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2009-03-07

座談会の歴史


大善生活実験証明座談会が行われた時代背景」の記事を訂正する。以下の情報を那由他楽人君から教えてもらった――


 牧口はこうして個人的に折伏をつづけていたが「そろそろ座談会折伏をやろう」と弟子たちに呼びかけ、戸田の経営していた時習学館を会場にしたり、改築した自分の家で、2〜3人の人を集めて座談会を開きはじめた。昭和7年の終わりごろであった。

 この座談会方式は、牧口の教育者としての体験から来ているといわれ、一対一ではなく、参加者全員が対話に参加できる座談会形式が、もっとも人びとを納得させることができるという主張から生まれたものだった。以後、この“座談会”は、創価教育学会、そして戦後の創価学会の一貫して変わらぬ言論戦の“主戦場”となったのである。


【『革命の大河 創価学会四十五年史』上藤和之、大野靖之編(聖教新聞社、1975年)】


 ということで、座談会が始まったのは昭和7年(1932年)ということで決まり。で、本格的な座談会運動となったのは昭和12年(1937年)9以降となる。


 牧口先生を悩ませていたのは、「座談会を推進できる幹部が少ない」ことだった。つまり、立派な座談会を開けるリーダーがいれば、広宣流布は推進できるということである。座談会の重要を理解している幹部は、今でも殆どいない。

2009-03-06

大善生活実験証明座談会が行われた時代背景


 座談会がいつ頃から開かれるようになったのか、あまり定かではない。「昭和7年 座談会開催」と記している資料もあるようだが、私の手元にはない。

 ここまでが「第一の鐘」の時代である。同志糾合は遅々として進まなかった。牧口先生は教育革命から宗教革命へと舵(かじ)を切った。この的な変化が理解できず、学会から遠ざかっていった青年教師もいたようだ。また、戦争に徴用される会員もいた。


 どうすれば折伏が進むか――。会員の成長にを砕く牧口が、それに明確な解答を与えた。それが昭和12年9「創価教育法の科学的超宗教的実験証明」とのタイトルで発行された小冊子であった。


【『革命の大河 創価学会四十五年史』上藤和之、大野靖之編(聖教新聞社、1975年)】


 つまり、学会の座談会運動は昭和12年(1937年)より開始されたと考えていいだろう。論の展開もこの頃からだとわれる。そして、以下のような時代背景もあった――


『生活の探究』(島木健作著、昭和12年)の続編が出てさかんに版を重ねていたその年(昭和13年)の秋に、この小説とは趣きを異にした『生活の発見』という書物が出版されて、それもまた1年あまりで十数版を売りつくした。著者は中国からアメリカへ渡った中国人林語堂(リン・ユータン)で、その内容はいかにも中国の文人らしく“生活の哲学”を軽妙洒脱な筆で説いたものだった。『生活の探究』と『生活の発見』、前後してこの4冊(『生活の発見』も続編と合わせ二巻仕立てだった)が、ともにベストセラーとなったことに、私はあらためて興をひかれる。なぜなら、両者はともにけっしてたんなる処世術を、すなわち、うまい世渡りができる技術を教えようとするものではなかったからである。いや、まったく反対である。要領よく人生を生き抜ける術を処世術というなら、この両書はそれとはおよそ正反対な不器用で実用にならぬ、教養の書ともいうべき格のものだった。だから読者が求めたのは、こうすればこんなにうまくゆく、などといった功利的なノウ・ハウではなく、そんな技術(テクニック)などまったく眼中にない生きることへの根源的な味への問いかけであり、その解答だったといえる。つまり、人びとは軽薄に生きる技術を、ではなく、真面目に生きる知恵を探究しつづけたのである。


