思想の原罪性

彌永信美『歴史という牢獄 ものたちの空間へ』青土社,1988年


前回(2月8日)少しふれたように,研究室の引っ越し準備のために,何かしら生活が落ち着かず,この日記も放置してしまいました。
少し期間をおいてしまうと,なかなか本の紹介モードになることができず,どのように書いたものかと,思いあぐねる始末。
この日記のコンセプトは,良いと思う本の中の言葉を紹介すること。ともかく,読んで啓発された言葉,ものを考えていくために心にとめておきたい言葉を,引き続き引用していきたいと思います。

さて,冒頭の彌永信美(いやなが・のぶみ)氏の著作。引っ越し作業の中で,本棚に埋もれていたのを再発見した。
彌永氏は,1948年生まれの仏教学者,評論家。パリ高等研究院歴史・文献学科を中退。仏教神話の伝承史的研究,ヨーロッパ文化史,宗教史,神秘思想などの,広範な知見をもとにした評論活動を展開している(渋沢・クローデル賞を受賞した『東洋の幻想』(ちくま学芸文庫版,2005年)の紹介から)。
彌永氏の文章を読んで思うのは,思想史の考え方,問題の捉え方が,これほどまでに平明な日本語で,しかも鋭く記述されている例は,めったにないということだ。

「「近代」が産み出した最大の構築物のひとつは「歴史」である。ここで歴史というのは,自然や世界史,民族史,あるいは個人史といった歴史家によって書かれた歴史だけではない。すべての事物が現れる「存在」の場が歴史である。・・・・・・こうして現実のものや人間は,歴史という舞台にのせられて,ひとつの「物語」を構成する登場人物(=記号)となる。歴史主体とは,その物語に組み込まれながら,同時にその悲壮や華麗に興奮する,倒錯した「登場人物=観客」にほかならない。あなたもぼくも人々も,すべてその物語の美,崇高,残酷,あるいは真実「のために」存在し,「そのために」殺し,支配し,虐げられ,抵抗し,歓喜し,あるいは愛し合うだろう。逆に言えば,あなたもぼくもまた人々も,理由なしに存在することはできないのである。」(15頁)

人々が,歴史の舞台で喜び楽しみ,あるいは嘆き悲しむのは,実は「舞台の構造」によって踊らされているのである。人々を踊らせ続けるこの「舞台の構造」を,著者は「歴史の牢獄」と表現する。歴史の牢獄から抜け出るには,この構造そのものを見破らなければならない。たとえば,著者は,神秘主義を次のように話す。

「近代が神秘主義を隠蔽し,あるいは「人間的な情念」や「生命感」を抑圧し続けてきたというテーゼは,同じ近代が人間の「性」を抑圧し続けてきたというテーゼと同じほどに,重大な錯覚であり,欺瞞であるというべきである(近代以外のどの文化が,たとえば「人間らしいドロドロとしたもの」といった薄気味悪い概念を発明できただろう?)。」(17-18頁)

合理主義/神秘主義という二項対立図式の「舞台の構造」のもとで,いかに合理主義を(あるいは神秘主義を)批判しても,それは近代を批判することにはならない。それは,近代に踊らされていることでしかない。
本書は,この近代の「舞台の構造」を批判的に認識する試みである。ここでは第三論文「日本の「思想」とキリシタン」を簡単に紹介したい。

16世紀から17世紀にかけて,日本の歴史においてはまったく例外的なことに,キリスト教徒(キリシタン)が爆発的に増えた。周知のように,幕府による厳しい迫害と取り締まりによって,キリシタンは歴史の表舞台から消え去ったのだが,しかし,著者によれば,キリシタンの刺激によって生まれた日本の思想は,歴史の舞台から立ち去るどころか,むしろその舞台の構造となっていく。
著者の議論の要点を抜き書きしてみる。

キリシタン時代以前の日本には,真に典型的といえるような「思想」は存在しなかった。」(102頁)

「…日本はキリシタンに対抗できるだけの「思想の論理」をもち合わせていなかった。そのため,キリシタンを批判するには,キリシタンの「思想の論理」をそのまま借り,それを単に逆転させて自らの「思想」を作っていかなければならなかった。
…その過程で,「日本=神国」説が,一神教ないし準一神教的な構造をもった,明確な「政治神学思想」として形成されていく。その意味で,「日本神国教」こそは日本最初の独自の「思想」だが,それはいわばキリシタン思想を触媒として作られたもので,キリスト教と同じ質の不寛容性と戦闘的な普遍主義を特徴としていた。」(104-5頁)

「…江戸時代初期の対外政策は…大局的に言えば,キリシタン弾圧政策はいわゆる「鎖国」につながっていき,それが日本を(現実の交流の多少にかかわらず)イデオロギー的に閉ざされた,一種の幻想的小宇宙に変えて,その内部での「神国教」的絶対主義支配の貫徹を可能にしたと考えることができるだろう(ただし,その支配体制がいったん確立されてしまうと,「神国教」そのものはむしろ潜在化される方向にあった)。―キリシタンという<外>との接触を媒介として,「近世日本」は極めて特殊な一枚岩的国家として成立した。さらに言うならば,「単一民族国家・日本」とは,ある意味ではキリシタンの(あるいはキリシタンに対する日本の反応の)遺産だったと言い直すこともできるのである。」(109頁)

「日本神国教は,その後十八世紀後半に至るまで潜在化するが,本居宣長平田篤胤を経て再び浮上し,幕末維新期の爆発的な天皇教へとつながっていく。」(110頁)

注意すべきは,「日本神国教」の媒介となったキリスト教の性質である。キリスト教一般なるものはない。存在するのは,時代や場所によって性格を異にする個別のキリスト教である。では,キリシタンキリスト教はどのようなものであったのか。

