Thee Rang 跡地

https://solaponz.hatenadiary.jp/ 跡地

そうしてまた一年

 年の年初に一年間ブログを再開しようと決めてからもう364日が経過してしまった。毎日書こうと決めていたにもかかわらず、昨月は自分と家族の病気やらその他雑務やらでなんとほっとんど書けていなかったのがとても情けない事だ。毎日なにか一つの事をやる、これだけシンプルな約束は無いというのに、これをシンプルに守ることがいかに難しい事か。

かつて僕が初めてブログを書き初めて以来、このブログを書くという習慣は、日記をつけるという習慣を過去のものとしてしまった。物事を書くというのは記録するという意味のほかに、いろんな作用が働く。

  • 物事を整理して考える
  • 自分の意見とその理由を考える
  • 思考に不足している情報を補足するきっかけになる
  • 無数に存在する単語とその組み合わせにそれらを落としこんでいく
  • 後で読み返して反省する際の材料とする

ものを書いていく最初のほうは、書くことで頭の中を整理できたような気分になる。ああ、自分はこういう考え方をするやつだったなあ、よかった、ちゃんとまだ頭は働くようだ、、、とこういう風に自分を客観的に見つめ直すいい機会になって、一日を自分として過ごしたんだという証明になるような気がして安心する。

が、書いていくうちに、次第次第に、自分が本当はどういう性質をもっているのかに気がついてくる。思ったより意見がバラバラだし、気分によって考え方を変える。それによって言っていることもバラバラになってしまうし、内にも外にもいろんな矛盾を抱えている事に気付かされる。たまに感情だけでものを考えたりするし、それでいいやと思ってしまうズボラな面を強く感じてしまったりもする。

それでもいいやと開き直って書いていくと、そのうちある事に気付く。『どうやら、ブログを書いていて自分の頭を整理しているのでは無いな、ブログを書く事で整理しきれない混沌を頭のなかに毎日毎日創りだしていってるんだ。』アウトプットとしてのブロギングが、次第次第にインプットとしての役割を果たしている事に気づいていくようになり、途端にブログを書くのが怖くなった。

昔、都市伝説だかなんだか知らないが、こういう話を聞いたことがある。
『毎朝毎朝、鏡に向かって「お前は誰だ?」と言い続けると、いずれ発狂する』。この行為は、ブログを毎日書いていくという行為に、とても似ている。自分の思考を見つめ直し、そこに批評者としての立場から再鑑を与え、時として自分の感性や思考による生産物を、無慈悲に廃棄せざるを得なくなる。
こういう時、いったいブログを書いているのは誰で、モノを考えたのは誰だろう、とまるで一個であるはずの自分が、複数存在しているような気がしてくる。

そんなに深く考えて書くものではないよ、その時思った事をそのまま書くのがブログなんだよ、と誰かが昔の僕に教えてくれていたら、そんな事もなかったんだろうけども。ともかく、この一年、こういう事を感じながら(ほぼ)毎日一定時間PCに向かって座り、カタカタと駄文を重ねてきたのだった。

前回ブログを書いたとき、最後に載せたエントリは以下の『ที่ร้างの終わりに』というものだった。僕がブログを書くにあたって定めた全てのルールはとてもシンプルなものだった。

ที่ร้างの終わりに | http://d.hatena.ne.jp/solaponz/20070518

今回そんなに改めて書く事はないが、一年間はやはり楽しかった。しかし先月・先々月と物足りなさを感じた日々もあったので、もう少し気楽なものとして続けてみるのも悪くない気がしている。こうやってダラダラ続けるくらいが、ダラダラな僕にはちょうどいい塩梅なんだろうなあ。

過ぎたるは一周まわる

 周回っておもろいとか、一周回ってかっこいいとかっていう表現がある。これはものすごく味わい深い表現だと思う。シニカルというか偏見とか排他感情とか厭世観が小粒で含まれていて、それでいて空気を読みながらその場で最適解の行動を取る事が美徳とされる、奥ゆかしい日本人の性格が表れている・・・とでも表していいのだろうか。そんな中に、一周回せてしまう人への憧れ、尊敬という感情も見え隠れしてもいるようだ。

