面白いところもあるし、そうでないところもある。ためになるところもあるし、そうでないところもある。ピンとくるところもあるし、そうでないところもある

 

 

仕方なく鼻炎のカプセルを飲んで横になりながら『嗤う日本の「ナショナリズム」』北田暁大著を読む。

 

面白いところもあるし、そうでないところもある。ためになるところもあるし、そうでないところもある。ピンとくるところもあるし、そうでないところもある。

 

皮肉屋でありながら、『電車男』のようなくっさい純愛物語に共感する若者。そこにはアンチノミー(二律背反)があるという。論理的には矛盾しているが、それは「オレ的」には成り立っていると。糸井重里の「おいしい生活」、田中康夫の「なんとなくクリスタル」に見られる人それぞれが好きなものはすべて等価であるという発言と同じ範疇に括られる。

 

熱かった六十年代が赤軍派浅間山荘事件や一連の総括の名のもとでの集団リンチ殺人事件で幕が引かれ、七十年代はその反動でシラケややさしさと呼ばれ、ストレートではなく、ちょっと斜に構えたアイロニカルなスタンスがカッコいいとされる。島田雅彦のような物言いか。

 

気鋭の作者は、以降の新人類、おタクの出現からいまの若者たちの保守化、右傾化を分析していく。ますます島宇宙化しているが、内心みんなさびしんぼうなんだってさ。さて、読後の率直な感想は、なんかどっちつかず。アカデミックにするなら、もっと小難しくすりゃいいし、サブカルにするんだったら、もっと下世話にすりゃいいし。

 

頭のいい子の作文のようで、非のうちどころはないんだけど、欲求不満が残る読後感ってとこ。カゲキにすりゃ宮台がいるし、アカデミックにすりゃ大澤あたりとカブるか。
ここらへんが作者の位置取りなのかもしれないが。

 

糸井重里の戦略のうまさ、商才、そのあたりが欠落しているし、コピーライター糸井の日本語のうまさも書き足りない。ナンシー関は、どうなんだろ。誉めすぎという気がしないでもない。作者曰く2ちゃんねらーの教祖様なのだそうだが。


ナンシー関も糸井ズチルドレンの一人。かくいうぼくとて否定はできない。いまの仕事がそうなんだし、あきずに長いこと、やってる(やってた)わけだし。

 

まあ確かにナンシー関の消しゴム版画+毒舌コメントは鋭かった。ナンシー関いしいひさいちの漫画が消滅した『週刊文春』は、つまらなくなったもんなあ。

 

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ゴシック・ビルドゥングス・ロマン―ヴィクトリア・マッキャンドレスの生涯

 

 


『哀れなるものたち』 アラスター・グレイ著  高橋 和久訳を読む。

 

映画版『哀れなるものたち』(ヨルゴス・ランティモス監督、エマ・ストーン主演)を見てから、原作本を読む。

 

作者は、一風変わった装幀の古書を手に入れる。中身は天才外科医バクスターと彼の手術で蘇った女性の一生が綴られていた。というメタフィクションで展開する。

 

時は19世紀末、「ヴィクトリア朝後期」。場所はグラスゴー。女性が身投げした。監察医だったバクスターは、妊娠していた彼女の脳に、胎児の脳を移植、見事成功させる。身元不明の彼女。見た目は美しい大人の女性、でも知能は生まれたばかりの赤ん坊という逆「名探偵コナン」状態。バクスターは、当然、ジョン・ハンターをリスペクトしている。余談。


ベラと命名された彼女は旺盛な知識欲からか、日に日に知性が成長していく。ベラはバクスター「ゴッド」と呼んでいる。バクスターの友人であり後に助手になったマッキャンドルスと婚約する。

 

彼女はさらに知らない世界を知ろうと、悪徳弁護士ダンカンの誘いで何の躊躇もなしに、ヨーロッパ各地への旅に出る。案じる二人。名うてのプレイボーイ、ダンカンは途中でベラを捨てようと思ったが、彼女にすっかり魅了されてしまう。知識欲も旺盛だったが、性欲も旺盛だった、ベラ。

 

