「公」と「私」

神の欲望はある個人にだけ限定されない。全体にわたるということを天は望む。「公」と「私」とが、ここから分別される。「公」というものは全体のためのものである。それゆえに、全体が望むもののために尽くすのが、「公的」であるということができるのだ。私、一人だけの喜びというものはあり得ない。それは全体的な喜びから結局追放されるのである。天の内容というものは、こういうものだと私は思う。それゆえに知恵ある人々は将来のために生きる。現在のためにのみ生きられるものではない。それで、そのようなところから信仰というのが必要になるのである。そこに希望というようなものがあり得るのだ。ゆえに勝利というのは個人的なものであってはならない。あくまでも全体的なものでなくてはならないのである。(文鮮明先生の御言葉 1971年12月5日 韓国・ソウル本部教会)

信仰生活を送るうえで難しいのが「公」と「私」の問題です。
もちろん、全てを「公」だと言ってしまえばそれまでなのですけれども、現実問題として、「私」というカテゴリーに位置付けられるものは存在しますよね。
上記の御言葉に続いて、文鮮明先生は次のように語っています。

君は君である。私は私である――そういうものではない。君は、私であり、私は君である。そういうところまでいかなければ駄目だ。個人の勝利においては、個人だけしか喜べない。二人が喜ぶということはできないし、また全体も喜ぶことができない。だが、個人的な勝利も、これを全体の前に捧げれば全体のためのものになることができるのである。(文鮮明先生の御言葉 1971年12月5日 韓国・ソウル本部教会)

つまり、全体の目的のためになされる「私」であるならば「公」となることができるということです。
ここで、目的意識とか行動基準ということが問題になります。
何を目的に行動するのか、何を目的として生活するのかということです。
私たちがより「公」の生活を行うためには、どのようにすればより全体のためになるかという公益性を考えて行動計画を立てなければなりません。
「公」と「私」を分けるという概念ではなく、「公」の中の「私」であるという概念に立って生活することが大切なのです。
堕落人間は、何となく生きていたら、「公」と「私」を分ける生活をしてしまいますし、そして多くの場合、「公」よりも「私」を優先する生活になりがちではないでしょうか。
まず、大前提として、「公」を中心に、つまり全体のことを考えて自分の行動基準を決定しなければならないのです。
難しいことですが、発想の転換をし、目的意識と行動基準を変えることで、心のありようも変わっていくのではないかと思います。
初めから全体のために生きる、「公」に生きる心根(心情)を持った人間に生まれ育つにこしたことはありませんが、すでに十分に利己的で「私」に重きを置いた生き方をしてきてしまった者にとっては、このように発想の転換から始めることを信仰生活の第一歩とすべきではないかと思います。
信仰生活の主体は神様です。
「神の欲望はある個人だけに限定されない。全体にわたることを天は望む」ということを肝に銘じて行動計画を立てていきたいと思います。



ニクソン大統領(当時)と握手される文鮮明先生