他にも出る杭は打たれるとか、鳥も泣かずば撃たれまいとか、ことわざとして一定の枠から突き抜ける事を戒めるものがいくつかある。現代日本の世相にも社会的慣習にもマッチしていてそれはそれで良い。全員黒髪の職場で金髪で仕事する訳には行かないだろうし、いくら寒いからといっても満員電車の中で南極の冒険につかうような完全防寒スーツを着ているのはあまりに滑稽だ。こういうのは、良い。

ただ、これらは、一周回りきっていない。中途半端に突き抜けているので、悪目立ちして空気を乱す存在として認識され、排除の力学が働いてしまうものだ。

ここで一周まわったらどうなるか。

一周回るとは、どういう事なのか。

…これは、突き抜けた状態が、当然の場としてコンセンサスを得るという事だ。ここでいう場とは、前提だとか常識だとかの意味合いを含む。空気に対して存在する地面のようなものとして考えればいい。食事中の談笑であれ仕事中であれ、人々はみな、場の中で空気を読む。場は当然そこにその形であるものであって、その場にささった杭が平均的に揃って美しいかどうかが人々の関心を呼ぶ。

ここで中途半端に出っ張っている杭ではなく、いびつであっても、杭が伸びすぎてしまい、まるでその場に元からあった建造物として、当たり前のものとしてその場として扱われる状態…、これが一周回って○○という状態だ。

常識にさせる
出る杭で終わるか、一周回して場に同化させてしまうか、この二つは大きく違う。前者は排除される不名誉なものだが、後者は場合により尊敬されたり拠り所とされたりする名誉なものだ。場の同化には、複数の人間の認識の中で、ある一定の共通のイメージをもたせ、かつそれを皆が共有している事を皆が認識している必要がある。つまり、突出したイメージを皆に常識として認識させる事が重要になる。

このために、何かを一周回すためには、強い意志とともに調整力や行動力などの政治力、セレンディピティに恵まれるというような条件が必須となる。『自分が何によって記憶されたいかを考えろ』、とは、ドラッガーが幼い頃に胸に刻んだ言葉でもある。そうだ。


人はなにによって突き抜け、その突き抜けた事を常識として人々に記憶される事を欲するのだろう?
僕は何だろう?

この答えを見つけたら、生活も仕事も趣味も習慣も、きっと幸せという概念にじわじわと近づくよう、人生を進めていけるようになるのだろう。いずれ必ず死に至る人生、いかに一周回したいものを見つけるのか、どの本を読んでも書いてないし、誰が知ってるかも分からないんだよなあ…。

情報収集の質の変遷

 報収集のやり方が、ネット以前と以後で変わってきているような気がする。・・・というような事を、電車の中で考えてみた。というのも、電車に乗って、つり革に捕まって新聞を読んでいるごくごく普通のサラリーマンの姿に、何か違和感を覚えたからなのだった。

そのサラリーマンの熱心に読んでいる記事を覗きみてみると、そこには僕が前日の夕方にネットで読んだのとほぼ同じような内容が載っていた。あーこれ知っているなーと思いながら、その後その内容についてネットで色々と議論があったのを思い出し、反芻していた。

そして多分、そこで行われた議論のうちいくつかは、まさにこのサラリーマンの頭の中で行われている最中なのではないか?と考えた。そうなると、いずれ彼はその頭の中の議論に決着をつけ、彼なりの持論を打ち立てる・・・のだろう。そうして出社し、昼休みに同僚や後輩と談笑しながら、その議論をなぞって、持論を前提に会話をするのだろう。

ここで、このサラリーマンは、ある事件に対して以下のように情報を収集/消化した。

・出来事発生→翌朝→新聞で事実把握→持論構築→持論披瀝→フィードバック

しかし。考えてみると、僕らのようなスマホ大好きっ子は、同じ事件に対する情報の収集ステップが、一段階前倒しになっている気がする。どういう事かというと、事件が発生して、その日のうちに、↓のステップまで一気に終わらせてしまう。

