不連続的差異論入門:その8

樫村晴香氏のドゥルーズ哲学批判への批判と現時点でのコメント

先に掲載した「樫村晴香氏のドゥルーズ哲学批判への批判」は、およそ10ヶ月半前のものであり、今読むと、違う見方が出てくる。ここで、今の私見を付加したい。なお、今の私のコメントは、《 》で示し、ブルーの文字で表記する。
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[哲学] 樫村晴香氏のドゥルーズ哲学批判への批判


私は、以前のブログ
http://blog.melma.com/00122700/20040918163319
http://64.233.167.104/search?q=cache:_JNlN1XeHv0J:blog.melma.com/00122700/20040918163319+&hl=ja
で、ドゥルーズ哲学の差異がハイデガーの存在と同値され、形而上学化される危険について言及したが、ドゥルーズ哲学自体は、形而上学ではないことを述べた。しかるに、樫村晴香氏のドゥルーズ哲学批判は、ドゥルーズ哲学に形而上学を見るもので、それは基本的には間違いではないかと私は思う。確かに、ハイデガー存在論に近い面はあるが、基本的には違うであろう。また、ハイデガー存在論にしろ、それを、積極的に読解して、樫村氏の説くニーチェ的な強度の方向に読むことはできるのである。以下、樫村氏の論文の一部への私のコメントを【 】内で示す。
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既述のごとく、ニーチェは、彼の思索の帰結でありながら、彼の意識‐統御可能性の外から襲来する永劫回帰‐強度に対し、絶対的受動性という形で魅惑‐拘束され、それゆえその体験によって喚起された彼の能動性は、まさに反復強迫として、最終的に意味を剥奪された攻撃としてしか可能ではない。彼がドイツ王、諸王に対してなした「宣戦布告」は、たわごとではなく、彼の体験‐思想の一環である。そもそも彼がプラトンパスカルスピノザを罵倒していたとき、それはいかなる意味でも批判ではなく、意味作用の外にある身体的強度の現前【身体的強度とは、実は、差異の強度であり、身体において差異がもつ強度であり、それは、身体という個、単独性において存するが故に、普遍/個という強度となるのであろう。単に、差異=普遍ならば、それは、強度というよりは、前強度であろう。】《樫村氏が言う「永劫回帰ー強度」とは、不連続的差異論から言うと、イデア界の虚力のように思えるが、とりあえず、イデア界/メディア界の力とは言うことができるだろう。この力、身体的強度の現前が意味作用の外にあると述べているが、果たして、まったくそうだろうか。この力は、芸術的に表現されるだろう。意味作用を言語作用としてもそうだろう。文学は、この身体的力をなんとか表現しようと試みるのである。そう、力はノエマで、言語がノエシスと言うこともできる。思うに、イデア界の虚力をニーチェの強度ととるならば、確かに、それは、言語的意味作用の外にあると言えるようである。なぜなら、それは、不連続的差異の共立であり、連続・同一性の言語を解体するからである。しかし、そうではあっても、イデア界の虚力には、原意味作用ないし前意味作用があると思うが。》が、彼の主体‐自我としての地位をすでに失墜させ、つまり意識/無意識からなる意味作用内部での能動性を剥奪‐嘲弄しはじめていたゆえに、もはや彼にとってヒステリー的なすべての戦略、つまり意味(=意識)の内部に性的なもの‐強度の該当物を「知」(=快楽の贈与者)として想定することで象徴世界(意識)の外部を囲い込み、自己‐自我の尊厳を維持するような戦略は、全く「問題外」となっていた。