Hatena::ブログ(Diary)

眠りながら歩きたい2 −完全脱力編−

2018-06-08

デッド・ノート 感想

夏のホラー映画まつり、第5夜。

監督は、ブライアン・オマリー。2014年のイギリス=アイルランド映画。「未体験ゾーンの映画たち2016」では「デス・ノート」のタイトルで上映。

この予告、見せ過ぎだと思いますね。
D

出演
リーアム・カニンガム(謎の男/アレクサンダー・モンロー:クレジットではsix)
ポリアンナマッキントッシュ(レイチェル・ヘギー)
ダグラス・ラッセル(マクレディ巡査部長)
ブライアン・ラーキン(ジャック)
ハンナ・スタンブリッジ(マンディ)

感想
ジョン・カーペンター調の音楽にのせて、荒れた天気の海岸に高波が押し寄せる中、一人の男が現れる。カラスが泣き叫びながら、まるで彼に付き従うように群れをなして移動していく…というオープニングのただごとでないかっこよさと不穏な気配が素晴らしい。大いに期待を抱かせるわけだが、その予感が外れることなく最後まで維持されたため、予想外の高得点という結果になった。

注意:内容・結末に触れています。

赴任したての警察官ヘギーの目の前で起きる衝突事故。しかし車に跳ね飛ばされた男の姿がどこにも見当たらない。巡査部長によれば、轢いた若者は、警察署では常連のろくでなし。地下の牢には既にこちらも常連のDV教師が入っている。パトロールをさぼってセックス三昧のジャックとマンディが、指示を受けて、轢かれたと思われる男を連れて警察署に戻ってくる。男は、頭を打って脳震盪を起こしている可能性があるために、医者が呼ばれる。という具合にして、役者が揃う。実は、ここにいる人々は皆、隠し事がある。それも大罪である。巡査部長は敬虔なキリスト教徒のようだがそれは世を忍ぶ仮の姿、本当はゲイで、嫉妬の果てに若い(恋人?)男を殴り殺している。若者は、謎の男を轢く前に、若い女性を轢いている。DV教師は言うまでもない。ジャックとマンディは、容疑者を尋問という名の拷問で殺している(首吊りにさせられた瞬間の男の顔が生々しい)。医者は、結局、すべての人を救えないというストレスから精神に変調を来し、家族を惨殺。そしてヘギーには、少女の頃に誘拐監禁されたという過去がある。ただ、一つ意味深なのは、ヘギーは監禁されて虐待されていたのは間違いがないが、その犯人がどうなったかは判らないままなこと。他の署員たちはその辺の事情が判っているようで、それとなく匂わせる場面があるからすると、どうもヘギーが殺したようにも見られる。

そして謎の男。彼の指紋から照合された人物は、既に死人だった。謎の男は、正体不明で人知を超えた存在であり、言葉巧みにここに集められた6人の心を翻弄し、ゆさぶりをかける。彼らは追いつめられて、ある者は自殺し、ある者は殺されしていくのだが、謎の男自身は殺すことは出来ないらしく、心の暗闇をいたぶられる結果、いわば自滅に近い形で罪を死で贖うことになっていく。面白いのは、どうやら謎の男は堕天使であるらしいこと。神に、人の世界を傍観するだけでなく、もっと介入したらどうかと進言したために、地上に落とされた。が、羽を失ったあと、地上で彼なりに仕事を全うしているのだ。傍観者のまま、人の世に直接触れることは出来ないという神の罰を受けながらも、その立場で罪人に死を与えるために、黒い天使となった男。あるいは死神か、悪魔の手先か。その彼が、監禁から救い、その後をずっと見守っていたのがヘギー。長い時間をたった一人で歩き続けた男が、ようやくたどり着いた救いとなるのが彼女…となるラストシーンも、見る人によっては感動的なものになる。例えヘギーが、男にとっての殺しの実行部隊となるのかもしれないという想像が働いたとしても、それもまたそれで、心を震わせる結末となる。

