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2009-05-01

大石寺の「寺社奉行」的構造 江戸期にみる創価学会破門の源流 3

 菅田正昭(すがた・まさあき=宗教史家・離島文化研究家)


 流人史を調べていくと、しばしば「無宿」とか「非人(ひにん)」というコトバに出会う。だが、ここでは、世間からのけものにされた存在だから、犯罪に走りやすいのだ、とはわないでほしい。農民や漁民や町人が犯罪者になったとき、あるいは、犯罪者に仕立てられたとき、結果的に無宿とか非人にされることが多いのだ。とくに、宗教犯の場合、そういう傾向が強かった。

 江戸時代、徳川幕府は、人民はかならずどこかの寺に所属しなければならないという寺請制度を創設して人民支配を実行した。寺院はその先兵として戸籍を作成して人民を管理した。その戸籍簿がいわゆる宗旨人別帳である。この人別帳から除籍された人を「非人」とか「無宿」というのである。

 ここで、〈異流義〉問題で信徒が逮捕された場合を考えてみよう。すると、幕府当局はその信徒が所属している寺院や、主(なぬし)などの村役たちに圧力をかける。その信徒を人別帳から外さないと、隣保組織の五人組や、その家族たちも同罪にするぞと恫喝(どうかつ)するわけである。あるいは、幕府当局から何も言われなくても、多くの寺院はそういう信徒を人別帳から除してしまうのである。

 こうして異端の信徒は「無宿」とか「非人」にされてしまうのである。こうなると、封建体制下での最低限の人権も喪失してしまうのだ。おそらく、八丈島へ流された「じん」も、こうして「無宿」にされたのであろう。

 これを見て、何かじないであろうか。そうなのである。今日の、大石寺による信徒資格喪失の通告と、人別帳からの除とは、驚くほど、その論理構造が似ているのである。もちろん、今日では、憲法で信教の自由が保障されているし、たとえ寺院から信徒資格を剥奪(はくだつ)されても、戸籍から自分の前が消されるわけでもない。しかし、構造的に分析すれば、これは同質の所といわざるをえない。

 すなわち、これは幕藩体制下における、一種の「国家教」体制の中での、「寺請制度」による発なのである。そして、それはたえず〈異流義〉を自己の内に生みだし、その〈異流義〉を幕府の手によって宗教弾圧してもらおうと、寺社奉行へ事実上、信徒を売り渡してきた大石寺法門の論理構造を背景として成立しているといえよう。


【『大石寺の「罪と罰」』玉井禮一郎〈たまい・れいいちろう〉(たまいらぼ出版、1997年)所収】

大石寺の「罪と罰」

2009-04-30

大石寺の「寺社奉行」的構造 江戸期にみる創価学会破門の源流 2

 菅田正昭(すがた・まさあき=宗教史家・離島文化研究家)


『富士宗学要集・第9巻』に収録された〈異流義〉の歴史的資料というのは、当時の身延派や大石寺系の触頭の寺院が、自らの潔白の証明として寺社奉行へ提出した上申書が中になっている。その中には噂さ話程度のものを、まことしやかに報告したものまで含まれているようだ。また、〈三鳥派〉や〈堅樹派〉にたいする判決書も含まれている。いうなれば、弾圧した側の内部資料なのである。もちろん、今となっては、それも貴重な資料であるけれども、宗教弾圧された側の立場からみると、100パーセント信用することはできないのである。

 その点を頭に置かないと、自己の内なる異端の先例を、江戸時代の異流義に求めて告発することは、かつてソ連共産党の書記長スターリンが、自分の反対派にトロツキストのレッテルを貼って粛清したのと同じい精神構造ということになってしまうのである。〈三鳥派〉という称は、それほどの迫力あるスケープ・ゴートとしての機能を持っていたのである。江戸時代、大石寺を含めた日蓮宗〈各派〉の本山は、おのれの反対派を異端として葬りたければ、幕府権力である寺社奉行にたいして、誰某は三鳥派であると告発すれば、反対派は〈異流義〉中の〈異流義〉として粛清されてしまうのだ。すなわち、三鳥派という称の中には、それを生みだした大石寺を覆(おお)う暗黒の闇と、そこから発してくる大石寺の「罪と」が含まれていることになる。いうなれば、〈三鳥派〉とは大石寺法門における原罪ともいうべき存在であるといえるだろう。もちろん三鳥派は謗法中の謗法でもあるわけだが、それはひょっとすると宗門改革の原点の提示であったかもしれないのだ。

 そこを見ないで、〈異端〉的傾向に〈三鳥派〉のレッテルを貼り付けるのは、ヨーロッパ中世の女裁判と同じい精神構造の持ち主であることを、自ら告白しているようなものではないだろうか。あるいは、ほんとうは弾圧者なのかもしれない相手にたいし、あなたのほうこそ国家権力によって弾圧されているのですよ、と違い(ママ)して言っていることにもなりかねないのである。