旅で出会った人々、光景は、いっそう彼女を成長させていった。しまいにはついていけなくなったダンカンは、文無しとなっても、ストーカーの如くつきまとう。心を病んだ彼は精神病院に収監される。

 

長い旅を終えて、晴れて二人は結婚となるが、そこに、待ったをかけたのが、夫というブレシントン将軍。詳しい経歴が紹介されている。これで一作、書けるほど。ベラの父親も。彼らは、「ヴィクトリア」と呼ぶが、彼女の記憶にはまったくない。

 

将軍は戦場ではヒーローだったかもしれないが、平場ではとんだDV野郎だった。まったく似ていないが、赤塚不二夫の漫画キャラ、やたら拳銃をぶっ放す本官さん(ピストルのおまわりさん)を想像した。

 

映画は3時間に及ぶ長尺で、よくできているが、それでも、もの足りなさを感じた身重のベラ(ヴィクトリア)が投身自殺した理由と医師になってからの人生の後半部分を、たっぷりと知ることができる。

 

メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』は、醜い怪物として蘇生した男が、産みの親ヴィクトル・フランケンシュタインへの恨みを描いているが、ベラは、ことの真相を知っても、バクスターへの恨みは抱かない。バクスターは罪の意識にさいなまれていたが。それどころか、同じ医学の道を志す。

 

ゴシック・ビルドゥングス・ロマン。なんのこっちゃ1?

 

現代の入口は「ヴィクトリア朝」にあったとフーコーは言うが、この本でも自由、平等、貧富、女性への偏見と差別などを深く考える。当時の知識人たちの会話で知ることができる。


手塚治虫の『ブラック・ジャック』とバクスターがなんとなくかぶるのは、顔面の縫合跡のせいかも。ブラック・ジャックが甦らせたピノコは、ベラのようにはならなかったが。

 

作者は美術学校出身なので絵も達者で表紙から各登場人物や器官など独特の絵を披露している。『堆塵館』などアイアマンガー三部作の作者エドワード・ケアリーを思い出した。


映画版『哀れなるものたち』の短い感想メモ

 

エマ・ストーンが赤ちゃんから幼児、ティーンエイジャー、知的なレディまでを見事に演じ分けている。

〇『哀れなるものたち』とは、男性のことかと思えるほど、男のいろんなダメさをつくづく感じさせられる。

ヴィクトリア朝ではポルノグラフィーが盛んになったが、スクリーンからその時代の気分が味わえる。

アールデコ、アールヌーヴォー、フュチュリズム、ガウディ、ギーガーあたりなどをベースにつくりあげた美術が豪華、素晴らしい。

アンビエント・ミュージック風だが、どこかズレや狂いを感じさせるサウンド・トラックがクセになる。

 

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いつだってもっと単純に生きられたら

 

 


『単純な生活』阿部昭著を読む。


いつか機会があったらこの本を取り上げてみたいと思っていた。小説が大量生産・大量消費される風潮が強い昨今、再読する本が書棚にある人は幸せだ。ぼくの場合は本書がその一冊である。

 

阿部昭は短編小説の名手として知られるが、平成元年54歳で急逝した。彼はTBS勤務時代に、文學界新人賞を受賞したが、そのデビュー作『子供部屋』以来一貫して家族、親・兄弟、生まれ育った湘南をテーマに作品を発表してきた。その佳作揃いの著作の中で(主なものは講談社文芸文庫で入手可―今は不可か)最も多くページを捲(めく)っているのが、本書である。

 

『単純な生活』は言うなれば身辺雑記、エッセーである。普段の生活から作者が感じとったものを掬(すく)い上げた短めの文章が全部で103、タペストリーのように書き綴られている。子供の成長、母の死、友人のこと、自分の病気など、誰もがごくごく見慣れた日常風景を淡い筆致で描いていく。劇的なことは何も起こらない。何も起こらないから、読み返す度にまた新たに好きな断片を発見する。一市井人(しせいじん)の静かな生き方に深く共鳴する。そしてその平明かつ自然な文体に魅了される。

 

