と述べていたが、光久住職はこうした経過を知り尽くしている。日顕にしてみれば、既に退座した今、己の相承詐称について、光久住職が暴露することはないと高(たか)を括(くく)っているようだ。


 しかし、光久住職の師匠は以前、妙縁寺住職だった本日仁。晩年、宗門を離れて顕正会に身を寄せた僧である。その弟子・光久住職も開き直ったら何をするか分からない一面もある。


 というのも、光久住職はことごとく日顕に批判的であるからだ。平成五年の頃、日顕の「芸者写真」の件で、光久住職は、大布教区の会合で次のよう述べていた。


「この(芸者写真)問題ですけどね、考えてみますと、こういった問題で私たちが議論し合うこと自体に抵抗がありますよね。皆さんもそうだといます。信者さんも、第一こんな問題で何故、宗門と学会が争わなければならないかということは誰もがっている」


 光久住職は何故、日顕の肩を持って学会と争う必要があるのか、と不信を募らせて「芸者写真」について話し合うことに抵抗があると言い放っていた。


 また、日顕による本山の建物破壊にも疑問を呈した。特に、大客殿の取り壊しについては高野日海と共に口を揃えて反対。日顕が日海を怒鳴りつけた時、光久住職は「いったい、どうなっているんだ?」と、周囲の者に不満を漏らしていた。


 今回、形式的に詫びた光久住職だが、日顕に対する憤懣の根は深く、親類・法類の今後の動向が注目される。参考までに主な親戚・縁者を列記しておこう。


 光久日康師の妻・寿美江は故・高野日深の長女で、兄に高野日海(墨田区・本行寺)、高野法尊(熊本市・涌徳寺)、高野法雄(大阪市・妙栄寺)がいる。甥には高野千道(横浜市・宣法寺)、高野道督(和歌山市・教妙寺)、高野正節(妙栄寺)がいて、姪の夫に村上節道(埼玉・宣行寺)、西岡雄信(高槻市・妙恵寺)、近藤恒道(筑後市・諦聴寺)もいる。法雄の前妻・衣江と尾林日至の妻・操は姉妹である。


 光久師の子二人は長男が光久顕道(埼玉・妙乗寺)、次男は光久信涌(福島・正徳寺)。弟子には高野顕昇(尼崎市・大妙寺)、長谷顕光(小市・唯成寺)などもいて、子飼いに末房宰道(三原市・開妙寺)、小原玄道(盛岡市・得道寺)などの住職が揃っている。