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2006-10-02

“浅はかな有名人”になるな


 現在、このように広布の道が大きく開けてきた。その陰には、決して華やかな表舞台に出ることなく、黙々と活躍してきた無数の信の勇者がおられる。その反面、利にとらわれて、広布の第一線での労を避け、汗水を流すこともなく要領よく活動し、何かにつけて表に立っては自己を偉く見せようとする人もいる。

 そうした人々は、有になったり、何かの立場を得たりすることを功徳のように考え、組織において日夜、労を重ね、愚直なまでに地道に活躍をしている方々を睥睨(へいげい)し、見下していくものだ。そのような浅はかな“有人”が今までにもいたことはご存じの通りである。また、これからもあるかもしれない。

 しかし彼らは、いわゆる世渡りがうまいというべきであって、深き信と人生の完結への正しき軌道、行路に則(のっと)ってはいない。ある者は利の卑しき根であり、何よりも我慢偏執のである。

「我慢」とは、我尊しとおごる“慢”であり、「偏執」とは偏った考えに執着していくである。御書の仰せに従わず、広宣流布の正しき軌道から外れた我慢偏執のこそ、信の最大の敵である。

 表面のみ信ありげな姿の中途半端な生き方では、一時はよいように見えても、最後は成という生命の完結を得ることなく、しみの境涯になってゆくことを知っていただきたい。


【金会全国代表者会議 1986-02-22 創価学会本部】


 陰で戦う金会に対し、「我が使命に生きよ!」と指導されている。金会は、創価班や牙会よりも最高幹部と接する機会が多い。時には堕落した幹部の振る舞いを目の当たりにすることもあるだろう。信とは相容れない矛盾にしむこともあるだろう。しかし、任務上のことは組織で相談することもかなわない。その上、彼等は会員の目に留まることもない。


「その中で戦え!」と先生は言われているのだとう。「それが、私の歩んできた道でもある」と。


 信強盛とは、陰で闘争し抜く人の異である。されば、いかなる立場になろうとも“陰徳の人”でありたい。そしてまた、“陰徳の人”を讃えるリーダーでありたい。


 近頃じゃ、会館でしか活動してないクソ幹部がいるよ(笑)。

2006-09-03

魚は頭から腐り、組織は上からダメになる


 今日は、全国の方面長、方面婦人部長の皆さんが集ってくださった。大事な会議である。

 永遠の創価の構築のために、戸田先生の遺言ともいうべきご指導に学んでまいりたい。

 戸田先生は言われた。

「幹部だ。幹部で決まる。指導者が自分を変えるしかない」

権力を持つと、人間はに毒される。

 魚も頭から腐る。

 組織も、ダメになるのは「上」からだ。

 幹部は、常に常に「慢」を排し、自身を変革していくしかない。

 戸田先生は、こうも指導された。

「今こそ、最高幹部が目の色を変えて働く時だ。そして同志を守り、新たな突破口を開いていけ」

 最高幹都ならば、結果を出すことだ。「さすがだ」「立派だ」といわれる模範を示すことだ。そして、第一線の同志を守っていくのである。

座談会にせよ、講義の席上にせよ、指導者は、学会精神の鼓舞をはかれ」  ──これも戸田先生の指針である。

 歓喜も決もなく、連絡事項を伝えて終わり──それでは、せっかく来てくれた皆さんに申しわけない。

 集った友が「やろうじゃないか」「戦おうじゃないか」と燃え上がって帰っていくような会合にしていく。それが幹部の使命である。

 また先生は、「指導者が大局を見ていることが大事なのだ」「動きを見て、どこへ手を打つか考えよ」「いつも四手先、五手先まで考えていけ」と指導された。

 皆が楽しんでやっていけるように手を打つのが指揮である。同志をしめるのは下の下である。いわんや、威張る幹部など論外である。それが先生の教えであった。

 さらに戸田先生は厳しくおっしゃった。

「今日の学会は、昨日の学会ではない。今年の学会は、去年の学会であってはなるまい。一日また一日、一年また一年の充実をがけよ!」

 日々、前進!

 日々、挑戦!

 日々、成長!

 日々、動!