映画の作劇的にも、閉鎖空間となる警察署内だけで物語を進行させないところに工夫があって良い。前半は、登場人物の所業を見せ、謎の男の不可解な言動と行動というミステリアスな展開。そして中盤でジャックとマンディが、連絡が取れない医師の家へ赴き、巡査部長は急に用事が出来たと言って外へ出ていく。物語の行く先を一旦分けて、その先で残虐な見せ場(?)を用意して気を惹いたまま、再び戻す。しかも後半、戻ってきたときには、それまでとは一転してバイオレントな描写満載のアクション映画に転調。巡査部長がキリストみたいな恰好でショットガンをぶっ放してまわり、ヘギーは、(ジャンル映画ではお約束の)タンクトップ姿になって戦う。登場人物の少なさと、物語の広がりの無さから低予算であることは判っているが、見せ方、構成、道具立てなどで、面白い映画は作れるのだという、低予算映画の鏡のような作品である。実はセットもきちんと作られていて、加えてロケーションにも手を抜いていないことも素晴らしい。この物語に係る人物たちだけが世界から切り離されたかのような、まるで人の気配のない町の様子を挿入するひと手間が、ダメな映画との差なのである。かなり面白く見ましたよ。

ゴアな描写もあれこれとある辺りが、低予算のホラー映画らしいところだが、血の色に生々しさがなく、特殊メイクがそれほど精緻でないために、思っていたほどでもなかった。もちろん、ホラー慣れしていない人には要注意ではあるが。

リーアム・カニンガムの得体のしれない感じが実に良かった。過去に苛まれながらも果敢に戦うポリアンナマッキントッシュも良い。「エグザム」のときの彼女もよかったが、ここでも良い。因みに「エグザム」は、低予算密室疑心暗鬼系サスペンス映画としては、かなり退屈。元々このジャンルに対して厳しいせいもあるけれど。

2018-06-06

殺人漫画 感想

夏のホラー映画まつり、第4夜。

監督は、キム・ヨンギュン。因果応報な脚本を書いたのは、イ・サンハク。2013年の韓国映画

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出演
イ・シヨン(カン・ジユン)
オム・ギジュン(ギチョル)
キム・ヒョヌ(ヨンス)
ムン・ガヨン(ソヒョン)
クォン・ヘヒョ

以下、結末に触れています。


感想
カン・ジユンの書き上げたウェブ漫画の原稿を受け取った、ひとり残業中の編集長。原稿をみた彼女は驚く。そこに描かれていたのは、彼女の隠している過去だった。醜い母をもったことで子供の頃の彼女は辛い目にあっていた。母もそんな自分自身を呪い、彼女の目の前で自殺する。編集長は、一旦は止めようとしたが、結局苦しみながら死んでいく母をみつめるだけで助けようとはしなかった。そんな過去。しかもそのあと、漫画の中の編集長は殺されてしまう。恐怖にかられる現実の編集長。何者かの気配を感じて逃げ回るものの助けは無く、漫画のままそっくりに殺されるのだった…という、実に陰惨なオープニングから、ホラー映画らしさは満点。日本と韓国にはおそらく共通する、どろどろとした怨念めいた狂気は、手に取るように伝わってくる。

凄惨な現場ではあっても、誰かが侵入した形跡はなく、自殺として処理されかかるが、カン・ジユンの原稿を目にした警察は、彼女に話を聞きに行く。大人気漫画家であるジユンは、豚舎近くで少女を車に乗せるものの、少女が突然消えてしまうといった怪現象…と思いきや、夢を見たりして、何やら恐ろし気なものが身の回りにあるような雰囲気。そもそも彼女の描く漫画は、ドロドロの人間の狂気に満ちた陰惨な作品のようなのだ。さらに、死体処理業の男性が、漫画の通りの死に方をする事件も発生し、いよいよ、作者であるジユンに対して疑いの目が向けられるようになる。