彼にとってプラトン的善やスピノザ的自己統御は、すでに憐憫の対象であり、批判の対象などではなく、他方彼が何かを攻撃するとすれば、それは対象の意味内容を越え‐無視していく、ただならぬものとなっている。つまり批判とは意味に意味が対立する=出会うものだが、彼においては強度‐反復が、意味を通りすぎていく。【ここで述べられていることは、ドゥルーズ的な差異でもあるだろう。つまり、力=身体性=強度=差異をここで語っている。混乱を避けるために、用語を分節化しよう。内在平面にある差異を前差異とし、身体にある差異を現差異と呼ぼう。ならば、力=身体性=強度=現差異である。そう、強度に関しても、同様に分節化して、前強度と現強度としよう。ならば、力=身体性=現強度=現差異である。】《「性的なものー強度」が、身体的強度になるのだが、不連続的差異論から見ると、この強度とは、メディア界の強度である。私見では、メディア界の強度が捩れ、連続化して、連続・同一性の言語へと転化するのである。確かに、メディア界の強度自体は、連続・同一性の言語に批判的である。それに懐疑や脱構築性をもたらす。しかし、言語認識の問題(これは、デカルトの問題にも通じるが)であるが、自我的言語と個・差異的言語があると思う。前者に対して、ニーチェ的強度は有効な批判となるし、この点で、樫村氏の見解は正しい。しかし、後者であるが、これは、メディア界の強度を内在ないし志向するような言語であり、メディア界的真理を志向する言語である。そう、真のロゴス言語である。だから、強度が意味作用の外にあるという樫村氏の見解は短絡的で間違いだと思う。》
これに対して、Dzでは批判という言説の作動が十分(以上に)生きている。ニーチェの「批判哲学」が対象への憐憫と郷愁そして無関心、他方での尋常でない狂暴さという不均衡を露にするのに対し、Dzの言説が全く穏便であり、しかしその展開において、常に想定された批判対象への備給を続ける執拗さをもっていることは、歴然たる違いである。【これは、批判ではなく、文体批評に過ぎないだろう。以上のニーチェドゥルーズの相違は、誰でもわかることであり、それは気質等の違いによるのであり、問題は、内容である。】《ニーチェの強度による批判は、確かに自我言語に対して、破壊的なものである。そして、ドゥルーズは、このニーチェの強度の源泉を差異、特異性に見て、それを理論化を試みたと言えよう。不連続的差異論から見て、このドゥルーズの試みは、混濁しているのである。すなわち、特異性としての差異と連続性としての差異を混同しているのであり、この後者を含んだ点で、樫村氏のドゥルーズ哲学批判は正鵠を射ていると考えられる。》これは結局、ニーチェが自己の体験‐実体に魅惑、というより蹂躙されていたのに対し、 Dzがニーチェの体験‐言説に魅惑されていることの違いに回付される。【ニーチェの体験を、他者が追体験するのは、ほとんど不可能であろう。哲学者ドゥルーズは、理論家として、ニーチェ的体験を、差異哲学によって論理化していると言えるだろう。つまり、後人の利点というか、先人の苦悩を越えて論理・理論化することができるというのは当然であろう。】《この箇所も、前掲箇所の言が当てはまる。》人が「言説」に魅惑される限りで、思考の主体としての能動性(つまり批判的思惟)は放棄されず、魅惑の対象に対する受動性は、受動=能動という一体として可能となる。つまり魅惑されること(=幻想)という受動性が、思考‐批判という(魅惑するものの否定的対立物に向かう)能動性と、同じ領野に属し、相互に結合可能となる。この(Dzが好む)受動=能動という同一平面上での相補性は、強度‐反復(受動)が意味作用(能動)とは別の場にあるニーチェには、当然無縁のものである。【これは、つまらない区別だと思う。そうではなくて、ドゥルーズの差異の哲学とは、ニーチェのような身体的強度、つまり、現差異を説明しようとするものであるということであり、いわば、ニーチェ的な単独性を説明する理論として差異哲学があると言えるだろう。