善が決定される時

善は、動かない場においては決定されない。それゆえ善は、万民のため、すなわち第三者のための立場において動く時、決定される。(『御旨の道』1・一 み旨、2 善と悪 132

善が善として決定されるのは、行動した時であると語られています。
行動が伴って善は善たり得るということです。

率直に語り、真実に行動するとき、善は決定される。(『御旨の道』1・一 み旨、2 善と悪 133)

という、文鮮明先生の御言葉もあります。

行動に気を付けなければいけないと思います。
ときに、安易な行為、無責任な行動を取ることによって私たちはしばしば失敗をしてしまいます。
行為、行動に対してもっと意識的に取り扱わなければいけないのだと思います。
日常生活の中で、余りにも無意識に悪を行っています。
自己中心的な行為、行動は、無意識でも行ってしまいます。
しかし、自己を犠牲にし、第三者のために行動するときには、余程意識が働かない限り、動くことはありません。
これが人間が堕落していることの証拠であると言えるでしょう。
堕落人間が善を行う者になる、善に生きるようになるためには、やはり訓練や修練というものを避けて通れないものなのかもしれません。

「ために生きる」「相手のために生きる」「第三者のために生きる」「万民のために生きる」……。
これをいつも意識して、そのために主体的に動く自分となるよう日々、瞬間を努力していかなければならないと思います。



文鮮明先生は率直なかたであり、真実なかたであり、善を行うかたである