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2008-08-06

世界史とはモンゴル帝国以後の時代


 ヘーロドトスと『旧約聖書』、「ヨハネの黙示録」に由来する地中海=西ヨーロッパ型の歴史の枠組みと、『史記』と『資治通鑑』に由来する中国型の歴史の枠組みをともに乗り越えて、単なる東洋史と西洋史のごちゃ混ぜでない、首尾一貫した世界史を叙述しようとするならば、とるべき道は一つしかない。文明の内的な、自律的な発展などという幻を捨てて、歴史のある文明を創り出し変形してきた、中央ユーラシア草原からの外的な力に注目し、それを軸として歴史を叙述することである。この枠組みでは、13世紀のモンゴル帝国の成立までの時代は、世界史以前の時代として、各文明をそれぞれ独立に扱い、モンゴル帝国以後だけを世界史の時代として、単一の世界を扱うことになる。


【『世界史の誕生岡田英弘

中央ユーラシアから世界史は始まる


 ここに、地中海型の歴史と中国型の歴史、東洋史と西洋史の矛盾を解決し、単一の世界史に到達する道のヒントがある。それは、中央ユーラシアの草原の道である。


【『世界史の誕生岡田英弘

モンゴル帝国が中国文明と地中海文明を結びつけた


 歴史は文化であり、それを産み出した文明がおおう地域によって、通用範囲が決まるものである。歴史を持つ二大文明である地中海=ヨーロッパ文明と中国文明は、それぞれ前5世紀と前2世紀末に固有の歴史を産み出してから、12世紀に至るまで、それぞれの地域でそれぞれの枠組みを持った歴史を書き続けていた。それが13世紀のモンゴル帝国の出現によって、中国文明はモンゴル文明に呑み込まれてしまい、そのモンゴル文明は西に広がって、地中海=ヨーロッパ文明と直結することになった。これによって、二つの歴史文化は初めて接触し、全ユーラシア大陸をおおう世界史が初めて可能になったのである。


【『世界史の誕生岡田英弘

マルクス主義者に都合が悪い中国史


 ヨーロッパ式の時代区分が中国では成立しないということは、日本のマルクス主義の歴史学者にとって何とも都合の悪いことであった。歴史が時代ごとの段階を踏んで一定の方向に「発展」するのでなければ、最終段階の共産主義社会に到達する見通しは立たないわけである。歴史は善悪二つの勢力の闘争であり、それには一定の「発展」の方向があり、最終段階で善の勢力が勝利して世界が静止し、歴史が終わる、というは、ペルシアのザラトゥシュトラ教で最初に現れたもので、マルクス主義の空もその系列に属する。このでは、社会の発展段階に基づく時代区分は、ほとんど歴史学の窮極の目的で、それさえできれば共産主義社会がいつ到来するかも予言できることになっていた。そのため中国史で発展段階による時代区分ができないという実情に絶望したマルクス主義の歴史学者は、中国の社会には発展がない、停滞が際限なく続いていると言い出す始末であった。

 こうした混乱はすべて、地中海型の歴史観を普遍的な歴史観といこんで、それによって中国型の歴史を割り切ろうという、気の毒な日本の東洋史学者たちの空しい努力が産んだものであった。


【『世界史の誕生岡田英弘

ロシアと中国にはモンゴル帝国支配の後遺症が


 ロシア人と中国人は、いずれも中央ユーラシアの草原の道の両端に接続する地域に住んでいる。そのため両国民とも、国民形成以前から繰り返し繰り返し、草原の遊牧民の侵入と支配を受けて、その深刻な影響の結果、現在の姿を取った。長い長い間、ロシアでも中国でも、支配階級は外来者であり、ロシア人とか中国人とかいうのは、被支配階級の総称に過ぎなかった。そのためロシア人にも中国人にも、無責任・無秩序を好むアナーキックな格が濃厚であり、強権をもって抑圧されなければ秩序を守ろうとはしない。こうした格は、個人の自発と責任観を前提とする資本主義には向いていない。これもモンゴル帝国の支配の後遺症である。

 1206年のチンギス・ハーン即位に始まったモンゴル帝国は、現代の世界にさまざまの大きな遺産を残している。実にモンゴル帝国は、世界を創ったのである。


【『世界史の誕生岡田英弘

海洋国家が栄える


 20世紀末の現在では、世界の三大勢力はアメリカ合衆国であり、日本であり、ドイツを筆頭とするECである。これらはすべて、本質的には海洋国家である。アメリカ合衆国は大陸国家のように見えるが、実はその文明は大西洋岸と太平洋岸に集中していて、中間は空白である。その世界制覇の力の根源は、圧倒的に強大な海軍力にある。日本が海洋国家であることはいうまでもなく、第二次世界大戦の後の日本の経済的成功は、資源の輸入と製品の輸出に、海運を利用したことに原因があった。西ヨーロッパでも、大西洋への出口が広い順に、まず英国、次にフランス、次にドイツという順番で工化に成功していて、この3国がECの中核を成している。

 注目すべきことは、アメリカ合衆国も、日本も、ECも、かつてのモンゴル帝国の支配圏の外側で成長してきた勢力であり、一様に資本主義で成功している事実である。


【『世界史の誕生岡田英弘

大陸帝国と海洋帝国


 モンゴル帝国の弱点は、それが大陸帝国であることにあった。陸上輸送のコストは、水上輸送に比べてはるかに大きく、その差は遠距離になればなるほど大きくなる。その点、海洋帝国は、港を要所要所に確保するだけで、陸軍に比べて小さな海軍力で航路の制海権を維持し、大量の物資を低いコストで短時間に輸送して、貿易を営んで大きな利益を上げることが出来る。これがモンゴル帝国の外側に残った諸国によって、いわゆる大航海時代が始まる原因であった。


【『世界史の誕生岡田英弘

民族という観念は19世紀に生まれた


 民族という観は、19世紀に発生した、ごく新しいものである。現在の世界で通用している国家の観自体も新しいもので、古くは国家に当たるものは、君主の財産の観であった。フランス革命で初めて、領地・領民から君主を抜きにした「国家」の観がはっきりした形を取り、その核であった君主の代わりとして、「市民」(シトロワイヤン)が国家の主権者であるというが誕生した。目に見えた人格を持つ個人である君主と違って、この市民というものはつかまえどころがなく、誰が市民で誰が市民でないかもはっきりしない。それで「市民」に代わって、一つの国土、一つの国語を共有する「国民」(ネーション)が構成する「国民国家」(ネーション・ステート)だけが本物の国家であるという(国民主義、ナショナリズム)が出て来て、フランス革命以前の君主の領地・領民も、実はすでに国民国家であったかのごとく解釈されるようになった。

