信仰生活の原点

我々が統一教会に入って信仰していく場合にも、最初の出発点は何かというと、神に対して子供であるという実感、神の愛を中心とした子女の立場を復帰することである。神より愛される自分であり、この偉大なる神のみ言を誇りとして、天宙にそれをたたえ得るような心情になっていない自分であったとしたら、それは神の子として、神の娘として立つことはできない。(文鮮明先生の御言葉 1969年2月4日 東京)

文鮮明先生が聖和(逝去)されて、2ヵ月が過ぎました。
時間はあっという間に過ぎ去っていきます。

信仰生活の原点は何だろう?
ときには、そんなことも考えてみなければなりませんね。
思えば、原点を持つことはとても大事なことです。
帰る家がある、帰る故郷がある、帰る信仰の原点がある……。
帰る場所、帰る原点があるだけでも幸せなことだと感じます。

さて、文鮮明先生は「神に対して子供であるという実感」、これが信仰の出発点だと語っておられます。
「神の子女の立場」、これが原点です。
すなわち、信仰生活には主体者が存在しているということです。
その主体者とは、父母である神様です。
信仰生活における重要な認識は、主体を認識することであり、私はその主体の前に対象である、父母という主体の前に子女という対象であるという事実です。
このような相対基準を認識できれば、あとは神様との間で授受作用(良く授け良く受ける)の生活をすればよいのです。
そのようにして、個人における絶対基準、家庭における絶対基準を立てていくのです。

今、教会では「神霊と真理」が強調されています。
神霊も真理も神様から来るものです。
神霊と真理による生活は、神様の愛を実感し、神様の御言葉に従う生活のことです。
神霊と真理を強調することは、信仰の原点が何かを強調することと一緒です。
信仰生活の主体が何かを明確にしなさいということと一緒です。
「私は対象である」―誰の?
「神様の対象である」
「神様は私の主体者である」
草創期は、主体者にフォーカスした神霊と真理を正面から受けとめる純粋さにあふれていたのだと思います。
余計なものがなかった……。
教会の発展とともに余計なものもたくさん抱えてしまったのかもしれません。
原点にかえるために、余計なものを整理して分別する必要があります。
私たちがやらなければならないことは何か、そのことについてもよく考えてみる必要があります。
やらなくてもいいことをたくさんやっている私たちなのかもしれません。
持つべきもの、持たないほうがいいもの、やるべきこと、やらないほうがいいこと、そんなことを整理してみる必要がありそうです。
2012年も残りわずかとなってきました。
信仰生活の原点にかえって、自らの生活や環境、使命について整理し、認識し直してみなければなりません。



興南の路程を越えられ、釜山から再出発された文鮮明先生(後列中央)