・出来事発生→そのばでスマホで速報入手→時期に詳細情報も入手→事実把握→ネットで即議論やコメント閲覧→持論構築→SNSで持論披瀝→フィードバック

つまり、情報収集するステップが従来よりかなり前倒しになり、出来事が発生した翌日の談笑では、これまでより一層掘り下げた議論がさり気なく行われる事になる。相手が、自分と同じようにスマホをつかっていて情報が早いといった場合、互いに前提知識と一定量の議論を備えた状態で会話する事になるので、その場ではじめて入る人は置いて行かれる感じになったりする,、、という事もある。朝新聞で出来事をしったばかりの人も、その人の持論はすでに議論されていて、場合によっては間違いが発覚しているものだったという可能性が高まってしまい、ついていけなくなる。

お役御免メディア
情報収集媒体としてのテレビや新聞は、その一覧性(新聞を適当に開けばなにかしらの出来事について知る事ができる)や持続性(チャンネルをつけっぱなしにしておくと次から次へと新しい番組が流れていく)の特性は評価できるポイントだが、コンテンツ単独の中身の役割はもはやお役御免だといって構わないと考える。たとえばアメリカで企業同士の大型合併や倒産があったとすれば、その概要や詳細は、新聞、テレビに頼らずともネットで、現地のサイトでいくらでも手に入る。つまり、ある出来事について新聞をだらだら読むより、ネットで積極的に事実関係について調査したほうが、より精度の高い情報がより短時間に得られる…といった事は間違いないだろう。
これからの収集すべき情報
これからは、NETで即座に出てくる、単なる事実をあつめればいいという時代ではない。その事実になったのはなぜか、どう解釈するべきか、これからどう向かうのか、それはどのような価値観に照らし合わせるとどのように審理されるべきものなのか、そのような検討と仮説思考が重要になる。その為には、より多くの仮設や検証に触れる事が大切で、そのような情報を収集するのが、情報収集という言葉の意味/ニュアンスに置き換わる。

これらを意識し、日々情報と触れ合っていかないと、いつのまにか携帯の使い方がわからない高齢者のように、すぐに新時代の情報収集についていけなくなるのではないかと危惧している。

Go Pro素晴らしい

 欲には果てがない。何か新しいモノを買って一時的に満たしたとしても、またすぐに次に欲しいものが出てくるので、年がら年中欲しい欲しいばっかりいっているようでとてもつまらない。なので、社会人になったときに、『欲しいものは三ヶ月我慢して、それでも欲しければ購入を検討する』というルールを打ち立てた。
結果それが役に立ったときもあれば、役に立たなかった時もある。携帯用GPSなども三ヶ月たってから買ったはいいものの、携行性に優れる余りに小さすぎて、車にセットしたときはセットした事をついつい忘れてしまい、タイでドライブをしている間に紛失してしまったりした。iPad2なんかはしばらく我慢してから購入したが、Skypeや動画鑑賞、メール閲覧、Web閲覧に大変便利に使っている(電子書籍として使うのには、その重さ故にやや無理があった)。

今はGo Pro
今はGo Proが欲しい。かなり。
Go Proが何かといえば、簡単にいえばHD画質でムービーが撮れる小型デジタルビデオだ。サーフィンやスキーの撮影、Xスポーツやレースの運転者視点での撮影など、簡単に自転車や自分のお腹、頭にマウントする事ができ、臨場感溢れるムービーを手軽に撮ることができる。ほんとに小さいので、あまりカメラを意識せずに扱う事ができる。


本体は液晶モニタもなくとてもシンプルな構成となっているが、そのぶん機能が絞られておりシンプルで、安価に抑えられている点がとても素晴らしい。
キットには標準で水深60m(通常、美しく楽しめるダイブは水深20m程なので充分すぎるスペック)ほどまで耐えられるハウジングも付属するので、ダイビングも余裕。ヘッドマウントすれば、両手は自由なまま最初から最期までダイブ映像を撮影が可能。