 これが我らの「広宣流布の人生」である。


【方面長会議 2006-02-25 創価文化会館


 学会の組織はパーソナル(個人)に支えられている側面が非常に強い。このため、ろくでもない幹部に当たってしまうと、組織はアッと言う間に停滞する。その上、信仰を基としているので、見が言いにくい土壌がある。


 本当はそうじゃないよ。しかしながら、最前線で黙々と戦う人々は、「団結」「異体同」「中者に呼吸を合わす」といった目の下(もと)で自分を殺している。


 特に婦人部で問題のある幹部がいると、その下で戦う人々の多くが口にする科白(せりふ)がある――「仕方がない」。


 この諦(あきら)めが、功徳を出にくくしている最大の元凶だ。


 パーソナルに支えられている最大の問題。それは、活動のリズムが変わってしまうこと。


 例えば、仕事が忙しい人物が支部長になったとする。支部の会合は殆ど開かれることがなく、伝達事項は婦人部経由で落ちてくるようになる。


 また、家庭指導をしない、あるいは手な人物が本部長になったとしよう。この人は絶対に、支部長や地区部長に対して「家庭指導の重要」を教えることはない。活動のリズムは当然、会合型になる。


 婦人部幹部で目立つのは「唱題会型信」。強制的に人を集めて、無理にでも結果を出そうと頑張る。目標は、“成果”というの手柄だけ。だから、人が育たない。悩みに手が入らない。人間革命も進まなければ、功徳も出ない。


 10年後、20年後に振り返って、い出の一つも残ってないような活動なら、やめた方がいいよ。身体に毒だから(笑)。


 自主的な活動のリズムがないと、打ち出ししか存在しなくなる。本来、打ち出しとは最低限の目安に過ぎないのだが、打ち出し主義の場合、やり取りが教条主義的な雰囲気になる。打ち出しには、理由・動機・必要じないものだ。幹部がどれほど言葉を巧みに飾っても、結局「やれ」という押し付けになってしまう。こうして、多くの無気力な奴隷がつくられる。


 今、大切なことは、真の同志をつくること。真の同志とは、弟子としての覚悟を分かち合い、共できる人。組織の中でも外でも構わないとう。縛られる必要はない。まず、一人。そして、もう一人。更に、もう一人――。


 そのネットワークが後々、創価学会の底力となることを確信して。

2006-07-11

「傲慢」は会員への甘え


 中国の周来総理が、リーダーのあり方について警鐘を鳴らした言葉を紹介したい。

「指導者のポストにつくと、謙虚さを失って、親しみにくくなり、自分は大したもので、何でも分かっているといこむ」

 鋭い警鐘である。

 皆さんは、決してそうなってはならない。特に学会員の皆さんは、純真で人がいい。そのことに甘えてはいけない。

 リーダーは、どこまでも謙虚でなければならない。


【全国代表協議会 2006-01-27 創価文化会館


 私が壮年部でなかったら、多分、見落としていた指導だ。また、引っ越してなければ、読み流していたことだろう。立場や地域が変わって、初めて見えてくることは予以上に多い。まるで別世界にいるみたいだよ(笑)。


 まともに戦っていれば、必ず悩みを抱えたメンバーと遭遇する。深刻な相談を寄せられることも、決して珍しくない。宿命と格闘する同志の肩に手を添える時、どうして傲慢になれようか。重荷を背負いながらも、広宣流布に邁進する姿を目の当たりにすれば、人は謙虚にならざるを得ないものだ。


 それができてないから、傲慢な幹部になるのだ。傲慢とは、祈りなく、行動なく、責任なく、慈悲なく、信なくして、涼しい顔で打ち出しを落としている馬鹿者のことを指す。聞く人が聞けば、空虚な言葉を見逃すことは断じてない。本気で戦っているのかいないのかは、10秒以内で峻別できる。


 権力とは、人間を手段にする力のことだ。学会の役職が単なる権力と堕してしまえば、組織は崩壊の一途を辿る。草創期にあって戸田先生は、少人数の会合で男子部に決を促し、一人ひとりに「広宣流布は私がやります!」と大きなで言わせた。今はどうだ? 本部長は支部長にやらせようとして、支部長は地区部長にやらせようとしているんじゃないか? 「頑張りたいといます」と言う幹部はいても、「私がやります」なんて言い切ることができるのは、まずいない。会合の時だけ信があるような顔つきをしている“広布のパートタイマー”が多過ぎるよ(笑)。本部職員主導の組織である限り、官僚主義の打破は困だろう。