描写はまごうかたなくホラー映画のそれだが、ジャンルの枠を超えることが普通になった昨今、ホラーだと思っていても現実的な着地をするものが多々あり、そのまた逆もありな状況では、この映画がどういう展開をするのか判らない。どんなに恐ろしい怪奇現象も、強力な麻薬による幻覚、なんてことがないとは言えないのだが、「殺人漫画」は、実に正統派なホラー映画だった。まさかこんなにまっとうなホラーとは思っていなかったので、ちょっと嬉しい。

売れない時代のジユンが住んでいたアパートにソヒョンという高校生が住んでいた。霊をみる力のある彼女は、霊の抱える呪いや悔やみを絵に描いてしまい(というよりも霊に書かされる)、それが人々に忌み嫌われ差別的な扱いを受けていた。が、ジユンはその絵に惹かれるものを感じ、やがてふたりは無二の友となっていった…という過去が描かれて行き、そこで初めて心霊現象が現実のものとなってくる。ふたりのよりそう場面には、友人という枠を超えたものが感じられなくもないところも、また悲しみを強くさせる。一方の警察側も、事件を追いかけていく中で、ヨンス刑事の行動が怪しげになり、実は彼自身にも秘密があり、それが豚舎の一件と関係があり…という具合に、因果応報な展開には救いがなく、悲惨である。

先に、正統派なホラーだと書いたが、その上でミステリ的な展開になっているところもまた面白さのポイントであろう。事件の様相が次第にはっきりしてくる展開もそうだが、ジユンとソヒョンの美しいはずの友情も、ジユンの裏切りがあって不幸な結末となり、最後の最後に明かされるヨンスの自殺に係るギチョン刑事の行動など、いわゆるどんでん返し的な趣がある。出てくる人間の誰も彼もが、私利私欲のために他人を犠牲にして生きて来たという凄まじさが、ギチョンの最期というクライマックスにまで徹底され、即ち、この作品のどこにも救いがないのだった…。

ジユンのみが、ソヒョンからの赦しを受けて死からは逃れるために、因果応報輪廻からはみ出したようではあるものの、死者たちの怒りや怨みを代弁する役割をソヒョンから受け継ぐというのは、もはや呪いとしか言いようがない。まるで世の中の悪に鉄槌を下すダークヒーロー然として終わっているが、それを抱えてしか生きていけないジユンの前に広がるのは地獄でしかないと思う。

グロテスクな描写はそうでもない、という意見もあるように、確かに直接的な人体破壊描写はない。が、それ以上にドラマに陰惨さがあって、それゆえにどうにも嫌な気持ちにさせられる。韓国製犯罪映画と同じテイストをここにも感じる。

ジユンを演じたイ・シヨンがなかなかに美人なのもよかった。演技がちょっと大げさな感じもあるけれど。ソヒョンのムン・ガヨンは、「チャンス商会」でチョ・ジヌンの娘役だったけれど、あのときとは全く違う暗い表情が印象的。ジユンとソヒョン、ふたりのやりとりだけが、この作品の中で、唯一美しい。結末の恐ろしさのために、より儚く悲しく、それだけに美しさに輝きが増す。

2018-06-01

2018年6月 BS放送映画(無料)でみたいもの

BSプレミアム

06(水) ウィル・ペニー
08(金) 夕陽の群盗
08(金) ゼロ・ダーク・サーティ(深夜)
11(月) リーサル・ウェポン
12(火) リーサル・ウェポン
13(水) リーサル・ウェポン
14(木) リーサル・ウェポン
15(金) 摩天楼はバラ色に
15(金) いとこ同志(深夜)
18(月) 山猫 完全復元版
18(月) たそがれ清兵衛(夜)
19(火) ベニスに死す
20(水) 第十七捕虜収容所
21(木) アメリカ アメリカ
22(金) ブルージャスミン
25(月) 隠し剣鬼の爪(夜)
28(木) 2010年