【『大石寺の「罪と罰」』玉井禮一郎〈たまい・れいいちろう〉(たまいらぼ出版、1997年)所収】

大石寺の「罪と罰」

2009-04-29

大石寺の「寺社奉行」的構造 江戸期にみる創価学会破門の源流 1

 菅田正昭(すがた・まさあき=宗教史家・離島文化研究家)


 当然、その一方で、異端を排除していく気風も生じた。というよりも、正統識の純粋培養の中で、自らが異端派を創り出してしまうのだ。すなわち、三鳥(さんちょう)派とか堅樹(けんじゅ)派……等々の異端が興門派(とくに大石寺系)の中から生じてくる。

 三鳥派は大石寺18世の了源日精(1600-83)の愛弟子だった三鳥院日秀を派祖とするグループだが、寛文年間(1661-73)に初めて邪法として「仕置(しおき)」された。江戸時代、徳川幕府は切支丹(きりしたん)と不受不施(ふじゅふせ)と、この三鳥派を幕府指定の「邪宗門」としたが、この三つの宗教の場合、信徒の疑惑がもたれただけで逮捕し処することができた。

 とくに、三鳥派はまだ芽のうちに摘んでしまえとばかり厳しく弾圧され、そのあまりの厳しさのため、取り締まった側の寺社奉行にもその教義・行法(ぎょうほう)がわからなくなってしまった。いわば〈謎の宗教〉である。ただいえることは、宗祖日蓮へ回帰していく過程で日蓮そのものを突き抜け、当時の大石寺およびその周辺に漂(ただよ)っていた法華神道富士信仰の要素を強めてしまったらしいということだ。さらに、法の中で結束力の強化のため共同体的志向が濃厚となり、三鳥派の最期の組織者だった玄了は、流刑地の八丈島で一種の流人コンミューンを夢見て元文2年(1737)3の八丈島最大の流人騒動に巻き込まれて死罪判決を受け、半年後の同年1011日、底土(そこど)の断崖から荒波の洗う岩場へ突き落とされている。

 いっぽう、同じ大石寺系の堅樹派の場合、日蓮・日興・日目の御三尊の原点へ還ろうとする宗教改革から発したようだ。すなわち、自らの派の中に大石寺の信の堅い樹であることを示そうとしたのが、その改革運動の指導者の堅樹院日好(1739-1812)だった。しかし、宗旨人別帳による寺請制度というの〈国家教体制〉の中で、幕府の走狗と化してしまった大石寺は日好を異端派として告発し、寺社奉行の手に委ねてしまうのだ。

 こうして日好は安永5年(1776)2、37歳のとき三宅島へ流され、さらに島内から本土の信者組織に手紙を出した罪を問われて寛政6年(1794)8、利(と)島へ島替えさせられた。それは一種の目上の理由で、実際はその頃、三宅島へ相次いで不受不施やその他の宗教犯が流されていたが、幕府当局は彼らが三宅島で接触するのを恐れて、事前に「島替え」をしたらしい。そして日好は、利島の日蓮宗・長久寺の過去帳によれば、文化9年(1812)128日、行年74歳で遷化(せんげ)している。

 その後、幕末の嘉永2年(1849)4、堅樹派の在家組織「完器講」の講主・(後藤)増十郎が三宅島へ流されている。彼は明治3年に赦免されて東京へ戻って布教を再開するが、創価学会の前身の創価教育学会を創立した牧口常三郎日蓮正宗へ導いた三谷素啓(みたに・そけい)という人は、一説ではこの堅樹派=完器講の系統から出てきたといわれている。


 いま、わたしの机の上に一冊の本がある。堀日亨/編『富士宗学要集・第9巻 資料類聚2』(創価学会昭和53年12刊)である。わたしはその214〜246ページを、しばしばめくることがある。そこには「上編 第十章 異流義」として、三鳥派と堅樹派のことが紹介されているからである。

 もともと、わたしは大石寺法門とは無縁の人間である。にもかかわらず、大石寺法門の〈異端〉である三鳥派と堅樹派に興味をおぼえるのは、彼らがわたしの民俗学のフィールドである伊豆諸島へ流されていたからである。すなわち、流人研究をしている過程での、あくまでも一種の副産物なのである。そして、不受不施や、吐菩加美(とほかみ)神道の井上正鐵(まさかね/1798-1861)、如来教の金木大隅(かねき・おおすみ/1781-1849)、烏伝(からすづたえ)神道の梅辻規清(うめつじ・のりきよ/1798-1861)らと同じように、彼らにい入れをしてしまったのである。

