【海難記】 Wrecked on the Sea

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text by 仲 俣 暁 生 Nakamata Akio (sora tobu kikai webpage)
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2007-01-28 Sunday

消費としての労働

「『働く』ということ」がテーマだった昨日の「Life」は、出番がないので家で聴いていた。自分が出ないときに家でのんびり聴くこの番組は、お世辞抜きに、いつも面白い。今回はとくに、ゲストの本田由紀さんとサブパーソナリティの柳瀬さんとが、うまい具合に緊張感をもって対立していたと思う。

http://www.tbsradio.jp/life/

じつは、家でラジオを聴きながら、講談社から送ってもらった内田樹の『下流志向』asin:4062138271という本を読んでいた。副題に「学ばない子どもたち 働かない若者たち」とあるとおり、いわゆる「学びからの逃走」や「ニート」問題について内田さんが語った講演をまとめたものだ。内田さんの最近の本とモチーフを共有しているので、はっきりいってそれほど新しい発見はなかったが、ひとつだけ正しいと思ったことがある。それは、いまや《「学ぶ」ことも「働く」ことも、「消費」のひとつになっている》ということだ。

ラジオの番組のなかで本田さんが、柳瀬さんの「なんでもいいからとにかく働け、働いてみないと、働くことがどういうことかなんてわからない*1*2という発言に対して、「回転寿司を食べて一度食中毒になったことのある人間は、寿司の皿を選ぶ以前に、回転寿司に対して恐怖を感じる」というようなことを言っていた。でも、これは問題のすり替えである。職業選択の問題が、なんの疑問もなく消費の問題に喩えられてしまうことにとても違和感を感じながら、私は彼女の話を聴いていた。

内田樹の言うとおり、いまや「職業選択」は一種の消費の対象である。働こうとしない人間は、働く必要がないから働かないというだけでなく、「消費」の対象としての魅力ある「商品=仕事」がないから、買い控えをしていると言ってもいい。労働が消費になり、就職先が商品となる、という倒錯はすぐには理解しにくいかもしれないが、その前段階として、義務教育から大学にいたるまでの「学びの消費化」を置いてみれば、それほどわかりにくい話ではない。「学ぶ」ということを「商品を買う」というアナロジーで捉えるよう強いられてきた世代が、「働く」ということをも、同様のロジックで考えることは、むしろ当然だからだ。

もう一つ、この本で内田樹が強調しているのが、「自己決定フェティシズム」という問題系だ。

こういう傾向は十年くらい前から目立ってきたようです。バブルのころと今では雇用状況が違っていますけれど、それでもメンタリティの基本的なところはあまり変わっていない。それは「自分のことは自分が決める」という自己決定に対する固執です。

自己決定したことであれば、それが結果的に自分に不利益をもたらす決定であってもかまわない[原文は以上にすべて傍点]。

ある種の「自己決定フェティシズム」です。

内田はこの典型として医療現場での「インフォームド・コンセント」を挙げる。同様に、今の若い人たちは、学びにおいても労働においても、いや多分、生活のすべての場面で「消費者」として「インフォーム」され、その選択結果がどうあれ、「自己決定」の結果として同意することを求められている。ただひとつ、彼らにできることは「消費そのもの」を拒否することなのだが、その選択肢は示されない。

だから問題の本質はこうなる。いま「働かない」と言われている人たちは、上のような「消費主体」としての生き方を拒否し、その結果、「消費としての労働」を拒否しているのか、それとも、まだ自分の欲しい「商品=仕事」が選択肢として示されないから、そのような商品が目の前に示されるまで、購入を見送り続けているだけなのか。

もちろん、その両者が微妙にブレンドされているのが実際なのだろうが、両者ははっきり切り分けるべきだろう。「働く」ということは、賃金を対価として得るために、企業に対して自分を労働力として売ることだけを意味しない。「学ぶ」ということが、本を買ったり学校に通ったりすることだけを意味しないように、また「遊ぶ」ということが、エンタテインメント商品を購入したりプレイすることだけを意味しないように、「働く」ということには、多種多様なあり方がある。*3

いまの若い人たちが「消費」としての「労働」という考え方に違和感を感じないのは、20年前のバブル経済以後、「商品を買う、というかたち以外の生き方」の選択肢が、ひとつずつ、しかし確実に潰されてきたからだ。「仕事」はもはや、交換可能で流動性の高い「消費財」にすっかりなってしまった。むしろ、交換不可能で流動性も低いのは、生身の人間のほうだろう。でも、消費とヒモづけられない生き方をする人は目に見えない存在にされてしまうので、「社会」の外に放逐される。