ウィル・ペニー」は、チャールトン・ヘストン主演の西部劇。ずっと見たいと思っていた映画なので愉しみ。そして「夕陽の群盗」!これもやっと見られる。大好きなロバート・ベントンの作品。「リーサル・ウェポン」シリーズが一挙に見られるのも嬉しい。そして「山猫」と「ベニスに死す」は、ルキノ・ヴィスコンティの代表作にして傑作。「第十七捕虜収容所」も久々な感じ。「アメリカアメリカ」は、エリア・カザンの作品の中でもあまり挙がってこないタイトルだと思う、渋めのチョイス。


スターチャンネル
02(土) ダンケルク(64)
03(日) 人生の特効薬
09(土) SOMEWHERE
10(日) LOOP/ループ 時に囚われた男
16(土) クリミナル 2人の記憶を持つ男
23(土) サイン
24(日) ふたりの男とひとりの女
30(土) ヒトラーの忘れもの


BSイレブン
02(土) ブラック・ドッグ
03(日) PARKER/パーカー

「ブラック・ドッグ」は、トラック野郎アクション映画で、パトリック・スウェイジ主演。碌な評価が得られなかったが、個人的には大好きな映画。


BSトゥエルビ
09(土) インファナル・アフェア
16(土) インファナル・アフェア 無間序曲
23(土) インファナル・アフェア 終局無間

03日(日)には、東映チャンネルで「多羅尾伴内/鬼面村の惨劇」と「博奕打ち・総長賭博」が無料放送!「多羅尾伴内」は、映画としてはアナクロ過ぎて今見ると笑うしかなさそう。またスーパードラマTVでは「スターマン 愛・宇宙はるかに」の吹替版が放送。

サイレント・ハウス 感想

夏のホラー映画まつり、第3夜。

監督は、クリス・ケンティスとローラ・ラウ。2011年アメリカ映画。

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出演
エリザベス・オルセン(サラ)
アダム・トレーズ(ジョン/サラの父)
エリック・シェファー・スティーヴンス(ピーター/サラの叔父)
ジュリア・テイラー・ロス(ソフィア)

あらすじ
湖畔の別荘に、父親と共に帰ってきたサラ。修繕した上で売却することになった別荘内には、自分たち以外誰もいないはずだったが、物音がしたり、人の気配がする。また、サラの旧友だという女性が訪ねて来るが、記憶が覚束ない。どうも様子がおかしい…。

以下、結末に触れています。


感想
オリジナルは、ウルグアイの「SHOT」という作品。ワンカット撮影が話題になったというのだが、寡聞にして知らず。リメイク版もそれを踏襲して、ワンカットで85分(クレジットを除けば80分強)を見せ切っている。ただ、映画としてそれが面白いのかというと…。

この作品を、夫婦で共同監督という珍しいコンビ、ケンティス=ラウが撮るというのは、夫婦間のあれやこれやをビデオ撮りで延々見せられる「オープン・ウォーター」からの流れの上ではなるほど、撮ってしかるべしという感じもある。ドキュメント風の演出と、(形の上では)ワンカット80分の演出という違いはあっても、フェイク映画としての面白さは共通している。本来なら、自分たちでカメラも廻したいところだろうが、さすがに技術的な部分で自分たちではまかなえないと判断してか、今回はイゴール・マルティノビッチが撮影を担当している。

映画は必然的に段取り重視となり、撮影の手間や、俳優たちの芝居や、彼らに対する演出の指示など、大変神経を使うものになっただろうと想像する。それだけで敢闘賞を進呈したいくらいである。実際には80分ワンカットではなく、途中でうまく繋いでいる(特に、サラが外に逃げ出して走る辺りが、かなりごまかされている感じはあった)とは思うのだが、シームレスな見せ方はうまく、不自然さを感じさせない。次第に暮れていく外の様子を取り込んでいるところなども、調整が難しいと思うのだが、これも自然だった。加えて、邸宅と周辺のロケーションも悪くなく、あまりにも寂しい佇まいであり、こういう風景こそ、ホラー映画には相応しいと思える。