【『生き方の研究』森本哲郎(新潮選書、1987年)】

2008-08-31

牧口先生に対し、宗門は「大居士」の戒名を拒否


 牧口先生の殉教に対して、宗門は、あろうことか、「獄死」を理由に、先生に「大居士」の戒を贈ることを拒否した。

 葬儀にも、所化小僧一人しか、よこさなかったのである。

 戸田先生は逝去後、「大居士」が贈られたが、牧口先生はその後も、「居士」のままであった。

 ようやく、1990年(平成2年)4戸田先生の33回忌の折、牧口先生に「大居士」が贈られた。

〈貞子さんは「これも池田先生の尽力のおかげです」と謝を語っている〉

 かえすがえすも、無慈悲で冷酷な宗門であった。供養を取るだけ取り、知らずにも、広宣流布を破壊する謀略に動いたのも、この年のことである。

 戒は、成の本義とは無関係であるが、邪宗門の実態を歴史に留めるため、あえて紹介させていただいた。


【信越代表者会議 2008-08-24 長野研修道場


 初めて知る歴史だ。戸田先生の33回忌の日、私は個人登山をしていた法要の後の御開扉を受けた。私は先生と共にいた。


 尚、この指導では若き日の激闘に触れられ、次のようなお話もされている――


 冬なのに、オーバーもなかった。そんな私を、奇異な目で見る人間もいた。


 これは今までに何度も語られている内容である。だが、本当のことはあまり知られていない。若き先生は貧しかったがゆえにオーバーも買えなかったわけではなかった。多分、昭和25年の冬のことであったと記憶している。先生はオーバーを入質して、戸田先生のお誕生日にお酒を贈られたのだ。先生は冬の銀座でリヤカーを引っ張ったこともあった。ランニングシャツ一枚の姿で。この時、昔の同級生と遭遇する。先生は目を伏せるどころか、大きなで「やあ、こんにちは!」と胸を張って挨拶をした。先生にとって闘とは、恥じるものではなく誇るべきものだった。

2008-02-19

『仮面を剥ぐ 文闘への招待』竹中労


 牧口常三郎は新潟の人、明治4年66日、佐渡をのぞむ荒浜という寒村に、貧しい船乗りの子として生まれた。父親は北海道に出かせぎに行ったまま帰らず、小樽の叔父にあずけられて学し、札幌師範を卒して教員となる。在学中、内村鑑三の著書『地人論』に啓発されて地理学者を志し、二千余枚の原稿をたずさえて上京。冨山房から明治36年、『人生地理学』を上梓した。この著書は8版を重ねて、牧口常三郎前は世間の所有に帰したが、官学アカデミズムの壁は厚く、教員生活に戻って東京下谷スラム街の貧困児童特殊学校に奉職する。

 その間、文部省教科書『小学地理』の編集にたずさわり、柳田国男南方熊楠(みなかたくまぐす)らの知遇を得、明治43年には柳田と共に山梨県南都留郡道志村を踏査した。さらに翌44年、九州筑後川の上流に山村の生活をルポルタージュ、『郷土研究』を著す。教育者・地理学者として、その績を認められてなお、牧口は生来の叛骨と差別された人々の側に立つ異端の信のために、教育界から迫害された。下谷の特殊学校ではおのれの俸給を投じ、日本最初の完全給食を実施して、社会主義者と目される。芝白金小学校校長に転じ、有数の優秀校に育て上げながら、廃校が決定していた麻布新堀小学校に追われて昭和7年、「自然退職」と称する首切り処分に付された。

 日蓮正宗への入信は昭和3年、やはり教育者である目黒商学校の校長・三谷素啓の熱折伏による。牧口はすでに満57歳、信仰を得て晩年はいっそう過激であり不退転となり、戦闘的に燃え尽きる……。

 ライフ・ワーク『創価教育学体系』の刊行、その実践教育の場として学会の設立をささえたのは、これも教育出身の戸田甚一(聖)であった。昭和12年、日中戦争が始まった年に「創価教育学会」公式に発足する。会員六十余、大東亜戦争にむかう過程で、東京・神奈川・福岡・古屋等に、中小商工者、小学校教員、サラリーマン、家庭の主婦など1500人をこえる会員を獲得する。

 昭和15年4、政府は宗教団体法を施行して、宗教界を統制しようとした。日蓮正宗の布教監・小笠原慈聞、これに迎合して神本迹論を唱え、日蓮宗との合同を推進する。学会は断固反対して、「神宮大麻」すなわち伊勢神宮への礼拝奉斎を拒否。“反国家神道団体”として、特高警察の標的となる。かくて戦時下の17年76日、牧口常三郎戸田城聖を検挙、他に19の幹部を捕えて、治安維持法違反と神社に対する不敬罪で起訴。きびしい取調べと拷問で、牧口・戸田を除く全員が信仰を棄てて退転した。