 そうなると、必然的に、国民国家を作りたいけれどもまだ作れないという人々の集団が現れる。それを日本語で民族というが、この言葉は20世紀初めの日露戦争のあとで生まれた日本人の造語で、ヨーロッパ語にはそれに相当する言葉がない。現代中国語の「民族」(ミンズー)は、日本語からの借用である。


【『世界史の誕生岡田英弘

ロシアもモンゴル帝国の継承国家


 ロシアも、モンゴル帝国の継承国家である。これは、東スラヴ人とフィン人を、スカンディナヴィアから来たルーシが支配して作った国である。しかしルーシには統一がなく、リューリク家の公たちがばらばらに、それぞれの都市を支配していて、1237年のモンゴル軍の侵入を迎えた。これ以後、ルーシは黄金のオルドのハーンたちに臣従して、いわゆる「タタルの軛(くびき)」の時代が500年間も続くことになった。「タタル」とはロシア語で、トルコ語を話すイスラム教徒のモンゴル人を指した言葉である。


【『世界史の誕生岡田英弘

ローマは帝国ではなかった


 そういうわけで、ローマ「帝国」とローマ「皇帝」はどちらも誤訳で、明治時代の日本人が、中国史の知識をあてはめて西洋史を理解しようとしたの産物ではあるが、こうした誤訳は、現在に至るまで、日本人の世界史の理解を誤るという、悪い影響を残している。


【『世界史の誕生岡田英弘

遊牧民は自由で気位が高い


 遊牧生活はこうした質のものなので、一箇所に人口が集中すると、草の量が足りなくなって、生活を支えるのに十分な数の家畜が飼えない。そのため一緒に遊牧するのは、せいぜい数家族どまりである。言い換えれば、遊牧民が暮らしていくためには、大きな組織や社会の統合は必要がない。家畜だけあればいいのである。だから独立経営の遊牧民は自由で気位が高く、農耕民が共同作の植え付けや灌漑や取入れのために、組織への屈従に甘んじなければならないのとは、大違いである。


【『世界史の誕生岡田英弘

2008-08-05

インド系言語はアーリア人によるもの


 西の方でヨーロッパに入るのとほぼ同時に、南の方でも、インド・ヨーロッパ語を話すアーリア人が、イラン高原から南下して、インド亜大陸の北部に入り、ドラヴィダ語を話していたインダス文明のハラッパーやモヘーンジョ・ダロなどの都市を滅亡させた。このアーリア人の言語が、のちのヴェーダ語やサンスクリット語など、インド系の言語の祖先になった。


【『世界史の誕生岡田英弘

元号は君主が時間の支配者であることを示す


 この「正統」の観のもう一つの表れは、時間の数え方である。君主の在位年数を基準にして年を付ける紀年法では、即位の年(即位称元)、もしくはその翌年(踰〈ゆ〉年称元)を元年とするが、これは君主が時間の支配者であることを示す。初めは一代に元年は一つであったが、漢の文帝の時、前164年に太陽が子午線を一日に二度通過する(日再中)という現象があったといって、翌年をもって第二の元年(改元)とした。次の景帝も二回改元をしているが、さらに次の武帝は6年ごとに改元を繰り返したあげく、前110年の封禅を機会に新しい元年を元封元年とした。これが元号の始まりである。これ以後、皇帝の元号を使わない者は、皇帝が時間を支配する権利を認めない者であるから、皇帝に敵対する反逆者ということになる。後世、日本の遣唐使が決して国書を持って行かなかったのは、国書には日付が要る。日付を唐の年号で記載すれば、日本の天皇が皇帝の臣下であると自ら認めることになり、日本の年号を使用すれば、唐の皇帝への敵対行為になるからであった。


【『世界史の誕生岡田英弘

「正統」と「伝統」


 そうした実状にも拘らず、『史記』が夏・殷・周を、実際に中国を統治した秦の始皇帝や漢の皇帝たちと並べて、「本紀」に列しているのは、「正統」という理論に基づくものである。いかなる政治勢力でも、実力だけでは支配は不可能であり、被支配者の同を得るための何らかの法的根拠が必要である。中国世界では、そうした根拠が「正統」という観である。唯一の「正統」(中国世界の統治権)が天下のどこかに常に存在し、それが五帝から夏に、夏から殷に、殷から周に、周から秦に、秦から漢に伝わった、というのである。この「正統」を伝えることが「伝統」である。

「伝統」の手続きとしては、世襲が原則である。五帝は黄帝とその子孫であり、帝堯は帝舜に、帝舜は禹に「禅譲」したのだから問題はない。問題は武力で夏を倒した殷の湯王と、殷を倒した周の武王が、どうして「正統」を承けたと認められるかである。これには、王の「徳」(エネルギー)が衰えると、「天」がその「命」を革(あらた)める(取り去る、「革命」)。そして新たな王が「天命」を受け(「受命」)、それに「正統」が遷る、という説明がつく。


【『世界史の誕生岡田英弘

「歴史」は「ヒストリー」の訳語として作られた日本語


「歴史」という言葉は、漢字で書いてはあるが、中国語起源のものではない。現代中国語で「歴史」(リーシー)というのは、日本語からの借用である。日本語の「歴史」は、英語の「ヒストリー」の訳語として明治時代に新たに作られた言葉で、それを1894〜5年の日清戦争の後、日本で勉強した清国留学生たちが、中国に持ち帰ったのである。


