歴史の復活体

問題は、我々が環境に支配されるのではなく、環境を支配しながら、あるいは環境に影響を与えながら、寂しい人々を慰め、無力な弱い人々に力を与えつつ、未来のための希望を彼らに提示しながら、自分がいかなる生涯を送るべきかという点について深く考えなければなりません。もし、我々統一教会の食口たちがこのようなことをしなければならない天命を受けているとするならば、我々は生涯をいかに送るべきであるか――これが重大な問題になるわけです。ここにおいて、皆様は歴史の復活体にならなければならないのです。(文鮮明先生の御言葉 1970年9月27日 韓国・ソウル)

環境に対する主体性の問題。
目の前の課題に対して解決の主体に立ち得る自分なのかという問題。
「生涯において何をなすべきか」というテーマで語られた御言葉の冒頭部分からの抜粋です。
文鮮明先生は、民族のため、国家のため、世界のために生きなさいと教え、そのために準備しなさいと強調されます。
主体性というものは単なる決意や思い込みで発揮できるものではありません。
民族、国家、世界のために生きるということは、その歴史を背負うことでもあります。
ゆえに、文鮮明先生は「歴史の復活体にならなければならない」と言われるのです。
私たちは、過去・現在・未来の歴史の中心に立っているという歴史感覚を持ち、世界の中の私である、天宙の中の私であるという空間自覚を持たなければならないのです。
今、世界には解決しなければならない問題があふれています。
どんなに力があると言っても、どんなにお金があると言っても、どんなに知識があると言っても、いまだ解決されていない課題が山積みです。
日本も例外ではなく、「寂しい人々」「無力な弱い人々」が日に日に増加しているのが実態であり、紛れもない現実なのです。
今こそ、統一教会の食口(韓国語で“家族”“共同体”といった意味の言葉)が外に目を向けるべき時です。
まずは、隣人に対する主体性を発揮すべきではないでしょうか。
目の前の家族、親族、近隣の人々たちに対する希望の実体、歴史の復活体にならなければならないのだと思います。
世界、天宙には無数と言っていいほどの人間が存在します。
しかし、まず行動を起こすべきは、今私が接している隣人です。
「袖触れ合うも他生の縁(袖すり合うも他生の縁)」ということわざがあります。
袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁によって起こるものであるという意味です。「他生」は「今生」の対語で、前世と来世のことです。
ここでは前世の意味で使われています。
今の出会いは、過去の因縁や未来の出来事にもつながる出会いであるということではないでしょうか。
歴史は一つの流れでつながっています。
今をどのように生きるかが過去と未来に与える影響は小さくないのです。
今出会っている人、接している人を大切に考えなければなりません。
その人々を決して無視したり、軽んじてはいけないのです。



御言葉の実体として歩まれた文鮮明先生