 旧ソ連ではチェルノブイリ原発事故以前から、毎年、大きな原子力事故が起きていた。だが、国家機密として鉄のカーテンで隠されていた。ソ連の解体後、次々と事実が明るみに出てきた。ソ連は核兵器開発でアメリカに後(おく)れをとっていた。そのため、原子力発電で先んじようと急ぎ過ぎて、安全対策が二の次にされてきた。こうした背景には、欠陥を指摘して改良することが、“体制批判”と受け取られる恐れがあったからだとされている。


 断じて、同じ轍(てつ)を踏んではなるまい。

2006-07-07

保身の幹部を叱り飛ばせ


 また孔明は、「必ず敗北する徴候」についても述べている。

 その一つは、「むやみに敵を恐れ、その反面、計算高く、利益に敏である」ことだという。

「恐れ」とは、すなわち「臆病」である。「戦う」を失うことである。“いざ戦い”という時に、「またか」とうようではいけない。

 こういう持ちでは、必ず敗北する。

「臆病にては叶うべからず」(1282頁)との御聖訓を銘記したい。

 一方、「計算高く、利益に敏」とは、自己保身の生き方といえよう。どうしたら自分は得をするか、そのことにばかり頭をめぐらせている人間である。

 例えば、から晩まで金儲けのことばかりを気にかけ、信は二の次──幹部がそんなことでは、広布の戦いに勝てるわけがない。

 戸田先生は実に厳しかった。

「要領のいい幹部もいる。傲慢な幹部もいる。学会を利用して、自分がいい立場になることばかり考える幹部もいる。腹の中で学会員を小馬鹿にしたり、大した人間でもないのに自分を偉そうに見せたり、学歴があるからといって尊大ぶる愚劣な幹部もいる」

 こう言われ、「そういう人間は、叱り飛ばせ!」と叫ばれていた。

 広布のため、真面目に健気に戦う学会員こそ尊い。その方々を、どこまでも大切にしたいとの深きおであられたのである。だから厳しかった。

 このおを、そのまま受け継いで私は走り抜いてきた。子である学会員を守るため、悪と徹して戦ってきた。


【全国代表協議会 2006-01-27 創価文化会館


 学会幹部には2種類ある。保身に走る官僚と、捨て身で戦う闘士である。官僚は官僚を求め、闘士は闘士を育てる。つまり、総県長が官僚であれば、その県は官僚主義に覆い尽くされる。組織人事によって決まる。


 要領のいい幹部は、打ち出しだけを正確に落とし、自分は動かない。メモを投函したり、電話だけで済ませているような幹部が山ほどいるよ。で、誰かが結果を出した途端、大騒ぎをして、あちこちに報告を入れる。こうやって手柄を自分のものとしているのだ。上の連中の動きも鈍いから、報告を鵜呑みにして喜んでいるようなのが殆ど。


 動いている人は、動いている人にしかわからない。動いてない幹部に限って、成果しか見てないものだ。婦人部の間では、綱渡りさながらの、危うい御守り本尊授与のエピソードが持てはやされている。


 私の組織にもいるんだが、「先生が、先生が」を連発する幹部に限って、ブロック員を小馬鹿にしている。口を突いて出てくるのは、指示・命令・要求のみだ。人格障害の典型といっていいだろう。しかし残なことだが、学会の組織には、こんな人間をつくり出す土壌が確かにある。


 今は先生がいらっしゃるからいい。だが、先生亡き後、内部告発をする者が続々と現れることだろう。学会員でありながら、アンチ公明を標榜している粗忽(そこつ)な連中のことを言ってるんじゃないよ。あんなのあ、屁みたいなもんだ(笑)。何にも知らない青二才ばかり。


 本当にどうしようもない組織の矛盾に呻吟(しんぎん)しながら、戦い続けている人々がいる。幹部は頬かむりをし、曖昧な態度で見て見ぬ振りを決め込んでいる。


 もしも、悪い幹部を叱り飛ばせば、叱った側が必ず痛い目に遭う(笑)。


 ここで私は一つの提言をしたい。それは、「プチ創価学会をつくれ」ということだ。自分の周囲に小さくても構わないから、本当の創価学会をつくり上げてゆくことだ。支部の一部でも、地区の片隅でも構わない。そこから、猛然と闘争の狼煙(のろし)を上げ、厳然と結果を出してゆく人が、本物の池田門下生である。