つまり、ドゥルーズ哲学とは、前差異/現差異の哲学であり、ニーチェ哲学は、いわば、これを自身で体現しているということができるだろう。】《この箇所の樫村氏の批判は鋭い。ドゥルーズの受動=能動とは、正に、連続的差異の思考である。この点への樫村氏の批判は正鵠を射ている。ただし、繰り返すが、樫村氏は、ドゥルーズ哲学のもう一面である特異性の差異を看過しているのである。》逆に言えば、この結果Dzでは、強度と分節性(意味作用)が媒介可能だという帰結が生じるだろう。【これは、勘違いであろう。そのようなことは述べていない。ニーチェ的強度を差異によって説明しようという理論的作業である。問題は、分節性だと思う。哲学なのだから、分節性は必然的であり、ドゥルーズの作業には問題はないだろう。もちろん、媒介可能云々であるが、そのような向きはあるが、それは、実体とは異ると言うべきだろう。私自身としては、このような受け取られる傾向があり、それは形而上学化になると思っている。】《ここでも、連続的差異への批判とすれば、正しい。》これは知らず知らずに、重大な理論的帰結へとつながっていく。すなわちこの媒介可能性は、やがて強度を差異化の場と等置し、その差異化を文字どおり意味作用上の、シニフィアンのセリー内部での差異化として規定する手品へと成長する。【ここでの強度とは、現強度であり、差異化とは、前差異である。つまり、樫村氏は、ドゥルーズ哲学の一面を取り出し、つなげて批判していると言えよう。シニフィアンのセリー内部での差異化とは、前差異であり、これは、前強度であり、現差異ないし現強度ではない。つまり、樫村氏は、別のものと別のものとを一致させて論じている。もっとも、ドゥルーズの用語を使用法に問題がないとは言えないだろう。】《樫村氏の言う差異とは、連続的差異と見ないといけない。つまり、ベルクソンハイデガー的連続的差異である。構造的差異と言ってもいい。だから、確かに、シニフィアン(意味するもの)のセリー(系列)内部での(連続的)差異化すると言うのは、見事な洞察・批判である。つまり、連続的差異から連続・同一性の言語的差異へと移行するのである。》つまりaをbへ異化する/関係させる即自としての差異の境位=永劫回帰という考えであり、ここでニーチェ的強度は、ハイデッガー的な差異化、つまり存在者=意味作用を「直接に」生起させつつ、それ自身は自らを隠していく存在論的差異と、結果として全く同じになる。つまり「ハイデッガーのいうように、差異はそれ自身において連接‐連結でなければならず、異なるものを異なるものへ関係させなければならない」(3)というわけである。【このハイデガー的差異化であるが、鉱物、植物、動物においては、この差異化とは、無矛盾的であろう。しかし、人間の場合は、ハイデガー的差異化とは、世界内存在となるのであり、ある種強度的である。もっとも、ハイデガーの場合、ニーチェ的ではないかもしれないが。しかし、ヘルダーリンの詩に存在を見ているので、ハイデガー的差異化も強度をもっているとみることができよう。】《ここでは、異化が、連続的差異によるものであることが明瞭に述べられている。そう、ここで、樫村氏が批判している「差異」による異化とは、一種トリックと言われても仕方のないものである。異化とは微分積分のことである。確かに、ドゥルーズは、不連続的差異=特異性(微分不可能性)[ニーチェ]と連続的差異=微分(→積分)[ベルクソンハイデガー]を混同していたのである。樫村氏の、ドゥルーズ哲学の後者の側面の批判はまことに的確といわなくてはならない。しかし、以前にも述べたが、樫村氏は、ドゥルーズ哲学の前者の側面を発展させずに、排出してしまい、理論的に新構築ないし再構築しなかったのであり、この点を捉えて、不連続的差異論がクリエートされたのである。》