【『世界史の誕生岡田英弘

ヨーロッパは神であり善、アジアはサタンであり悪という構図


 ところで、不幸なことに、ヘーロドトスの対決の歴史観と、キリスト教の歴史観とは、きわめて重要な点で一致していた。それは、「ヨハネの黙示録」の、世界は善の原理と悪の原理の戦場である、という二元論である。これとヘーロドトスの、ヨーロッパとアジアの対決の図式が重なり合うと、すなわち、ヨーロッパは善であり「主なる神」の陣営に属する。これに対して、アジアは悪であり「サタン」の陣営に属する。世界はヨーロッパの善の原理と、アジアの悪の原理の戦場である。ヨーロッパの神聖な天命は、神を助けて、悪の僕であるアジアと戦い、アジアを打倒し、征服することである。ヨーロッパがアジアに対して最後の勝利を収めた時、対立は解消して、歴史は完結する、というになってしまう。このは、11世紀にヨーロッパで高まって、イスラムに対する十字軍という形をとったが、それで終わりではない。15世紀に始まる大航海時代に、アジア、アフリカ、アメリカに進出したヨーロッパ人の世界観も、全くこのキリスト教の歴史観そのままであった。現代においても、対決こそが歴史である、という地中海型の世界観は、絶えざる対立と、摩擦と、衝突の最大の原因であり続けている。第二次世界大戦の後は、「主なる神」の側に立つアメリカ・西ヨーロッパ陣営と、アジアの「サタン」の側に立つソ連・中華人民共和国・北鮮・北ヴェトナム陣営の対立は、半世紀にわたって歴史そのものであった。1990年を境にして、対立がアメリカ・西ヨーロッパ側の一方的な勝利に終わったことが明白になると、アメリカ・西ヨーロッパには、別のアジアの悪の僕が必要になった。そこに起こったのが、同年のイラクのクウェイト侵略である。アメリカ・西ヨーロッパが珍しく一致協力して湾岸戦争を戦ったのは、この戦争が「主なる神の御使たちとサタンの使たちの戦い」だったからである。

 湾岸戦争がヨーロッパ(アメリカ・西ヨーロッパ)の勝利に終わって、アジア(イラク)が打倒された後、あれほど戦争の遂行に協力した日本が、アメリカ・西ヨーロッパから露骨に警戒されるのは、日本がアジアの国である、という単純な理由からである。アジアの国であるからには、表面はともあれ、潜在的にはアメリカ・西ヨーロッパの敵であるはずだ、というのが、地中海世界のキリスト教歴史観の論理の明快な結論である。いかに日本が国際社会で誠実に努力しても、日本がアジアの国であることをやめるか、またはキリスト教歴史観よりもはるかに強力な歴史観を創り出さない限り、アメリカ・西ヨーロッパから敵視される運命を逃れることなど出来るはずがない。


【『世界史の誕生岡田英弘

国家によるキリスト教への迫害


 ユダヤ人のための宗教であったキリスト教が、ユダヤ人以外のローマ帝国の人々にも広まり、国家によるキリスト教徒の迫害も始まった。殉教者の事蹟のうち、伝説ではなくて事実であることが確かなものは、みな2世紀の後半から後である。

 ついでに言うと、俗説では、64年のローマ市の大火のあと、皇帝ネロが、キリスト教徒の放火であるとして、最初の迫害を行ったことになっているが、これは嘘で、ネロのキリスト教徒迫害という事実はなかった。当時のローマ市内には、まだキリスト教徒はほとんど居なかったのである。


【『世界史の誕生岡田英弘

『旧約聖書』は歴史ではない


 これは神学ではあるが、歴史ではない。百歩を譲って、これも一種の歴史だということにしても、ヤハヴェはイスラエル人だけの神であり、『旧約聖書』はヤハヴェ神とイスラエル人だけについての書物なのだから、せいぜい国史、それもひどく偏った、空的な国史としか呼べない。

 成立の時代こそ、『旧約聖書』はヘーロドトスの『ヒストリアイ』よりも140年ほど早い。しかし、アジアとアフリカをおおうペルシア帝国と、ヨーロッパを代表するギリシア人の対立を扱ったヘーロドトスの物語が、本当の味での世界史であるのに比べて、イスラエル人だけについての『旧約聖書』は、あまりにも視界が狭すぎる。そんな『旧約聖書』が、ヘーロドトスに始まる地中海文明の歴史文化に影響を及ぼすようになるのは、言うまでもなく、キリスト教を通してである。


【『世界史の誕生岡田英弘

地中海文明ではアジアとヨーロッパの対立こそが歴史の主題


 ヘーロドトスの著書が、地中海文明が産み出した最初の歴史であったために、アジアとヨーロッパの対立こそが歴史の主題であり、アジアに対するヨーロッパの勝利が歴史の宿命である、という歴史観が、不幸なことに確立してしまった。この見方が、現在に至るまで、ずっとアジアに対する地中海世界、西ヨーロッパの人々の態度を規定して来ているのである。


【『世界史の誕生岡田英弘

ヨーロッパ対アジア 敵対の歴史観


 この『ヒストリアイ』の書き出しでヘーロドトスが、ペルシア人の学者の説にかこつけて打ち出している見方は、世界はヨーロッパとアジアの二つにはっきり分かれ、ヨーロッパはアジアと、大昔から対立、抗争して来たものだ、という主張である。この見方が地中海世界の最初の歴史書の基調であったために、ヨーロッパとアジアの敵対関係が歴史だ、という歴史観が、地中海文明の歴史文化そのものになってしまった。

 この敵対の歴史観は、西ヨーロッパの古代、中世、近代を貫いて、現在の国際関係の基調であり続けているが、あまりにもそれが普及し過ぎたために、かえって西ヨーロッパも、我々日本人も、その他の国民も、そういう歴史観が地球上をおおっている事実にさえ気が付かずに暮らしている。しかしこのヘーロドトスの歴史観と、それが創り出した地中海文明の歴史文化は、これまでに世界中で多くの不幸な事件を引き起こして来たし、これからも多くの悲劇の原因になり続けるだろう。


【『世界史の誕生岡田英弘

ヘーロドトス以前に歴史の観念はなかった


 地中海文明の「歴史の父」は、前5世紀のギリシア人、ヘーロドトスである。ヘーロドトスは、アナトリアのエーゲ海岸の町ハリカルナッソス(現在のトルコ共和国のボドルム)の出身で、その著書『ヒストリアイ』は、ペルシア戦争の物語である。