が、ワンカットであることの弱みがあって、どうしても間延びしてしまうということ。緊迫感や緊張感は、リアルタイムであるからと言って盛り上がるわけではないということが、如実に示される結果となっている。行ったり来たりを繰り返すしかない邸内の移動では、如何せん次第に飽きが来てしまうのである。エリザベス・オルセンはかなりの熱演なのだが、彼女の演技をもってしても、80分ワンカットという構造上の瑕瑾はカバー出来ていない。

また、80分ワンカットというリアルタイムから生じる緊張感も、実はそれほど意味がない。80分でなければならない理由が、この物語には別にないからだ。何も80分以内にすべてを完了せねなければならない物語ではない。数日に分けて描いていいし、そうすれば主人公のサラの心情にももっと寄り添うことが出来ただろうし、変態兄弟の鬼畜ぶりももっと描き込めただろう。映画としての厚みはずっと増したはずである。が、この映画は、それを短い時間でワンカットで見せ切ることで、観客がサラの視点で彼女の恐怖を同時に体感するというところの面白みが全て。が、いわゆるPOV映画は世の中にすでに沢山あって、特に新鮮味があるものでもない。…と思っていたのだが、ワンカット80分がもたらす、今までに感じたことのない感覚を味わえたのは意外だった。

この映画の中でサラが体験するのは、「正体不明の何者かに襲われ、そこから逃れようとするうちに、押し隠していた過去の記憶が立ち現れて、あげくに2人の人間を殺す」というものである。封じ込めていた記憶が甦って、精神的に混乱した人物が、父と叔父の2人の肉親を殺してしまうという様子を、リアルタイムで見せられるというのは、冷静になってみれば相当異常な事態である。それが、たったの80分以内に起きてしまうのである。80分なんて、ちょっと出かけて本屋で軽く立ち読みでもすれば、あっという間に過ぎてしまう。1時間のバラエティ番組をみたあとにコーヒーでも淹れて、猫の背中を撫でていたら、あっという間に過ぎてしまう。体感時間として、決して長いものではない。日常生活の中の、ごく短時間である。にもかかわらず、その中で平凡な日常を壊す、激しい変転が起きることの恐怖。サラに殺意が生じてから実際に殺すまでがリアルタイムであることの、あまりの密度の濃さにめまいがする。それは、世界中の事件当事者にとってのリアルタイムを、この映画を通して身近に感じられるということであり、その立場(加害者であろうと被害者であろうと)にもしも自分がなったら…と想像するとき、そこに立ちあがる臨場感はなかなかに不快なものとなる。サラの心情に寄り添えるかどうかは、もはや問題ではなく、否応なくその渦に巻き込まれてしまったときの恐怖と嫌悪だけが、そこには残るのだ。

サラが叔父との間に、さりげなく距離を取ろうとしているのも、気持ち悪かった。叔父さんはピーターという名前だが、サラは彼を決して「ピーター」とは呼ばない。「アンクル・ピーター」と呼ぶ。どんなに緊迫した状況でも。そのあたりの距離感が、最初から怪しくて気持ち悪かったのだが、案の定というやつである。あと、昔の友人だというソフィアや、幼い少女、見るからに怪しげな不気味な男…といったものは、サラの別人格であったり、少女の自分であったりするのだろう。不気味な男は、父と叔父のメタファーと思っていたが、もしかして助けに来てくれる理想の父親だったのだろうか…。だとしたら切ない。

ホラー映画としては、やるべきことをちゃんとやっているので、それなりに怖がれるだろうし、事件の真相も人によっては意外な結末にもなっているだろう。が、それ以上の不快さが、実はあることに目を向けたい。サラが肉親に虐待されていたという内容の陰惨さも含めて、リアルタイムであることで刻まれる嫌悪感が、ざらりとした後味を残す映画だったと記憶に留めておきたい。…となると、オリジナルが既にそういう映画だったということにもなるのか。そちらも、そのうち見ないといけませんな。