以上、樫村晴香の「ドゥルーズのどこが間違っているか? 
強度=差異、および二重のセリーの理論の問題点 」からである。
http://www.k-hosaka.com/kashimura/jiru.html





人間の差異について:人間の差異と動植物の差異(HPから)

人間の差異の原型は、差異の連結の複合体で記述できる。人間の身心は、メディア界として考えることができる。すなわち、諸差異連結の複合体である。たとえば、1差異、2差異、3差異、・・・n差異の複合体である。人間ではなく、朝顔を例にとると、これが明快となる。しかし、人間は、それを複雑にしたと考えればいいだろう。人間の場合、問題になるのは、「心」と、「身体」が二元論的に存在することである。たとえば、猿の「心」は、「身体」と直接に関わるだろう。しかし、人間の場合は、分離している。知識、観念、抽象が存在する。動物や植物にとって、現象界はなく、メディア界しか存在しないと考えられる。私が問題にしたいのは、この差異の連結の複合体は、いわば、自然発生的なのか。つまり、自然に差異の連結が結合して、生命体は発生するということだろうか。直感では、確かに、諸差異の連結が、自然に、複合・結合して、生命体等が発生すると考えられる。 
 では、人間の場合も、同様に考えて、いいのだろうか。人間以外の生命体の自然発生は了解できる。人間の場合は、単純には、考えられない。別に、私は人間を特権化するつもりはない。人間は、連続・同一性という自我・現象化へと特化しているのである。これは、他の動物にはない。これは、知識と関係する。抽象観念化である。この構造に関しては、精神分析を活用すれば、説明できるので、ここでは言わない。(思うに、人間の場合は、他の生物にはない、ズレ、差異があるのである。長期の幼年期。脳神経と身体的神経の発達のズレ等。)
 結局、人間の差異を考えるとき、ある種のズレ、断層を考えなくてはならないということになる。他の動植物の場合は「単純」である。思うに、人間の場合、多数ないし無数の差異の連結が先験的に存している。つまり、無限の多様性、可能性、潜在性である。それに対して、現象化する人体は、それに適合していないのである。つまり、こういうことではないだろうか。理念的には、無限の可能性・潜在性をもっている。しかし、人間が発現する自然界は、それにふさわしくない。結局、この即自的差異と対自的差異とのズレによって、人間は、内在的差異を展開できずに、外的環境の対自的差異に適応せざるをえないということではないだろうか。宗教は、このズレの表現ではないだろうか。内在性と外在性のズレがあるのだ。
 以上のように考えると、人間は、メディア界の可能性を内包した存在であり、同時に、発現した環境・自然によって限定された存在であるということではないだろうか。ここでの考え方から想起するのは、キルケゴールの哲学である。無限と有限のパラドックスを抱えた人間存在(これが、ほんとうの実存主義だ)。 
 ということで、人間とは、イデア界的デュナミスの潜在的可能性を総体的にもつ存在であり、この総合性と限定性とのパラドックスをもつ存在であると言える。だから、神話的表現になるが、神人という言葉は人間に適切だと考えられる。 
 結局、人間とは、イデア界の回転の過程にある存在である。他の動植物が、ある差異の連結の複合に限定された存在であるのに対して、人間は、多様な差異の連結の複合性の可能性をもった存在であるということである。つまり、他の動植物は、メディア界的存在であるのに対して、人間は、イデア界的存在であるということになろう。





不連続的差異論の誕生の経緯(私のHPから)

過去の記事の補遺を掲載したついでに、約一年前、本理論が生まれる状況を簡単に確認したい。 
 私は、あるMLに参加していて、その関連で、根井康之氏という在野の思想家のことを知り、その多数ある著作の一部(とりわけ、『東西思想の超克』農文協)を読んで、驚嘆した。西洋哲学(マルクス主義を含む)、自然科学、そして、東洋思想(仏教を含む)が、「根源的自然」という視点から、統一的に論じられていたからである。この「根源的自然」という概念が、その時の私にとって、覚醒的であった。私の中で、漠然としてあった宇宙観が、これで整理されたのである。ここに、普遍的な思想空間を見つけたと思ったのである。そして、私自身、感覚的に「大根源界」を確信した。(それは、根井氏の説く華厳的調和宇宙に私はドゥルーズの差異を入れた形のものであり、原不連続的差異論とでも言うべきものである。)
 また、それとほぼ同時期に、樫村晴香氏のドゥルーズ哲学批判を読んだのである。当時の私は、ドゥルーズ哲学からスピノザ哲学へと関心を移行させていた。(以下は記憶があいまいなので、記憶違いがあると思われる。)おそらく、偶然、HPで公開されている樫村氏の論文を見て、読んでみることにしたのだと思う。難しい論文であるが、内容は独創的なドゥルーズ哲学批判であった。私は、最初否定的な印象を受け、ドゥルーズ哲学を擁護する意欲が出たのである。それは、簡単に済む問題ではなかった。なぜなら、樫村氏の批判は、ドゥルーズ哲学の核心の根本的矛盾をついていたからである。
 そして、そのような状況で、本理論の合作者となるODA ウォッチャーズ氏からのブレークスルーとなる連続/不連続性の概念が寄せられた。樫村氏のドゥルーズ哲学批判へ答えようとしていたときのことであり、この不連続性の概念によって、樫村氏の批判の意味とドゥルーズ哲学の骨格が、一挙に、明快になったのである。ここから、不連続的差異論が誕生したのである。(その後は、ODA ウォチャーズ氏の数学的進展によって、本理論は大きく飛躍することになった。とりわけて、差異の境界の問題においてである。) 
 まとめると、根井康之氏の著作、樫村晴香氏の批判、そして、ODA ウォチャーズ氏の不連続性の概念が重なって、本理論が生まれたことになる。よく偶然の一致と言うが、あるいは、共時性とか言われるが、幸運が重なったのである。付け加えると、不思議なことに、それより、10日ほど前に、娘が生まれた夢を見たのである。赤子にしては頭が大きすぎたが、美しい子供であった。その時は、とても幸福な気分に満たされたのである。思うに、この子は、ソフィアであろうか?