 ここで注目しなければならないのは、この本が大石寺法門の異端派を「異流義(いりゅうぎ)」の辞でよんでいることである。じつは、江戸時代、教各派の本山は自己の内なる異端の発生を、「新義異説」とか「異流義」として寺社奉行へ告発すれば、切支丹や不受不施や、三鳥派でなくても「遠島」にしてもらうことが可能であった、という事実である。この「異流義」の罪で流刑にされた宗教犯が最も多かったのが、不受不施を除くと、三鳥派・堅樹派を含めた大石寺系だった、ということである。いうなれば、〈異流義〉という語の中に、大石寺が持つ闇の部分というか、罪との契機が内包しているのである。したがって、三鳥派や堅樹派の人びとの・志操をみようとはせず、ただたんに大石寺の宗教的権威に寄りすがっての、ア・プリオリな〈異流義〉判断をしてしまうと、その人は江戸時代の寺社奉行の位相に自らを置いてしまうことにもなりかねないのである。


【『大石寺の「罪と罰」』玉井禮一郎〈たまい・れいいちろう〉(たまいらぼ出版、1997年)所収】

大石寺の「罪と罰」

2009-02-22

見宝塔品の奇跡的な二重構造


山●このように見てくると、〈多宝如来〉を案出したことがいかに秀抜な工夫であったかを、あらためて痛せざるをえませんが、「見宝塔品」の作者の天才的な頭の冴えは、この品全体にわたって発揮されています。

 それは、この品での事態の展開が、〈釈尊〉〈多宝塔〉〈多宝如来〉のそれぞれを、表面の叙述通りに受け取っても、世にも稀なほど壮大な情景を描いてくれるのに、〈法師〉に三者の象徴的実体が〈白蓮華〉〈紅蓮茎〉〈紅蓮華〉であると告げられると、一挙に別の華麗さに目を奪われてしまうという、奇跡的な二重構造を作り上げるように仕組まれていることです。

 このすばらしい仕掛けのおかげで、「見宝塔品」は〈日輪(=白蓮華)〉の〈開花力(=開悟力)〉の譬喩を述べることを免れながら、芸術的動で恍惚となった聴衆・読者のの奥深く、〈釈尊こそ自分たちにとっての太陽だ〉という確信を植えつけることができるようになったのです。

 ただし、この二重構造の下層の〈象徴的暗示〉の方は、十分な信仰と理解力を獲得した者のみに伝えようとしたことと、『法華経』に悪をもつ者の非を防ごうとしたこととのために、〈法師〉の指摘がない限り気がつかないように、上層の表現で蔽(おお)ってあります。

 この秘匿策が完全だったために、『法華経』が大乗仏教徒の共有の宝典となる一方で〈本来の『法華経』護持者集団〉が消滅してしまうと、〈サッダルマ=プンダリーカ〉の根本義を察知する人が、インドで絶えてしまったとわれます。

法華経』に関説する『大智度論』の作者・龍樹や、『法華経論』の作者・世親は、すでに、経題の真を見失っているようです。


【『蓮と法華経 その精神と形成史を語る山俊太郎(第三文明社、2000年)以下同】

2009-02-21

法華経成立史


 ――成立的には「序品」というのは大分後なんだけれども、「法師品」までができ上がって、前に何を置くかというときに、しっかり構成されているというじがしますね。それからまた、「見宝塔品」以下の諸品(しょほん)ができたときに、これらの「序品」としてもおかしくないように改作されているのですが。


山●私の考える「法華経成立史」のあらすじでは、『原・法華経』は、


 1.「見宝塔品」の成立とともに、従来は“アグラ=ダルマ”とみなされていたそれ以前の「方便品」中の部分を『法華経』と認め、

 2.ついで「提婆達多品」(相当部分)が付加され、

 3.「如来寿量品」の成立によってほぼ原形を完成し、

 4.さらに「如来神力品」までの数品が第二期に追加されて現在の配置となり、

 5.一方では「化城喩品」が『原・法華経』より前に成立した「方便品」中の諸品の内容を要約した、「見宝塔品」以後のための「序品〜序経」として作られた。


 というものです。


【『蓮と法華経 その精神と形成史を語る山俊太郎(第三文明社、2000年)以下同】

2009-02-18

法華経には口伝があったと考えられる


 ――ところが、それ(※蓮)を隠さざるを得ない事情があった……。それは何だったんでしょうか。


山●一つの原因として、私は『法華経』というのは本来非常に革新的というか、当時の教とは違うことをいっているためだったと考えます。

 教説的に特別のことをいっているから、最初の頃の、おそらくで聞いている『法華経』でも、ただ聞いていたんではわからないという防備機構があったとうんです。だから、“サッダルマ=プンダリーカ”といっても、知らない人が聞いたら何のことをいっているのかわからない。本当にこいつは見込みがあるぞという人にだけ口伝する部分が、絶対にあったとうわけです。(中略)

 もう一つは、果たして『法華経』の時代に影絵芝居というものがあったかということを考えるんですけれどね。『法華経』は戯曲的といったって、余りにもスケールが大き過ぎて、人間では演じられないし、人形芝居でもできないでしょう。しかし、影絵芝居を使うと、宝塔が出現して〈二並座〉なんていうのもやれたんじゃないかと。


【『蓮と法華経 その精神と形成史を語る山俊太郎(第三文明社、2000年)】