眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

映画クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイス〜拉麺大乱〜  感想

監督は、高橋渉。脚本は、うえのきみこ

出演
お馴染みの面々。
潘めぐみ(ラン)
廣田行生(ドン・パンパン)
関根勤(師匠)

おはなし
幼稚園での、マサオくんのやけに強気の行動を不思議に思った、かすかべ防衛隊の面々。マサオくんを尾行すると、その先には中華街アイヤータウン。マサオくんは、ぷにぷに拳という中国拳法の修行をしていたのだ。師匠の下には、一番弟子のランがいて、しんのすけはもちろん彼女に一目ぼれ。仲間たちとぷにぷに拳の修行を始める。一方、アイヤータウンでは、ブラックパンダラーメンが勢力を拡大していた。食べた人を中毒症状で凶暴化させるという恐ろしいラーメンである。店舗拡大の地上げのために、町は殺伐とし、ぷにぷに拳道場の周辺も皆立ち退いてしまった。潰しにかかるブラックパンダラーメンを率いるドン・パンパン。立ち向かうぷにぷに拳。果たして町の未来は。そしてランが手に入れようとしている、ぷにぷに拳の究極奥義は、人々を本当に救うことが出来るのか…。

以下、内容に触れています。



感想
これまでにも、色々な映画のジャンルを再現してきたシリーズだが、今回はカンフー映画。色んなところに目をつけるなと感心させられる。アイヤータウンの設定も、テーマパークではなくて、地域に根付いた中華系移民の街となっているのが凄い。文化的交流が成立している、幸福な世界である。

いい年した大人がみて面白いと思えるポイントが今回もいくつかあって、そこを書いておきたい。映画としては、まず過去の典型的なカンフー映画のパターンを踏んでいるところが嬉しく楽しい。強いのかどうかよく判らない師匠、意味があるのか不明な修行、敵対する道場とのトラブルなどなど、70年代、80年代のカンフー映画を見ていた人には、懐かしくもおなじみのものである。が、メインターゲットである子どもたちには、全くおなじみではないだろう。いや、それどころか、今の5歳児の親を35歳と想定した場合、彼らが10歳の頃は、1993年。ジャッキー・チェンがその辺りに作っているのが「ツイン・ドラゴン」「ポリスストーリー3」「シティーハンター」「新ポリスストーリー」など。「酔拳2」が94年、「レッド・ブロンクス」が95年。時代劇的なカンフー映画はもうほとんどない。武侠映画はブームだったし、ジェット・リーの映画もあったけれども、それらがテレビで放送される機会は、それほどなかったように思う。ましてゴールデンタイムでなど。93年ごろなら、「酔拳」や「蛇拳」は、まだ放送されていたかなとは思うものの…。もしかすると、カンフー映画を懐かしいと思う世代の下限が、今の35歳くらいではないのか?と…。我々の世代も、結構遠いところまで来たんだな…と、薄くなった髪を撫でつけながら夕陽を眺めたくなるものである。

表の主人公は、当たり前ながらしんのすけだが、今回の裏の主人公はマサオくんである。かすかべ防衛隊の他のメンバーよりも一足先に修行を始めた兄弟子であるにもかかわらず、マサオくんは全く上達せず、ぐいぐい追い抜かれてしまう。特にしんのすけの超人ぶりはすさまじく、あっという間に究極奥義にまで手が届くほどである。彼らの上達ぶりをみて、マサオくんが抵抗出来るのは、「兄弟子だから」という理由で掃除を押し付けるくらいのもの。小さく名もなく力もなく、選ばれし者ではない者の、焦りと憤りと哀しみを一身に背負うマサオくんの姿に、同じ思いをしてきた者としては、グッと来てしまう。そしてその後、地味な人間が出来ることに、マサオくんが気付くことが素晴らしい。ブラックパンダラーメンに汚染された花に、丁寧に水をかけ続けていると、元に戻ったというのである。地道に続ける人間がいてこそ、見つけられるものもあり、力になることもある。マサオくんだからこそ、気付けたこと。特に秀でた能力がない者も、腐ることなく、自分のやれることをやれ。派手に動くものと着実に堅実に動くもの、両方があって初めて物事は動くのだ。でもこのメッセージ、子どもには届かないでしょ?理解出来る子もいるだろうけれど、たぶん、多くの子には、判ってもらえないと思う。だから、誰に向けてるかって、一緒に観に来ている親に向けて、としか思えない。子どもが成長していく過程で立ち止まった時、ひとつの回答として、この場面はあると思うのだ。親から、子どもたちに発さなければならないメッセージなのだと。映画だけで完結することを、よしとはしていないのである。

さらに映画の後半、ぷにぷに拳の奥義を手に入れたランが取る行動が、これまでにない展開となっており新鮮。真の継承者に選ばれたのはしんのすけだが、まるで興味がないために継承を放棄してしまい、「それならわたしが!」とランが、奥義のエキスを飲んでしまう。心からぷにぷにしていないとろくなことにならないと、ぷにぷにの精霊も匙を投げしてしまうのだが(「おら知―らね」と寝っ転ぶあたり、水島裕の声は明らかにサモハンのイメージ)、実際そのとおりになってしまう。曲がったこと、正しくないこと、少しでもはみ出した者や行為に対して奥義を使うラン。この力を使われると、頭の中がお花畑になり、何も考えられず、しあわせとは名ばかりの、ぼーっとするだけの廃人のようになってしまうのだ。凝り固まった考えは、次第に人々を恐怖の淵へ追いやっていく。元のランに戻ってほしいと願うしんのすけたちとランの闘いとなる展開は、これまたカンフー映画にありがちな、兄弟弟子との対決。その結末は、実にくだらなく脱力感を伴うものであり、しかし、拳を使うことなく平和的に解決をさせる方法として、ないわけではないか…と思わせる。普段から、これくらいの心づもりで生きていれば、恐ろしいことなど言わなくても、やらなくてもいいのではないか…。子どもは笑って見ておればよろしい、が、大人は子どもと同じように笑っていてはいけないんではありませんかな?やるべきことがあるんではありませんかな?…と。

ただ、ブラックパンダラーメンとの対決があっさりと終わってしまうことは、そのあとの展開上仕方がないとはいえ、少々盛り上がりに欠けてしまうのは残念。お花畑になった人たちが、どうしてもとに戻ったのかもよく判らず(時間経過とともに治まっていくのだろうか。先に出た「マサオくんの教え」をどう使えば、回復させられるのか)、ジェンカで何もかも丸く収めてしまうには無理があるのでは。

またずれ荘の人たち、埼玉紅さそり隊、かすかべ書店の人たちには台詞もあって嬉しかったが、クライマックスのジェンカの場面には、売間久里代を発見。他にも色々なキャラクターが出ていそうだ。

アクションあり、笑いあり、感動あり、と盛りだくさんな内容で、満足。映画版は、出来不出来に(というよりも、好みかそうでないかと言った方が良いか)毎年一喜一憂させられるが、今年は「喜」の方でした。

最近の作品では、これら(↓)が好きですね。「スパイ」は、ブルーレイになってないのか。