「ヒストリア」(単数形、「ヒストリアイ」は複数形)というギリシア語は、英語の「ヒストリー」、フランス語の「イストワール」の語源だが、もともとは「歴史」という味ではない。ギリシア語の「ヒストール」は「知っている」という味の形容詞、「ヒストレイン」は、「調べて知る」という味の動詞である。それから出来た詞が「ヒストリア」で、本当は「研究」という味である。ヘーロドトスは、自分が調べて知ったことについて語る、という味で、著書に『研究』という題をつけたのだったが、これが地中海世界で最初の歴史の書物だったために、「ヒストリア」という言葉に「歴史」という味が付いてしまったのである。このことは、ヘーロドトス以前には、歴史の観が、まだ存在しなかったことを示している。


【『世界史の誕生岡田英弘

2008-08-03

歴史のないアメリカ合衆国は強大な軍事力で対抗


 日本と西ヨーロッパは、歴史のある文明である。これに対して、アメリカ合衆国は、18世紀の当初から、歴史を切り捨てて、民主主義のイデオロギーに基づいて建国した国家である。現在は解体したソ連が、マルクス主義のイデオロギーに基づいて建国した国家であったことは言うまでもない。ソ連の前身のロシア帝国は、本来モンゴル文明の一部でありながら、その歴史を否認して、地中海文明の歴史を借りて来て接ぎ木しようとして、結局うまく行かなかった国家であった。それをロシア革命で歴史を切り捨てて、イデオロギーに置き換えた国家がソ連であったのである。

 現代の世界の対立の構図は、歴史で武装した日本と西ヨーロッパに対して、歴史のないアメリカ合衆国が、強大な軍事力で対抗しているというのが、本当のところである。


【『世界史の誕生岡田英弘(ちくまライブラリー、1992年/ちくま文庫、1998年)】

歴史は強力な武器


 歴史のある文明と、歴史のない文明が対立するとき、常に歴史のある文明の方が有利である。一つの理由は、紛争が起これば、歴史のある文明は、「この問題には、これこれしかじかの由来があるので、その経緯から言えば、自分の方が正当である」と主張できる。歴史のない文明には、そうした主張に反論する有効な方法がない。

 もう一つの理由は、歴史のある文明では、現在を生きるのと並んで、過去をも生きているので、常に物事の筋道というものを考える。物事に筋道があるとすれば、過去を自分のものにすることによって、現在がよりよくわかり、さらに未来の予測も可能になるはずである。実際には間違ったシナリオを立てているかも知れないが、それでも未来に対して、何とか備えることは出来るのである。

 ところが、歴史のない文明では、常に現在のみに生きるしか、生き方はない。過去と現在、現在と未来の関連があいまいなので、予測の立てようがない。脈絡なく起こる次々の出来事に対して、出たとこ勝負の対応しか出来ない。方針を前もって決められず、常に後手後手に回る結果になる。(中略)

 歴史は、強力な武器である。歴史が強力な武器だからこそ、歴史のある文明に対抗する歴史のない文明は、なんとか自分なりの歴史を発明して、この強力な武器を獲得しようとするのである。そういう理由で、歴史という文化は、その発祥の地の地中海文明と中国文明から、ほかの元来歴史のなかった文明にコピーされて、次から次へと「伝染」していったのである。


【『世界史の誕生岡田英弘(ちくまライブラリー、1992年/ちくま文庫、1998年)】

対抗文明としての歴史文化


 歴史という文化は、地中海世界と中国世界だけに、それぞれ独立に発生したものである。本来、歴史のある文明は、地中海文明と中国文明だけである。それ以外の文明に歴史がある場合は、歴史のある文明から分かれて独立した文明の場合か、すでに歴史のある文明に対抗する歴史のない文明が、歴史のある文明から歴史文化を借用した場合だけである。

 たとえば日本文明には、668年の建国の当初から立派な歴史があるが、これは歴史のある中国文明から分かれて独立したものだからである。

 またチベット文明は、歴史のないインド文明から分かれたにもかかわらず、建国の王ソンツェンガンポの治世の635年からあとの毎年の事件を記録した『編年紀』が残っており、立派に歴史がある。これはチベットが、唐帝国の対抗文明であり、唐帝国が歴史のある中国文明だったからである。

 イスラム文明には、最初から歴史という文化要素があるけれども、これは本当はおかしい。アッラーが唯一の全知全能の神で、宇宙の間のあらゆる出来事はアッラーのはかり知れない志だけによって決定されるとすれば、一つ一つの事件はすべて単独の偶発であり、事件と事件の間の関連を論理によってたどろうなどというのは、アッラーを恐れざる不敬の企てだ、ということになって、歴史の叙述そのものが成り立たなくなってしまう。(中略)

 しかし、もっと大きな理由は、イスラム文明が、歴史のある地中海文明の対抗文明として、ローマ帝国のすぐ隣りに発生したことである。地中海文明の宗教の一つであるユダヤ教は、ムハンマドの生まれた6世紀の時代のアラビア半島にも広がっていた。ムハンマド自身もその影響を受けて、最初はユダヤ教の聖地であるイェルサレムの神殿址に向かって毎日の礼拝を行っていた。


【『世界史の誕生岡田英弘(ちくまライブラリー、1992年/ちくま文庫、1998年)】

インド文明は歴史を持たなかった


 インド文明には都市があり、王権があり、文字があったのだから、歴史も成立してよさそうなものである。それなのに、歴史という文化がインドについに生まれなかったのはなぜか。この謎を解く鍵は、インド人の宗教にある。

 イスラム教が入って来る前からのインドの宗教では、教でも、ジャイナ教でも、ヒンドゥ教でも、輪廻サンサーラ)のが特徴である。六道衆生(天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の6種類の生物)は、それぞれの寿命が終わると、生前に積んだカルマ)の力によって、あるいは上等、あるいは下等の生物の形を取って生まれ変わり、一生を再び最初から最後まで経験する。この過程は、繰り返し繰り返し、永遠に続くのである。この考え方で行くと、本来ならば歴史の対象になる人間界の出来事は、人間界の中だけで原因と結果が完結するのではなくて、神や、鬼や、幽霊や、ほかの動物や、死者たちの、人間には知り得ない世界での出来事と関連して起こることになる。これでは歴史のまとまりようがない。その上、この考え方では、時間の一貫した流れの全体は問題にならなくて、そのどの部分もそれぞれ独立の、ばらばらの小さなサイクルになってしまう。つまり、初めも終わりも、前も後もないことになって、ますます歴史など、成立するはずがない。