エリザベス・オルセンの主演作では、「マーサ、あるいはマーシー・メイ」の感想も書いていた。「マーサ」のあとすぐに「サイレント・ハウス」の公開だったんだな。共に2011年製作の映画が、偶然にも2013年に続けて、しかも同じ配給会社ならまだしも、違う配給会社から公開になるというのも不思議な偶然ですな。

なんとブルーレイは未発売。おそらく出ることはないだろうな。

2018-05-29

ライト/オフ 感想

夏のホラー映画まつり第2夜。

監督は、デヴィッド・F・サンドバーグ。脚本は、エリック・ハイセラー。撮影は、マーク・スパイサー。2016年のアメリカ映画。

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出演
テリーサ・パーマー(レベッカ)
ガブリエル・ベイトマン(マーティン)
ビリー・バーク(ポール)
マリア・ベロ(ソフィー)
ロッタ・ロステン

元になっているのは、サンドバーグが2013年に制作した3分程度の短編。主役は、サンドバーグの妻のロッタ・ロステン。

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感想
大きな倉庫らしき場所。退勤しようとした女性(ロッタ・ロステン再び!)が、室内の電気を消すと、人影のようなものがみえる。灯りを点けると人影が消える。一体何か確かめようと、点ける、消すを繰り返していると、突然、影が近くに接近している!というオープニングがとにかくびっくりさせる。いわば「だるまさんがころんだ」と同じ。灯りが消えると影が見える、灯りを点けると影が消える。もう一度灯りが消えると、さっきよりも影がこちらに近づいているのが見える。あやしいものがずっと見えていて、それがじわじわと近づいてくるのも怖いけれど、見えない間に想像以上に接近されている、という感覚がゾッとさせる。知らないうちに、というのがポイント。映画としては、恐怖の存在が接近してくるということの繰り返しになりそうなところだが、緊迫感に満ちた展開で、最後まで飽きさせない。

以下、結末にも触れています。


その倉庫の責任者である男性は、影に襲われて死亡。残された妻ソフィーと、息子のマーティン。だがソフィーは抗うつ剤が手放せない状態にあり、授業中に居眠りの続くマーティンの様子をみたカウンセラーから、姉のレベッカに連絡がある。レベッカは、母の状態が悪いのを見て取ると、マーティンを自分の家へ連れ帰るが、その夜、室内に怪しい影をみる。影は、爪で床に傷をつけていた。「ダイアナ」と…。ソフィーが少女の頃、入院した先で知り合ったダイアナという少女は、人の頭に入り込み操ることが出来るという特殊な力を持っていた。そのときから、ソフィーはずっと、ダイアナの親友だと刷り込まれ続け、ダイアナがいなくなってからもその存在から離れられないでいたのだ…。と言った話になっていく。病院の実験のせいでダイアナが死んでしまったというのも非常に身勝手で恐ろしい話だが、これがフィラデルフィア・エクスペリメント並みにSF的な実験のように見えるために、不必要なSF感が盛られていて、これは大変、個人的には好みです。死亡したのではなくて別の次元に飛ばされたのなら、もっと喜んだところだが、そういうわけではなかった。ちゃんとダイアナが死んでいるからこそ、ソフィーの決断というクライマックスになるわけで、徒に話の風呂敷を広げないところに節度を感じる。

脚本のエリック・ハイセラーは、「エルム街の悪夢」「ファイナル・デッドブリッジ」「遊星からの物体X ファーストコンタクト」などのホラー映画の脚本を手掛けているとはいえ、3分程度のショートフィルムから、よくぞここまで長編映画の形にしたものだと感心もさせられる。このあと、「メッセージ」を脚色(製作総指揮も)するとは思いもよらないことであるが、あれだけのものを書くだけにその力量の片鱗を、この作品にみても間違いではない。母と娘の物語という点で共通しているのは、おそらく偶然だろうが、愛憎の混じり合う「ライト/オフ」で描いたものが、「メッセージ」で全く意識されなかったはずがない。マーク・マクドナーの「セブン・サイコパス」が「スリー・ビルボード」の前哨戦であるように、「ライト/オフ」もまた「メッセージ」という傑作への前段であったと言えるだろう。

