相対基準と絶対基準 相対性と絶対性

愛の持ち主はいったい誰か。愛の主人は誰か。男性の立場からいった場合には、女性がいなければ愛も何もあったものではない。愛の相対基準は男性の前には女性である。女性の前には男性である。しかし、これは相対基準であって、愛の絶対基準にはなり得ない。通過過程の存在としては認めるけれども、その主体としての価値を認める存在ではない。だから絶対的な立場にいる愛の持ち主、主人公は神様である。その神様の愛を、神様のみ旨のままになさずして、それを横取りしようというのは、泥棒である。エデンの園を犯したその犯罪人である。これが分からなければならない。(文鮮明先生の御言葉 1969年2月4日 東京)

相対基準と絶対基準の違いは何でしょうか。
しばしば、文鮮明先生はこの二つの言葉の違いについて語られています。
主体と対象の関係が成り立ってこそ、相対関係は絶対基準を持つようになるというのです。
しかし、この主体と対象が何を中心として関係を持つか、すなわち、授受作用するのかということが問題です。
神様を中心として、神様の目的(み旨)を中心として主体と対象の関係を結ばなければならないというのが絶対基準の求める内容です。
全ての存在は二性性相すなわち相対関係、ペアシステムで成り立っています。
神様がそのように創造されたからです。
相対関係は神を中心に正分合作用の過程において「相対性」をもって分かれた相対的存在です。
しかし、これは神様を中心として「絶対性」を帯びなければ、絶対的存在として顕現することができません。
神様を中心とする相対性、すなわち絶対性を奪われたことが堕落です。
ゆえに、復帰の道では「神様を中心とする相対性」、すなわち「絶対性」を取り戻すことが復帰摂理の中心となるのです。

……しかし、こういうときが来た場合、理想的な新しい男女関係、理想的な相対基準、これをたたえる、ある者が、ある動きが現れてこないと、神がおられない結果になってしまう。こう考えた場合、理想相対というたたえがこの地上の一角に現れて、騒がれだしたということは、世界においての限りない福音である。神が喜ぶ福音である。(同上)

絶対基準を持った二性性相が「理想相対」である、ということです。
言い換えれば、神様を中心とした愛で結ばれた一対の男女が理想相対、絶対性の実体であるということです。
神様の理想の実体は、神様の目的(み旨)に適った相対基準を結んだ相対関係の中に現れてこられるわけです。
絶対性の基準を持った一組の男女(夫婦)に神様は顕現なさるということになります。
祝福によって結ばれた一双の男女は、主体と対象の関係を通して、よく授け良く受けながら、絶対性の実を結ばなければならないのです。



生涯をかけて「絶対基準」「絶対性」を人類に教え、導いてこられた文鮮明先生