単純とは何か。作者は、「複雑でないこと」、「裸」、この2点を挙げている。作者自身、単純な生活の実践者ではないことを明言した上で、「読者はわれわれはいつだってもっと単純に生きられたらという思いがあるのだということを思い出していただきたい。」(『断片三より一部引用』)と述べている。この件(くだり)は今の時代に、しっくりくるのではないだろうか。返す返す残念なのは、彼の新作がもう読めないことだ。存命であるならば、老いの心境などをどう書き記したのだろう。

 

特に仕事に、家庭に揺らぎがちな若い父親や母親に一読をお薦めしたい。意味もなく間延びした、たとえば2段組上下巻といった長編小説よりもきっと得るものが多い。精神安定剤として立派に機能するはずである。

 

昔、書いたレビューをアップ。

 

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父、母、息子、三つ巴の殺意―中華家族ノワール小説

 

 


『中国のはなし-田舎町で聞いたこと』 閻連科著 飯塚容訳を読む。

 

作者が母の誕生日のパーティーのため、郷里に帰る。宴が終わった後、とある若者が作者に自分の家族の隠された話を囁く。そこから話が始まる。

 

家族は河南省の田舎の町に住んでいた。中国の改革によりその恩恵を受けたり、商売が当たって金持ちになり、町は新築ブームに沸いていた。ところが、この家族、商売下手な父親は西瓜を売って、母親はマントウを売ってささやかな日銭を稼いでいた。家もみすぼらしい。宅地だけはあるが、いつ新築できるのか予定はまったく立たない。当然のことだが、中国人民みな、金持ちになったわけじゃない。


各章ごとにぼく(息子)、父親、母親が主人公となって家族や社会への不満そして「息子は父に、父は母に、母は息子に殺意を抱いた」経緯などが語られる。中華家族ノワール小説、いわゆる「暗黒小説」として面白い。えっ、殺意は抱いても、ほんとに殺すの。作者は、読み手をじらす。

 

第一章では、息子が語る。父親への恨み、つらみ、殺意の歴史を話す。息子はこの町にいても自分の未来はひらけないと、まずは中国の大学に進学した。町でも大きな話題となった。ゆくゆくはアメリカ留学をして成功することを夢見ていた。それには莫大な金がいる。親に夢を話したとてわかってはもらえない。息子の留学費用が払えるくらいなら、家の新築費用に回すだろう。注射で、かさを水増しした野菜を売るなどせこい商売で家を新築した通称・野菜じじいにダメもとで留学費用の相談をする。殺そうとはするが、結果的には未遂に終わる。しまいには理髪店にいる南方から来た女の子の色香に迷い、ねんごろになる。

 

第二章では、父親が語る。金持ちになって立派な家を建てたのはよそ者。貧乏くじばっかひいてきた彼にも運が回って来た。町一番の金持ちの電気店の奥さんが、名ばかり愛人になってくれないかと。夫は、愛人の元へ入りびたり。私も愛人をつくり、離婚して財産を半分奪いとってやると。家が新築できるくらいのお礼をすると。万が一、夫とトラブルが起きて大怪我したら一生面倒をみても構わない。親父の妄想はふくらむ。奥さんと再婚したら。それには女房が邪魔だ。どう始末するか。あれこれ考える。結構な額の手付金をもらったが、それを、なんと息子が婚約したというので女房はそれに使ったと。「別れてくれ」と言ったら、怒り心頭、家じゅうの茶碗を割ってしまった。電気店の奥さんは離婚を止めることになり、親父の計画は水泡に帰す。

 

第三章では、母親が語る。せがれが大学に行くときは、まるで出征するかのように町中の人が見送ってくれた。ところが、大学はインチキだった。息子はだまされ、入学金は一部が返済されたのみ。再び、アメリカへ留学したいと。何を抜かす。咄嗟に殺意が芽生える。北京の大学院で勉強していると言うが、違った。実際は、子どもができた。理髪店にいた娘が母親。挙句の果てに替え玉受験の一味になって逮捕、拘留。マントウ店を担保に借りたお金で保釈させる。せがれはすっかり都会人になってしまった。井戸に細工をして転落死させようとするが、息子は気が付いて井戸に落ちることはなかった。

 