参考
根井康之著 『東西思想の超克 現代の課題』農文協
http://shop.ruralnet.or.jp/search_result.php?mode=detail&id=011706&b_no=01_454083021X
http://66.102.7.104/search?q=cache:YrgO1QRnocwJ:blog.melma.com/00122700/20040908153117+%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AE%E8%B6%85%E5%85%8B%E3%80%80%E6%A0%B9%E4%BA%95%E5%BA%B7%E4%B9%8B%E3%80%80%E8%BE%B2%E6%96%87%E5%8D%94&hl=ja
http://66.102.7.104/search?q=cache:O3vxX_uhaCYJ:blog.melma.com/00122700/20041013+%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AE%E8%B6%85%E5%85%8B%E3%80%80%E6%A0%B9%E4%BA%95%E5%BA%B7%E4%B9%8B%E3%80%80%E8%BE%B2%E6%96%87%E5%8D%94&hl=ja

樫村晴香著 「 ドゥルーズのどこが間違っているか? 
強度=差異、および二重のセリーの理論の問題」
http://www.k-hosaka.com/kashimura/jiru.html

p.s. 樫村氏の批判に対する批判に関しては、当時、私は、知人にメールで通信していたことを述べないといけない。また、それ以前から、私の考察を知人に送り続けていたのであるから、知人の存在も、不連続的差異論誕生の経緯に欠くことはできない。





アートマンと即天去私

アートマンを、自我とか、我とか、表現するのは、誤訳だと思う。ロゴスを言葉と訳すのと同じくらいに、致命的な誤訳のように思う。梵我一如は、自我や我では、まったく無意味だと思うし、また、たいへん危険である。これは、本当は、漱石の即天去私に近い意味だと思う。アートマンとは、以下の説明から推測できるように、メディア界を指していると考えられる。それは、個であり、特異性である。アートマンをこのようにとるべきである。自我や我とするのは、繰り返すが、致命的な誤訳である。仏教が、解脱(脱自我ないし身心脱落〔道元〕)を説いたが、実は、アートマンと解脱は等価であると思う。

参考
http://www.kcg.ac.jp/acm/2/a2004.html

アートマン ´tman

サンスクリット語で,インド哲学において自我をあらわす術語。 〈我 (が) 〉と漢訳される。原義については諸説がある。しかし,本来は〈呼吸〉を意味したが,転じて生命の本体としての〈生気〉〈生命原理〉〈霊魂〉〈自己〉〈自我〉の意味に用いられ,さらに〈万物に内在する霊妙な力〉〈宇宙の根本原理〉を意味するに至ったと,一般に考えられている。インドにおいては,すでに《リグ・ベーダ》の時代から,宇宙の原因が執拗に追求され,多くの人格神や諸原理が想定された。ウパニシャッドの時代になると人格神への関心はうすれ,もっぱら非人格的な,抽象的な一元的原理が追求されるようになった。この結果到達された諸原理のうち,最も重要なものはブラフマンアートマンである。ウパニシャッドの哲人たちは,個人の本体であるアートマンと宇宙の根本原理であるブラフマン (梵) とは同一である,すなわち〈梵我一如〉であると説いた。ウパニシャッド以来,アートマンの問題はインド哲学の主要な問題の一つとされ,インド哲学史には,アートマンの存在を認める流れと認めない流れとの二大思潮がある。前者の代表は正統バラモンの哲学体系の一つであるベーダーンタ哲学であり,その中でもとくに,梵我一如の思想を発展させた不二一元論によれば, アートマンすなわちブラフマン以外の一切はマーヤー (幻影) のように実在しないという。サーンキヤ哲学とヨーガ哲学においては, アートマンすなわちプルシャを,宇宙の質料因としての根本物質プラクリティから全く独立した純粋に精神的原理とみなし,二元論の立場をとった。後者の代表は,縁起説の立場から無我説を主張した仏教である。唯物論者もまた,精神的原理としてのアートマンの存在を否定した。有我説の立場においては,肉体は死とともに滅するが,アートマンは不滅であり,死後は輪廻の主体となって,過去の業 (ごう) にふさわしい身体を得て,再生すると信じられている。

前田 専学
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