宗教は心を教育するためのものではない

宗教とは、何をするものでしょうか。心を教育するためのものではありません。宗教は、心に力を与え、体に対しては制裁を加えるのです。なぜでしょうか。本然の位置に帰らせようとするからです。それゆえに、高次的な宗教であるほど、心を拘束しようとしません。心を高めて体の世界まで和合することができるようにするのです。(文鮮明先生の御言葉 1989年11月1日)


「宗教は心の教育をするものだ」と考える人が多くいると思います。
宗教者自身もそのように考えている人は少なくないような気がします。
しかし、文鮮明先生は「宗教は心を教育するためのものではない」と断言しています。
文鮮明先生が宗教について語るとき、人間の堕落、堕落した人間であることが前提となっています。
本然の人間には宗教が不要だともおっしゃっています。
すなわち、堕落人間は、心と体が主体・対象の関係で一つになっておらず、常に心が体の拘束、支配を受けている状態だから、それを逆転させるために宗教が必要だということなのです。
ゆえに、宗教は「心に力を与え、体に対しては制裁を加える」ことを使命としています。
心を強くして、心を高めて、体を主管し、心身統一、心と体の和合の世界を成すというわけです。
本然の人間は、その心が父母につながっています。
神様につながっています。
創造主が被造物を主管するように、人間は心が体を主管できてこそ、神様の子女として完成したと言えるのです。
「高次的な宗教であるほど、心を拘束しようとしません」
反省させられます。
統一教会は人類史上最高の宗教、完成宗教となっているでしょうか。
統一教会は、最終的な宗教の使命を果たせる宗教および宗教組織に成らなければならないと思います。
そして、自分自身も、心にみなぎる力を得ることのできる信仰生活をしていかなければならないと、自らを戒めたいと思います。



常に心身統一の重要性を強調してこられた文鮮明先生