消費資本主義の網の目から逃れるようなすべての「生き方」が目に見えないものとされ、家庭でも学校でも「社会」でも、賢い「消費主体」として振る舞うことが、正しい生き方であるということを刷り込まれた世代。それが「ニート」と呼ばれる人たちだとしたら、それはたんに「失われた十年」の問題ではなくて、この20年間に日本社会が蒙ったより巨大な「損失」のつけである。しかもその傾向は、景気が回復しているといわれている今後、さらに加速するにちがいない。景気回復によって、この問題が解決するなんてことは絶対にありえない。

こういうことを書くのも、私自身が、80年代以後、そのような「消費主体」として再編成、あるいはもっといえば「転向」させられた人間だ、という思いがあるからだ。若者は3年で転職する、というけれど、私自身は、3年以上同じ職場に勤めたことなど、2度しかない。半年や1年足らずで何度も仕事をやめたし、そのときの根拠はつねに「自己決定」だった。

内田樹がこの本をはじめあちこちで言っているのは、「自分で自分のことを決定してはいけない」ということではなくて、人は「自分だけで自分のことを決定することなど、(できると思っても)じつはできない」ということだ。そのことに気づくまでには私もずいぶん時間がかかったし、いまでもつい、自己完結の方向にいってしまう。というのも、そのほうが楽だからだ。でも、そのツケは明らかにたまっていく。

これは案外、「友だち」問題ともからんでくる気がしている。古谷実の『わにとかげぎす』が、いま予感されているような「希望」の物語へと向かうとしたら、そのベースにあるのは、人は「自己決定」だけでは生きられない、ということの再確認だろうか。

橋本治は昔、全共闘世代の多くが「連帯を求めて孤立をおそれず」とうそぶいていたとき、そうではなく、「孤立をもとめて連帯をおそれず」と考えたそうだ。人が本当の意味で「自立」したかったら、他人をおそれてはいけない。お互いを「おそれ」あうことで、結果的に人々が孤立しているのが現代なのだとしたら、「自己決定」「自己責任」というきれいごとの言葉のうらにあるのは、まさに例の「囚人のジレンマ」というやつだ。

生きているだけで、人がそこで囚人になってしまうような場所のことを、「社会」とは呼べないだろう。私は人にツケをまわしたことも、ツケをまわされたことも幾度もあるけれど、いつか帳尻が合うなら、べつにそれでもいいと思っている。今日の東京新聞で、星野智幸の『植物診断室』とあわせて絲山秋子の『エスケイプ/アブセント』asin:4104669024について書いたけど、絲山さんの話はまさに、自分のことのように思いながら読んだ。中年になっても「革命」(=理想)というオブセッションから自由になれない、主人公の中年男・正臣が背負い込んだ(と思いこんでいる)「魂の借金」は、それでもないよりあったほうがいいと思うのだ。借金があることで、結果的に、「魂」の根拠が示されるからだ。

人が生きるということは、長期負債とともに生きるということで、そのような長期負債を許さず、即時決済でつねに人は借金を完済していなければならない、という理屈が「自己責任論」の本質だと私は思う。1980年代後半以後に失われたのはたぶん、人間には「心(心理)」のほかに「魂」や「精神」というものがある、という考え方で、それは内田樹がいうような「宗教」的感覚とはちがうと私は思う。魂の生き残りの種火を絶やさないことが、たぶん、これからの時代を生きていくうえで、いちばん大事なことなんじゃないか。

たとえば私は、堀江敏幸が訳したフィリップ・ソレルスの『神秘のモーツァルト』asin:4087734390を、そのような小説として読んだ。この本は三部立てで、それが「身体」「魂」「精神」の順で展開することには、きわめて今日的な意味があると思う。

最後に、この本の一節を、少しばかり長くなるが引用したい。ソレルスによれば、現代の抱える問題はここ20年どころか、フランス革命以後の膨大なツケということになる。

フランス革命は、したがって、音楽の領域における反革命によって表現されたのだ。聴くことと歌うことの均等化、簡素化、共有化、奇妙なものの抑圧、複雑な感覚の排除、女性たちの石炭化、あるいはヒステリー化、前景に置かれ、もはや他の楽器のひとつとして認識されなくなった声、馬鹿げたブルジョア風の台本、ダイナミズムと対話と明暗の忘却、言葉と音楽の分離、発音と歌い方の硬直ーーつまり、性的なものを圧殺していくロードローラー。それに、このプログラムは、(あの馬鹿げた言いまわしの)「クラシック」音楽から、耳で聴くあらゆる商品部門へと移行しても、その効果を生みつづけた。こんな状況で、人間の身体は、そして人間の欲望は、どうなってしまうのか。べつものになるのだ。結局のところ、モーツァルトとはべつのものに。(中略)

こうした音楽の「軍事化」は、音楽面での影響だけをもたらしたのではなかった。それは人間の身体の繊細な複雑さに対する深い(そしてしばしば無意識の)軽蔑をもたらしたのである。そこにあらたな大虐殺への扉を開く可能性が秘められていたにしても、驚くに足るだろうか?

