宗教者が自戒すべきこと

宗教が現実的規範原理や所在を超越しているかといって、その現実的作用までも無視してはいけません。宗教は、現実問題自体に至大なる関心をもって、神のみ旨の適用可否を深く調べなければなりません。また、政治、経済、社会、教育など、各分野の現実問題を解決すべき人々の心の中に、神を中心とした新しい変化を起こすことによって、彼らが新しい人となって問題を解くようにしなければなりません。(文鮮明先生の御言葉 1985年11月16日)

宗教者は謙遜でなければならないと思います。
文鮮明先生が指摘しているように、個人のレベルであっても、信仰を持つようになると「現実的規範原理や所在を超越して」しまうことが多いように思います。
とりわけ宗教の世界、宗教組織の内部はそのようになりやすい場所だと感じます。
宗教的ヒエラルキーの世界に入ってしまうと、現実的作用が見えなくなってしまいがちです。
宗教的権威を持った立場の人間が、「公」ではなく、「私」の動機を強くもってしまったとき、そこから悲劇が始まります。
そのもとの信徒たちの心の奴隷化が始まってしまうのです。
迫害や試練に遭ったとき、一信徒の場合は、悔い改めに導かれ、むしろそのことが信仰を鍛錬する機会へと転換することが多いように思います。
しかし、宗教的リーダーの場合は、しばしばそのことゆえに独善と保身に陥ってしまい、信徒を誤導してしまうきっかけになることがあります。

宗教的リーダーは、天の声と同時に地の声、神の声と同時に信徒の声にも耳を傾けなければならないでしょう。
宗教組織において、信徒が心の声を発せられなくなってしまったら、それはもはや宗教と呼ぶべきものでなくなっているのかもしれません。
信仰の篤い国では、政治家が宗教者のアドバイスを受けるという話を聞きます。
では、宗教者、特に指導的立場にある宗教者は誰にアドバイスを受けるべきなのでしょうか?

私は文鮮明先生を心から尊敬しています。
なぜなら、文鮮明先生は本来あるべき宗教者の姿を、身をもって私たちに示してくださっているからです。
文鮮明先生は「神を中心とした新しい変化を起こすことによって、彼らが新しい人となって問題を解くように」導いてくださいました。

宗教組織の長たる者は、決して、独占欲や支配欲、執着心にまみれて己の地位に固執してはいけないと思います。
信徒の頭の上に胡坐をかくことなく、自分の足で歩き、体を使って汗し、涙しながら、どこまでも謙遜な心で信徒に接して生きていかなければならないでしょう。
父母の心情、僕の体。
宗教を信奉する者、神を中心とした世界を開拓する者こそ、謙虚、謙遜な心で孤独に耐える道を自ら選び、上からではなく、下から人を支える者として生きることを自戒すべきです。



ダンベリー刑務所の文鮮明先生