 牧口は毅然として、「天皇陛下は人間として尊崇し奉ればそれでよし。唯一の正法を信ずる我ら、伊勢神宮に神礼する必要はなし」と宗教者として非転向をつらぬく。戦局急迫する19年10、三男洋三の戦死を獄中で聞き、体力にわかに衰えて1118日、73歳で殉教の生涯を閉じた。奇しくもこの日は、昭和5年に『創価教育学体系』第1巻が刊行された日に当り、“学会創立記日”と戦後になって定められた。


【『仮面を剥ぐ 文闘への招待竹中労(幸洋出版)】

  • 外と知られてないが昭和18年の弾圧の際、理事の一人であった矢島周平氏も退転しなかった。戦後、戸田先生の後を受けて理事長となった人物。後に出家している。ただし、「当時の理事長も、師である戸田先生を誹謗したのである」(第2総東京最高協議会 2006-01-02 牧口記会館)と先生は振り返っておられる。
  • 矢島周平
  • 「日本最初の完全給食を実施」とあるが根拠が不明。「給食制度」も参照されたい。

2007-12-04

九州広布の原点


 牧口初代会長が出席して、初の九州総会が開催されたのは、昭和16年(1941年)の秋11。ちょうど今頃の季節であった。場所は福岡県二日市の武蔵旅館。もちろん、学会会館などなかった時代である。

 その時の参加者は約40人。太平洋戦争勃発(昭和16年128日)の直前であり、社会に暗雲がたれ込めていた中での開催であった。時に牧口先生、70歳。総会には、奥さまとお嬢さまとともに出席されている。

 最晩年に当たるこの時期に、牧口先生は毎年、九州に足を運ばれている――昭和13年夏、鹿児島へ。14年春、福岡の八女へ。15年11には福岡、久留米、八女、長崎の雲仙(うんぜん)、更に島原から荒尾、熊本を経て大分の別府へ――。そして、翌16年11に、この九州総会への出席となるのである。

 東京から九州へ、今なら飛行機で1時間半ぐらいだが、当時は列車を乗り継いでの長旅であった。旅費も大変な中で工面されていた。

 行く先々で、3里(約12km)、4里という交通の不便な田舎道を、折伏の先頭に立って歩かれた牧口先生。ご高齢にもかかわらず、その足取りの勢いたるや、同行の人達も中々ついていけないほどであったという。

 このように牧口先生の行動は、「大聖人の仰せ通りに、必ず広宣流布をしてみせる」との“大情”に貫かれていた。要領や策など微塵もなかった。愚直なまでに、どこまでも「一人」のために尽くされた。これが、私ども学会の創立者である。そして、この初代会長が、まさに五体をぶつけるようにして切り開かれたのが、九州広布の誉れある天地なのである。

 本日、九州総会にお集まりの方々をはじめ、九州各県の同志の福運に満ちあふれた姿を、牧口先生もどれほどお喜びくださっていることであろうか。どうか、このことを強く確信し、最大の誇りとしていっていただきたい。


 人生に偉大な目的をもつ人は強い。偉大な仕事、偉大な道に生き抜いた人は、自らをも偉大にしてゆける。いかなる困も悠々と乗り越え、常に大きく境涯を広げてゆくことができる。

 牧口先生の時代も、戸田先生の時代もの連続であった。その中から何としても活路を開かんとの、初代・二代会長の死闘によって、今日の学会の基礎が築かれたのである。

 その「大」が胸中深く刻まれているがゆえに、私はどのような困にも、またどのような試練にも負けなかった。師匠が偉大だったからこそ、私はひたすら学会に仕えてきた。この信は、これからも絶対に変わることはない。更に更に勢いを増しながら、報の誠を尽くしてゆくのみである。


 さて、牧口先生を迎えての九州総会――この総会それ自体が、いわば波乱の劇でもあった。

 会場に着かれた牧口先生。総会の準備にあたっていた役員が顔色を変えて報告する。「大変なことになりました。特高刑事が3人もきています。総会ができるかどうか……」と。特高とは特別高等警察のこと。戦前の警察制度で、政治関係を担当し、人々に恐れられていた。この頃、既に牧口先生、学会への弾圧の手が伸びていたわけである。