 もう一つ、インド文明に歴史がない原因として考えられるのは、カースト制度の存在である。カースト制度の社会の生活の実では、自分と違うカーストに属する人間は、同じ人類ではなく、異種類の生物である。しかもそのカーストは際限なく細分化して、ほとんど無数にあるものなので、カーストの壁を越えた人間の大きな集団を扱うのが質の歴史は、こういう社会ではまとまるはずがない。カーストを認めないイスラム教が入って来て、初めてインドで歴史が可能になったのは、その証拠である。


【『世界史の誕生岡田英弘(ちくまライブラリー、1992年/ちくま文庫、1998年)】

2008-08-02

歴史に不可欠な要素=暦と文字


 ただし口頭伝承だけでは歴史は成立しない。暦と文字の両方があって、初めて歴史という文化が可能になる。


【『世界史の誕生岡田英弘

歴史は文化である


 歴史とは何か。

 普通、「歴史」と言うと、過去に起こった事柄の記録だといがちである。しかし、これは間違いで、歴史は単なる過去の記録ではない。

 歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである。

 ここでは先ず、歴史は人間の住む世界にかかわるものだ、ということが大事である。人間のいないところに、歴史はありえない。「人類の発生以前の地球の歴史」とか、「銀河系が出来るまでの宇宙の歴史」とかいうのは、地球や宇宙を一人に人間になぞらえて、人間ならば歴史に当たるだろうというものを、比喩として「歴史」と呼んでいるだけで、こういうものは歴史ではない。

 歴史が、時間と空間の両方にかかわるものだ、ということは、広い世界のあちこちで、またこちらで、あるいは先に、あるいは後に、いろいろな出来事が起こっている、そうした出来事をまとめて、何かの順番をつけて語るのが歴史であるということであって、これには誰も異論はあるまい。

 ただ、歴史が対象とする時間と空間が、どちらも一個人が直接体験できる範囲を超えた大きさのものであることは、きわめて大事なことである。全く一個人の体験の範囲内にとどまる叙述は、せいぜい日記か体験談であって、とうてい歴史とは呼べない。自叙伝は一種の歴史と見なしてもいいが、それは自叙伝を書く当人が住んでいる、より大きな世界の歴史の一部分を切り取って来たものだからである。

 歴史の対象になる世界は、一個人が到達出来る範囲をはるかに超えた大きなものである。その中のあちらこちらで同時に起こっている出来事を、一人が自分で経験することは不可能だし、自分が生まれる前に起こったことを経験するのは、なおさら不可能である。そういう出来事を知るためには、どうしても自分以外の他人の経験に頼らなければならないわけで、他人の話を聞いたり、他人の書いたものを読んだりすることが、世界を把握し、解釈し、理解する営みの第一歩になるのである。

 ところで、時間と空間では、空間のほうがはるかに扱いやすい。自分の両手のとどく範囲を超える空間は、歩いて測ることが出来るし、遠い所でも何日かかければ、行って帰って来ることも出来る。つまり空間は自分の体で測れる。

 ところが時間のほうは、そうはいかない。時間は、行って帰って来れるようなものではない。その上、時間は、覚で直接とらえられるものではない。何か運動している物体を見て、その運動した距離に換算して、初めて「時間の長さ」をじることが出来る。言い換えれば、我々人間には、時間を空間化して、空間の長さに置き換えるしか、時間を測る方法はない。

 それではどうすれば時間の長さを測れるかというと、それには規則正しい周期運動をしている物体を見つけて、その周期を単位にして、時間を同じ「長さ」に区切るのである。(一日、一一年


【『世界史の誕生岡田英弘

13世紀初頭、現在の西欧諸国は成立していなかった


 13世紀の初めの西ヨーロッパの情勢をひと口で説明すると、イタリアという国もなく、ドイツという国もなく、フランスという国もなく、英国という国もなく、スペインという国もなかった、ということになる。こういう、今日の我々になじみの国々は、みんなもっと後になって出来たものである。



【『世界史の誕生岡田英弘

西暦1200年前後、インドではイスラム教が優勢に


 ヒマラヤ山脈の南の北インドの平原では、それまで教が優勢であったが、この20年ほど前から、グール家のムハンマドという、イスラム教徒のアフガン人の首領が、騎兵隊を率いてアフガニスタンから北インドに侵入して来て、インド人の王たちを征服し、広大な領土を獲得していた。これを境にして、インドでは教よりも、イスラム教のほうが優勢になり始めていた。1206年、ムハンマドはグールで暗殺され、アフガニスタンのグール家領は、北方のホラズム帝国に併合される。しかしムハンマドが北インドに残した王国は、彼の奴隷であったトルコ人の将軍クトゥブ・ウッディーン・アイバクが引き継いで、デリーの都に奴隷王を建てた。このデリー・スルターン国は、1290年まで繁栄するのである。


【『世界史の誕生岡田英弘

「歴史」は中国世界と地中海世界から誕生した


 必要なのは、筋道の通った世界史を新たに創り出すことである。

 そのためにはまず、歴史が最初から普遍的な質のものではなく、東洋史を産み出した中国世界と、西洋史を産み出した地中海世界において、それぞれの地域に特有な文化であることを、はっきり認識しなければならない。この認識さえ受け入れれば、中央ユーラシアの草原から東と西へ押し出して来る力が、中国世界と地中海世界をともに創り出し、変形した結果、現在の世界が我々の見るような形を取るに至ったのであると考えて、この考えの筋道に沿って、単一の世界史を記述することも可能になる。


【『世界史の誕生岡田英弘

『世界史の誕生』岡田英弘


〈狐〉が選んだ入門書』で紹介されていた本である。50ページほど読んだが、こいつあ凄い。まとめて入力するのが惜しまれるため、『青い空』同様、独立した記事として紹介しようとう。

世界史の誕生 (ちくま文庫)

2008-05-20

明治維新と天皇


 玉とは天皇のことで、当時の彼らは天皇を将棋の駒か何かのごとく、どこへでものままに抱き動かせるものと考えていたのである。むろん、幕府の手に渡さないためであった。渡した瞬間に、こんどは彼らが賊軍になってしまう。