追記:
斎藤環の『「負けた教」の信者たち』を読んでいたら、最後の方で斎藤氏と玄田有史が対談しており、そこで玄田氏がご自身の「回転寿司理論」なるものについて言及していた。すでにトラックバックでも指摘されているように、仕事を「回転寿司」に最初に喩えたのは玄田有史であり、本田由紀がラジオの放送中に「回転寿司」に言及したのも、玄田氏のこの「回転寿司理論」への反駁という背景があったことを、私は今になってようやく知った。「仕事を消費という観点からしか見ない考え方」という批判は、まずもって玄田氏に向けて言うべき言葉だったようだ。

玄田氏の主著を私は読んでないので、斎藤環との対談における彼の発言を引用するが、「回転寿司理論」とはこのような考え方だという。

回転寿司に行くと、いろんな寿司が目の前に回ってきます。だいたい食指が動かないものばかりですが、なかにはおいしそうなものがある。そのとき、「手を伸ばしてとれる状態にいたい」という気持ちがあるのです。そのためにはまず、回転寿司に入って席に着かなければならない。同じように、仕事をしていれば、何か面白そうなものが飛び込んでくるチャンスがある。

たしかに、これは本田由紀が怒るまでもなく、たいへんに杜撰な議論だ。「理論」などというものでないだけでなく、ロジックとして破綻している。「同じように」と、玄田はためらいなくここで回転寿司という「消費」と、職業選択を同一視しており、しかもそれを「自己決定」の文脈で語っている。本田さんは、これに反論するなら、回転寿司の喩えで語る、という土俵にのってはいけなかったと思う。

回転寿司に並ぶネタ程度の、食指の動かない、さえない仕事しかないというのが現状だ、というのは気分としてはわかる。でも、仕事というのはじつは、一緒にどんな人間と働くかということのほうが重要で、対人関係こそ、最後まで「消費」できない領域として残るはずのものなのだ。もし仕事において「面白そう」なことが起きるとしたら、それはたいがい、面白い人と出会うからであり、もっと言えば、仕事をするなかで、「人の面白さ」というものを発見できるからだろう。

トラックバックされた方に反論するわけではないが、私は玄田氏のように、「まずは回転寿司の席に着け、そのなかで面白いものに手を伸ばせるようにしろ」なんて、まったく思っていない。寿司を食いたいなら、ちゃんとした寿司屋に金を貯めてでも行くべきだと思っているし、カネがないなら、回転寿司なんかに行かないで、自分で食材を買ってきて料理をつくれ、と言っているだけである。どちらもイヤで、しかたなく回転寿司屋に行ったなら、まずくても我慢して食え、とは思うけれど。

また斎藤氏はこの本の別のくだりで、上にのべたような「転向」について私が書いた以前のブログ《陸這記》の記事についても言及してくれている。その記事(「90年代論のむずかしさ」2004年1月26日)は、PDFのかたちで今はここで公開している。できればその前の、「80年代論ブーム?」(1月24日)のエントリーから読まれたし。

http://www.big.or.jp/~solar/hatenapdf2004_1.html

今年の正月からあれこれ書いてきたことは、この話のつづきである。

*1:番組の最後で柳瀬さんは「お前ら、とりあえず、働け、お前らの脳みそより、世界はずっと大きいぞ」とも言っている。

*2:同じことを、内田樹も先の本でこう喩えている。おおまかに言えば、世の中には、「ゲームの規則」をはじめから知悉して参加できるゲームなど存在しない、ということだ。人はまず、有無をいわさずゲームの渦中に放り込まれ、何も状況がわからず、とりあえずゲームに必死に参加するしかないなかで、次第に「ゲームの規則」を知るようになり、少しずつ主体的に動けるようになる。仕事だけでなく、学習でも恋愛でもなんでも、これは同じである。「自己決定フェティシズム」が間違っているのは、人はあらかじめ「ゲームの規則」を知悉してからゲームに参入することができるし、できるならそうしたほうがよい、という「幻想」にもとづいているからだ。

*3:具体的には、家庭内労働の消滅、とくに幼少時の子どもにとってのそれが失われ、その結果、あまりにも早くに子どもが「消費主体」として確立されてしまうことの危険性を、内田樹はこの本で繰り返し主張している。私はその主張にほぼ同意する。



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