尚、サーフィン目的とかドライブ目的とか本体のみとか、いろんなシンプルな形で販売されている。GO_Pro自身もバージョンがあり、初代"GoPro HERO 35mm, All-Season Sports Camera"が2005年にリリースされて以来、2011年10月に発売された最新の"HD HERO2 Professional cameras"に至るまで、スペックアップと進化を続けている。価格が他のデジタルビデオより軒並み易いので、もっともっと需要はあるんじゃないだろうか・・・?
製品仕様をamazonからコピペ。

「GOPRO HD Helmet HERO」は、4種類のHD撮影ができ、特に最高画質で1920x1080P(プログレッシブ再生)に対応可能し、 フルスペックハイビジョンテレビ(1080P対応)をご利用の場合には、画面一杯の綺麗な動画をご覧いただけます。 撮影目的に併せて動画撮影モードを変更すれば、You Tubeなどへ加工なしでアップロード可能。 また、静止画撮影も500万画素という高解像度に対応しています。外部メモリ対応も最大32GB(SDHCカード)となり1080P 撮影時に384分もの長時間撮影が可能。 またバッテリーは充電使用が可能な「リチウムイオン電池」を搭載。最大2.5時間の連続撮影が可能です。



ビデオフォーマットはH264/mp4で、多様な対応が可能となっています。 あらゆるスポーツシーンで有効な広画角は、720/960Pでの撮影時には 170°、1080P時には127°のワイドアングルを実現しています。 撮影した画像は、直接TVなどにつないでご覧いただける他、USB経由パソコンでの再生は、WINDOWSではメディアプレイヤー、Macではクイックタイムに対応しています。 オーサリングソフトなどで色々なシーンを編集し、貴重な記録としてお楽しみいただけます。カメラハウジングの固定は、ストレートに固定するマウントの他、3箇所を屈曲させるマウントを使用、ヘルメットでの使用でも上部、両サイド、 また空気孔に通して固定させる事が可能になっています。 固定には粘着式テープやベルトを使用、簡単に装着が可能です。 他にヘルメットだけではなく自転車、バイク、サーフボード、スキー、スノーボ-ドカヤックなど色々な場所にとりつけることが可能です。 また、ヘッドランプを使用する様につかえるバンドも同梱しているので、ヘルメットをお持ちでない方も使用可能なキットです。

パッケージ内容  カメラ本体、HDカメラ本体(170 度ワイド魚眼レンズ仕様、フルHD撮影時は127度となります)、専用リチウムイオン充電池×1、防水ハウジング、ノンウォータープルーフバックパネル、(防水の必要が無い状況で使用。ハウジングを使用しても録音の集音がしやすくなります。)、ベンテッドヘルメットマウント、ヘッドストラップ(ヘッドランプスタイル)、3WAYアーム×1、クイックリリースバックル×2、ベースマウント各種×4、(平面貼付対応×2、カーブ面貼付×2)、USB(A&ミニB)ケーブル、HDTV対応ケーブル(コンポーネントケーブル)、RCAケーブル×1

サイズ カメラ本体(同梱リチウムイオン充電池搭載の場合)42mm x 60mm x 30mm 97g、、防水ハウジング(同梱)72g、電源 専用充電式 リチウムイオン電池(同梱)、センサー 1/2.5" HD CMOS、レンズ GLASS F2.8、露出 自動、外部メモリ SD(SDHC)カード 最大32GB まで対応 (別売)、ビデオ (r○は、本体液晶部に表示される動画撮影モードのサイズ表示) r1:848x480 SDモード 60fps 8Mbit/s、r2:1280x720 HDモード 30fps 8Mbit/s、r3:1280x720 スローHDモード 60fps 15Mbit/s、(2倍のスロー再生・編集時に超スムーズな再生が可能)、r4:1280x960 HDモード 30fps 12Mbit/s、r5:1920x1080 フルHDモード 30fps 15Mbit/s