【『青い空海老沢泰久

薩摩と浄土真宗


 内山徳太郎がいった。

「きみたちは、薩摩には浄土真宗の寺が一宇もないことを知ってるかね」

 宇源太と竜造は、外な話におどろいて顔を見合わせ、首を横に振った。

 寺請制度と檀家制度の形成以来、それに乗じてもっとも檀家数を増やしたのは、浄土真宗であった。

 その理由として、明治大学教授の圭室文雄(たまむろ・ふみお)は、他宗が祈祷にこだわったのに対して、いちはやく葬式の重要を認めてそれに力を入れたことと、他宗の寺院の住職は数年で交替したのに対して、妻帯が許されていた彼らは子々孫々が一寺の住職をつとめたために、檀家や土地、奉加金などの財産をいわば私的財産として管理拡大できたことを挙げているが、ともかく全国に浄土真宗の寺院のないところはなかったといっていい。

 たとえば、薩摩の隣藩の熊本藩には、享保5年(1720)、全部で955の寺院があったが、そのうち浄土真宗寺院は東西両本願寺派を合わせると、440ヶ寺で全体の46パーセントを占め、檀家数にいたってはじつに92パーセントを占めている。

「ところが、薩摩には一宇もないんだ」

 内山徳太郎はいった。

 薩摩藩では、キリシタンとともに浄土真宗が禁じられていたのである。

 天正15年(1587)、秀吉が島津氏を攻めたときに、肥後熊本との国境の長島の浄土真宗門徒が秀吉軍の道案内をしたためだといわれているが、真偽のほどは分らない。島津氏はそれ以前から浄土真宗門徒を弾圧していたという説もあるからである。

 しかし、ともかく、そのために薩摩藩では浄土真宗門徒に対してキリシタン同様の弾圧がおこなわれ、発覚すると拷問によって転宗を迫られ、転宗しないと、死罪、遠島に処せられたほか、士分の者は百姓に、百姓はさらにその下の身分に落とされた。しかし、キリシタンと同様根絶することはできず、深夜洞穴や土蔵の2階に集まってひそかにを唱える彼らを、薩摩では隠れといった。


【『青い空海老沢泰久

キリシタンを監視する「諜者」


 話が前後するが、明治政府の弾正台が、キリシタン探索を専門とする諜者をおいていたことはあまり知られていない。

 つぎのような諜者規則を定めて、その存在が外に漏れるのをひた隠しにしていたからである。

「諜者賞ノ事 右他ノ府県ニ到リ自ラ諜者タルヲ漏ラス者ハ厳ヲ加フヘシ。若シ事慢易ニ渉リ他人ヨリ其諜者タルヲ察知セラルヽ者、事ノ軽重ニ依リヲ加フ。能ク其命スル所ヲ成シ得ル者、功ノ軽重ニ応シ復命ノ上、其賞ヲ行フヘキ事」

 明治4年7に弾正台が廃止されて司法省が置かれると、司法省に受け継がれた。

 その人数は12人で、等級によって20両から7両の給を与えられて東京、大坂、横浜、長崎、箱館の5ヶ所に潜入していたが、その活動はじつに徹底していて、東京諜者の正木護なる人物などは、明治5年3に変で横浜の天主堂で洗礼を受け、教会の内部から日本人信者の摘発をおこなっている。

 その中になっていたのは僧侶で、東京諜者の正木護は長崎の本願寺派光永寺の隆瑞という僧だったし、横浜諜者の安東劉太郎なる人物も、東本願寺の猶龍という僧だった。浄土真宗の両本山がなぜそのような卑劣な活動にかかわっていたのか、いまとなっては知るよしもないが、さらにおどろくべきことは、彼ら諜者の活動は幕末からはじまっていることである。


【『青い空海老沢泰久

布教禁止で江戸時代の宗教は死んだ


 当時、寺院や神社に金を納めるというのは、病払いや家内安全といった、もっぱら自分のための現世利益を約束してもらうためで、貧しい者のために無私の寄付をするという考え方はなかった。

 幕府の宗教政策が関係している。

 これより200年前の寛文5年(1665)、幕府は何度目かの諸宗寺院法度を出し、その一条でつぎのように定めた。

「町中にて諸出家とも法談説候儀、無用にてつかまつるべき事」

 事実上の布教の禁止である。これで、江戸時代の宗教は死んだ。

 しむ者を救うためには、宗教家は、まず何はともあれ、町中に出ておのれの信ずる救いの道を説かなければならない。空海、最澄の平安教も、日蓮、親鸞の鎌倉教も、遊行僧たちがそうして信者を獲得した。しかし、江戸の僧侶たちは、寺請制度と檀家制度による経済的安定と引きかえに、この法度に唯々諾々としたがって、寺院内に引きこもる道を選んだ。そのため、彼らに無私の寄付を託すという考え方も生まれなかったのである。


【『青い空海老沢泰久

江戸時代は儒学に染まった


 その結果、江戸時代の知識階級の圧倒的多数を占める武士が、みな儒学に染まった。儒学だけに染まった、といってもよい。

 教科書は、いうまでもなく、大学、論語、孟子、中庸の四書と、易経、書経、詩経、礼記、春秋の五経、ほかに、左伝、戦国策、史記などで、いずれも漢書だから、すべて漢文である。漢文で読み、漢文で書いた。

 つまり、江戸時代の知識階級が学問をするというのは、外国のを外国語で読み、そのレンズを通して考えたことを外国語で書くことだったのであある。


【『青い空海老沢泰久

神道と本地垂迹説


 しかし、神社の神主たちは、その屁理屈(本地垂迹説)に反論できなかった。反論したくても、その根拠とすべき教義を持っていなかったからである。現在の神道にも、教義はない。

 不議といえば、これほど不議な宗教もないであろう。教義のない宗教などというのは、本来ありえない。神道が、宗教か、ただの習俗か、という論争がいまもあるのはそれが原因である。

 折口信夫は、その不議の理由を、成立の過程でも、成立の後も、宗教上の自覚が出なかったからだといっている。

 しかし、この日本独特の信仰形式を考えると、自覚者が出る余地はたぶん最初からなかったのである。あるいは、出る必要がなかったのだといいかえてもよい。

 いまも日本各地に残る祭りは、この宗教のもっとも古い信仰形式を伝えるものだが、そこで特徴的なのは、神主の仕事がほとんどないことである。とくに、地方の伝統的な祭りでは、神主は形式的な祝詞を読むか、祭りの進行をつかさどるぐらいで、あとは何もしない。肝腎の神事は、準備から実行まで、世話役の村の老人と若者たちですべておこなうのである。