 この報告に牧口先生は、「なに、大丈夫だよ」と悠然と応えられる。

 役員や周囲の人は、“いや、危ないです。行かれない方がいいです”と、牧口先生を止めたいであったかもしれない。だが牧口先生は、何の恐れる風もなく、平然と会場へ入ってゆかれた。

 その時である。会場にいた一人の男が牧口先生に向かって、大で怒鳴るように言った。「国がすすめている天照太神を悪く言うのは、けしからんではないか」。

 いつの時代にも、時流に流される人がいる。何が真実かもわからず、権威に媚び、形勢のいい方につこうとする。こうした信のない臆病な人ほど、哀れな人はいない。

 居丈高(いたけだか)にまくしたてた男は、「どうだ、答えられないだろう」と得気であった。しかし牧口先生は、気迫のこもった目でその男を見つめ返された。男は気圧(けお)されたように沈黙してしまった。

 牧口先生は会員の方に笑顔を向けながら、開口一番「天照太神とは、法華経の行者を昼夜にわたって守護する諸天善神なのです」と。まことに鮮やかな反撃であった。御書に照らして本質を鋭く突いて、パッと切り返す。これが信の戦いである。

 こうして総会は始まり、牧口先生は諄々(じゅんじゅん)と宗教の真実の道について語られた。あの権威を借りた居丈高の男は、いたたまれなくなったのか、いつしか姿を消していた。

 70歳の牧口先生自らが、国家権力を後ろ盾にした妨害の徒との戦いの矢面に立たれ、厳然と会員を守り抜かれたのである。私にはその光景が絵のように浮かんでくる。

 これが広布の「将」の姿であり、代々の会長の精神であった。

 私は、青年部の諸君にこそ、この精神をしっかりと受け継いでもらいたい。いかなる権力、悪の勢力に対しても、厳然と我が身を挺(てい)して立ち向かう学会精神、青年部の魂を忘れないでいただきたい。


 九州総会は、体験発表、質問会と進んだ。「時間だ」とストップをかける特高刑事。牧口先生は2時間、淡々と指導を続けられたのである。

 私も現在、機会あるごとにスピーチをしている。これは後世のために、悪を打ち破り、広布の大道を幾重にも開き、残しておきたいからである。私の命のある限り続けてゆく決でいる。


 ともかく、初の九州総会は終始、牧口先生の勇気ある学会精神に貫かれたものであった。ここに、「創立者」の手づくりによる、信の「原点」が刻み残されている。

 いかなる波乱があっても、毅然と、また悠々と乗り越えていかれた牧口先生。この創価精神さえ忘れなければ、九州は絶対に負けることはない。永遠なる発展を遂げてゆくことができる。否、牧口先生の戦いをえば、九州は負けられない、負けてはいけない法戦の地であると、強く申し上げておきたい。


 交通の便もよくない当時、牧口先生高齢をおして、遠く九州まで何度も足を運ばれた。東京から博多まで、途中の地を訪れながら4日目に到着されるということもあった。今のように飛行機もないし、新幹線もない。汽車の硬い座席に長時間、揺られながらの旅である。高齢の先生にとって決して楽なものではなかったはずである。

 しかし、なぜ九州に行くか――牧口先生はその情を一人の婦人に、こう言われている。

「私は、あなたが本物になれば、こうしてはるばる来た甲斐がある」と。

 本物の信の人を育てたい。そのためには、いかなる労もいとわない。これが初代牧口先生の切なるいであった。

 いずこの地にあっても、「本物の信」の人が一人いればよい。広宣流布の命脈は、その「一人」によって厳然と守られ、幾重にも広がっていくからである。

 私も戸田先生のもとで、その「一人」になることを決して、立った。そして今は、皆さま方一人ひとりが、その「一人」となっていただきたいことを願し、日々広布の戦いに挺身している。


【11.18記合同幹部会 1989-11-12 創価文化会館


 今、草創期と同じ労をしているのは海外である。その味で、世界広布はまだ草創期といっていいだろう。その中から必ずや本物の弟子が陸続と現れることを確信する。日本の学会員が、海外の同志に教えを請うようになるのは時間の問題だ。広布を語る資格もなければ、師弟を語る資格もない幹部を一掃しよう。人知れず地道に戦い続ける庶民を、と崇(あが)め称(たた)えよう。