 文句は誰にでも言える。愚痴を吐くのも簡単なことだ。やりにくい中でこそ、力を蓄えることが可能となる。しっかりと、10年後、20年後を見据えて、組織の中核を育ててゆくことが最も大事だ。「何が何でも、全員に功徳を受けさせてみせる!」という覚悟なくして、成果を求めるなかれ。歓喜がなければ、疲労しか残らない。一人の歓喜が全軍に波動を与える。義務の奴隷になるなかれ。使命によって立て!


 昨日は牧口先生戸田先生が逮捕された日(昭和18年)。それから、ちょうど20年後に私が生まれた。昨日で43歳となったが、入獄した戸田先生と同い年である。池田先生は43歳で創価大学をつくり、日蓮聖人は43歳で小松原の法難に遭われている。「40代」の指導を読み返しながら、新たな決に燃えている。

2006-05-30

増上慢の幹部を許すな


 増上慢や我見は、人々から嫌われる。その言々句々は、誰からも納得されず、皆が嫌ないをする。

 尊き同志や後輩を、幹部面して手下のように見下すことは、邪道中の邪道である。

 初代の牧口会長は常々「下から上を動かせ」と教えられた。

 その下からの真剣な正しきを傾けないのは、上位に立つ真実のリーダーではない。

 更に牧口先生は厳しく指導された。

広宣流布和合僧を、自分勝手な我見と増上慢で破壊するような人間は、即座に除せよ! 絶対に、そんな幹部に随う必要はない。

『法に依って人に依らざれ』である」

 階級ではない。大事なのは、「広宣流布への信」である。そこにこそ、偉大にして尊き人材の和ができあがり、常勝不滅のが築かれていくのだ。


 第二代の戸田会長も、よく厳しく言われた。

「要領のいい幹部もいる。傲慢な幹部もいる。

 学会を利用して、自分がいい立場になることばかり考える幹部もいる。

 腹の中で学会員を小馬鹿にしたり、大した人間でもないのに自分を偉そうに見せたり、学歴があるからといって尊大ぶる愚劣な幹部もいる。

 また、皆の支援によって誉ある議員にさせてもらいながら、信を失い、退転して、知らずな行動をとっていく愚者も卑怯者も出るだろう」

 そして先生は叫ばれた。

「本当の立派な信とは、後輩をから尊敬し、大事にする。創価学会の大を知って、創価学会を命をかけて護ることである。

 和合僧を尊重して、我見や増上慢の幹部や議員を叱り飛ばし、異体同の理的な広宣流布の前進へと戦う人こそが、信強盛な法者である」と。


【「随筆 人間世紀の光」29 広宣流布の永遠の都/聖教新聞 2004-05-08付】


 創価の遺誡置文と得られよ。悪い幹部、動かない幹部を組織から叩き出そう。


「俺は凄い」とうのが増上慢で、「俺は正しい」と考えるのが我見。「俺は駄目だ」と嘆くのが卑屈で、自分の考えもなく、金魚の糞みたいに、ただくっ付いてゆくのが付和雷同。中道ってえのあ、中々しい。また、人の一念は時々刻々と変化して、とどまることを知らない。増上慢と卑屈の間で“自信”が揺らぎ、わがままと依存の間で“主体と正当”が行ったり来たりを繰り返すものだ。


“自信の人”は“謙虚の人”でもある。力あるリーダーであれば、どんなにもを傾け、衆知を集めてゆくことができる。ま、そんな幹部は久しく見たことがないけどね(笑)。


 人は常に何がしかの不満を抱いている。若い人ほど、問題識が高い人ほど、それが強い。そりゃ当然だよ。若い内から満たされてしまったら、年寄りと変わらないもの。ここで道は二つに分かれる。不平不満に飲み込まれてしまうか、それともバネにできるか、である。その本質は、「腐る」か「怒る」かの違いといっていいだろう。“腐る人”は妥協の人、“怒る”人は変革の人である。