「それは十六―七世紀のキリスト教――すなわち宗教改革と反宗教改革の絶え間ない闘争,各種の異端や魔女狩りなどが荒れ狂い,深い混乱と強烈なエネルギーに満ちたキリスト教だった。その中でも,世界の果ての日本にまで布教したのが,反宗教改革運動の尖兵として,カトリックの近代化に最大の貢献をした「キリストの軍団」イエズス会であったということ――,そのイエズス会キリスト教の特殊性を,ひとときも忘れてはならない。」(95頁)

キリシタンの殉教が物語られるとき(たとえば遠藤周作氏の『沈黙』を読むとき),わたしたちはキリシタンが何故「転ば」ずに(宗教を捨てずに)殉教したのか,不思議に思うことが多いのではないだろうか。これを理解するには,当時伝えられた「キリスト教の特殊性」を背景において,そこで実際に教えられたことの意義を想像しなければならない。

「日本のキリシタン書に特に顕著に現れているのは,キリシタンに加えられる迫害が,信徒の信仰を試練にさらし,それによって純化しようとする神の意図によるものだ,とする「神の摂理にする歴史観」,そして…歴史を神と悪魔,善と悪の闘争の場と見る「二元論的歴史観」である。――このようなレトリックの中で生きていた人々が…強烈な終末感覚を身につけていたとしても,不思議ではないないだろう。」(114頁)

著者は,キリシタンの「終末感覚」こそ彼らの殉教の死を理解する鍵だとし,この特殊な宗教性を,「断末魔の恍惚」を理想の極致とする「バロック的宗教性」と名付ける。
日本の思想的自覚は,このような質をもったキリスト教との対決のなかで,深められていった。それは,相手(キリシタン)の思想の論理を自らに取り入れ,それをもってキリシタン思想を換骨奪胎するものであった。
それを象徴するのが,不干斎ハビアンである。(ハビアンは,十八歳でキリシタンに入信,仏教・儒教神道の三教を批判してキリシタンの教理を述べる『妙貞問答』(1605年)を執筆した。しかし,その三年後に棄教。晩年に反キリシタン論書『破提宇子』(1620年)を書いた。)
『破提宇子』の中には,次のような言葉が書かれている。

「日本ハ神国,東漸ノ理ニ依テハ仏国トモ云ベシ」(130頁)

「東漸の理」とは,仏教が西から東に伝わってきた歴史の論理を言う。

「…ハビアンの議論は,いわば「仏教版歴史神学」であって,単に相手の論法を論理的に相対化するのではなく,キリスト教が主張する超越的事実に対して,もうひとつの超越的事実を突きつけている…」(131頁)

このような論理が,まさにキリスト教を媒介として可能となったことを著書は強調する。

「世界の歴史(という事実)の意味…が,キリスト教では,「真の宗教=キリストの教え」の西漸の過程によって具現化されるのに対して,ここではそれが「真の宗教=仏教」の東漸の過程として顕現する。そしてその両者はともに,「神の国」(もしくは「神国」)という終極を目指した発展過程なのである。(もっとも日本の場合は,原初においても「神国」であったし,現在も「神国」であるが―,しかしそれが真に完成されるのは,いわば「八紘一宇の神国」が現実の世界に実現される時であると考えることには違いはない)。」(132頁)

だいぶ前のことになるが,2000年の5月,時の日本国総理大臣もまた日本は神の国であると発言して話題になった。こうした発言に対して,国民主権政教分離という憲法原理をもって批判するのは,正当なことだとは思う。
しかしさらに深い問題は,そのような憲法原理をいかに強調しても,日本を神の国だとする人の心を変えることはできないということではないだろうか。ここには,思想というものがもつ憂鬱な深刻さがある。

「…キリシタンに対抗して日本が提出できた真に有効なアンチテーゼが「日本神国教」以外にはありえなかったこと,――しかもそれは,キリスト教的な「思想の論理」をそのままモデルにすることによって,はじめて明確な(国家的行動原理としての)「思想」として結晶することができた,ということが,ほとんど「歴史の必然」のようにさえ思われてくる。――ただし,この二つの「思想」の衝突は,「論争」などというなまやさしいことでは解決しない。「思想」と「思想」の対決とは,超越的事実を突きつけ合うことであり,ゆえに,最終的には一方が他方を完全に殲滅してしまう以外には終わりようがないからである。」(132頁)

神国思想と反神国思想のいずれが正しいかという議論をしても,ある意味,無意味である。重要なのは,対立の構造そのものを認識し,その対立を抜け出ること。それが,著者の探し求める道である。
しかし,そこで「思想」はどうなってしまうのか。著者は,潜伏キリシタンたちの生き方にひとつの可能性を見いだす。

「…潜伏キリシタンたちは,絵踏みの板を踏むことを選んだその時から――そしてだからといって他の信者の密告者にならず,従来の信仰をそのまま続けることを選んだその時から――「信仰のために生命を賭ける」「思想」を捨てた人々だった。…
……
…この潜伏-隠れキリシタンの美術や文学から感じられる不思議な安らぎ,確固たる存在感,一種透明な明るさは……,いったい何なのだろう?超越的事実性の呪縛から抜け出したとたんに,新たな途方もない地平が開けて――,あらゆる言語化を拒むまったく別の次元の超越の光が,日常性の奥底から遠い星のようにまたたき,かすかに微笑みかけている――かのように思われる……」(153-154頁)

著者の「思想」ならぬ「非思想」の生き方の可能性は,政治が有する思想性を思うときに,ユートピアのようにしか感じられないかもしれない。しかし,それは思考に値するユートピアではないだろうか。少なくとも,思想のもつ原罪性というものに敏感となるためには。