2007-10-29

「物事に間違っていなければ頭を下げてはいけない」


 牧口先生は、よく言われた。

「物事に間違っていなければ頭を下げてはいけない。悪に対して負けてはいけない」と。

 たとえ相手がどんなに社会的地位が高く、力のある人であっても、自分が間違っていなければ、絶対にへつらったり、馬鹿にされたりしてはならない――この毅然たる強さを学会精神の骨髄とせよ、との牧口先生の遺志であると受け止めたい。

 かつては、日本国中が軍国主義という「悪」に負け、国家神道に頭を下げていた。国家権力の言いなりにならなければ、大変な目に遭(あ)うという時代であった。

 しかし、牧口先生戸田先生の師弟は、何と言われようとも絶対に屈しなかった。神札を受けることにも応じなかった。信教の自由を踏みにじる暴挙に対して敢然と抵抗し、謗法厳誡を貫かれた。これが「学会精神」である。

 また、「持妙法華問答抄」に、「上根に望めても卑下すべからず下根を捨てざるは本懐なり、下根に望めても・慢ならざれ上根も・もるる事あり」(466頁)――上根の人に対しても(自分を)卑下してはならない。下根を見捨てないのがの本懐である。下根の人に対しても驕慢になってはならない。上根の人でも得道の道から漏れることがある――と仰せである。

 牧口先生はこの御文を拝されて、「門の人や高位・高官だからといって、へつらうのも法を下げる。いばって、信用をなくすのも法を下げることになる」と言われた。

 上根とは、法を信解し果を成(じょう)じてゆくための素地、機根が整っている人である。下根とは、そうした生命の素地が弱く、中々法を信解できない人のことを指している。

 この御文では、たとえ自分が下根だとっても、卑下してはならない。が見捨てることはないからである。逆に上根であっても、驕慢なになってしまっては、成がかなわないこともある、と戒められている。

 この義を拝された上で牧口先生は、肩書や社会的地位など、表面的な世法の次元にとらわれて、へつらったり、反対に威張ったりしては、法を下げることになる、と厳しく言われたのである。

 ゆえに、学会の中においても、幹部だから、社会的地位があるから、有人だからといって、その人に対して変に従順になったり、何も見が言えなくなるようではいけない。特別扱いの人を絶対につくってはならない。

「法」のために行動し、広布のために働く人が最も偉いのである。その人にこそ三世十方菩薩、諸天善神の賛嘆がある。この、学会の永遠の変わらざる精神を断じて忘れないでいただきたい。


【第11回関西総会 1989-10-12 関西文化会館


 殆どの会員は、幹部にものを言えない。遠慮しているとも考えられるが、最大の理由は「理論的な根拠が弱い」ことに尽きる。つまり、教学的な裏づけがなく、“自分の言葉”できちんと反論することが手なのだ。幹部が威張っているのか会員がおとなしいのかという問題は、鶏と卵のようなもので、どちらが先とも言いい。


 宗門問題については、関西で大事な指導がなされている。この指導もそう。権威に強い地域の代表といえば、大阪と東京下町だろう。しかしながら東京下町の場合、本気で上に文句を言うと飛ばされてしまう(笑)。その点、大阪を中とする関西の場合、学会本部が人事に介入する可能も低い。


 魚は頭から腐る。腐った部分を切り取らなければ、全身が腐敗するのは時間の問題だ。どんな立場であろうとも、この指導を実践できなくなった途端、「広布を阻む存在」となっていることを戒め合いたい。


 原島嵩は、理事長の子ということで特別扱いされた。山崎正友は、学会初の弁護士となって特別扱いされた。今だって、特別扱いされているのはたくさんいるだろう。おっと、具体的なことを書きそうになってしまった(笑)。危ない、危ない。


 幹部の子が幹部に、職員の子が職員になりやすいのは、多分、「組織の論理」を弁えているためだろう。「一々説明しなくても、わかってるだろ?」ってな世界だろう。ま、便利なんだよ。


 このままいけば、組織は自浄能力を失い、学会も内部告発によってしか不正を糾弾できなくなるだろう。最も不幸な結末である。