「断じて、我が後輩にだけは同じいをさせない!」という決の人が連綿と続けば、組織革命は成る。完成された組織など存在しない。そんなものは、幻であり、ユートピアに過ぎない。完成された人間が存在しないのと一緒だ。問題は、よくなっているのか、悪くなっているのかである。団結が強まり、輪が広がっていれば、理組織といえよう。ところが、そうはならないところにリーダーの悩がある。


 立派な幹部を求めるのはやめよう。自分が立派な弟子になればいいのだから。


【※指導は、NON氏の投稿より】

2006-04-18

青年よ、君は恥ずかしくないのか


 広宣流布に生き抜いた人の「生死」は、無上道の「生死」である。

 私は40年以上、世界中、数限りない人々の「死」の実相を見てきた。また、詳しく報告も受けてきた。

 その結論として、見事なる「生」は、見事なる「死」をもたらしているといえる。「死」に臨んで、ごまかしは一切きかない。厳しき総決算として現れてくる(席上、昨年亡くなった山川副会長、秋山元国際部長の素晴らしい遺言が紹介された)。

 皆さま方もご承知の通り、多くの先輩は、最後の最後まで立派に信根本に生き、模範の臨終の姿を示してくださっている。

 皆さま方も、「よき人生」を、そして、永遠の幸福へと連なる「素晴らしき生死」をと、私は願してやまない。


 かつて、「ドレフュス事件」の話をした。ユダヤ人であったフランスのドレフュス大尉が、軍部によってスパイ容疑を捏造され、流刑となる。当局は、反ユダヤ人情を利用し、ドレフュスを窮地に追い込んだ。

 その時、敢然と一人立ち上がったのが文豪エミール・ゾラ(1840-1902年)である。彼の作品『居酒屋』や『ナナ』は日本でもよく知られている。ゾラとドレフュス事件との関わりは今日は略させていただく。

 ある時、ゾラはこう呼びかけた。「青年よ、青年よ……」と。

 ――青年よ、青年よ、君は恥ずかしくはないか。正義の人が何の助けもなく、孤立無援で、卑劣な攻撃と戦っている時、それを黙って見ていて、青年よ、君は恥ずかしくないのか、と。

 血涙を流しながらの叫びとも私にはえる。

 ともあれ、「謙虚なる勇者」の正義を、身をもって助けようとしない「臆病な傲慢者(ごうまんしゃ)」であってはならない。それは、断じて法者の生き方ではないからである。


【第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 いよいよ指導の結論部分である。世界と時代の変化・混乱を見据えながら、“精神の大航海時代”を勝ち抜く急所を、我々は教わった。歴史は、ありとあらゆるものを淘汰(とうた)する。ただ平凡に、淡々と努力する程度のレベルで生き残ることはできない。では、いかなる姿勢、覚悟、一で臨まなければならないのか? 広宣流布という未聞の大を担う人物の魂は、どうあるべきなのか?


 信とは確信の異である。祈れば祈るほど、動けば動くほど確信は深まる。更に、同志の体験を聞き、人間革命の実証を見て、確信はより一層深まる。


 昔、ある乙女が、「信すれば、必ず幸せになれる。その証拠として、半眼半口の相で亡くなる」と学会員から聞かされた。女は、「本当かしら?」と疑問にい、確認することにした。それからというもの、学会員の葬儀があると聞くたびに火葬場へ走った。何度も足を運んだある日のこと。火葬場の職員からを掛けられた。「お宅は若いのに、しょっちゅう来ているね。本当に不議なんだが、お宅が来た時は“焼け具合”が全然違うんだ。“地獄火”という言葉があるけど、普段はね、そんなじで炎が猛り狂ったようになって、関節にたまったガスが抜けるたびに遺体が、生きてるように動くんだ。でもね、お嬢さんが来た時は、柔らかい炎が遺体を包み込むようになって、遺体も殆ど動かないんだよ。不議だ」と。若き乙女は、学会員の成死相と、この一言で入会を決した。この女が後年、北海道広布の功労者である緒方博愛(はくあい)さんの夫人となる。


 我々は幸運なことに正しい宗教と巡り会うことができた。後は、正しい実践をするかどうかである。


 ゾラの叫びが、怠惰な私の背中を鞭打つ。それは、師の言葉となって、更に激しく私の肺腑(はいふ)を貫く。


 ゾラは、一面識すらないドレフュス大尉を守るために、を台無しにし、人生を棒に振った。然るに、大ある師匠が迫害されている時に、我々は何をしたというのか? 