第四章で、一家は、ついに念願の新居を手に入れる。ただし、水道も電気もない山奥。意外なことに家族は静かな暮らしに満足のようだ、いまのところは。殺さなくて、殺されなくて、ほんと、よかった。破滅的じゃない、破綻しない結末は作者の作品では珍しいのでは。


いつも素朴に思うんだけど、商売上手な中国人の国家体制が共産主義国家というのは、何か矛盾を感じる。イデオロギーと経済は違うって、どうもダブルスタンダードのような気がしてならない。

 

この作品は他の作品よりも読みやすいので、初めて読む人におすすめ。


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ほっこり、ドッキリ、ざわざわ、にんまり

 

 

『お城の人々』ジョーン・エイキン著  三辺 律子訳を読む。

 

メルヘンのような、怪談のような、SFのような…。異なるいろんなテイストが楽しめる10の短篇奇譚集。1日1篇ずつ読んでは、「なるほど」とか、「そうきたか」と感心する。しちめんどくさい人文系の本を読んで凝り固まった頭を、思いきりほぐしてくれる。こりゃ、他の作品も読まない手はないぞ。何篇かのあらすじや感想を。


『ロブの飼い主』
サンディは犬のロブ(シェパード)と仲良しになった。残念なことにロブの飼い主は、コーンウォールから650㎞の遠方にあるリバプールに住んでいる。ところが、ロブがそこからやって来た。飼い主に送り返すが、懲りずに、サンディに会いに、二度も。飼い主はロブをサンディの家族に譲ると。
9年が経った。サンディは成長し、ロブは老いた。サンディとロブが散歩の途中、トラックにはねられる。危篤のサンディの見舞いに病院に祖母が来ると、ロブがいた。病室のそばでロブが哀し気な声をあげると、サンディが目を覚ます。父親が言うには、ロブはトラックに轢かれて死んでいた。病院にいた犬は…。犬の健気さに涙が出そうになる。うちには猫が三匹いるが、そんな期待は毛頭できない。

 

『よこしまな伯爵夫人に音楽を』
「小さな村に」赴任してきたボンド先生。学校の古いピアノで弾く音楽に生徒たちはうっとり。「お城の伯爵夫人に聴かせたい」と。村の女の子は卒業後、「お城への奉公」にあがるとか。ところが先生には森の中のお城が見えない。先生のピアノ演奏はお城でも評判になっていた。
お城ではハープ奏者が斬首されて以来、無音状態。夫人はしもべの乙女に先生の捕獲を命じる。術をかけると大概の人間は捕らえられるのだが、なぜか、先生は、かからない。夫人自らお城へ誘う。念願のピアノ演奏。しかもオリジナル曲を演奏する。その「不協和音」の凄まじさ。ジャイアンの歌声並みか。塔が崩れかねない勢い。夫人も乙女たちも逃げてしまう。

 

『最後の標本』
月に一度しか礼拝が行われない聖アントニオ教会。今日も70歳になるペンテコスト牧師が年季の入ったローバーでやって来る。牧師は教会の雑木林が気に入っていた。そこに見知らぬ少女がいた。彼女は「移植ごてとかごを持っていた」。不可思議ないでたちをしている彼女に、「珍しい野生のフリチラリア」の採取は禁じられていることを伝える。
遠方から来たという彼女。これで植物の標本がコンプリートすると。牧師は住まいの庭にあるフリチラリアなら取ってもよいと。どこから何のためにと牧師が訊ねる。地球の動植物などの採取・保存のために来た異星人か。試しに牧師の標本として私は、と聞くと、すでにコレクション済みだと。

 