 これは、神社と神主は信仰成立のはるか後に出現したことを示すもので、それ以外のものではない。そして、この宗教における信者と神社、あるいは神主の関係というのは、これにつきるのである。

 つまり、神主が出現したときには、すでに信仰と信者が存在しており、神主は彼らが勝手に神に奉仕するのを見ていればよかったのである。しかも、その信仰と信者は衰えることがなかったから、信者獲得のための布教をする必要もなく、教が伝来するまでは敵対する宗教もなかった。

 そのために、自覚者はついに出現せず、信仰と信者ばかりがあって、信者がただひたすら神に奉仕するだけの、おそろしく奇妙な宗教が形成されたのである。

 一方、教は、釈迦という自覚者が興した宗教で、経典という万巻の教義を持っていた。それを奉じ、圧倒的な宗教的知識を持った僧侶たちが、教義、すなわち言葉を持たない宗教の神を支配下に置くのは、じつに簡単なことだったのである。神主は、それを黙って見ているしかなかった。

 そして、江戸時代にいたり、寺院が寺請制度によって権力と経済力を握ったことで、その支配関係が最終的に完成するのである。


【『青い空海老沢泰久

寺請制度によって寺院は幕府の広報機関と化した


 つまり、寺請証文を出すようになり、檀家制度が成立してからの寺院は、宗教機関としてほとんど活動せず、ありていにいえば、幕府が望む倫理道徳を説き広める広報機関となっていたのである。

 江戸時代、教は、表面的には、空海、最澄の平安時代よりも、日蓮、親鸞の鎌倉時代よりも、隆盛をきわめた。しかし、実状は前述のようなものであって、宗教的には出羽のキリシタン類族の百姓、宇源太こと藤右衛門一人すら救うことができなかった。


【『青い空海老沢泰久

幕末の寺院数


 幕末、江戸には、上野寛永寺、芝増上寺を筆頭に、大小千八百余の寺があった。

 こう書くと、江戸というところは寺だらけの街だったようにわれるかもしれないが、他の地方にくらべて特段に多かったわけではない。明治3年の富山藩の資料によれば、所領わずか10万石の富山藩にさえ、1635の寺があったし、天明6年(1786)に幕府が教各宗派に提出を命じた「寺院本末帳」から類推すると、全国には20万ないし25万の寺があったといわれているのである。

 しかし、江戸は人口が多かった。諸説あるが、幕末には、武士が60万人、町人百姓が60万人いたといわれている。寺請制度によって強制的に寺院の檀家にされたのは町人百姓だけだが、武士も菩提寺は持たなければならなかったから、その味で彼らもその寺院の檀家といえた。つまり、江戸の寺は、単純計算すると、1ヶ寺あたり666人、1家族が5人ないし6人と考えると、平均110軒から130軒の檀家をもっていたのである。

 それに対して、全国平均の檀家数は、幕末の人口はおよそ3000万人だったから、寺院数を20万として計算しても、1ヶ寺あたり150人、家数にするとわずか30軒程度だった。江戸の寺がいかに裕福だったかが分る。


【『青い空海老沢泰久

キリシタン弾圧策としての寺請制度は百姓町人を管理統制した


 当時、江戸で仕事をするには、誰かに請人(うけにん)になってもらわなければならなかった。多くは口入れ屋が代行したが、その際、請人は保証先に対して、奉公をする者の寺請の有無を保証書に記載する決まりだった。寺請証文は、キリシタン弾圧策として考え出されたものであったが、時を経るにしたがって変貌し、しだいに百姓町人の生活全般を管理統制する道具になったのである。幕府が、藤右衛門のような転びキリシタンの子孫をキリシタン類族として執拗に戸籍上で追跡したのは、その政策を守るため、百姓町人に対して見せしめにしたのだとわれる。


【『青い空海老沢泰久

キリシタン類族令


 ひどい悪文である。悪法は悪文になるという好例であろう。(一般移民の戸籍である宗門人別帳から除き、キリシタン類族帳という別戸籍に入れることを命ずるキリシタン類族令を布告)


【『青い空海老沢泰久

江戸時代のキリスト信者数


 彼らの神道、教に対する理解は、神もも人間であり、人間を信仰しても救われないというものであった。それを当時の日本人がどのようにきいたのかは分らない。

 しかし彼らは、天文18年(1549)のフランシスコ・ザビエルの来日からわずか数十年で、戦国大をはじめ、すくなからぬ数の信者を獲得した。

 彼らがどのくらいの信者を獲得したのかは日本側に記録が残されていないので正確な数は明らかではないが、各会派の神父たちが彼らを保護していたポルトガルやスペインの国王に送った報告書から、家康が禁教令を出した慶長18年(1613)当時の信者数は、およそ30万人から40万人と推定されている。35万人としても、当時の日本の推定人口は1800万人ほどだったから、全人口の1.9パーセントであった。現在は1億2600万人の人口に対して、キリスト教信者の数は110万人(『キリスト教年鑑』)だから、その割合は0.8パーセントにすぎない。当時の日本には、現在よりはるかに高い比率でキリスト教の信者が存在していたのである。

 むろん彼らの多くは、禁教令以後、迫害されて教に改宗した。しかし改宗せずに隠れキリシタンとなって潜伏した信者は数知れなかったし、教に改宗したあと、再びキリスト教に改宗する者もあとを絶たなかった。


【『青い空海老沢泰久

2007-10-14

『Change Is Gonna Come』


字の言


▼最近発売されたCDを聴いて驚いた。「チェンジ・イズ・ゴナ・カム(変革の時は近い)」。人種差別に抗議する黒人たちを写した報道写真が付いていた。首には「私は人間だ!(アイ・アム・ア・マン)」と書かれたプラカード。横には、軍用装甲車の上から、彼らを機関銃で狙う白人兵士たちの姿。40年前のアメリカの現実だ▼1963年、公民権運動の結果、法の上での黒人差別は終わったかにみえた。しかし、猛烈な逆風が吹く。キング博士は暗殺。運動のリーダーたちの多くが投獄、暗殺された。その「逆風の時代」に歌われた歌を集めたCDだ▼ジェームス・ブラウン、オーティス・レディング等、世界的歌手がずらりとならぶ。「変革の時は近い!」「真の革命はテレビでは報道されない!」。数々の世界的大ヒット曲の内容は、このような烈火のごとき言葉の連続だったのか、と不明を恥じた▼逆風に抗し、差別や暴力への怒りを、語り歌い続けた不屈の魂。それが歴史を大きく変えると同時に、「ソウル」という音楽の一大ジャンルを作った▼暴力と対立が横行するかにみえる現在の世界。しかし、あきらめず、を上げ続けたい。信仰者としての、その不屈の魂こそ、永遠の変革の源泉といえよう。(哉)