 言論問題、第一次・第二次宗門問題と大に遭い、戦ってこられたのは、先生ただお一人である。


 会長勇退の際、首脳幹部の一人は言った。「時の流れは逆らえません」と。それを今、批判するのは簡単だ。「知らなかった」と言うこともできる。その場に居合わせた幹部が、その発言を否定した形跡もない。かような幹部の後ろに連なっていたのが我々ではなかったか? 結果的に、指をくわえて何もしなかったのではないか?


 よくよく以下の指導を読んで頂きたい。

 学会は師匠を見放した。だが、それでも師匠は学会を見放さなかった。池田先生という稀有な師匠によって学会は救われた。これが、「会長勇退」の真実の歴史である。私は当時、高等部だったが、与同罪は免れないものと覚悟している。

2006-04-12

大慢のものは敵に随う


 来るべき21世紀の「精神の大航海時代」。私は学会こそ、その新世紀の王者であると確信している。

 その希望の出発に当たり、軌道を誤らぬため、大切な一点を本日は確認しておきたい。

 それは、「法」を根本に生きるか、自己中に生きるか、ということである。そして、何があっても、「法」を根本に生きる人こそ、真の勇者であるということである。


 よく「傲慢であってはならない」という。誰もがそうい、そう強調する。しかし、それでは実際には、どう“慢”を見極めるか。

 表面が謙譲そのものであっても、シェークスピアが言うように、その謙虚さが「野がその足場にする梯子(はしご)」(『ジュリアス・シーザー』)である場合もある。すなわち、悪い野を達成する足がかりとして、「謙虚な人物」との信用を得るための演技である。

 ――その場その場で、状況にうまくへつらう生き方。それが本当の「謙虚さ」なのかどうか。反対に、昂然と胸を張って、自己を貫く生き方。それは「高慢」と非されるべきなのかどうか。ここに重要な課題がある。


 大聖人は「撰時抄」に、こう仰せである。「大慢のものは敵に随う」(287頁)と。大慢のものは、いざという時には、敵にしたがってしまうとの御指南である。

状況が変化すると、それとともにが揺れる。が転ずる。それが不安定な「慢」の生命である。

 いつも、どちらにつこうか、どう動いた方が得か、そんなことばかり考えている。要するに「保身」の一である。

 自分を大事にし、よくしてくれるから、こっちについておこう。形勢が変わったから、今度はあっちへ行こう。そのように、落ち着きなく、常に自分の利害を中に“機”をうかがっている。「法」が根本ではなく、自分の「エゴ」が根本である。ここに慢の本質がある。

 これまでの退転者らも、皆「大慢のもの」であった。ゆえに、純粋な信の世界にいられなくなると、「敵に随う」姿を見せた。全て大聖人の仰せ通りの実相である。


 謙虚に「法」を中にする者の勇気、そして、傲慢に「自分」を中にする者の臆病――。

 ある人は言う。「佐渡御書」のあまりにも有な次の一節も、これら二つの正反対の生き方を対比されているとも拝せるのではないかと。そうとも言えるかも知れない。

「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人(かたうど)をなして智者を失はん時は師子王の如くなるをもてる者必ずになるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜むの強盛なるべしおごれる者は強敵に値ておそるる出来するなり」(957頁)と。

 御文の大をわかりやすく言えば、「悪王」すなわち悪しき“社会的権力”が、正法を破壊しようとする時、「邪法の僧」すなわち、よこしまな“宗教的権威”が味方し、連合軍をつくって、智者を亡き者にしようとする。智者とは正法を正しく弘め教えている者、すなわち日蓮大聖人であられる。