『お城の人々』
幽霊が出るといわれるお城の一角に診療所があった。医師は、効率を最優先して治療に当たっていた。早く仕事を切り上げ、論文を進めたいからだった。ある日、若い女性・ヘレンがやって来た。色白で金髪、白いドレス。症状を聞いても答えない。効率第一の医師はイラつく。彼女は石板に「口がきけません」「なおしてください」と書く。彼女の咽喉を見ると脱脂綿のようなものが見える。ずるずると大量の脱脂綿が出て来る。ようやく取り終えると声がかすかに出るようになった。
彼女はお城の王女だった。予言通り呪いを解いた医師はヘレンと結婚する。ヘレンが診療所に来てから医師は別人のように明るくなり、繁盛する。王様から「思いやりのない言葉を口にしたら、娘は煙のように消えてしまう」と言われていた。
映画がすっかり気に入って見て来た映画のことなどを饒舌に話す彼女。うっかりして非難したら、ほんとに、消えてしまった。
失意の日々。診察以外は人と会わない。夜な夜な城跡で彼女の名前を叫んでいるとか。20年後、医師は著作で有名になったが、心は空洞のまま。ひょんなことから映画館に入る。女性が席を案内する。つまづきかけたら彼女が手を差し出した。懐かしい冷たい手。ヘレンだった。そして医師はヘレンと煙のように消えてしまった。

 

『ワトキン、コンマ』 
ミス・シブレイは見知らぬ大伯父から巨額の遺産を相続する。これを元手にケーキ店を始めようと決意する。銀行勤務の彼女、ケーキをつくった経験もなしに。なかなか良い物件がなくて苦労するが、小さな島の水車小屋を購入する。

「廃屋」をケーキ店兼住居にするため、大掛かりなリフォームを職人に依頼する。基礎工事中に棺が発見される。中には骸骨が。丁重に葬られてあった。郷土史家でもある検視官によるとカトリックのガブリエル神父ではないかと。
さらに職人らは隠し部屋を見つけた。そこに古い革表紙の日記が。神父が書いたものか。日記にはワトキン氏と共にいたと。神父は隠し部屋に匿われていたが、不幸な事故により孤独死・餓死したはずだと。ワトキン氏とは。
今度はシブレイが同じ目に遭う。閉じ込められて、なんとか平静を保とうとする。そこに、ワトキン氏が現われる。ケーキ作りは失敗の連続。お店がオープンできるのはいつ?

 

漫画化するなら、坂田靖子あたりに。アニメ化するなら、宮崎吾郎あたりに。いつものように勝手に妄想する。


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生き方としてのインターネット。その光と影

 

 

ネクスト』マイケル・ルイス著 熊谷千寿訳を読む。

 

インターネットではプロもアマもない。大人も子どももない。男と女もない。阪本啓一氏の著作『パーミション・マーケティングの未来』からの言説を付加するならば、「デジタルであるとは、リアルワールドでのパワーが効かないことである」「デジタルであることは『組織』がなくなり、『個人』が前面に出ることである」。つまり、それが「ネクスト」の意味するものである。

 

オンラインのアンファン・テリブル-恐るべき子どもたち、をはじめとして、本書には冒頭で述べたようなことが作者のインタビューによる実証例として出てくる。

 

たとえば、インターネットで「株式をだまし取り」「株式詐欺容疑をかけられた」15歳の少年。未成年なので少年は母親名義でインターネットで株の売買を始める。やがて本人の才覚で80万ドルを儲ける。未成年だから株式取引はいけない。その一点だけで、詐欺罪が成立するのか、どうか。作者が述べているように「違法な取り引きと合法な取り引きのちがい」は突き詰めていくと、明快に線引きできないような気がする。

 

次もまた15歳の少年の話。インターネット上で「法律問題の助言」を与えるいわばサイバー弁護士。彼はそのサイトの「法律エキスパートの部門」で並みいるプロの弁護士よりも、高くランキングされる。法律の知識が皆無に等しいにもかかわらずにだ。

 

「中央のコンピュータ・サーバーの力を借りずにインターネットを通じて共有するソフトウェア」グヌーテラの賛同者である14歳の少年は、本や音楽を時には不法にダウンロードして楽しんでいる。彼には作者以外にある知的所有権という概念が理解できない。それには従来の資本主義を崩壊させる、社会主義的においを感じる。彼の精神には、インターネットにより新たな社会主義が芽生えていると。

 

子どもの教育にはネットリテラシーが必須であるなどと四角四面に考えるのも良いが、16歳でイギリス・プレミアリーグで得点を挙げた少年と同じように、その才能を評価してみるというのは、いけないことだろうか。

 

