悩む力と他者への関心

斉藤道雄『悩む力─べてるの家の人びと』みすず書房,2002年


昨日,悩みを保持する能力についてふれた。悩みを解決するのではなく,悩みを保持するということの大切さを,本書の著者斉藤氏も,「べてるの家」の向谷地氏の言葉から引いて,強調している。(「べてるの家」については,7月22日の日記も参照。)

「向谷地さんはこうもいっている。
「浦河にいったときに,精神科の患者さんに会っていちばん最初に思ったことは,この人たちは病気によって幸せを奪われているのではなくて,本来的に人間に与えられている“苦労が奪われている”人たちだと考えたのです」」(140頁)

これを斉藤氏は次のように解釈してゆく。

「・・べてるの家でみんなが“苦労を取りもどそう”と考えたのは,けっして安易な精神主義からはじめたことではなかった。病気であろうがなかろうが,人間はどう生きればいいか,なにがほんとうに生きるということなのか,そのことをくり返し考えるところからはじまったのである。」(140頁)

本当に問うこと,というのは難しい。私たちは,いろいろと周囲から注意され,糾弾されることをおそれ,体裁を整えることをしてまう。しかし,向谷地氏が,よい意味の開き直りをしたのは,現実の問題に正面からぶつかっていたからだと思う。

「[上のように考えることの]その基底には,・・「人はどんなに努力しても,あがいても解決できない苦労や悩みが備えられている」という人間存在への深い認識というものがある。人間には本来そうした苦労や悩みがあるはずだというのに,それがいまの世の中ではしばしば置きざりにされているのではないか。あるいは,だれもがそれを自分からおおい隠そうとしている。」(140頁)

これは,体裁を整えることばかりをしている身には,実に耳の痛い話である。しかし,苦労や悩みがあるというのは事の一面である。他面において,人間は悩みことのできる力をもっている。著者は,次のように向谷地氏の言葉を紹介する。

「「私たちは,生活を便利にしたり豊かにしたり,自分にないものを身につけたりいろいろ努力しているが,そういうこととは無関係に,生きることに悩みあえぐという力が与えられている。……じつは人間は,どんな境遇に生まれようとどんなに恵まれていようと,ちゃんと悩む力をもっている。人間はそういう存在であるということが,忘れられていると私は思います」」(140-1頁)

生きることは困難なばかりではない。その困難さに立ち向かう力が人間にはあるというのだ。
それでは,「悩みあえぐ」ことを通して,いったい何がどう変わるのだろうか。社会的な評価や成果のスキームにはのりにくいが,しかし,人間として大切なもの,それを向谷地氏は「自分自身との和解」といっている。

「「べてるの家のテーマというのは,けっして精神障害者を理解して,精神障害者を社会復帰させて励ますことにあるんじゃなくて……いわゆる“和解の達人”であるべてるの一人ひとりの導きと支えと助けによって,だれでもが自分自身との和解を経験する場である,そして自分を回復する場である,ということがべてるのテーマだと思うんですね。そして自分自身と和解することのできた人のみが,人とも和解できる」」(181頁)

和解とは,やや哲学的にすぎる言葉かもしれない。著者の斉藤氏は,それを「つながり」という言葉で表現している。べてるの家で生活する人へのインタビューを通して,斉藤氏は,自分自身も若くして統合失調症を病んでいるのに,若くして病んだ仲間を心配する姿に強い印象を刻んだという。斉藤氏は,その印象の理由を次のように述懐する。

「それはべてるの人びとを結びつけている,目に見えないつながりというものをあらわしていたからだろう。義理や計算からではなく,教えられたからとか人にいわれたからということではなく,そこには人が人を思う,人間関係のいちばん基本的なつながりというものがあらわれていたからだ。・・仲間や他人への関心をもてなければ,どうして彼らとの人間関係を作ることができるだろう。他人への思いというものがなければ,どうしてひとたび失われた人間関係を回復することができるだろうか。」(178頁)

べてる家における経験の報告を,どのように読めばよいのだろう。
悩むことが,他者への関心の基盤になるということを,ここから読み取ってよいのかもしれない。
もしもそうならば,悩みをなくしていこうとする営みは,逆説的にも他者への関心の基盤を破壊することになってしまっているのかもしれない。

本書の奥付によると,著者の斉藤道雄氏はTBS記者,「ニュース23」プロデューサーを経て,本書出版時には「報道特集」ディレクターとのこと。『原爆神話の五〇年』(中公新書)などの著作がある。