録画時間の目安 SDHC32GB使用時 フルHD(16:9)~1080p (30 fps):4時間21分、HD(4:3)~960p (30 fps)::5時間26分、スローHD(16:9)~720p (60 fps)::4時間21分、HD(16:9)~720p (30 fps)::8時間09分、SD(16:9)~WVGA (60 fps)::8時間09分、バッテリー持続時間の目安 約2時間30分、セルフタイマー 10秒、OS Win [ME/2000/XP/VISTA/7] Mac [OS9.1/10.2 以降]、動画再生の推奨環境 Microsft Windows XP(Service pack2もしくは以降)、Vista3.2GHz Pentium4以上、DirectX 9.0c以上、1GB system RAM以上、Video card RAM256MB以上  Mac OSXv10.4.11以上、2.0GHZ Intel Core Duo以上、RAM1GB以上、Video cardRAM128MB以上、フォーマット MPEG4、コーデック H.264、保証 条件付き1年

撮りたいもの
アレ買ったらこれやろう、あれやってやろう、という妄想は楽しいもので、その全てはほとんど実現する事はないと知りながら、以下のような事をやってみたいなあと考えている。

  • お気に入りドライブルートの景色撮影
  • ダイビング撮影
  • 子供の頭に取り付けて何見てるのか撮影
  • パラグライダー中の撮影
  • 子供と遊ぶ時に自分に取り付けて撮影
  • おかんに取り付けて、お気に入りの料理してもらって後で参考にする

サンプル
FacebookのGo Proページで、Go Pro of the dayとして日々写真や動画がUploadされていて、見るだけでも結構楽しい。以下はGo Pro Photo of the dayの1ページ。躍動感溢れる珍しいアングルの写真が撮れる。
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.10150160374116919.287620.50043151918&type=3



どんな風に使うのかとかの動画は、以下のが分かりやすいか。最近は二個並べて3D撮影とかってやったりしてて、交差法とか平行法で立体視しながら動画をみれたりして結構おもしろい。フルスクリーンで見てると疲れるけども…。自信がある人は見てみよう。


(画質がかなりきれいでビビる)

(さまざまなマウント)


3Dは以下。左右入れ替えや交差・平行法選択など再生オプションが充実しすぎてて不思議。

読み手に理解を強要してはならない

 ろんな文章を読んだり書いたりしてて思うことに、『君、なに読み手に期待してんの?俺アホだよ?』ってのがある。なんというか、読んでいてしんどいというか、その筆者の独自の世界観や言語感がいたるところで感じられるのはいいことなのだが、そこに入り込むのに筆者と同じ思考をさせようという文章がたまにあって、一気に読む気が失せる(というか必要でなければ読まない)。

自分のメモであれば、それでいい。事実、僕もメモのような落書き帳のような感じでこのBlogを開始したので、それでも幾許かの方が読んでいると知るまでは、かなり適当に言葉を羅列して、思いつくままポンポン書連ねてすっきりとしていた事があった。自分がすっきりしたいだけであれば、そういうメモ的な文章も全く問題がない。

しかし、誰か第三者が読んでるというのを前提として考えた場合は話が異なる。その場合、文章の存在理由そのものは誰か他人に読まれるという事であり、そこにまったく意識を置かないで文章を書くという事は、つまり存在理由そのものへの消極的否定が伺われる。それでは誰も幸せにならないし、誰も得する事がない。文章はやはり、存在理由を自明に表すようなかかれ方をすべきだ。

例えば
気に食わない表現の一つに、何の変哲もない単語を"『』"で括って書くような書き方がある。文章中でその単語がある特定の意味合いやシチュエーションで使われる際に、単語と共にオリジナルの意味付けを連想して欲しいというときにこういう表現を使うのだろう。
もちろん、単語を印象づけるための演出であったり、表現上どうしても仕方ないものであれば構わない。しかし、おこなったごくごく一般的な単語に対しても必要以上に勝手に意味づけし、かつその意味づけを読者も共有するよう"『』"で囲み記憶する事を迫ってくるような文章がたまにある。単語は単語でしかないのに、その人なりの解釈を施した単語を勝手に意味付け宣言されても、読者は簡単にはついていけない。自分で、ある単語に特別な思い入れや印象を持つのは勝手な事だが、その理解の共有を読み手に期待するのは、いささか自意識過剰というか期待がオーバーしすぎている、というような感が拭えない。
仕事でも
仕事で書く文書なんて、ほとんどのものが誰か読み手が存在していて(しかも複数)、さらに文書の目的だって明確なんだから簡単そうなもんだ。お詫び状ならお詫びをすればいいし、質問上なら質問をすればいい。しかし、これが意外と読み手に通常以上の労力や思考を強要するものが意外とあって、そういうのは上司や先輩からの指導の対象になる。誰が読むのかを考えてものを書くのは意外と難しく、ついつい楽をして読み手側の脳みそをかりてものを書いてしまうのだろう。
残念ながら、読み手は通常、よほど興味のあるものや必要性のあるもの意外は、脳のメモリをキュッと絞って最小限のエネルギー消費に抑えられるよう意識して読む。それでも無理なく内容と目的を理解できるくらい書くのが結構大事で、だいたい読んでいるのは中学校2年生だと考えて書けばレベル的には適切なものになるはずだ。無駄を省き、必要なものだけ必要な言葉で書くのが、肝要だ。