誰が誰を捨てたか、捨てるか、というのも物語の芯を支える部分。被害者意識と加害者意識を、母と娘の双方が持っているのはもちろん、夫に捨てられた、父に捨てられた、娘に捨てられた、親友を捨てた、母から逃げた…という、目まぐるしい負の連鎖が渦を成す。その渦の中心にいるのが、ダイアナという邪悪な存在であることで、ソフィーは結局、その始まりとなった彼女との関係を自ら断つことでしか、この渦を止められないと悟るのである。一種の自己犠牲とも言える決断には、偉大なるオカルト映画の傑作を思い出させるが、悲劇的という点でなんら劣ることのない悲しみをもたらす(演じるマリア・ベロは、劇中唯一の知名度のある俳優だろうが、疲れた表情に終始する中、ここでの決然とした芝居のメリハリがさすが)。一度は逃げ出した母のもとへ、助けるために向かっていく娘というクライマックスと、この後始末には、悲しみに満ちていても救いもある。後味の悪くないラストに落ち着いているのも、その作りに寄るところが大きい。

当たり前の話ではあるが、娯楽映画として、ホラー映画で期待する恐怖感の演出の点でも申し分なし。驚かせるタイミングや、突然の大音響などの定番演出もうまい。ダイアナとの微妙な距離感の捉え方も良かった。短編では、そこにいるだけだった影が、今回はこっちに走ってくるといった画作りになっていたりして、より怖さを増していた。また、残酷描写が極端に少ないことも素晴らしい。ダイアナが特異な病に冒されているという設定ゆえにグロテスクな姿になっているのは、少々無残で無慈悲描写ではあるが、それ以外で特殊メイクがうなりをあげるような場面はなし。CGも極力抑えた使い方しかされていないだろう。予算の関係もあろうが、暗闇と、そこに浮かぶ人影だけで、これだけの盛り上がりを作り出せることが素晴らしいし、よく見せ切ったなと思う。タイトルクレジットとエンドクレジットを除くと、およそ1時間15、6分ほどの、長編映画としては少し短めなところがよかったのだろう。ワンアイディアを、無理して引き延ばさない潔さが功を奏した、という感じ。

撮影のマーク・スパイサーは、カメラオペレーターや第二班の撮影監督は多くあるようだが、本編の撮影監督としてクレジットされているものがほとんどない。しかしこの作品での、光と影の使い方はかなり優れていると思う。特にソフィー邸の、カーテンを閉め切っていて薄暗い室内の微妙な光の加減はなかなか見事で、どことなく70年代の映画の雰囲気もあった。もっと重用されていい撮影監督だと思うのだが。

ホラー映画は大体が低予算なので小品であることが多いのだが、その中でもまた小さな規模の作品という印象のある作品だが、粒の立った佳品と言ってよいのではなかろうか。

2018-05-24

死霊館 感想

季節には少し早いですが、毎年恒例、夏のホラー映画まつりを開催したいと思います。毎回、2、3本のホラー映画をみて終了してしまいますが、今年はたっぷりやりたい!と意気込みだけは充分です。第1夜は「死霊館」です。



監督はジェームズ・ワン。2013年のアメリカ映画。

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実話に基づく映画という触れ込み。実在する心霊研究家エド・ウォーレン(パトリック・ウィルソン)と、霊視能力者ロレイン(ヴェラ・ファーミガ)の夫婦が、一家惨殺をもくろむ邪悪な魔女にとりつかれた家族を助けるために奔走する。

感想
前半、田舎の古びた一軒家に引っ越してきた家族が、奇怪な現象に悩まされる辺りは、大変正統派のホラー映画。家に入りたがらない飼い犬が死ぬ、鳥が窓にぶつかってきて死ぬ、寝ていると誰かが足を引っ張る、かくれんぼをすると、誰もいないところから手を叩く音がする…と、VFXや特殊メイクなどを駆使した派手な何かが起きることもなく、ただただ地味な現象が描かれる。決定的な描写となるのは、クローゼットの上にうずくまっていた不気味な老婆が、とびかかってくるところくらいだろう。それ以外は、怪奇現象が起きても、気のせいかな?と思う程度のことだけ、あとは暗いだけ、静かなだけ。が、それがとてもいいのである。