 その時に、師子王のようなを持って悪と戦う者は、必ずになる。例えば大聖人がそうであると。

 そして、「これは傲りから戦ったのではない。『正法を惜しむ』が強く盛んなためである。傲っている者は、強い敵にあえば、必ず恐れるが出てくる」と仰せである。


 この御文にお示しのごとく、権力と権威が連合軍を成して行う「迫害の構図」は、永遠に不変である。

 その時に、正法を惜しみ、広宣流布を第一義とするゆえに、敢然と「師子王」のようなで戦えるか否か。戦い抜けば必ず成できる。

 しかし、「法」を大切にわない傲慢の人は、臆病な「恐れる」が出てきて、逃げてしまうであろうと御指摘になっている。普段、威張っているような人間ほど、大事な時に一歩退(ひ)いてしまうものである。


 端的に結論すれば、こうも言えるかも知れない。すなわち、「傲慢」は「臆病」とセットになっている。そして、「謙虚さ」は「勇気」と表裏一体である。

 たとえ誰に傲慢とわれようと、「法」を中に生き、「広宣流布」を根本として生きる人は、常に変わらない。いざいという時は、いよいよ力が出る。

 反対に、「自分」を中にして、うまく泳いでいるだけの人は、正法の勢力が強く、自分に利用できる時には、そちらにつき、形勢が変わると敵方にさえついてしまう。


 こうした大聖人の教えを拝する時、最も偉い人とは誰か。それは何の地位も権威もなくとも、「正法」のため、「広宣流布」のために、現実に日夜行動している無の地涌の友である。学会の同志である。私は深く強く、そう確信する。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 指導の白眉をなす部分である。正宗分といってもいいだろう。“創価の遺誡置文”と私は受け止めている。


 この指導さえ肚(はら)に入っていれば、インチキ幹部に騙(だま)されることはない。


 今、一番多いのは“小市民的詐欺師”、“創価の木っ端役人”である(笑)。役職を演じているだけの小人物。力不足を“謙虚さ”と“人のよさ”で一生懸命補っている。個人折伏と家庭指導が手な連中だ。やたら、「頑張りましょう」とは言うが、「頑張ります」とは絶対言わない(笑)。


 これ以外には、“キャラクター勝負型”というのがある。一見すると個的で魅力あふれる面々だ。ところがどっこい、この手の幹部は、信ではなく、持って生まれたキャラクターで勝負している。つまり、タレントだ。脚光を浴びることが大好きで、地道な闘争を最も手とするタイプである。


「慢」とは不幸の根本原因である五毒(貪・瞋・癡・慢・疑)の一つ。他人と比較する中でしか、自分の価値を見出せない生命のこと。「自分の方が上だ」という勝他のに突き動かされている境涯である。


 続いて、慢ランキングを(笑)。


 1位 祈ってない。

 2位 動いてない。(個人折伏、家庭指導)

 3位 勉強してない。

 4位 指導を受けない。

 5位 人の見を聞かない、求めない。


 我々はともすると、語気の強さや、分不相応な話をにして、「増上慢め」などとじることが多い。しかし、法華経方便品で「上慢」と言われた5000人のメンバーは、会合の途中で帰ってしまった人々のことである。これは、折伏されても学会員の話にを傾けない人や、指導されても頑(かたく)なにを閉ざす人といえよう。


 仮令(たとい)強言なれども人をたすくれば実語軟語なるべし、設ひ軟語なれども人を損ずるは妄語強言なり、当世学匠等の法門は軟語実語と人人は食したれども皆強言妄語なり、の本たる法華経に背く故なるべし、日蓮申す者は無間地獄に堕つべし禅宗真言宗も又謬(あやまり)の宗なりなんど申し候は強言とは食すとも実語軟語なるべし(890頁)


 大聖人はここで、強言と軟語を対照させ、妄語と実語を示されている。イメージや印象による判断を破折し、相手を幸せにするかどうかの一点を鋭く見抜くよう御指南されている。


“法華の慢”に関しては、「法華取要抄」で紹介した御文以外では、「顕未来記」にある。


 我が言は大慢に似たれども記を扶け如来の実語を顕さんが為なり(507頁)


「法が中」なのか、それとも「自分が中」なのか。微妙な違いである。本人ですら自覚してない場合も多い。


 大慢の人物は、いざとなれば敵に従う。そうであれば、徹して敵と戦い、民衆をしめる一切の勢力と果敢に戦う人が、「法中」のリーダーであり、真実の謙虚の人といえよう。上の言いなりになっているのは30点。