SNSにハマったら…

 SNSを一番最初に使い始めたのはいつ頃だったろうか。確か、就職活動をはじめた頃、Greeに誘われたのが最初だったように思う。リアルで仲のいいやつらとネットでつながり、彼らがどういう人達と付き合っているのかとても興味津々に眺めていた記憶がある。たまに知り合いの友達リストを見ていると自分も知っている人がいて嬉しくなったり、不思議になったりしながら楽しんで使っていた。
んでGreeが落ち着いたと思ったらmixiが爆発的に流行りだした。これもGreeと同じようにしばらく使っていたのだが、なんか全く同じ流れで同じようなことをしていたので途中で飽きてしまい、放置しているうちに使わなくなってしまった。(とはいえ今でも1年に一度はログインするようにしている)。
んで今最もホットなのがFacebook。映画にもなった。並み居る強豪を蹴散らし、今やSNSデファクトスタンダードになってしまった感がある。日本人は始めるのは他の国より遅かったが、しかし最近はかなりの人が始めるようになった。しかも、若者だけでなく、結構な年齢のビジネスマンまでやってて驚く事もある。

中毒にご用心
んで、やっぱハマリ過ぎて中毒化するって話をちらほら聞く。常にWallの流れが気になってウォッチし続けていたり、誰か特定の人のUpdateが気になって気になって仕方なかったり、やたらどうでもいい事をたくさんUpdateしてみたり。他には、何をするにもすぐ携帯取り出して写真をとってUploadしたり、○○なうとかってTwitterやWallに打ち込んだり…。別にこれが悪いことだとは言わないが、SNSはあくまでツールのようなもんであって本人の楽しみ&利便性のために存在しているべきであって、SNSのために本人の楽しみが存在していてはならないのになあ、と思う事がしばしばある。
うまく言ってる記事
このへんの内容をうまく表している記事があったのでご紹介。

10 Signs You Have Social Media Sickness
http://thestir.cafemom.com/entertainment/111020/10_signs_you_have_social

1. Your babies have Twitter and Facebook accounts that you post to regularly. You've successfully managed to convince yourself that it's not the least bit annoying.
→これは考えたことあるが、いずれは息子もPCを使うようになったりしたらショックうけたり友達からネタにされまくるだろうなーとか考えて、ないなあと思った。でも、きっとやってる人いるだろーな。気持ち分かるもん。


2. You are more involved with high school classmates than you were in high school. Who cares if they aren't aware of your relationship?
→これはあるある。昔高校の頃とかあんまり絡み無かったのにSNSでやたらUpdateを読むせいで、その人にめちゃ詳しくなったりする。今更、「あ〜こういう人だったのね」って納得する事がけっこうある。


3. You snuggle your iPhone more closely than your husband. It's the last thing you look at before you close your eyes and the first thing you wake up to. If only it could unscrew the pickle jar.
→モバイルは見にくい(&Softbank遅い)ので、iPhoneではそんなに頻繁にFacebookやらない。でも、mixiにはまってるガラケー使いとか、前略とかリアルとかにはまってる(今はTwitterに流れ切ってるようだが)中高生とかこんなになる人多いだろーな。