ホラー映画って、結局、余計なことはしないほうがいいのではないだろうか。暗い場所や静かな時間の持つ恐怖感や違和感は、おそらく誰しもが抱くことであり、それを丁寧に描くだけで充分に観客は、自分の日常の中の不気味さをそこに重ねられるのではないだろうか。映画が後半になると、心霊ハンターたちが悪魔祓いをするといった展開になっていき、低予算映画なりに派手な見せ場も連続するようになると、地味ゆえのリアリティは薄れてしまう。娯楽映画へとシフトすることで、自分の身近にある恐怖とは違う次元の映画になっていく。これは個人的な好みの問題でもあるのだが、どうして面白い映画にしようとするのだろうか、それが疑問なのである。不気味なだけの映画でいいと思うのである。不穏な気配だけで充分だと。それだけでホラー映画足り得ると。西洋との文化の違い(「この現象の正体は悪魔です」と言い切っても、欧米の観客は笑わないだろう)以上に、恐ろしいと感じるものの差があるし、面白いと思うものの差もあるようだ。ただ、日本人でもこの映画を恐ろしいと思って見る人はたくさんいるだろうから、この不満は、極めて個人的なものであることは判っているつもりだ。しかし、霊的な物は、そこに存在していること自体が怖いのであって、襲ってくるから怖いのではないと思うのだがな。

心霊(幽霊)ハンターを主人公とし、悪魔祓い霊視(字幕では透視と出るが、透視と言われると物が透けて見える力を思い出す世代としては、違和感があると思う)などにも、作り手が決して疑いを持ち込まない姿勢の映画は、絶対的なヒーロー映画のようなものである。ホラーにそういうものを期待し楽しめる人たちには、申し分のない作品に仕上がっていると思う。

ただ物語には、家の歴史と近隣で起きた死亡事件に関係があることが判ってくる辺り、何かを示唆するようにローリー少年やその母親やメイドといった霊が現れ、徐々に核心に近づいていく展開には、ミステリ的な興趣があって面白かった。

それにしても、魔女バスシーバが、セイラム事件の公判中に死亡したメアリー・タウン・イースティの親戚というのは驚いた。これも事実なのか、それとも創作なのか。魔女裁判にかけられた人たちは、本当に悪魔憑きだったわけではない。が、心霊研究家はこれ(悪魔憑き)を事実と見ているのだろうか。悪魔に憑かれた人の親戚なら、魔女になる可能性も高いというのか。それとも魔女裁判は、人の引き起こした悲劇だったが、バスシーバはそれに影響を受けて、自ら魔女になったということなのだろうか。事実ならばその因縁が恐ろしいし、創作ならばその物語の組み立て方が恐ろしい。魔女裁判という事実を平然とフィクションに盛り込んでくる大胆さと、その咀嚼ぶりの凄さが。因みにセイラムの魔女裁判は、アーサー・ミラーによって、赤狩り魔女裁判を重ねた「るつぼ」として戯曲化され、後年、ニコラス・ハイトナー監督による「クルーシブル」として映画化されている。ヒステリックに凶暴化していく人の心理を描いた、二度と見たくない、気の滅入る恐ろしい映画だった。

呪いに取り憑かれた一家の母親をリリ・テイラーが演じていて、さすがの力演。一家の娘たちが皆可愛らしく美しいところもいいのだが、周囲にひと気のない一軒家に、美少女姉妹が5人。それだけでも独特の空気が生まれている。ついつい「ヴァージン・スーサイズ」や「白い肌の異常な夜」などをそこに重ねてしまうせいで、余計に不気味に感じられるのも、また一興。三女のクリスティーンをジョーイ・キングが演じている。