イギリスのネオ・プログレッシヴ・ロックバンド「マリリオン」のサクセスストーリー。お金がなくアメリカツァーをしたくてもできなかった彼らに対して、熱狂的なファンがWebサイトで呼びかけてアメリカツァーの費用を捻出する。ゴタゴタうるさいレコード会社ではなく自主制作、インディーズでアルバムを出した。その制作費もWebサイトで募集した、しかも前金で(クラウドファンディングの先駆け)。いわば予約販売なのだから、在庫を抱えることもない。これはビジネスとしても固い。
「人々との熱意とつながる幹線ができたおかげて、インターネットが使えなかったころよりも、ずっと精神的になりました」。
メンバーの一人がこう語っている。これは息抜きともいうべきエピソードか。アメリカのロック映画の秀作のような心地良さを味わうことができた。

 

ただし、タイトルがこれでは、売れるものも売れない。子どものインターネット犯罪ものかと思ったら、それよか、全然、エッジの鋭いものであった。

 

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1960年代の「死の家の記録」

 

 

『穴持たずども』ユーリー・マムレーエフ著   松下 隆志訳を読む。

 

まずは、チモフェイ・レシェトフの解説から、この作品が書かれた時代背景を引用。

 

スターリン死後の1953年、N・S・フルシチョフが権力の座に就いた。彼は国内で一連の自由主義改革を実施し、結果として国家の文化政策が著しく見直された。(非マルクス主義的な)哲学書、宗教書、神秘主義文献など、以前は禁止されていた本にアクセスする道が開けたのである。50年代末、マムレーエフの周辺では、ソヴィエト的現実の枠をはるかに超える関心を持つ人々のサークルが形成されはじめた。これらの人々は図書館の書物で世界の伝統を学びながら、独自の内的探求を行なっていた。彼らは図書館の喫煙所で知り合い、交流した。哲学者、神秘主義者、芸術家、詩人、作家など、多くが社会的な面でマージナルな存在だった。彼らを一つにしていたのは、ソヴィエトの唯物論イデオロギーに対する確固たる不承認だった」

 

このサークルが作品の動機になっていると。

 

頃は1960年代。場所はモスクワ近郊。主人公フョードル・ソンノフが現われる。彼は、いわば、シリアルキラー。しかし、殺人よりも自身の死の世界を希求する。彼が住んでいる共同住宅には、類は友を呼ぶというのか、アダムス・ファミリーよりも、いっちゃっているフォミチェフ・ファミリーの人々がいる。「異常性癖の」クラーワ、ゴミ漁りに夢中なリーダ、自分の肉体を貪り食らうペーチュニカなど。


さらに「敬虔な」キリスト教徒だったのに、なぜか屍鶏に変身してしまった老人ニキーチチ、去勢したミヘイ、「グノーシス的神秘思想の信者で形而上的娼婦」アンナ(よーわからんが結構、魅力的)など、変態ばっか。死と退廃のニオイが濃厚に漂う「形而上派」のメンバーたち。


社会主義体制のソ連の不自由感や閉塞感に不満を覚える人々はイデオロギーのもとに反体制派を標榜する。させられる。小説もSF風味のディストピアものなら、読んだことがある。でも、ザミーチャンの『われら』は、1920年代の作品。この作品が掲げる旗はイデオロギーではなく、カルトやエゾテリスム(秘教)。目には目を。唯物論には形而上学、か。

 

1960年代はヒッピーなどカウンターカルチャーが世界的に広まった。偶然かどうかは知らないが、ソ連でもこのような流れがあったとは知らなかった。マージナル(辺境)における「マージナルな存在」、それが「形而上派」。

 

『まなざしの地獄』見田宗介著の最後の一文が、どんぴしゃ。

「われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、
われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見捨ててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である」


訳者あとがきによると「ソローキンに影響を与えた作家」らしい。アングラっぽく、グロいところかな。ホアキン・フェニックス主演の映画『ジョーカー』を見たときのような苦さ、やるせなさを感じた。


タイトルの「穴持たず」とは、冬眠せず凶暴化したクマを意味する言葉だそうだ。
通常ではない異常なクマ、それはまさしくフョードル以下この作品に登場する人物たちのことだろう。

 

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