4. You can't remember the last time you read a book. Who has the attention span for more than 140 characters these days?
→普段本読んでないとこーなるだろうなあ。確かに、SNSに限らずiPhoneが手元にあると、読書以外の選択肢が無限に広がってしまうので、意識的に本を読もうとしない限りなかなか本が片付かない。僕もちょうど今読んでいる本はもう2週間くらいPendingのままだ。片付けねば・・・・


5. While out to dinner with friends, you wait until they visit the restroom to photograph and post your meal. What? The world cares what you're eating!!
→あーあるある。本当に、人間の食への欲求ってスゴいんだなあといつも思う。Wallを見ると誰かしら食事の写真をUploadしていて、多種多様。「こんなのわざわざ写真とるものでもないやん」て思ってしまうものから、「やばいマジうまい腹減った」って思ってしまうものまで、様々。ちなみに、料理写真は、セピア調だとかポラロイド調だとか、へんな加工するより、ホワイトバランスがしっかりしてさえいれば普通の写真のほうが美味しそうにみえる。


6. If your status update doesn't immediately garner responses, you delete it. Nobody wants to look unpopular.
→これはないのう。備忘録だとかメモ的な要素の使い方が多いなあ。


7. Your camera is never more than an arm's reach away. What if your children did something post-worthy and you didn't document it? You'd never forgive yourself.
→これもとても気持ちはわかる。でも僕の場合は、どちらかというと自分でUpdateする事がないので、息子の事でも書いて親戚に近況報告するかぁー的な意味合いが強いのでnever forgive to miss documentationってわけではない。


8. You can recall, in great detail, the flower arrangements, bridesmaid dresses, and color scheme of a wedding that not only did you not attend, but you have no idea who the happy couple was. But their Facebook photos rocked!
→一応友達リストはあまり手を広げすぎてはいないのでこういうのは無いが、たまーーーに、あれ?誰だっけ?って人のPrivateな出来事にやたら詳しくなったりする事はある。仕事がいま佳境だとか、すごいことを成し遂げたとか。


9. You have a Twitter, Facebook, FriendFeed, LinkedIn, Flickr, AIM, etc. account, but when the phone rings, you ignore it. If they want you so badly, they'll ping you.
→知り合いにこういうのが居る。僕は一応電話には即出るので該当せず。


10. You walk up to people, point to their shoes, and simply say "like" while flashing a thumbs up. It's a totally effective way of communicating.→わろた。

大きい物を手に入れる為には

 か大きなものを持とうと思ったら、一度いま持っている物を下に置かなければならない。人間、ついつい現状に阿り安寧を享受してしまう習性に流されるものだが、しかし新しいことや全く違う事をやりたい場合は、そういった心地よい現状というのを一旦破棄しなければならない。

こういう、将来の利益を享受するために今手に入れているものを手放すのって、うまい人は本当にうまいし、下手な人はとことん下手だ。例えば、学生時代とかを思い返してみる。恋人づきあいをしていた2人がいつのまにか別れてしまっていて、振られたほうから話を聞いてみたら「なんか金持ってる社会人といつの間にか仲良くなってて、そのまま振られた」というなんとも切ない話を、幾度と無く耳にした事がある。
同じように、アルバイトで一緒に入って頑張っていた仲間が、ある日突然辞めていて、どうしたんだろうとボヤっとしていると、そのうちもっといい待遇でもっとおもしろそうなバイトを初めてたりした。

社会人になってもやっぱりそうで、今ある仕事をやめて新しいものにチャレンジする人がたくさん居て、当然ものごく羨ましいようなキャリアを描いている人がたくさんいる。きっとそうするのはとても難しい事だったハズなのだが、自分の信じるものを追求する事に、今の仕事を続ける以上の価値や勝算を見いだせた、勇敢な人たちだ。

仕事においても恋愛においても、手に持っている荷物をそのまま抱え込むか、一旦床においてその上踏み台にしちゃったりしてみるか。この手のチャレンジをするかどうかって、遺伝子によってコントロールされていて、人によっては結構簡単な事だったり、絶対ありえない事だったりする。んで、それは遺伝する。…周りを見ていて、僕はそう思う。

後天的要因で、この意思決定特性を乗り越えたりすることってあんのかなー。