Thee Rang 跡地

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眼に見えない物の始末

 からよく、くしゃみをすると菌が数十メートル飛ぶだとか、せきをするときは手で覆いなさい(手というのは実は不適切で、正しくはひじの内側が良い)とか言われてきた。なんでかといえば、唾液の飛沫を介して、さまざまな病気がばらまかれる可能性があるから、という事だった。

僕は、未だにその飛沫感染というやつがイマイチ理解できない。

なんでそんな飛沫経由で菌がうつるのか。その飛沫が唇についたからといって、どういう経路でその菌は悪さを働くのか。胃まで降りてきて悪さをするのか。それとも、喉とかどっかでしがみついて悪さをするのか。わざわざ肺までやってきて悪さをするのか。何事も無く出て行くのか。そうでないとすればどれほどの数の菌に対してどれほどの割合で感染するものなのか。くしゃみで伝染るなら、なぜアクビでは伝染らないのか。会話でも伝染るのではないか。

…などなど、考え続ければ頭が痛くなってしまう。全く、学がないというのは時にこのような不都合を生む。

見えざるものを見よ byカイジ
人間というものは、目で見えないものについてはあまり客観的で現実的な判断ができなくなるようだ。
例えば、上記の飛沫感染
そして例えば、今回の放射線騒動について。みんなてんでばらばらな事を言っていて、はたして誰を信じて良いものかまったく検討がつかない。ひたすら安全を繰り返す安全厨と呼ばれる人たち、ひたすら危機感を煽り続ける危険厨と呼ばれる人たち、どちらもなんとなく正しいことをいっているようで、なんとなく胡散臭く感じる。どっちか一方を100%信じることができれば、どんなに楽だろうか。

菌とか放射線とかだけ、ではない。他には、人の気持というのも目には見えない。なので、みんなてんでばらばらな事を無責任に繰り返す。惚れた腫れたの青春談義にしたって、コクったら行けると繰り返す安全厨、ダメだから止めて次いけ次、と繰り返す危険厨が一定数存在して、常に両者のはざまで揺れ動くのは当人のみ。最後は自分できめるより無い。

眼に見えない物は客観的に成立し得ない
人の気持であれ菌であれ放射線であれ、眼に見えないものというのは常に人間の主観の中に存在する。無論、科学検査や医学研究、放射線量測定器を使って客観的に正しいと思われるデータを採取する事はできるが、それは事象の一部を捉えているだけであって全体を説明できるものではない。
放射線はいずれガンの発生可能性を数%押し上げる可能性があるというが、インフルエンザなどは一年に何人も人を殺す。これを防ぐには、インフルエンザが流行る時期に、国が容易した避難施設に住民達を個別避難させるより無いが、国はこれをしない。誰もしない。金もかかるし、とても不便だからだ。
今後の影響に医学的に明確な無く、ひとりも死んでいない原発で税金を使って住民を避難させる一方、年間何百人も殺すインフルエンザではそれをしないのは偏っているとは言えまいか。
これは当たり前だ。客観的に計れないのだから、主観の連続、主観の合意で意思決定をするしかないからだ。
こういった対応の違いは、それぞれに主観が存在する事、その主観の最小公倍数的な合意点の位置を表している。
眼に見えないものは客観的事実に即して自動的に処理を決定できず、誰かひとりもしくは複数人の主観を通じて決定される事となる。
始末をつける
眼に見えないものを処理するには、文字どり始末を付けるしかない。制度としてどう決められているか、誰がどう言っているかとかは別として、自分なりにどこかで基準やリミットをつくり、そのルールにそって始末していくしかないのだ。
人は、いかに眼に見えないものに動かされているのか。眼に見えないものと戦って、眼に見えないものと寄り添っているのか。これも考えて見れば、キリがなくなる・・・