聖教新聞 2007-10-14】


 プロパガンダ色の少ない、まともなコラムだ。書き手の動を率直に綴っているためだろう。「仕事で書いている」聖教記者の顔ではなく、個人としての人間の顔が窺えて好ましい。い返せば、ネルソン・マンデラ氏の解放をいち早く叫んだのもミュージシャン達だった。私が氏の前を知ったのは、ファン・ボーイ・スリー(ザ・スペシャル・AKA)というバンドの「ネルソン・マンデラ」という歌だった。


Change Is Gonna Come: The Voice of Black America 1964-1973 

2007-09-14

「学会精神」の筋金を背骨に入れよ


 インドはなぜ独立できたのか? 複雑ないきさつや議論は、時間の都合もあり、本日は省(はぶ)かせていただく。その本質の一点のみ、触れておきたい。

 初代の首相ネルーは言った。「ガンジーはわれわれの姿勢を正し、背骨に筋金を入れた」(ルイス・フィッシャー著『二十世紀の大政治家2 ガンジー』古賀勝郎訳、紀伊國屋書店)と。

 背に真っ直ぐ筋金を入れ、胸を張り、立ち上がった民衆。卑屈に、かがめた背中には、侵略者もやすやすと乗ることができた。しかし、もはやそうはいかなかった。

 今、私も学会員の背骨に、鋼鉄の「筋金」を入れようと努力している。これが現在の私の眼目の作である。

 そのためには、私は妥協もしない。何ものも恐れないし、屈しない。卑劣な策謀等には目もくれない。純粋にして強靭なる金剛のごとき「学会精神」の筋金。それを背骨に叩き込んだ「勇者」を厳としてつくり、厳として残してゆく。それこそが、広宣流布の死命を決する最重要事であるからだ。


 イギリスのチャーチル(1874-1965年)は、最後までインドの独立には反対した。

 彼は1940年から1945年まで首相を務めた(1951-1955年も)。もしも当時、彼が政権の座にあったなら、インドの独立は果たせなかったかもしれない。

 チャーチルとガンジー。二人とも20世紀の歴史にを残す指導者である。両者を比較した言葉がある。

 二人は「生涯を唯一の目的に捧げたことが似通っている。偉人は立派な彫像のように全く首尾一貫しているものだ」(前掲書)。

 しかし、「チャーチルは老いるにつれますます保守主義者になり、ガンジーはますます革命家になっていった」(前掲書)と。

 ある味で極度に対称化した表現かもしれない。ただ、人生の真理の一端を示唆していると言えまいか。

「権力」に生きる人間は時とともに硬直化し、保守化し、自らを狭い世界と視野に閉じ込めてしまう。一方、「精神」を我がすみかとする人間は、年とともに、いよいよ熱き情熱で理を追求し、自らの世界を高め、深め、拡大してゆくことができる。

 ひとたび、に権力や財力の甘い蜜を染み込ませてしまえば、もはや、その力から脱することはしい。堕落と保身への汚染が生命を蝕む。

 よどんだ川のゴミがたまるように、保守の弱さに「」や「鬼」がつけ込み、巣をつくってしまう。そうであってはならない。

 ひとたび、広宣流布という革命の同志として立ったならば、一生涯、最後の最後まで、「首尾一貫」していなければ、「同志」とはいえない。

 そのためには、年とともに、ますます若く、「ますます革命家」になっていく以外にない。「永遠の革命家」こそ、真の信仰者の姿なのである。


【第8回全国婦人部幹部会 1989-09-06 創価文化会館


 日顕問題が起こる一年前の指導である。この年の824日からは待望の衛星放映が始まった(主要会館のみ)。参加するごとに眼が開かれ、信の姿勢が一変した。それほどのインパクトがあった。毎の“先生との出会い”は衝撃といってよい。


 歴史にを残した人物は数多くいるが、ガンジーは別格である。ガンジーの本も読んでない上、映画『ガンジー』も見てないが、そう断言しておこう。欧米列強の覇権主義に、非暴力主義を貫いて国家独立を勝ち取った人物は、ガンジーただ一人である。あのチャーチルをして、「たった一人の粗末な白衣をまとった小男にイギリスが敗れた」と言わさしめた。


 マハトマ(=偉大なる魂)を生んだインドは、その後どうなったか? 1974年には核実験を行い、今尚、カースト制度が撤廃されていない。軍事的にも、社会構造から見ても、完全な暴力の国である。


 数奇な運命を生きたプーラン・デヴィの自伝を読めば、誰もが理解できる。幼い頃から暴力にさらされ、10歳の頃に父親の目の前で強姦される。彼女が生きてゆくためには、暴力をもって立ち上がるしかなかった。後年、盗賊の首領となり次々と報復をする。民衆は喝采を上げ、溜飲を下す。投降後、刑務所で勉強をし、出獄後に議員となるも、凶弾に斃(たお)れた。これは昔の話ではない。プーランは私と変わらぬ年齢であった。(2001年725日死亡)


文庫 女盗賊プーラン 上 (草思社文庫) 文庫 女盗賊プーラン 下 (草思社文庫)


 インドにはガンジーの精神もなければ、非暴力のもなくなっていた。そこへ先生が乗り込んで、再びガンジーの魂にを吹き込んだのだ(「世界不戦を目指してガンジー館)。


 そして現在、アメリカ公民権運動の大指導者、マーチン・ルーサー・キングの母校である、ジョージア州アトランタのモアハウス大学が、「ガンジー、キング、イケダ展」を行うに至っている。

 巨人と巨人の魂は軌を一(いつ)にする。それは、“人間主義”という宗教である。あらゆる指導者が理として果たせなかったことを、先生が現実のものとしている。